はじまり シャルロッテの後悔とろくでなしの医者
その孤児院は、大きな町に建っていた。古びた石の外壁には、ツタが這っている。ちっぽけなぼろ家のような風情だったが、シャルロッテにとってそこは帰るべき家だった。
十七年前、まだ生まれたばかりのシャルロッテはこの家の前に捨てられていた。捨てた親は、名も告げずに泣きじゃくる女の赤ん坊をシスターに託し、いずこかへ去って行ったという。育ての親であるシスターも、昨年病で亡くなった。生き残った孤児院の子供で、一番年上のシャルロッテがシスターの跡を継ぐことになった。
簡素な葬式を済ませると、無為の日々が続いた。孤児院は病院でもあったが、唯一の医師であるシスターがいなくなったため、訪ねてくる人間はほとんどいなくなってしまった。
今年八つになる双子と、シャルロッテの三人だけが孤児院に残された。他の子供はシスターの後を追うように、流行り病で死んでいった。途方に暮れるシャルロッテに、救いの手を差し伸べてくれたのは貴族のヒューリックという男だった。
シスターが亡くなって半年経ったころ、ヒューリックはシャルロッテに一つの提案をした。それは、医師を派遣して病院としての機能を復活させる代わりに、看護師としてシャルロッテが働くというものだった。町には他にも病院があり、療養所が不足しているということもない。何か裏があるかもしれなかったが、生きるためには他の道を選ぶ余裕も時間もなかった。シャルロッテは、ヒューリックの提案を受け入れた。
その次の日に、ヒューリックの派遣した医師が孤児院にやってきた。風采の上がらない、地味そうな男だった。彼にとって、この孤児院以外の病院に居場所が無いのだろう。シャルロッテは、ヒューリックの提案を受け入れたことを、早くも後悔していた。
それから半年、現在に至るまで、シャルロッテの後悔は続いていた。
「ごめんなさい、先生は留守なんです。まったく、どこをほっつき歩いているのかしら……」
腰痛を抱えた老婆に、シャルロッテは頭を下げて言った。
「お昼までなら、待ちますよう。バルドレイク先生も、お忙しいんでしょう」
老婆はそう言って、受付のベンチに腰掛ける。お茶でもお出ししましょうか、というシャルロッテの言葉を、老婆はやんわりと断った。お茶を出すような余裕は、孤児院にはない。それを見透かされたようで、シャルロッテの苛立ちはますます募っていく。
「どうせ、また歓楽街をふらふらしているんですよ、あの先生は」
「おとといは、あたしの店で飲んでいらしたものねえ」
「……いっぺん、きっちりお話しないとダメかしら」
話をしていると、入り口のドアが軋みを上げて開いた。
「やあ、ただいまシャルロッテ。今朝、市場に行ったら珍しい薬草が手に入ったんだ」
入ってきたのは、やせっぽちに丸メガネの白衣の男だった。
「先生、また怪しげな雑草買ってきたんですか?」
腰に手を当てて、シャルロッテは仁王立ちでバルドレイクを迎え入れた。
「聞いてくれ、シャルロッテ。今度のは本当に価値のあるもので」
「どんな雑草かは、後で伺います。それより先生、患者さんが待ってますよ」
バルドレイクの言葉を遮って、シャルロッテは右手で老婆を指し示した。
「ああ、これはロゼリアさん。相変わらずお元気そうで」
「バルドレイク先生も、お変わりなく」
「元気だったら、ここには来てないと思うんですけど」
呆れた顔のシャルロッテは、二人を置いて診察室の扉を開けた。中へ入ると、バルドレイクと老婆も続いて入ってくる。シャルロッテが老婆を寝台へうつ伏せに寝かせて、服をめくった。
「今朝から、腰がしくしく痛んできてねえ」
「腰が、少し張ってますね……先生、どう思われますか?」
シャルロッテがバルドレイクに視線を向ける。バルドレイクは老婆のほうを見ることもなく、手にした包みから草を取り出し鉢に入れてすり潰していた。
「先生、ちゃんと診てください」
「見なくてもわかるよ、腰は。しくしく、痛むんですね?」
「はい、しくしくと」
「ズキンって、感じではなく?」
「しくしくですねえ」
「なるほど……腰はもういいので、起きて座ってください。シャルロッテ、とりあえず、お湯を沸かしてほしいんだけど」
「わかりました」
