燻る火種
足が、ひどく重く感じられた。それは毎日続くことであり、そして日に日に重さは増していく、そんな気がした。伝えるべきことを、伝えられずにいる。どう伝えれば良いのか、言葉が見つからない。ただ徒に、時間だけが流れていくのだ。
これが、病気であれば、とバルドレイクは仮定する。病気であれば、たとえ不治という診断であっても、告知することにためらいはない。医師として、時に迫られる決断からは、逃げたことは無い。たとえ恨まれようと、己の医術と患者の生命に真摯に向き合うだけだ。
だが、今度のことは、違う。治療の一環で薬を与えはしたが、彼女らに変化を与えるつもりはなかった。後になって考えれば、いくらでも別の選択肢はあった、とさえ思えてくる。
シャルロッテの、物問いたげな目が頭の中に浮かんでくる。彼女が落ち着きを少し失って見えるのは、何故か。たどり着く回答に、バルドレイクは頭を抱えるばかりだ。彼女は恐らく、肉体的な変化に気付いている。自分の身体が、人では無くなっていく。恐怖を感じずにいられる者など、在りはしない。ましてやその変化は、自らが望んだものではないのだ。
シャルロッテの目を思い浮かべ、ミルとメルの元気いっぱいに手を振る様を思い浮かべ、バルドレイクは自責の念にかられながら表通りを歩いていた。目指すのは、ヒューリックの屋敷である。
屋敷に着いて、豪奢な食事と上等な酒を前にしても、バルドレイクの気分は晴れなかった。
「珍しいな。君に、食欲がないなんて」
ヒューリックの声は、からかい半分と心配半分といった具合だった。
「すまない。せっかく招かれた夕食なんだけれど、僕の個人的な事情でね」
「心配事か? 例の、虫を使う男のこととか」
「いや、奴については、追調査をしているところだよ。そっちも気になるけれど、そうじゃない」
ヒューリックが身を乗り出して、肉を刺したフォークをバルドレイクに向ける。
「気になるな。親友のよしみで、相談くらいなら乗るぞ?」
「大丈夫。これは、僕が自分でけりをつけなければいけない問題だ。ただ、そうだね……」
バルドレイクは少し、言葉を止めて思考する。ヒューリックは興味深そうな視線を送りながら、肉を口へ入れた。
「……ある人の一生を、僕はもしかすると台無しにしてしまったかも知れない。そうする以外に道は無かった、とその時は思っていたんだけれど……」
なるほど、とヒューリックは口の中にあった肉を飲み込むと、ナプキンで口元のソースを拭った。
「……その、ある人っていうのは、女、だな?」
ヒューリックの指摘に、バルドレイクは飛び上がる思いで顔を向けた。
「どうしてわかるんだ?」
「君との付き合いは長いつもりだが、まさか女のことで相談に乗る日が来るなんてな。まあ、そっちの問題に関しては、医者より貴族のほうが上、ということだ。その道のプロ、と言い換えてもいい」
うんうん、と得意げにうなずくヒューリックの顔が、頼もしく見えた。
「じゃあ、どうすればいいか、わかるかい? 僕は、一体どんな言葉で謝ればいい?」
すがる気持ちで、バルドレイクは問うた。満面に自信を描いたヒューリックは、上げた両手を下げるしぐさで、落ち着け、と言った。
「いいか、バルドレイク。君はその子を傷ものにしたのかもしれない。君の、独りよがりな欲望で」
「ヒューリック? 僕は」
「まあ、聞け。細部は違うかもしれないが、大体はそんなところだろう。だがそこへ、謝ったりなんかすると、どうなる? その子はさらに傷を拡げることになるんだ。それは、君の望むところではないだろう」
真面目な顔で、ヒューリックは諭すように言う。その道のプロ、という言葉も効いていた。バルドレイクとしては、うなずきながら先を促すしかない。
「君とのことは、間違いなんかじゃない。その子は君と、素晴らしいひと時を、共に過ごした、それだけなんだ。それは、君が一人で否定できるものじゃない。となれば、こういう時に男が取る手段は、たったひとつだよ、バルドレイク」
「そ、それは?」
「その子を妻にして、幸せにしてあげることだ。それが、男の責任の取り方、ってもんだ。君も、独身生活から抜け出すいい機会じゃないか」
