王女のフェーヴ(1)
「外に出たいか?」
部屋の窓に身を寄せて、ぼんやりと遠くを眺めていた時だった。
振り返ると、先程まで大人しくとぐろを巻いていた黒い大蛇が、背の高い男の姿に変わっていた。相変わらずの無表情で、冷ややかな緑色の目は静かな凄みを帯びている。オールバックにした黒髪が威圧的に見えるが、気を遣っているつもりなのか、フェリスと二人きりの時は己の気配を押し殺そうとしているようだ。
「いいえ、別に。眺めているだけでいいわ」
フェリスは柔らかく微笑み、男に手を差し出した。男は何も言わずに、フェリスのほっそりとした手を握った。
「貴方さえいてくれれば、一生この部屋に閉じ籠ったままでも構いません」
「お前は……」
男の手がするりと抜けて、フェリスの長い髪に触れた。絹のように繊細な、美しい金色の髪の王女。是非花嫁にと、今までに多くの求婚者が言い寄ってきたが、フェリスは誰にも目を向けず、笑いかけもしなかった。この蛇がーー男がいれば、他に何もいらないから。
男の唇が動く。男は少し眉をひそめて、こう言った。
お前は、哀れだ。
嫌な夢を見た。
フェリスは低くうめきながら、体を起こした。急な眠気に襲われて、机に座ったまままどろんでいたのが、いつの間にか顔を伏せて眠っていた。そんな体勢で寝ていたから、あんな夢を見たのだろう。
目覚めは最悪だった。あの男を悪魔と知らずに、盲目的に愛していた頃を思い出して、背筋に寒気が走る。呪いでそんな状態にさせられていたとはいえ、自分の甘ったるい台詞に吐き気がする。それをあの悪魔に哀れだと言われたのも、腹立たしい。
今なら、首に剣の切っ先を突きつけるくらいはやるだろう。だが、あの頃は無邪気に首を傾げるだけだった。大層、頭の悪い女に見えたはずだ。
悪魔しか愛せない呪い。それが、叔母にかけられた呪いだった。
うたた寝から目覚めたフェリスに、大蛇がすり寄ってきた。大きな蛇には違いないが、あの男が見せた姿よりはずいぶん小さい。
悪魔がフェリスを残してどこかに去った後、旅に出たフェリスのところに、この蛇がやってきたのだ。
答えにたどり着く前にーーあの悪魔が仕掛けた〈ゲーム〉の決着がつく前に、フェリスが死んでは面白くないから。そんな理由で、眷属を寄越したのだろうとフェリスは考えている。
呪いが解けてからは、蛇に愛着を感じることはなくなった。おっとりと微笑むだけの大人しい性格も、旅を続けるうちに、本来の自分を取り戻すかのように変わっていった。
「離れてくれませんか」
鬱陶しいとばかりに、蛇の首をつかんで引き離す。そこへ、タイミング悪く、お使いに行かせていたアルバが戻ってきた。
ただいま、と言いかけた少女の顔がさっと青ざめて、甲高い悲鳴があがった。
「その蛇はどこから入ってきたの?」
店の壁に飾っていた装飾用の長剣を構えて、アルバは泣きそうな声で言った。フェリスだって好きではないが、斬られるのは困る。エクソシストとして働くには、この蛇が必要なのだ。
「大丈夫ですよ。落ち着いて、剣を元に戻して」
「フェリスのペットなの? 噛まない?」
「私が指示しない限り、噛みませんよ。普通の蛇とは違いますから」
アルバは半信半疑といった様子だったが、大人しく剣を壁にかけ直した。
さて、どこから説明しようか。