崩壊する悪夢
身体の中心に、熱がわだかまっている。指先にいたるまで、鈍い痺れが全身を支配していた。
「ミル……」
手を持ち上げ、伸ばした。届かない。全身に、力を込める。意思に反して、指一本として動かない。伸ばした手が、力なく床へ落ちた。
小刻みに内臓が痙攣するような感覚に、胃がぜん動する。口から吐き出された血が、看護師の白い衣を赤黒く染め上げていく。
見慣れた廊下の壁が、どろりと溶ける。渦巻くように、視界は不快感を伴って回り始めていた。
「ミル……!」
倒れ伏した少女の身体に、青黒い斑点が浮かび上がる。それは、半年前に孤児院で猛威を振るった、あの流行り病の症状そのものだった。
斑点は、自身の腕にも現れていた。色彩を失った世界で、血を吐きながら、シャルロッテは死病の訪れを、なぜか冷めた気分で見つめていた。
「メル……」
いなくなった少女の名前を、呼ぶ。せめて、無事でいてほしい。そんな願いを込めて、シャルロッテは視線を動かした。どろどろと黒いものが、周囲を取り囲んでいる。それは、シャルロッテの吐いた血と同じ色をしていた。シャルロッテが血を吐き出すたびに、世界は汚れていく。倒れたミルと、二人だけの世界だった。
玄関の、戸が開かれた。入り口で立ち尽くすのは、姿の見えなくなっていたメルだった。
「シャルロッテお姉ちゃん! ミル!」
死病の蔓延している空間へ、メルが駆け込んでくる。
「だ、め……」
掠れた声で、シャルロッテは制止の意思を見せる。だが、声は小さく、メルの耳には届かない。やがて、メルの肌にも、青黒い斑点が浮かんでくる。
「あ……!」
声にならない叫びとともに、シャルロッテは大量に血を吐いた。悪寒と絶望が、心身を苛んでいる。シャルロッテの瞳から、血のような涙があふれ、こぼれた。
「メル、ミルを診察室へ。シャルロッテは、僕が運ぶから」
入り口に、白衣が見えた。黒に染まるシャルロッテの視界で、それは燦然と白い輝きをもっていた。
「せん、せい……」
血と病魔の巣食う世界に、光が訪れる。風采の上がらない、ひょろりとした白衣の男。丸メガネで、ぼさぼさの髪で、いつもの顔で、バルドレイクはそこに立っていた。
「もう、大丈夫だ、シャルロッテ」
優しく抱きかかえられ、シャルロッテは安堵を覚えた。身体に触れる腕や胸は、意外な頼もしさに満ちている、そんな気がした。視界の端で、ミルの身体を背負うメルが見えた。シャルロッテはバルドレイクの腕の中で、静かに意識を失った。
朝日が、顔に当たる。眩しさと暖かさで、シャルロッテは目覚めた。咽喉が渇いていた。
「シャルロッテお姉ちゃん……?」
枕元で、小さな声がした。目を向けると、メルが心配そうに覗き込んでいる。
「メル……」
身を起こし、シャルロッテはメルの顔をじっと見つめる。
「どうしたの、まだ、具合良くないの、シャルロッテお姉ちゃん?」
見つめ返すメルの肌には、あの青黒い斑点はない。
「メル!」
メルの小さな身体を、ぎゅっと抱き寄せた。
「え、あ、むぎゅ、く、くるしいよ……」
もごもごと何かを言う頭を、胸の中に抱きこんだ。
「無事だったのね、メル……!」
抱きしめながら、シャルロッテはメルの身体のあちこちを確認した。斑点は、どこにもない。
「は、はなして、おねえ、ちゃん……」
「ああ、メル、メル……!」
感極まって、シャルロッテはメルに頬をすり寄せる。そんなシャルロッテの背中に、暖かいものがくっついた。
「メルばっかりずるい、ミルもぎゅってして」
「ミ、ミル……?」
メルを開放したシャルロッテが、首をよじって背中を見る。不満そうに頬を膨らませたミルと、目が合った。
「あ……れ……?」
両手を伸ばし、ミルを抱き上げる。柔らかなミルの肌には、昨晩の死病の斑点は見当たらなかった。
