霜の狼(1)
フィオネの勘は凄まじいものであった。もしくは彼女自身が幸運であるのだろうか。
彼女があっち、と指差した方へと進んでいくと、行く先々に水源があり、木の実も豊富にあった。旅をするときに苦労するはずの食と水の問題が、この少女の手にかかればまったく問題にならなかった。
が、しかし。
「だめだな」
「だめ?」
ノォトは川べりで遊んでいるフィオネを横目に、グラニの背を撫でる。長い旅で少しくたびれている様子に見えた。
無論、ノォトもそうだ。動きはかすかににぶっているのを感じている。戦わずとも疲れが出ているのだ。
それにフィオネがいる。いままで二人を乗せて進むことのなかったグラニも、こういう女を相手にしたことのないノォトも不慣れであった。慣れないことをするのは、疲れてしまう。フィオネには申し訳ないと思いながらノォトはそう思った。
「一度、どこかの集落へ向かおう。休息がいるし、情報だっているだろう」
「勝手に決めないでよ。あんた、私の矢って自分で言ったのを忘れたの?」
そうは言うが、フィオネは反対しなかった。彼女自身も休む必要を感じていたのだろう。
「それはいいんだけど……私まで行くの? 人の集落に?」
「できないか?」
「だって私、エルフだし、驚かせないかなって」
「決まってる。驚くだろうな」
「……って結局驚くんじゃないの!」
まったく、と言ってフィオネは腕を組んだ。ノォトに向かって水をばしゃり。そしてまた、水遊びを始める。
水辺にいる彼女は、それだけで生き生きとして見える。まるでそうであるのが当たり前であるように。
見ていて、ノォトは不思議な気持ちになる。
エルフとは人よりも神々に近いと聞いていたから、もっと厳かな者なのかと思ったが、ずっと親しみやすく話しやすい。
もちろん少し勝気が過ぎて、辟易することもあるが。それも愛嬌だろう。
むしろ悪戯っぽく、子どものように純真であった。
戦いとは無縁の、広場を走り回るような。
本当に自分たちよりも強い力を持っているのかわからなくなる。
だが、この気ままな感じは確かに、豊穣を司る者に連なる者だと思わせた。
風に揺れる草花のように。可憐なまま踊っている雰囲気が特に。
「……私の顔に何かついてる?」
そんなノォトを見てか、フィオネは首を傾げていた。
ふん、と笑って、ノォトは背を向けた。
「あ、笑った。珍しいこともあるのね」
「そうか?」
「だっていっつも、恐い顔してるし! 氷でできてるみたい!」
ノォトはそれこそ、困った顔をした。自分では笑っているつもりだったのだが、そうは見えないらしい。
それに、氷か。なるほどと思った。
そのときだった。グラニが鳴いた。フィオネも、何かを感じたように身構えた。
「どうした?」
「森がざわめいてる。良くないものがいるわ」
「巨人か」
「近いけど、いいえ、これは……霜の気配ね」
「なに?」
ノォトは剣を抜いた。フィオネもまた、腰から銀の短剣を抜いた。
息を呑んで、見渡す。グラニも近くによってきた。
霜の気配。それは本当の霜のことではない。凍えるような気配のことだ。
地下にある氷の国、ニブルヘイムに連なるもの。死に近き氷の国をその身に宿しているもの。冷たい空気が漂ってくる。
森の中から出てきたのは、大きな狼だった。
「あれは……なんだ?」
「わからないわ。でもただの狼じゃない。巨人にとっても近いけど。間違いなくニブルヘイムのやつね。この川を下ってきたんだわ」
狼は三匹。ノォトとフィオネを取り囲む。
牙を剥いている。そして、気配もそこらの獣とは違う。瞳に光はない。
魔獣とでもいうべきだ。獣より獰猛で、恐るべき相手。食うことを考え、そして並々ならぬ知と力を持っている。
「よかったわね、これだけ近づかれれば矢を使わずに済みそうよ」
それは、自分は手を出せない、と言っているのだ。ノォトはフィオネの言葉をそう解釈した。
「そうだな。下がってろ」
ノォトは言うやいなや、狼たちに向かっていった。フィオネの制止の声が聞こえたが、お構いなしだった。
一匹に近づいて、一振り。血を吹きあげた狼は、そのまま吹き飛んで行った。
振り抜いたのを隙と見たのか、もう一匹がノォトに襲いかかる。その首筋に噛みつこうと飛んだ。
それを、ノォトは背中に目があるように察していた。剣を片手に持ち替えて、拳を突き出す。
あらゆる動物が苦手とする顎へ、拳が入る。狼の体が宙に浮いた。その腹に向かって、剣を一突き。そのまま押し込み、投げた。
わずか一瞬の出来事だった。これにはフィオネも驚きが隠せない。
並の獣ではないはずだ。その体も頑丈なはずで、一兵卒の剣技では傷をつけることもできない。
それを、いとも容易く。フィオネは震えた。
残りの一匹は恐れをなしたのか、逃げ出した。森の中へと駆け込んで行くのを見る。
「あんた、とんでもないのね」
「この程度、大したことはない」
ノォトは剣を見る。大丈夫、まだ戦える。わずか二振りでは壊れはしない。
「さて、あの狼を追うわよ」
「どうしてだ?」
「狼は集団で動くのよ。あいつらがここにいることがそもそも変なんだけど、それでもたった三匹って方が考えられないわ。嫌な予感がするの」
私の矢なんでしょ。
フィオネにそう言われれば、ノォトは従わざるを得ない。自分の目的は巨人の討伐で、彼女の目的は森の安寧であるのだから。