死者の手紙(3)
汚いけど、としきりに前置きをするアルバに、フェリスはくすくすと笑う。そこに先程の陰はない。
ずいぶん古いアパートで、壁の所々が剥げかかっている。埃っぽい階段を上がって、三階で止まった。立て付けの悪い玄関の扉を開ける。灯りをつけても暗い印象を拭えないが、ここまで来たら羞恥心なんて持っていても仕方がない。
「お姉さまは?」
「今日は仕事が休みだから、部屋にいるよ。最低限の食事をして、少しだけ僕と話して、その後はずっと部屋に引きこもってる」
奥の閉じられた部屋から姉の声が聞こえる。それに応える、男の声も。
フェリスも同じく聞き取ったようで、アルバに向かって頷いた。
「開けても気づかないだろうから、入っても大丈夫だよ。貴女に直接見て欲しい。声はするのに、誰もいないんだ」
「わかりました」
フェリスが平然と部屋に向かうのを、アルバは感嘆の眼差しで見送った。
フェリスは扉をノックしてから、隙間からそっと顔を覗かせた。一応、アルバもフェリスの背後から中の様子を伺った。やはり、家を出る前と変わらず、床の上に座りこんで、胸に絵葉書を抱きしめていた。クスクスと幸せそうに笑いながら、宙を見つめている。
「ね、おかしいでしょ」
「私には男性の姿も見えますよ」
ぎょっとして素早く辺りを見回すが、やはりアルバには見えない。
「お見せしましょうか。私の目に見えているものを」
「どうやって……?」
「手を」
言われるままフェリスの手を握ると、さっきまでいなかった男の姿がぼんやりと見えた。姉の前に膝をついて、愛しげに頬を両手で包んでいる。
「姉さんから離れーー」
掴みかかろうとしたアルバの手を、フェリスが遮った。
「無駄ですよ。あれは幽霊ではありませんから。意志も持たない、残留思念です。眠っていたそれを呼び覚ましたのは、貴女のお姉さまの想いです。ーー顔を見て、思い出しました。先月の雨の日に来られたお客様ですね」
フェリスは部屋の中を見渡して、壁にかかった鏡に近寄った。
「まずは、お姉さまがこの絵はがきを買った時のことをお見せしたほうがいいかもしれませんね」
フェリスの白く細長い指が鏡に触れた途端、波紋が広がるように、鏡に映る部屋が歪んだ。その異常な光景に見入っていると、情景が変わった。そこに映し出されたのは、あのアンティークショップだった。フェリスに手を引かれて店に入ってきたのは、紛れもなく姉だった。
「貴女は、魔女なの……? 一体、どうやってこんな……」
驚愕するアルバの問いには答えず、フェリスはただ人差し指を唇に押し当てた。黙って見ろということだ。
姉は傘を持っていなかったようで、衣服に染み込むほど、全身がずぶ濡れだった。フェリスから着替えを借りて、スープを飲む。やがて姉は、店内に飾られた商品を観察し始めた。
「よくして下さってありがとう。素敵なお店ね。私にはこんな贅沢をする余裕なんてないけれど、美しい物を見ると心が洗われるわね」
「高価な物だけがアンティークではありませんよ。コイン一枚で買える物もあります」
フェリスはおもむろに木製の箱を取り出して、中を見せた。
「ここは敷居の高い店にしたくないんです。多くの人が、多くの物に出会えるようにと思って」
「これは、手紙?」
「ええ。家族の手紙、大切な友人との書簡、恋人への絵葉書。色々ありますよ。古くて百年前のものもあります」
「ずいぶんあるのね。こういうものはどこで手に入れるの?」
「全て、私が実際に出会った人たちの手紙です。自分たちが死んだ後、誰かがこの手紙を読んで、こんな想いがあったのだと知ってくれればーーその想いは、他者の記憶の中で生き続けることができる。偉大な人物の言葉ばかりが遺されるのでは、つまらないでしょう」
「それってーーとっても、素敵だわ。ゆっくり見せてもらっても構わない?」
「もちろん。こんな雨の日ですから、ゆっくりしていってください。気に入ったのがあれば、お譲りしますよ」
「私、そんなつもりではーー」
「一応店という形を取っているので、それで値段をつけているだけなんですよ。手紙は売り買いするよりも、お譲りするほうが、こちらとしても気持ちがいいものです」
「そう。それなら、気に入ったものがあれば頂くことにするわ」
姉がそう言って選んだのは、恋文だった。男から女への、熱烈な手紙。
姉が失恋したばかりだったのを思い出して、胸が締め付けられた。失恋の要因の一つには、アルバの存在もあったはずなのだ。貧乏で、こぶつき。相手の男も裕福ではなかったようだったから、舞い込んできた縁談を選んだのも当然のことだった。
「こんなふうに愛し合える人たちがいるのね」
姉は羨ましそうな顔で、悲しげに笑った。