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聖地に眠る真実


聖地アバルオンとは、ソードランド王国のある大陸の北の果てにあって、天下の険として名高いエンスライン山を越えた先に広がる常冬の平原一帯を指す。

 極寒の気候とほぼ一年中降り止むことのない雪、そしてなによりもアバルオンとその他の地域を完全に隔てる山々ために、その土地に住む人間は巡礼者をのぞいてはほとんどいない。

 カイルとレイスは王都を出発し、街道を馬で急いだ。彼らはふたつの山とひとつの大河、いくつもの丘と盆地を越えて、とうとうエンスライン山の麓の街へとたどり着いたのだった。

 王都を出てから半月後のことだった。



「あとはこの大きな壁、エンスライン山を越えれば、目的地の聖地アバルオンです。エンスライン山は険しく、遭難者は珍しくありませんから、気を引き締めていかねばなりませんね」

 雪のちらつく麓の村の酒場で、レイスは背もたれのある椅子に身を沈めていた。

 重厚な丸テーブルの向かい側では、カイルが卓に突っ伏していて、ゴブレットを片手に不満げな唸り声をあげている。

 レイスは呆れた声で言った。

「自分が下戸なことくらい知っているでしょうに」

「うるせぇえなーあぁー」

 カイルが顎をテーブルに乗せた。彼のまぶたは半開きで、顔全体はほんのり赤い。カイルは子供が駄々をこねるように、ゴブレットの尻で卓をゴツゴツ叩いた。

「こんなクソさみぃとこでホットワインなんか売ってるほうがワリぃんだよー。そんなの飲むにきまってんじゃねーかよチクショー。おかげでこちとら天地がふわふわしっぱなしだよバカヤロー」

「温かいものなら、ほかに白湯もお茶もあるじゃないですか。頼みましょうか?」

「飲まなきゃやってランねーよコノヤロー」

「はいはい……」レイスは苦笑しつつ窓の外に視線をやった。

 北からエンスライン山脈を越えてくる雪雲が、粒の細かい雪を降らせている。昼間だというのに辺りは常に薄暗く、聖地という輝かしい言葉の響きからは想像できない陰鬱さが山の向こうから漏れ出していた。

(こんな天気のなか足止めなんて、たしかに『飲まなきゃやってランねー』かもしれませんね)

 レイスは酒場の中を見渡した。

 この村の人々は晴れ間が覗いたときだけ野良仕事をし、それ以外は巡礼者向けの宿や土産屋、食事処、旅用品店をして暮らしているようで、酒場内は昼間であるのにそこそこ賑わっていた。

 レイスたちはこの村についてからの四日間、酒場全体が見渡せる位置にあるこの席に毎日陣取って、人を待っていた。出発前にエドワードから聞いた話によると、その人物はエンスライン山を乗り越えるのに大きな力になってくれる人だということだったが、もしかしたら普通に登山したほうが早いのではないかと、レイスとカイルはともに思いはじめていた。

「なにかあったのかなぁー……」

 カイルが卓に突っ伏したままポツリと言った。レイスもうなずいた。

「たしかに。四日も遅れるだなんて、もしかしたら途中で事故にでもあったのかもしれません」

「いちど街道戻ってみる?」

「いいアイデアですが、入れ違いになったら目も当てられません」

「レイスだけ戻って様子見てくりゃいいだろーがよー、俺はここで飲んだくれてるからよー」

「別にそうしてもいいですけれど、財布は私が握っているということはお忘れなく」

 そんな不毛な会話をしていると、酒場の入り口のベルが鳴ったので、ふたりは反射的にそっちに視線をとばした。

 薄暗い戸口にひとりの人間が立っていた。彼は毛皮の防寒着についているフードを目深にかぶっていて、顔はわからない。体格はかなり大柄で、おそらく男だろう。酒場の他の客は彼のいでたちからときおりやってくる巡礼者かと思ったらしく一瞥しただけだったが、カイルとレイスだけは彼が背負っている、布に包まれたなにか大きなものに見覚えがある気がして注目した。

