貴族の屋敷へ
朝の空気の中、シャルロッテのいただきますの声にミルとメルの双子が唱和する。ソラマメと野草のスープへ匙を進めようとしたとき、玄関の戸が叩かれた。
「私が出るから、二人とも食べてなさい」
はあい、と双子の返事を聞きながら、シャルロッテは玄関へ向かう。閂を外して、戸を開けた先に立っていた人物に、シャルロッテは驚きの声を上げた。
「先生、こんな時間にどうしたんですか?」
「やあ、おはようシャルロッテ。たまには、早い時間に来ようと思ってね」
バルドレイクがにこやかに片手を上げて、挨拶をした。いつもと変わらない、風采の上がらない顔が、少しやつれているように見えた。
「先生、なんだかお疲れのように見えますけれど」
シャルロッテが言うと、バルドレイクは少し困ったような笑顔になった。
「色々あってね。君は、まだ朝食の途中のようだね。僕は診察室へ行ってるから、食べてくるといい」
そう言って、バルドレイクは診察室へと入って行った。
「せんせいが、きたの?」
食卓へ戻ったシャルロッテに、メルが問いかける。うなずきながら、シャルロッテは置いていた匙を取った。
「ええ、そうなの。こんな時間から珍しい……雨でも降るかしら」
「おせんたく、やめといたほうがいいかな」
ミルの質問に、シャルロッテは首を横へ振る。
「もののたとえよ。今日は晴れているし、お洗濯日和だわ」
うん、とうなずく双子と一緒に、シャルロッテは朝食を再開した。
片づけを終えて、白衣に着替えたシャルロッテは診察室へ入った。
「……なんだか、新鮮ですね」
「何がだい?」
「先生が、先に来ているのが、です。いつもそうしてくださればいいのに」
バルドレイクは薬鉢を混ぜながら、苦笑した。
「今日は特別だからね。シャルロッテ、ミルとメルは、どうしてる?」
「今日はお洗濯の日なので、今は張り切って洗濯していますけれど」
そうか、とうなずいて、バルドレイクは手を止めた。
「洗濯が終わったら、出かける準備をするように伝えてくれるかい?」
「どこかに連れていくんですか?」
「ああ、いつも来ている薬草売りの少年のところで、人手が足りないらしいんだ。だから、彼の薬草園に行ってお手伝いしてもらおうかと思ってね」
「ミルとメルを? あの二人はまだ子供ですよ?」
「簡単な仕事だし、二人なら大丈夫だよ。それに、食事も出る」
バルドレイクの言葉に、シャルロッテは少し考えた。
「……危ないこととか、ないですよね?」
「あの少年も見ててくれるから、心配ない。送り迎えも、やってくれるから」
断言するバルドレイクの笑顔には、異議を挟めないものがあった。
「わかりました。食事って、ちゃんとしたものが出るんですか?」
「うん、たぶんだけれど。ソラマメのスープよりかは、良いものが出るだろうね」
「……先生が薬草代をきちんと払ってくだされば、うちの食事もましになるんですけれど?」
じっとりとした視線を浴びせると、バルドレイクは困ったような笑顔になる。
「ま、まあ、とりあえずミルとメルには僕から言っておくから」
逃げるように診察室から出て行くバルドレイクを見送って、シャルロッテはふん、と鼻を鳴らした。
しばらくして、少年が双子を迎えにやってきた。今朝のバルドレイクと同じように、少しやつれて見える。
「それじゃあ、ちびどもは俺が預かっておくから。にいさんをよろしく、姉ちゃん」
「あなたもそんなに変わらないように見えるけれど……ミルとメルを、お願いね」
いってきます、と大きく手を振る双子を、バルドレイクと並んで見送った。
「大丈夫かしら、あの子たち」
「心配いらない。彼は、ああ見えて大人だからね」
バルドレイクの声を聞きながら、シャルロッテは双子と少年の背中が見えなくなるまで孤児院の前に立っていた。そんなシャルロッテとバルドレイクの前に、入れ替わるようにしてやってきた者がいた。
