空から落ちてきたエルフ(1)
ノォトは新しい友、グラニにまたがって、生まれ育った街を出た。
見送りに来た者はわずかであったが、餞けを少しもらった。
街道をグラニが駆ける。自分の目に狂いはなかった。この馬は何よりも優れた馬だ。
その脚は軽やかで、まさに風と一体になって走っていた。
しばらく走り、人里から離れる。
不可侵の領域だった。木こりや猟師でさえ近づかない森だ。獣たちの場所だった。
穏やかな森だった。どこかで戦が起こっているなど、嘘のように。
獣たちは鳴き、川はせせらぎ、木はさざめく。
時を忘れそうだった。あまりにもゆっくりと流れるから、いまが旅に出てからどれくらい経ったかなど。
夜は火を灯し、無理をせずに過ごした。急いだからと言って、達成できるわけではない。
それに気持ちを逸らせてグラニに無理をさせたくはなかった。賢い友は、ノォトの無理を諌めてくれた。
数日が経った。森での道程も慣れ、ノォトにも余裕が出てきた頃だった。旅のこれからについて、頭を巡らせる程度には。
北に住む巨人の討伐。それが困難であることをノォトは知っている。
何せ巨人と言えば、かつては世界を支配していた者たちだ。直接目にした者の話はろくに聞いたことはないが、彼らはこの世を生み出した原初の混沌として語られている。
智者であるブロムはノォトにそう語りきかせていた。
それを信じるならば、間違いなく暴れている巨人というのは強敵である。未だかつてない敵の前に、震えた。戦士として本能的なものだった。
ノォトとグラニはいま、池のほとりにいた。長い旅路での疲れを癒しているのであった。
流れる風に身を任せる。汗を流した肌を冷やす風が、どうにも心地よかった。
グラニはというと、池の水を飲んでいる。それを眺めて、ふっと笑った。ここには自分と愛馬しかいないのに、孤独感がまったくなかったのだ。
「いまこのときくらいは力を抜いてもいいだろう」
ずっと力を入れていては、肩も凝ってしまう。それはいざというとき剣を鈍らせ、勝敗を決定してしまうことだってある。
そう思い、今日はこのまま休んでしまおうかとも思った。
森は長い。休息を適度に入れなければ。
のんびりと寝転がろうとした、そのときだった。
グラニが鳴いた。危険を知らせるように。
ノォトはとっさに飛び起きて、剣を抜く。グラニへと近づいて警戒をした。
そして、空からそれは降ってきた。
大きな水しぶきをあげて、池の中に落下する。それは人の形をしているようにも見えた。
池には入らず、落下したそれを見る。
深いところから上がってきたそれは水面から顔を出し、大きく息をした。
そして泳いで足のつく場所までやってくる。そして膝をつくと、肩で息をしていた。
ようやく、ノォトはその者の顔を見ることができた。
一言で言えば、美しい女だった。ノォトは女性を形容する言葉について貧困だったが、喩えるならば木漏れ日が形を持ったようだった。
長い黄金の髪、そして尖った耳。背丈は高い。
天上にある国、アルフヘイム。そこに住まう神に近き者。
ノォトの知る限り、この者はエルフと呼ばれる種の者だった。
「ちょっと、そこのあんた」
あんた、が自分を指すと気づくのに少しの時間を要した。
「何かすることがあるんじゃないの」
やれやれ、とノォトは池へと入って、女に手を差しのばす。エルフの女はその手をとって、ゆっくりと立ち上がった。
何て気の強い女だ。そう思わずにはいられなかった。
初めてエルフと出会ったが、見た目は想像通りだったが、性格については裏切られたような気がした。
「あ〜もう! こんなところに落っこちるなんて聞いてないわよ!」
女はそう言って、濡れた服を絞っている。髪と服から滴る雫と、覗いた脚が艶かしかった。
黙っていればきっと惚れていた。残念だ。
「お前は何者だ」
「それはこっちの科白。こんなところに人がいるなんて、どういうことなの? ここはフレイ様が持つミズガルズにおける領土。勝手に侵して、ただで済むと思ってるの?」
「なに?」
よもやここが、豊穣を司る者の領域だとは思ってもみなかった。
確かにそう言われれば、この森に宿る気配はそういうものだ。豊かな緑はなにものにも侵されていない。水も清浄で、なるほど妖精王の領土と言われても納得である。
「そういうわけだから、ここから出て行くように」
「いや」
ノォトは女の言葉を止める。
「俺はこの先に用がある」
「抜けていこうっていうの? 確かにこの森のすべてがフレイ様の領土ってわけじゃないけど、でも人が通り抜けるために使おうってのは、気に食わないわね」
不機嫌そうな女エルフ。
落ち着け、とノォトは諌めて言った。
「俺はこの先に出てくるという、巨人を追っている。奴を討つことが俺の使命だ」
「えっ」
エルフの女の瞳が光った。
濡れた衣を踏みしだいて、ノォトに詰め寄る。
「それ、本当でしょうね」
「嘘などつくものか。その意味がお前にあるとは思えない」
「“お前”じゃない、私にはフィオネという名前があるの!」
「ではフィオネ」
「気安く呼ばないでよ、変態!」
「どうしろって言うんだ」
ノォトはため息をついた。妖精は移り気であると聞くが、よもやここまでとは思いもしなかった。さすがはかのフレイとフレイヤの子らだ。
フィオネと名乗ったエルフの女は、むずっとした顔を浮かべる。
「って、あれ、私の弓矢は?」
そう言って体をよじって探す。その間にノォトは、池に浮かぶ大きな弓と、同じく大ぶりの矢を引き上げた。
そして気づく。この鏃は、特別な金属でできていると。
「まさか、これは魔銀か」
「お目が高いわね。剣士の形をしてるけど、鍛冶屋か魔術師なの?」
どうしてか誇らし気にフィオネは言った。
今度はノォトが目を光らせる番だった。
「頼みがある。いいや、これは取引だ」