 彼は戸口で体についた雪を軽く手で払い、のそりと入ってきた。それから店内をぐるりと見渡して、カイルたちを見つけると、軽く手を挙げた。

「やっときたか」

 カイルがだるそうに起き上がり、だらしなく椅子の背もたれに体を預けた。レイスは立ち上がり、聖職者の挨拶で彼を迎えた。

「久しぶりだな」

 彼は近づいてきてフードを外した。その下の顔を見て、カイルはパァと顔を輝かせて身を乗り出した。

「ゴードンさんじゃないですか!」

「すまない。途中で山賊に襲われてな、始末をつけていたせいで遅れてしまった」

 彼は肩をすくめて苦笑した。顔の大きな傷あとが歪んで、彼を老人のようにみせる。

「お久しぶりです」レイスはていねいに頭を下げた。

「久しぶりだ、ふたりとも、一年ぶりだが、元気だったか」

「まさかゴードンさんだなんて」

「教えてもらっていなかったのか? エドワードめ、気づかなかったらどうするつもりだったんだ」

 三人は笑った。

 それからしばらくのあいだ、三人は温かい食事を頼み、おなか一杯になるまでそれらを楽しんだ。ゴードンはこの一年のあいだ、ソードランド王国中を駆け回っていたらしく、各地で見たいろんな素晴らしいもの、美しいもの、残酷なもの、醜いものの話をした。カイルとレイスは興味しんしんでそれらを聞いていた。

「マックスウェルの死体が見つかった!?」

 そんな中、ゴードンが発したひと言にふたりは驚愕した。彼は神妙な顔でうなずいた。

「やはりまだ聞いていなかったか」

「いつ、どこで!?」カイルが身を乗り出す。

「つい五日前、南のボンドエラに近い山の中でだ」

「ボンドエラ?」

「『死せる大地』……」レイスがつぶやく。ゴードンが「ああ」とうなずき、酒をあおった。

「あいつだけはなんとしても捕まえてやりたかったが……死んでしまってはしかたない」

「ちっくしょう! 叩き切ってやりたかったのに」カイルが天を仰ぎながら大きく体をのけぞらせる。

レイスは思案顔をしつつ口を開いた。

「一緒にあった荷物のほうは?」

「さすがにするどいな」ゴードンは眉をひそめつつも口端を吊り上げた。

「マックスウェルが教会から盗み出した『邪剣のかけら』たち……こっちはしかしいまだに見つかっていない。おそらく邪剣王が持ち去ったのだ。マックスウェルは邪剣王の従者としてこの一年、一緒に行動していたのだろう。奴の死体には邪険にとりつかれた痕跡があった」

「まずいですね」レイスが深刻な表情をする。

「ああ、非常にまずい」ゴードンがうなずく。

「マックスウェルが生かされていたのは単なる邪剣のかけらという、かさばる荷物の運び手に過ぎなかったというわけですね。そしてそれが不要になったということは、つまり邪剣王は邪剣のかけらとの合体を終えてしまったということになる。実際、マックスウェルを倒した聖剣師は名乗り出ていないのでしょう? ということは、奴を殺したのは邪剣王以外にない……」

「その通りだ、おそらく邪剣のかけらによって得られるパワーに惹かれたのだろうが……馬鹿なやつめ」

「邪剣のかけらをとりこみ、完全体になった邪剣王に攻め込まれたら……今度こそ、私たちは……」

 ゴードンとレイスは互いにうつむき、黙りこんだ。暗い雰囲気がテーブルを支配しようとしていた。そんな中、カイルががばりと姿勢を戻し、言い放つ。

「なに弱気になってんだ、みっともねぇな」

 ふたりはカイルを見た。カイルは不敵に笑った。

「大陸中にばらけてた敵が一か所に集まってくれるんだろ? ありがたいことじゃねぇか」

 シンプルでざっくりとした物言いに、ゴードンとレイスのふたりは一瞬あっけにとられた顔をしたが、すぐに噴き出した。そしてゴードンは大口を開けて豪快に笑い、レイスはくつくつと肩を震わせる。

「なんだよ、へんなこと言ったか?」カイルは不満げに口をとがらせる。

「ハハハ! いいや、カイルの言う通りだ!」ゴードンは笑いながらカイルの背中をバンバンと叩く。

「いって!」

「要は勝てばいい、そういうことですね」レイスが肩をすくめる。

「ああそうさ、そのために俺たちはここまで来たんだ」カイルが言った。

「なんだ、知っているのか?」その言葉を聞いたゴードンが意外そうな表情をする。

「なにを?」

「いい機会だ、話しておこう」

 するとゴードンはテーブルに身を乗り出し、声を潜めた。その様子からカイルとレイスも周囲に視線を飛ばしてから、互いに肩を突き合わせる。

「聖地になにがあるのか?」

「聖地アバルオンには、『大岩』があります」

 レイスが即答した。『アバルオンの大岩』は聖剣王がはじめて光臨した場所と言い伝えられており、聖剣教のもっとも重要な聖地のひとつだ。しかし極寒の平原の真ん中にポツリとあるので、巡礼者といえど近づくことは教会によって禁じられており、許されているのは、大司教以上の僧侶と聖剣師のうちごく限られた人間だけとされている。