「やあ、ご機嫌麗しゅう、シャルロッテ。今日も一段と……」
派手な帽子をかぶり、恰好をつけて歩いてきたギルバートが、シャルロッテの隣に視線を向けて絶句する。
「やあ、また会ったね。ギルバート・クラッチレイ君」
笑顔で片手を上げて、バルドレイクが言った。
「どうして……お前が」
ギルバートがバルドレイクを睨み付けながら、呻くように言った。
「ああ、別に、昨日の彼が失敗した、というわけじゃない。彼は優秀だったからね。普通だったら、二、三日は動けないところだったよ。ただ、僕が普通じゃなかっただけで」
「どうしてお前が、私の家名を知っているんだ!」
「僕にも、少し貴族に伝手はあってね。それより、今朝はどんな用事でここへ?」
バルドレイクの問いに、ギルバートは手に持っていたものを後ろ手に隠した。
「お、お前には関係ない!」
「そうかな? 見たところ、それは薬草に見えるけれど」
バルドレイクはギルバートとの間合いを詰めて、腕を取った。緑色のくしゃくしゃと丸められたようなものが、その手に握られている。
「は、離せ! 人を呼ぶぞ!」
ギルバートの抵抗に、バルドレイクはあっさりとその腕を解放した。
「花粉から抽出すれば、いい睡眠薬になるね。このあたりでは見ない、珍しい植物だ」
バルドレイクがシャルロッテの隣に戻り、言った。
「シャルロッテへのプレゼントなんだ! お前に持ってきたんじゃない!」
「そう、ツンケンしないでほしい。別に君からそれを取り上げたりはしないから。ただ、ひとつお願いがあるんだ」
にこやかに、バルドレイクは言葉を続ける。
「僕はその植物に、大変興味がある。どうだろう、その植物を栽培している場所へ、僕たちを案内してもらえないかな、ギルバート・クラッチレイ君?」
「だ、誰がお前を私の屋敷に……」
「僕の助手の、シャルロッテも一緒に行く、と言っても?」
「え?」
「ええ?」
ギルバートと一緒になって、シャルロッテは疑問の声を上げた。
「せ、先生、どういうことですか! 私、この人の屋敷に行くなんて」
バルドレイクの白衣の襟をつかみ、シャルロッテが詰問する。その手を、バルドレイクは優しく押さえた。
「まあまあ、落ち着いて、シャルロッテ。ここは僕に任せてほしい」
放っておけばとんでもないことになりそうだったが、見つめてくるバルドレイクの真剣な瞳には逆らえない。力の抜けたシャルロッテの手から、バルドレイクはするりと抜けた。
「さて、返事を聞かせてもらえるかい? ギルバート・クラッチレイ君」
「私のほうに、異存はない。愛しのシャルロッテと、おまけに付いてきたければ来るがいいさ、バルドレイク。ただし、お前に出すランチは無い」
「大変結構。僕たちは準備もあるから、少ししたら迎えを寄越してほしい」
うなずいたギルバートを前にして、シャルロッテはバルドレイクに促されて孤児院の中へと入った。
「先生、一体どうして……」
「すまない、シャルロッテ。これしか思いつかなかったんだ」
戸を閉めて、食って掛かろうとしたシャルロッテの目前でバルドレイクが頭を下げた。
「一から説明している時間はない。君は、とりあえず彼とのランチを愉しんでくれればいいから」
「……わかりました。貸し、ひとつですからね、先生」
シャルロッテが言うと、バルドレイクは頭を上げた。その顔には、困ったような笑顔があった。それだけで、何とでもなるような安心感が、シャルロッテに訪れた。
それからまもなく、馬のいななきが聞こえてきた。ギルバートの用意した馬車が、到着したようだった。シャルロッテはバルドレイクと共に、孤児院の戸を開けて外へ出た。馬車に揺られ、シャルロッテの一行が連れてこられたのは、古く大きな屋敷の前だった。