戦場に響く歌
私の愛したあの人の話をしましょう。
でも、どこから話せばいいかわからないの。
だって、あの人が生まれたのは私よりずっと後で、でもあの人の方がずっと大人になっていて。
勇ましくて、誰にも背中を見せず。
誰より己に厳しく、救いを求められれば応え。
地上に二人といないであろう、無双の戦士。
そして誰よりも、悲しみと優しさを知っていて。
私を愛してくれた唯一無二の人。
燃えるような恋だった。溶けるような愛だった。
あの人のことを話すのはすごく難しい。
彼とのすべてが輝かしい思い出だったし。
彼のすべてが眩しく、人には過ぎたもので。
そして何よりも多くの出会いがあったから。
当たり前だけど、人は一人じゃない。周りの人がいてこそ、その人はそこに在れるのだから。
私が居て、彼が居る。彼が居て、私が居る。それはとっても自然なこと。
そして、私と会う前からも彼は居た。
だから、きっと話さなきゃいけないのはここからだと思う。
彼が、彼になった頃。一振りの剣になった頃。
そして私がまだ私でなかった頃のこと。
思い出の中でも、ええ、そのときはまだ特別ではなかったこと。
私と彼が出会った物語。
* * *
刃鳴が響いていた。
いくつもの戦いがあった。
地を覆うような、血。
むせ返るような鉄の臭い。
転がる屍体に、それを踏んで行進する者たち。
天も地もひっくり返るような戦いだった。
絶叫が響き、泣く間もなく剣が、槍が振るわれる。
一人の男がいた。屈強な戦士だった。
あらゆる敵に対しまったくの頓着をせず、無慈悲に剣を振るっていく。
その力は余人では及ばず。
数多の兵が彼の前に倒れていった。
彼の名前はノォト。彼自身の名は知られていなかったが、その姿は敵味方を問わず、戦場のすべての恐怖であった。
漆黒の鎧に、銀の髪。
体躯は特別優れたものではなかったが、その内には恐ろしいほどの力を秘めていることを感じさせた。
ノォトは歩く。戦場の中を、悠々と。
彼の瞳には、戦場に立つ者の持つ狂気も不安もなかった。
まるで作業のように、襲い掛かってきた敵を蹴散らしていく。
彼の手に握られている剣は、いくつもの兵を屠りながらも刃毀れすることなく、輝きが鈍ることはなかった。
名のある剣ではない。しかし、名のある剣工が拵えたものであることがうかがえる。
何よりその眼光。それこそが武具であるかと思わせるような。
まさしく、敗北と恐れを知らぬ者。
そんな彼に立ち向かうのは蛮勇と言われ、しかし、彼を倒した者こそが英雄である証明になるから、立ちふさがる者は跡を絶たなかった。
そして、今もまた一人。
「そこの男、待たれよ」
屈強な男だった。ノォトよりも背ははるかに高く、そして傷も多くあった。
「名は知らぬが、手練れぶりは耳にしている。さぞ名のある家の者なのだろう。俺と戦ってもらおうか」
一騎打ち、すなわち決闘による決着を望んでいるのだ。
周りから人がいなくなる。男は槍を構えた。長大な槍だ。軽々と扱っているから、重量を目測し損ねそうであったが、ノォトはそれが重槍であると見抜いた。力で押し切るために、彼が長年の経験を元にして選んだ武器であることを。
「なるほど、言うだけのことはある」
「舐めた口を。戦場で軽口を叩いたやつは、ろくな死に方をしない。若造、お前はまだ戦いが浅いな」
「まさか。本気で感嘆した。そして興奮もしている」
ノォトは思わず、手に力が込もったのがわかる。
強者と戦う悦びが体を支配する。それは戦士としての本能。
が、それに反してノォトは冷静だった。
ノォトは自分の剣をちらりと見る。
「すまないが、刃を合わせる余裕はない」
「なに? どういう意味だ」
「そのままの意味だ」
二人の戦士は構える。
なるほど、両者は共に優れた戦士であることがわかる。