ぽん、とヒューリックの手が、肩に置かれた。
「……それで、いいのか?」
何かが違う、とバルドレイクはふと思ったが、機嫌のよさそうな親友はただうなずくばかりだった。
「君の新たな門出に乾杯、といきたいところだが、今日は見てもらいたいものもあるからな。酒は、そこそこにしておこう」
「見てもらいたいもの?」
バルドレイクの問いに、ヒューリックは黙ってうなずいた。その顔にはもう、先ほどまでの陽気な笑みは無くなっていた。
ヒューリックに案内されて、バルドレイクは屋敷の外にある納屋へと入った。暗い納屋の中央に、机がある。ヒューリックの少年時代のもので、古びてはいるがまだ実用には差し支えないようだった。
ヒューリックが手に持ったのは、その机の上の丸まった白い布だ。
「見てもらいたいのは、こいつだよ」
白い布を、ヒューリックは慎重な手つきで開いていく。包まれていたのは、奇妙な物体だった。棒状の、枯れた木の枝の先端に、イチジクのような形の節がついている。節と枝の間に継ぎ目などはなく、それはひとつの植物のように見えた。
「……これを、どこで?」
バルドレイクは丸メガネを外し、物体を見据えたまま尋ねる。ヒューリックはわずかに息をのみ、白い布をバルドレイクに差し出した。
「顔見知りの貴族に、贈られたものだ。夕食の彩りに、珍味を加えてはいかがか、とな」
布ごと物体を受け取り、眼を凝らす。
「その貴族は、信頼できる人物かい?」
木の枝の部分に、指の腹を軽く押し付ける。枯れたような外皮の中には、微かな弾力があった。
「顔見知り程度ではあるが、この町でもかなり力のある家門だ」
節の部分に、指を這わせていく。節の下部には、小さな襞がいくつもあった。
「君と敵対している、ということは?」
物体に、白い布をかぶせて包む。
「互いに、あまり関心はない、といったところだよ。可愛い娘のいない家には、あんまり興味もなかった」
丸めた布を手に持って、バルドレイクは丸メガネを着け直した。
「じゃあ、どうして君に毒キノコを送り付けてくるんだろう」
「毒キノコ? それ、キノコだったのか?」
「乾燥させれば、こんな色になるんだ。それで? 君に心当たりは」
「ない。クラッチレイ家には、令嬢も気になるメイドもいないからな」
「……女性がらみの線以外では、どうかな? この間の、貴族の件とか」
「それもない。あの取り潰した家との付き合いがある貴族はいなかった」
「わかった。それじゃあヒューリック、これは、貰っていって構わないかい?」
丸めた布を持ち上げ、バルドレイクは言った。
「あ、ああ、構わない。君に処分してもらうのが、一番だろうからな」
心ここにあらず、といった様子でヒューリックがうなずいた。それで、話は終わりだった。
夜風を浴びながら、バルドレイクはヒューリック自身に見送られて屋敷の門を出る。
「気をつけてな、バルドレイク。それから、孤児院の子供たちのことなんだが」
握手を交わした別れ際、口を開いたヒューリックの言葉を、バルドレイクは手で制した。
「あの子たちは、大丈夫だよ、ヒューリック。一通り、薬の調合もできるし、シャルロッテはもう診察までできるようになった。本当に、勉強家だね、あの子たちは。ここへ引き取らなくても、ちゃんと生きていけるさ」
ヒューリックの顔に、複雑な色が浮かんだ。だが、それ以上言葉を重ねず、ヒューリックはそうか、とだけ言った。
「それじゃあ、ここで。夜風に当たるのもいいけれど、ちゃんと『安静にして』いるんだよ、ヒューリック?」
口元を笑みに形作り、バルドレイクは真っすぐにヒューリックを見据えた。
「わかった。当分は、『安静に』だな、バルドレイク」
ヒューリックがうなずいて答え、背を向けて屋敷へ戻って行った。それを見送ってから、バルドレイクも屋敷に背を向ける。カバンに仕舞い込んだ、布の中身について。バルドレイクの頭の中は、それだけに占められていた。ふらふらと斜めに歩いては壁にぶつかりそうになるその足取りからは、夕刻までの重さは消えてしまっていた。