「そうだ。しかしもうひとつ、世間に隠されているものがある」

「なんですって?」

「俺は大岩に近づくことが許されている聖剣師のひとりだ。そして、そこで出会った」

「出会ったって……誰に?」

「いいか、よく聞け」

 ゴードンのまなざしに、ふたりは唾を飲み込む。

「聖剣教の教えは単なる夢物語じゃない……聖剣王は実在の人物で、そして今でもそこにいるんだ」



 ゴードンの聖剣『グラビトンプレート』の機能でエンスライン山を飛び越え、たどり着いたアバルオンの大岩の周囲は、どういうわけか雪が積もっておらず、土の地面がむき出しになっていた。

 その場所にたどり着いた瞬間、カイルは風と空気ですっかり冷えきった体を温めるために、トワイライトブレイドで火をおこしにかかったが、レイスは大岩の周りのこの不思議な現象に強く興味をひかれたらしく、防寒着のフードを脱いで周囲を歩き回った。ゴードンは剣を納めると、疲れを癒すために水筒から水を飲んだ。

「なんですか、これは……地面が温かい?」

 レイスはかがみこみ、乾いた土の地面に手をついて言った。その言葉を聞いたカイルも地面に直接手を触れた。するとたしかにレイスの言うとおり、ぽかぽかとした熱が地面の下から伝わってきている。絶え間なく降り注ぐ雪も、この地面に触れた瞬間溶けてなくなってしまうようだったが、どういうわけか地面はぬかるんでいなかった。

「すぐ近くに火山でもあるのですか? いや、それにしても……」

 レイスはゴードンにそう訊きながらあたりを見渡したが、仮にそうだとしてもこの雪の積もらなさは不自然だった。レイスははっとする。

「まさか、聖剣王さまの奇跡の名残り?」

「いいや、そうじゃない」ゴードンは静かに言った。

「この世に奇跡も魔法もあるものか」

 彼の言ったその言葉にかすかな絶望の影を見た気がして、レイスの身はすくんだ。もしかしたら自分は今なにか恐ろしい深淵に突き落とされてしまう寸前なのではないかという直感に、彼は大岩を見上げた。

 アバルオンの大岩は、高さで言えばレイスの身長の三倍、横幅で言えば周りを一周するのに数分はかかりそうな大きさだった。岩自体は砂岩によく似た表面をした、くすんだ灰色の脆そうなものだったが、風化の形跡がないのを見るとどうやら違うらしい。観察すればするほど、そこにあることに違和感を覚える物体だった。

「んで、ここからどうすんだ?」

 枯れ木でたき火を起こしたカイルが立ち上がり、剣を納めてそう訊いた。

 ゴードンは「こっちだ」と言って大岩に近づく。彼は岩の表面に触れた。すると信じがたいことが起こった。

 ゴードンが触れた岩の表面がまるで液体のように彼の手を飲み込んでいた。カイルとレイスはびっくりして駆け寄った。

「ど、どうなってるんだこれ?」

 カイルはおずおずと、ゴードンの腕を半ばまで飲みこんでいる岩の表面に触れた。しかしカイルの触れた部分はなにも変わらず、岩のままだった。ふたりはわけがわからなかった。

「ゆぅざぁ登録が済んでいないと、この岩は岩のままなのだ。岩に偽装したなのましん・ふぃるむが侵入者を拒む……俺は以前聖剣王さまに謁見したときに済ませた」

 説明をうけてもふたりにはチンプンカンプンだった。『ゆぅざぁ登録』や『なのましん・ふぃるむ』だとかいうはじめて聞く言葉もわからなかったし、それによってされる説明もわけがわからなかった。

 ゴードンは平然と歩を進め、岩の中へと消えた。とりのこされたカイルとレイスはしばし呆然としていたが、しばらくして我にかえると、彼が消えたところを両手でばんばんと叩いた。やはり岩だった。

「なんだこれ! なんなんだこれ!?」

「これはなんだ? まるで魔法だ! これも聖剣王のご加護によるものなのか……?」

 完全に理解の範疇を越えたできごとに、ふたりは頭がどうにかなりそうだった。

「ゴードンさん、返事をしてくださ――」

 レイスが言いかけて言葉を失った。グレッグが消えた岩壁に、唐突に大きな穴が開いたからだった。

「さぁ、入れ。中は温かいぞ」

 その奥からゴードンがひょっこりと顔を出した。カイルたちはおっかなびっくり、慎重に奥に踏み込んだ。

 大岩の廊下は古代遺跡によく似た金属製の建材で作られていた。天井には熱さを感じず、ゆらぎもしない光を放つ不思議な板が等間隔に並べられ、廊下を照らしている。空気はゴードンの言った通りあたたかく、カイルたちは防寒着を脱いでわきに抱えた。