「どうして……?」
不思議に思いながらも、シャルロッテはミルとメルを抱擁する。
「やあ、おはよう。気分はどうかな、シャルロッテ、ミル」
言いながら、寝室へ入ってくるのはバルドレイクだ。
「先生……」
シャルロッテの傍らにやってきたバルドレイクが、ミルとシャルロッテの脈を交互にとって、笑顔でうなずいた。
「異常はないみたいだね」
「先生、どうしてここに?」
シャルロッテの問いに、バルドレイクは困った顔で笑う。
「経過が気になっていたんだ。別に、やましい気持ちで立ち入ったわけじゃないから」
なぜそんなことを言うのだろうか、とシャルロッテは不思議に思いながら、寝室を出て行くバルドレイクを見送る。そして、自分の格好に気づいた。双子を抱いたりしていたため、寝間着ははだけて少し拙いことになっている。これを見て、慌てて出て行ったのだろうか。そう考えると、羞恥よりも可笑しさのほうが先立ってしまう。双子と一緒に、シャルロッテはくすくすと笑ってしまった。
衣服を整え、双子も着替えさせてから台所へ行った。バルドレイクが、何事もなかったような顔で鍋をかき回していた。
「先生、お料理できるんですか?」
「一人暮らしをしていると、たいていのことはできるようになるものだよ」
薬草の香りのする、スープが用意されていた。すっと通り過ぎるそよ風のような、いい香りだった。ぷかぷかと、ソラマメも浮かんでいる。
「食べられそうかい?」
「はい。ありがとうございます」
バルドレイクの問いに、シャルロッテは笑顔で答えた。
「メルも、お手伝いしたんだよ」
「ありがとう、メル」
メルの頭を撫でる横で、ミルのお腹が小さく鳴った。
「早くたべようよ、シャルロッテお姉ちゃん」
急かすミルの声に、シャルロッテは椅子に座って手を合わせる。
「食事の前に、お祈りよ。ミル、メル、先生も」
配膳を終えたバルドレイクが、三人に倣って手を合わせた。
「それでは、神の恵みと……命を救ってくれたお医者様に感謝を込めて、いただきます」
シャルロッテに続いて双子が声を合わせ、いただきますと復唱する。少し間をおいて、バルドレイクも続いた。
胃の腑に、爽やかな緑の味が染み込んでいくようだった。昨晩の悪夢のような光景を、吹き飛ばすには十分な逸品のスープだ。
「おいしいね」
「おいしい、せんせい」
「ありがとう。お代わりは、沢山用意しているからね、ミル、メル」
笑顔でスープを味わう双子に、バルドレイクは柔らかい表情で答える。シャルロッテの心臓が、とくんと鳴った。
「手が止まってるね、シャルロッテ。まだ、食欲は戻らないかな」
シャルロッテのほうへ向き直ったバルドレイクが、シャルロッテの額に手を伸ばす。
「え、ひゃ、た、食べます! 食べてます、先生!」
その手から逃れるように、シャルロッテはスープの皿を手にとって、中身を勢いのまま口へ入れる。
「慌てなくても、大丈夫だよ、シャルロッテ」
双子とバルドレイクが、声を合わせて笑う。むせて咳き込んでしまったシャルロッテも、つられて笑った。
「その調子なら、もう大丈夫みたいだね。食事が終わったら、薬の調合、手伝ってもらえるかな、ミル、メル、シャルロッテ?」
「はい、先生!」
「なにをつくるの、せんせい?」
「とりあえずは、傷薬かな。ほとんど無くなっていたし」
「じゃあ、メルがまぜるのやっていい?」
「もちろん、いいよ。そのかわり、大量にやってもらうからね」
「つかれたら、ミルにかわってもらうから」
「ええ、ミルはまぜるのやらなくていい」
「まあ、ゆっくりやっていこうか。時間は、あるんだし」
双子が、同時にはあいと答えた。和やかで賑やかな食事の時間を、シャルロッテは心からの笑顔で楽しんでいた。