万能の薬とバルドレイクの苦悩
疲れ果てたシャルロッテが、双子と一緒に寝台に横たわっていた。おやすみ、と声をかけて、バルドレイクは孤児院を後にする。すっかり夜も更けており、足元を照らすのはほのかな月の光のみだった。裏路地を吹き抜けていく風が、バルドレイクの身体に染み付いた薬草の臭いを洗っていく。疲れた足取りで、それでも自宅の戸を開けるバルドレイクの顔は晴れやかだった。
「おかえり、竜にいさん」
家の中から、少年の声が出迎える。灯りに照らされた室内で、白衣のままバルドレイクはベッドに腰掛けた。
「やあ、ただいま。あの男の足取りは、追えたかい?」
バルドレイクの問いかけに、少年は首を横へ振った。
「後をつけたけど、撒かれた。深追いすると危なそうだったし。でも、町の外には出ていないよ」
そうか、と口にして、バルドレイクは蝋燭の火を眺めた。少年に行わせた覆面の男の捜査結果は、芳しくなかった。バルドレイクは険しい眼で、思考を巡らせる。男はこの町で疫病を振りまき、何をするつもりなのか。答えは、思い浮かばない。
「大変だったみたいだね。ずいぶん、消耗してる」
バルドレイクを見つめていた少年が、ぽつりと言った。
「孤児院で色々あってね。奴のまいた毒に、シャルロッテとミルがやられていた」
「毒?」
「うん。たぶん、僕と会う前に、孤児院に行って仕込んだんだろうね。生体重金属の欠片を、飲まされていたよ」
「生体重金属! 猛毒じゃないか! まさか、姉ちゃんとちびは……」
顔色を変える少年に、バルドレイクは首を振ってみせた。
「なんとか、助けられたよ。竜血湯を、使うことになったけれどね」
「竜血湯を……」
少年の眼が、探るようにバルドレイクの眼を覗き込んでくる。バルドレイクは、笑ってうなずいた。
「そうでもしなければ、死んでいたからね……あの時は、二人を助けようと、僕は必死だった」
蝋燭に眼を戻しながら、バルドレイクは記憶を手繰っていく。
メルと共に孤児院へ戻ったとき、シャルロッテとミルは診察室の前に倒れ伏していた。嘔吐と幻覚に苛まれ、吐瀉物と血で周囲には饐えた臭気があった。
メルにミルを背負わせ、シャルロッテを抱きかかえて診療室へと飛び込んだ。症状を診るに、強力な毒物を摂取していた。胃の洗浄と、毒物の摘出が必要だった。だが、二人には治療に耐える体力が、残されてはいない。素早く診察を終えたバルドレイクは、覚悟を決めた。
「シャルロッテ、ミル、君たちは、生きていたいと思うかい?」
静かに、バルドレイクは問いかける。ミルとシャルロッテの間で狼狽していたメルの動きが、止まった。
「せんせい、どうしてそんなこと、きくの?」
「生きていたいと、思う意思が必要だから」
「いし……?」
「強い、気持ちだよ」
「たすけるのに、それがひつようなの?」
「うん……」
うなずくバルドレイクを、メルの強い視線が貫いた。
「だったら、だいじょうぶ。助けてあげて、せんせい。シャルロッテお姉ちゃんもミルも、生きたいって、思ってるから!」
メルの言葉には、抗い難い響きがあった。患者が生きたいと思う限り、そして救う手段を持っている限り、バルドレイクは命を救わなければならない。あらゆる努力を、惜しんではならない。そんなふうに、告げられているようだった。
「……わかった。メル、これから薬を調合するから、少し待っていて」
バルドレイクは言って、薬鉢に薬草を投じていく。乾燥したものに、潰して練り上げたもの、生の葉も、千切って入れる。そしてバルドレイクは丸メガネを外し、小刀を取り出す。
「僕の作れる、最高級の、万能の薬を……」
小刀が、バルドレイクの手のひらの上で走った。皮膚の上で、赤い線が一本、太くなって滴を作る。充分な量を、薬鉢へと流し込んだ。
「メル、お湯を用意してくれないかな」
