帰還(3)
ノォトを呼び止めたのは、ヒルディースであった。
あれだけの臣下が集まり、その王たるアルヴァルトさえいたはずの王の間から抜け出してきたというのか。
それは戦士の妻として、女としてありえないことだった。
しかし、ヒルディースならやりかねないだろうとも思った。
かの大神オーディンの前にさえ立ってみせた者だ。その程度、どうってことはないのだろう。
目の前に立ったヒルディース。思わずノォトは、目を逸らした。
あまりに純粋な瞳に、雫が浮かんでいたのが見えた。
女を泣かすな、と言ったのは母だったろうか。その母を泣かせたとなれば、父に怒られてしまうだろう、などと思った。
「ノォト、あなた、どうして」
「母よ。俺は行かねばならない」
断腸の想いで言った。その言葉に込められた覚悟に気付かないほど、ヒルディースは愚かな女ではない。
それでも、と彼女は言う。女として愛した男に置いてかれた者。今度は母として、愛した息子に置いていかれてしまう。
その苦しみは、痛いほど理解できた。
だからつい、立ち止まってしまったのだ。
「戦士というのは、みんなそうなの? あなたを愛してる人だっているのに。それらを置いて行ってしまうの?」
「……そうだ」
「それは何のため?」
「父が探し求めていたのが貴女だったように。俺が求めていたものが、どうやら近くにあったらしい」
ノォトがそう言った。
母は目を白黒させて、驚く。そして顔を赤くする。
いつまでも初々しい母の姿に、少し微笑む。
「笑った顔がそっくりね、ノォト」
誰と、とは言わなかった。
ノォトは少しだけ俯いて、そして母の目を見た。
「ずっと夢を見ていた。父の夢だった」
「どんな夢だったの?」
「勇ましくも、ただの男だった。だが、かっこよかったよ」
少しだけ、子どもっぽく。それがノォトが照れながらもできる、最大限の親孝行だった。
ヒルディースはくすくす笑う。さっきまで泣きそうな顔をしていたのが、嘘のようだ。
溢れそうだった涙を拭って、ヒルディースは笑う。
笑える者は強いな、とノォトは思った。それはヒルディースも、フィオネも、グリエルだってそうだった。
だから自分ももっと笑えればいい、とも。
覚悟を決めた声音で、ヒルディースは言った。
「だったら行きなさい、ノォト。そして、あなたの幸せを見つけて」
「ああ」
「たまには手紙をちょうだい。それを励みにするわ」
「ああ」
「奥さんができたら、紹介をするのよ」
「……ああ」
「孫の顔が見たいわ。楽しみね」
「……あ、ああ」
最後の方は、少し話が違ってきたような気がした。
輝く、期待を込めた目でヒルディースはノォトを見つめていた。孫、などと言ったが、その様は少女のようだった。
いつまでも変わらない母。しかし、ノォトの決断は否応無く彼女を変えてしまう。
それが申し訳なくもあった。だが、それで一歩を踏み出せない方が悔しかった。
「母も、息災で。アルヴァルトは素晴らしい王だ。そして貴女も素晴らしい女性だ。きっと、いい世を送れるだろう」
「……まあ」
ヒルディースは頬を再び、赤く染めた。
これだからこの人は困るんだ。ノォトはそう思わざるを得なかった。
何も残せなかった、不甲斐ない息子を許してくれ。そう心の中で呟いた。
口にはしてなかったが、顔にでていたのだろうか。ヒルディースの手がノォトの頭に伸びる。
髪に細い指が触れた。ふふ、と笑うヒルディースの姿は、母親のものであった。
「念願だったのよ」
頭を撫でるのが。
顔を赤くしたのは、ノォトの方だった。
ばっと離れて、そっぽを向いた。また笑うヒルディースをよそに、歩き始める。
養父と別れ、義父と別れ、母と別れた。
もうこの国に未練は残っていない。
もはや背後を振り返ることもせず、ずいずいと歩いた。
門の前には、グラニが待っていた。旅から帰ってきたばかりで疲れているだろう、と背中を撫でる。
共に駆けてきた友は、鼻を鳴らして答える。どうやらまだまだ、ノォトの無茶に付き合ってくれるらしい。
「頼もしいな。お前が友でよかった」
当たり前だ、とグラニはいななく。生意気な、とちょっと小突いて、グラニに跨った。
目指すはここから東にある地だった。その向こうに、茨の城が待っている。
きっとそこに、探してたものがある。そう信じて、疑っていなかった。




