貴族の贈り物
診察室の前の受付で、シャルロッテはカルテを読んでいた。聞き取った自覚症状から、診察の結果導き出される病、そしてどんな薬を投与して対処しているのか。それらを克明に書き記してあるのは、無論バルドレイクの手によるものではない。前任の孤児院院長兼、医師でもあったマリアの記したものだ。
記述に関して、ただ鵜呑みに暗記していくのではない。今のシャルロッテからしてみれば、マリアの下した診断結果とは違うものも見えていた。それを、メモに取っておく。わからないことは、後でバルドレイクに質問する。それが、シャルロッテにとって唯一の勉強法になっていた。
マリアの治療法と、バルドレイクの治療法には大きな差異があった。記述にしてもそうだ。恐らくどこかで医学を修めたマリアは、模範的でかつ形式的な診断を下す。対してバルドレイクは、自分の直観で診ることが多い。どちらの場合が正確で良い診断なのかはシャルロッテにはわからない。だから、バルドレイクに質問をするのだ。
今、孤児院にある薬の備蓄の大半は、バルドレイクの用意したものだ。となると、薬を投与するのに必要なのはバルドレイクの診断である。だが、バルドレイクはカルテを残さない。だからシャルロッテがバルドレイクを質問攻めにすることも、当然のことである。そう思い定め、シャルロッテは質問のための用意を滞りなく進めていた。
そんなとき、玄関の戸が三度、リズムよく叩かれた。ちらり、とシャルロッテは窓の外へ目をやった。太陽はまだ朝の位置で、朝食からの時間もそれほど経ってはいない。
「はい、どなたですか?」
言いながら戸を開けたシャルロッテの目の前に、唐突に現れたのは大輪の薔薇の花だった。
「ご機嫌麗しゅう、シャルロッテ。良い朝だね」
芝居がかった気取り声とともに、金髪の青年が顔を見せる。
「おはようございます、ギルバートさん」
プラスもマイナスも感じさせない平淡な温度の声で、シャルロッテは答えた。
「今日は、どのようなご用件ですか?」
「君に、花を届けに来たんだ。受け取ってくれるかい?」
「お断りします」
「美しい人の側にあってこそ、花も活きるというものだよ。それに、花に罪はない。受け取ってもらえないのは、悲しいじゃないか」
調子よく言いながら、ギルバートは花束を強引に手渡してきた。落とすわけにもいかず、仕方なしにシャルロッテはそれを受け取った。
「……それで、他の用件はありますか?」
「君の顔を見に来たんだ」
「それじゃ、用はもうないですね? さようなら」
言いながら、シャルロッテが戸に手をかける。閉まろうとする戸を、ギルバートは足で押さえた。
「待ちたまえ。花は、どうやらお気に召さなかったみたいだね。次は、何がいいか聞いても?」
「ここは病院です。何を持ってきても……」
「毎度、姉ちゃんいる?」
玄関で押し問答をしていると、ギルバートの背後から少年の声が聞こえた。
「ええ、いるわ。少し待ってて。と、いうわけでギルバートさん。お客さんが来たので、お引き取り願います」
「つれないね、君は。だが、私としても君の邪魔をする気はないとも。紳士は優雅に去るとしよう」
「いいからさっさとどいてよ、貴族の兄ちゃん」
なかなか移動しようとしないギルバートを横合いから押しやって、少年は布の袋をシャルロッテに手渡した。
「にいさん、じゃなかった。先生に頼まれてたものだよ。強い薬だから、先生に言われるまで触っちゃだめだからね」
「……お代は、いくらかしら?」
「いつも買ってくれてるし、先生には特別価格で……金貨一枚」
手のひらを出す少年に、シャルロッテは息を吐きながら一枚の金貨を渡した。
「お買い上げ、ありがとうございます。これからもよろしくね、姉ちゃん」
「今度から、先生に薬代は前払いで払っておくように言っておいてくれないかしら?」
「たぶん、持ち合わせがないって言うんじゃないかな。それじゃね」
少年が手を振って、走り去った。歯を光らせながら歩み寄ってくるギルバートの目の前で、シャルロッテは玄関の戸を閉めた。
診察室の薬棚に、布袋を置いた。この薬の正体については、バルドレイクを後で問い詰めればいい。問題は、受付に立てかけられた大きな薔薇の花束だった。
「……とりあえず、台所にでも飾りましょうか」
シャルロッテが台所に花束を抱えて持って行くと、双子が歓声を上げて出迎えた。
バルドレイクの来る昼前になると、ぽつぽつと患者がやって来始めた。初めは朝から来ていた患者だったが、バルドレイクが朝にいないことが多く、結果的に昼前にみんな来るようになっていたのだ。