老婆が起きるのを手伝ってから、シャルロッテは台所へ行ってやかんを火にかけた。ゆらゆら立ち上るかまどの熱気を浴びながら、シャルロッテはじっとやかんを見つめる。
玄関口の戸が、叩かれた。行ってみると、少年がひとり、立っている。
「どうしたの、病気?」
少年の目の高さまで屈んで話しかけるシャルロッテに、少年の浅黒い右手が差し出される。
「金貨五枚」
「え?」
「先生が、買った薬草。金貨五枚」
「……ちょっと、待っててくれるかしら?」
「あんまり長くはダメだよ。おいらも、商売なんだから」
少年の声を背中に受けて、シャルロッテは乱暴に診察室の扉を開けた。
「先生。いま、男の子が来て薬草代を払ってくれって」
「ああ、持ち合わせが無かったから。悪いけど、払っておいてくれる? あと、お湯はまだかな」
老婆の口の中をのぞきながら、バルドレイクが言う。今すぐにでも掴みかかりたい衝動を、シャルロッテは大きく深呼吸することで抑えた。
「払ってくれって……金貨五枚ですよ、先生?」
「月初めだから、ヒューリックさんから金貨十枚送られてきたよね」
「アレはひと月分の生活費です!」
「あとできちんと返すから。頼むよ。あと、お湯を早くね」
こちらを見ようともせず、バルドレイクは言う。問答は、時間の無駄だった。シャルロッテは黙って受付に戻り、金貨五枚を取り出して少年の手にのせた。
「まいどあり。先生に、これからもよろしくって言っておいて」
言い残し、少年は駆け去っていった。戸を閉めて、シャルロッテは台所に向かう。ぐらぐらと煮立った湯が、やかんのふたをカタカタと鳴らしていた。
「いっそ、お湯でもぶっかけてやろうかしら、あの疫病神……」
やかんの取っ手に布巾を巻いて、持ち上げる。何度も、薬草代を立て替えている。だが、バルドレイクがそれを返したためしはない。数日経って、問い詰めると困ったように笑うだけだった。
「お湯、お持ちしましたよ、先生」
刺々しく言って、シャルロッテはやかんを机の上に置いた。
「ありがとう。それじゃロゼリアさん。今からお薬、作りますからね」
「お薬って、先生、それ、使うんですか?」
バルドレイクの前にあるのは、先ほど潰していた薬草の入った鉢だけだった。
「そうだよ。この草の、茎の部分の汁を使うんだ」
「その、紫色の、どろっとしたのを、ですか?」
どうみても毒にしか見えない。だが、バルドレイクはカップの中にその液体を入れて、湯を注いだ。出来上がったのは、薄い紫色の液体だった。鼻にしみるような、きつい臭いがした。
「さあ、ロゼリアさん。飲んでください」
「ダメです、そんなもの飲んだら、死んでしまいます!」
「おやまあ、シャルロッテちゃん。そんなこと、言うもんじゃないよう。先生が、せっかく作ってくれたお薬だもんねえ」
老婆がカップを手にして、ゆっくりと口をつけた。きつい臭いのする液体を、老婆はあっさりと飲み干してしまった。
「苦いねえ」
「お薬ですからね。飲んだら、今日は安静にしておいてください。明日には、良くなってますから」
「ありがとよう、バルドレイク先生」
礼を言って、老婆は立ち上がる。すぐにでも咽喉をかきむしって苦しみ出すのでは、と不安にかられたシャルロッテだったが、老婆はゆっくりと歩いて帰って行った。
老婆を見送ってから、シャルロッテは診察室へ戻った。バルドレイクは、鉢に残った草の汁を瓶に詰めている。
「……何の薬なんですか、それ」
「ん? これは、胃薬だよ。僕の田舎では、貴重な薬でね。絞ったガラも、干して粉にするんだ。やけどに効く」
そう言って、バルドレイクは診察室のベランダに草の残骸を干し始めた。ベランダにはほかの植物も干されていて、草の壁のようなものが出来上がっている。
「……先生」
「なんだい?」
「お金、ちゃんと返してくださいね」
「ああ、そのうち、ね」
横目で睨み付けるシャルロッテに、バルドレイクは困ったような顔で笑いかけてくる。きっと、お金は返ってこない。胸の中に生まれた確信に、シャルロッテは密かに溜息を吐いた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。連載を、始めてみることにしました。お楽しみいただければ、幸いです。