「……うん、お湯、持ってくる」
バルドレイクの調薬を瞬きもせず見つめていたメルが、うなずいて診察室を出た。メルが戻るまでの間に、他の必要な薬を用意する。しばらくして戻ってきたメルから、湯の入ったやかんを受け取った。
「二人に、飲ませてあげなさい」
湯で溶いた薬を、メルに手渡した。
「これが、おくすり?」
赤緑の温かな液体を見つめて、メルが訊く。
「そうだよ。これが、竜血湯……シャルロッテとミルを、治すお薬だ」
メガネを掛けなおして、バルドレイクが答えた。
「飲むと、身体の活性が始まる……簡単にいえば、人より丈夫になるんだ」
ふうん、とうなずいて、メルはシャルロッテとミルの口へ、竜血湯を流し入れた。
「メルも、のむね」
毒の摘出のため、準備をしていたバルドレイクの耳に、メルの言葉が届いた。薬の入ったカップを取り上げる前に、メルは中身を飲み干してしまっていた。
「メル! どうして」
「メルも、じょうぶにならなきゃいけないの。ミルものむから、メルものむの」
にっこりと笑って言うメルに、バルドレイクはしばらくの間、呆然と取り上げたカップを手にして立ち尽くしてしまった。
立ち直った後、バルドレイクはシャルロッテとミルの胃を切り開いて毒物を摘出した。どろりとした銀色の、小さな塊だった。摘出したものを瓶へ入れて、厳重に封をする。それから、切った腹部の縫合をした。
「治療は、上手くいった。もう少し遅れていたら、危なかったけどね」
黙って聞いていた少年が、大きく息を吐いた。
「何やってんの、にいさん。もうひとりのちびにまで、飲ませるなんて」
「……まさか、メルも飲むとは思わなかった」
「にいさんの説明が悪いんだよ。身体を丈夫にする薬、なんて」
「メルに、薬効全てを理解してもらおうとしたら、二人を助ける時間がなくなってた」
「ちゃんとデメリットも説明しなきゃ。人間でいられなくなりますよ、って」
声を詰まらせて、バルドレイクはうつむいた。少年は両手を上げて、やれやれと首を振る。
「まあ、飲んじゃったものは仕方ないか。でも、考えようによっては、これで良かったのかも」
顔を上げるバルドレイクに、少年がにやりと笑う。
「良かった、のか?」
「うん。だって、これで孤児院の連中、そう簡単には死ななくなったでしょ?」
「それは……そうだけれど」
「あの覆面男と戦わなくちゃいけない以上、必要な処置だったんじゃないの?」
「……孤児院からは、消えるつもりだった」
「それはダメだよ、にいさん。ヒューリックの力を借りれなくなっちゃうから」
少年の言葉に、バルドレイクはしばらく、蝋燭の火を見つめる。
「……なるようになる、か」
やがて呟いたバルドレイクに、少年はうなずいてみせた。
「そうだよ、竜にいさん。とりあえず、今日は寝なよ。竜血湯を作ってから、あんまり寝てないんだろ」
少年の言う通りだった。シャルロッテたちの治療、そして薬草スープを作り、それから調薬を数多くこなした身に、どんよりとした疲れがのしかかっている。
「明日のことは、明日。なるようになるよ」
少年に促され、バルドレイクはほとんど無理やりに寝台へ寝かされた。ふっと蝋燭に息を吹きかけ、少年が玄関へと向かう。
「……竜にいさんは、あの子たちの命を救ったんだ。それは、決して間違いじゃない。まあ、言わなくてもわかってるだろうけど。それじゃ、おやすみ」
玄関口を開けて、少年が姿を消した。戸が閉まる音が、大きく聞こえた気がした。バルドレイクは目を閉じて、泥のような睡魔に身を委ねる。暗い部屋で、白衣に染み込んだ薬草の匂いに包まれて、バルドレイクは眠りに落ちていった。
夢の中で、バルドレイクは孤児院にいて、シャルロッテとミルとメルと一緒に笑っていた。いつまでも、続けばいいのに。夢を見ながら、バルドレイクは思った。