「はい、今日はどうしましたか?」
バルドレイクが、優しく問いかける。
「昨日から咳が止まらなくて……けほ、お薬をもらいに来たんです」
さかんに咳を繰り返す婦人の背中を、シャルロッテが撫でる。バルドレイクは湯と薬草を混ぜ、温かな薬湯を作って婦人に飲ませた。
「なんだか、楽に、なりました。ありがとう、けほ、ございます、先生」
「お大事にね」
見送った婦人が去ると、ひと段落ついたようだった。
「先生、お疲れ様です」
「うん、お疲れ様、シャルロッテ」
伸びをするバルドレイクに、白湯の入ったカップを差し出す。バルドレイクは音を立てて、中身をすすった。
「そういえば先生、今朝も、あの子が来たんですけれど」
そう言ってシャルロッテは、薬棚から布袋を取り出した。
「これ、何の薬なんですか?」
「ああ、あの子に頼んでおいたんだ。これは、麻酔薬だよ」
バルドレイクは布袋の口を少し開けて、中にある粉末を調べて言った。
「麻酔薬?」
「そう。痛みを和らげる薬だ。痛みが大きすぎると、治療しようにもできない状況がある。そういうときに、使うんだ」
「……使う機会、あるものなんですか、ここで?」
「使わないに越したことはないけれど、備えておくのが僕たちの業界だよ。それより、今日は薔薇の花を貰ったそうだね」
バルドレイクの指摘に、シャルロッテは少し驚いた顔になった。
「どうしてそれを、先生が? あれは、台所にずっと置いてるんですけれど」
「さっき、メルに教えてもらったんだ。知っているかい? 薔薇の花びらは、加工すれば薬になるんだ」
目を輝かせて言うバルドレイクに、シャルロッテはわずかな落胆のようなものを感じた。
「……誰からもらったとか、気にならないんですか?」
ぼそり、と小声で言ったが、それはバルドレイクの耳には届いていない。
「患者さんもはけたし、ひとまず薬を作ってみないかい?」
バルドレイクが提案したとき、玄関の戸がリズミカルにノックされた。はい、と返事をしたシャルロッテが、玄関へと向かう。
「やあ、愛しのシャルロッテ。そう、私だよ」
開けた戸の先には、今朝見た顔があった。
「ご用件は何ですか、ギルバートさん?」
「君にプレゼントがあるんだ」
「結構です」
戸を閉めようとするシャルロッテに、ギルバートは足で戸を止める。
「待ちたまえ。今度は、君もきっと喜ぶから」
そう言って、ギルバートは背後に回した手を出した。手に持っているのは、ひからびた人間の手のようなものだった。
「……あなたの趣味はわかりました。それから、プレゼントのセンスも」
差し出されたものを見て、シャルロッテは厳しい顔のまま戸を閉める手に力を込める。
「待ちたまえ。これは、そうじゃない。これは……」
抵抗するギルバートの足をけり出して、シャルロッテは戸を閉めた。ギルバートの持ってきた物体が、ことりと床へ落ちる。どうしたものか、とそれを拾い上げたところで、診察室の扉が開いた。
「何か、あったのかい?」
「先生……いえ、別に」
振り向いたシャルロッテの手許に、バルドレイクの視線が注がれる。
「それ、見せてもらってもいいかな?」
駆け寄る勢いで、バルドレイクはシャルロッテの手から物体を奪うように取った。
「先生……?」
怪訝な顔をするシャルロッテの目の前で、バルドレイクは物体に指を這わせ、持ち上げて光に透かすようにして眺める。
「シャルロッテ、重要なことを訊くんだけれど」
「は、はい」
バルドレイクの真剣な口調に、シャルロッテは思わずかしこまって答える。
「これ、誰からもらったの?」
色々と複雑な思いが、シャルロッテの胸に到来する。丸メガネの向こうにある強い視線に、動機が激しくなっていく。
「そ、それは」
「それは?」
「……ギルバートっていう、貴族の人からさっき渡されました。もしかしたら、まだいるかも」
そう言って戸に手をかけるシャルロッテの肩を、バルドレイクが引いた。
「追わないほうがいい。それより、シャルロッテ」
「は、はい」
バルドレイクの触れている部分に、シャルロッテの神経は集まっていた。どきん、と胸がひとつ鳴った。ぼっと、頭に血が上っていくのを感じた。
「これ、貰っていいかな? 薬の材料になりそうだ」
シャルロッテの中で高まっていた何かが、音を立てて崩れ落ちた。
「……勝手にしてください」
それだけ言って、シャルロッテは受付の椅子に腰かける。礼を言って診察室へ戻っていくバルドレイクの顔は、見る気も起きなかった。