経験では槍の男が上だ。それを知ってなお、ノォトは引くことはしなかった。
呼吸が、止まる。
決着は一瞬だった。
風と呼ぶにはあまりにも、あまりにも凶暴だった。
巨大な獣が暴れたかのような爪痕が大地に刻まれる。
そう、まさに爪だ。槍の男は己の得物を腕の延長のように使って見せていた。戦士の極意とも言われるそれを、彼は歴戦の中で身につけていた。
槍使いの男は瞬間に、二回の攻撃を入れた。一撃は肩を突いたが、それは囮だ。
二撃目。狙いを首に定めていた。
獰猛な狼の爪がノォトの首を引き裂こうとしていた。
だが、ノォトは気にも留めない。
力強く一歩を踏み込んだ。
剣が消えた。それは魔術によるものかとさえ思われた。
それは否だ。ただの速さによって消えたのだった。目にも止まらないとはまさにこのこと。羽ばたく蜂鳥の翼がごとき動きだ。
男は斬られた。槍は二つになり、男は胴を引き裂かれた。
剣と槍には絶対的な差がある。それは攻撃距離の差。戦場では絶対の差だ。槍の方が上手であることは言うまでもないだろう。
ノォトはそれを、恐れることなき、そして恐れるべき一歩で埋めてしまったのだ。
かくして、男は倒れた。ゆっくりと、敗北したのにもかかわらず満足そうに。
それをきっかけにして、相手の兵は逃走した。大勢が決したのか、この決闘によって相手の勇士が倒れたからか、わからないが。ともかく、戦いの終わりが近いことを感じさせた。
倒れている男をノォトは見た。
間違いなく優れた戦士だった。この戦場で武具を交わした中で、随一だった。
それでも、己の前に倒れ伏す。そこに戦う前にあった悦びはなかった。
悲しさが、虚しさが胸にあった。
ノォトの握っていた剣が音を軋んだ音をたてる。限界を迎えていた。
度重なる戦いによって、ではない。ノォトの力に耐え切れなかったのだ。戦う前に、それはわかっていた。
過ぎた力にノォトは剣をいくつも駄目にしてきた。そして今も。
崩れていく刃を見て、ため息。すっかり軽くなってしまった柄を投げ捨てる。
戦場に一人残される。気づけば、周りには誰もいなかった。敵も、味方も。
雨が降ってきた。戦場の血を流す雨だった。
すべてを洗い流す、雨だった。
帰ろう。帰って、また剣を……。
そのときである。空に光があった。暗雲の中から雫のように漏れてきた。太陽でも星でもない。
「あれは、なんだ」
ノォトは思わず呟いた。目をじっと凝らす。
まばゆい光は、翼だった。翼を持った者だった。
輝くような髪を風に揺らして、じっと戦場を見下ろしている。
知っている。あれなる者を、知っている。
戦場において、その孤独を癒すもの。
名も知られぬ者の勇姿を見届け、気高き魂を選定し、大神オーディンの元へと連れていく者。
美しき死神。戦場をたった一人で左右せしめる、女神のうち一柱。
「ヴァルキュリア!」
ノォトは思わず叫んだ。初めて見る、その美しい姿に目を奪われた。
この日もまた、彼女は戦士たちを見ていたのだろう。神の戦士エインヘリヤルに相応しいものたちを見定めるために。
そして、ノォトは選ばれなかった。いまこうして生きていることがその証拠だ。
「なぜだ」
乙女を睨む。彼女は自分を見ていないだろうが。
「なぜ、俺を選ばなかった」
呟く。呟かざるを得なかった。
自分は優れた戦士ではないというのか。
負けなかった。
死ななかった。
なのに、戦士ではないとお前は言うのか。
何が足りない。何が余分だ。わからない。わからないから、戦うしかないというのか。
光が遠ざかっていく。ノォトはそれを眺める。
戦士の魂を引き連れたヴァルキュリアが天へと消える。
こうして、ノォトは孤独だった。誰も彼を見返ることはなかった。
雨は一層、激しくなった。ノォトの心臓の音を掻き消そうとするように。