「岩の中が古代遺跡、しかもまだ生きているものになっているなんて……」嘆息しながらレイスが言った。

 カイルは壁に手をついて、一歩一歩警戒しつつ進んでいる。彼は壁に大きな古代文字の単語が描かれているのを見つけると、立ち止まって発音しようとした。

「あ、あばる――あばるおん、アバルオンか」 

 そこには『AVALON』と書かれていた。ゴードンも立ち止まり、いたずらっぽい顔でふたりに話しかけた。

「ふたりは不思議に思ったことはないか」

 カイルとレイスはきょとんとする。彼は言った。

「なぜ、とっくの昔に用いられなくなった言語の発音がわかるのか」

 アッ、とふたりは同時に声をあげた。彼は笑いながらうなずき、また歩きだした。カイルたちは慌ててついていく。

「このえれべぇ――小部屋へ入るんだ」

 ふたりはもう扉がひとりでに開くくらいでは驚かなくなっていた。三人は窓も何もない、狭く四角い小部屋に入った。ゴードンが壁の突起を押しこむと、扉が閉まって小部屋が軽く揺れた。

(部屋全体が動いているのか……?)

 未知の恐怖にカイルはつい息をひそめた。レイスも口元を結んで何も言わなかった。小部屋はそれからしばらく振動しつづけ、ふたたび開いた扉の先が、さっきまでとは違う風景なのを見て、カイルは自分の予想が正しかったことを知った。

 おそらく地下であろうにもかかわらず昼間のように明るい廊下の先に、大きな両開きの扉が見えた。

「あそこだ」ゴードンが指をさし、ふたりを案内した。

「この向こうに聖剣王さまがいらっしゃる」

 カイルたちは今までにない緊張に唾を呑み込んだ。幼い頃から聞かされていた神話の主人公が実際にすぐ先にいるのだと思うと、馬鹿馬鹿しいような、感極まるような、不思議な思いがした。ふたりは呼吸を整え、姿勢を正した。

 ゴードンは咳払いをし、ノックをした。

「聖剣王、ゴードンでございます。謁見を希望する者たちをふたり、案内いたしました」

 すると扉が拍子抜けするほど軽く開いて、若い女性が顔を出した。彼女はカイルたちを見ると、にっこり笑って扉を開けはなった。

「いらっしゃい、お客様なんて久しぶりね」

 女性はカイルたちを扉の向こうの部屋の中心にある、大きな丸テーブルに案内した。硬い素材で作られた清潔感のある白いテーブルとセットになった椅子は驚くほど軽かった。テーブルには四角い黄色のクロスがかかっていて、花がらの刺繍が印象的な、可愛らしいものだった。

 カイルたちは席につき、背すじを伸ばして聖剣王が出てくるのを待った。女性は彼らの前に、温かい紅茶の注がれたティーカップを差し出した。

 彼女は楽しげな様子で語った。

「その紅茶はね、わざわざ東の外国から取り寄せてもらったの。セイロンに近い香りの――といってもわからないわよね。でも、いい香りでしょう?」

 女性はカイルたちに親しげな調子で話しかけてくる。カイルは紅茶のことなんてぜんぜんわからなかったし、これから聖剣王に謁見するというのに緊張感のまるでない柔らかい声で話しかけてくる女性にすこし苛ついてもいた。レイスも表情やしぐさにこそ出さなかったが、似たような感情を女性に抱いていた。

 女性はテーブルをぐるりとまわりこみ、カイルたちの反対側に座った。それから数秒のあいだ、彼女がにこにこしながらこちらを見てくるだけなので、カイルはとうとう我慢できずに言った。

「あの、聖剣王さまにお目通り願いたいのですが」

「知ってるわ」

「ではお取り次ぎ願います」

「その必要はないわ」女性は微笑んでそう言った。カイルは眉をひそめた。

「それはどうしてですか」

耐えかねてレイスも言った。女性は柔和な笑みを崩さず、椅子の背もたれに体を預ける。

「だって、もう会っているじゃない」

 意外な言葉にふたりはあっけにとられた。女性はカイルの横に座るゴードンに目配せした。彼は軽く咳払いし、横のふたりに向かって言う。

「カイル、レイス、黙っていてすまなかったが、実はこの女性が聖剣王さまだ」

 彼は平然とそう言った。ふたりは絶句し、目を見開いて女性を見つめた。

 女性はにっこり、満面の笑みで会釈した。

「はじめまして、聖剣王です」



 三人の前にテーブルを挟んでゆったりと椅子に腰かける女性は若く美しかったが、同時に、見るものにやすらぎを与える祖母のような雰囲気もあった。

 金のなめらかな長髪を首の後ろで縛り、邪魔にならないようにしている。なめらかで健康そうな肌にはシミやシワ一つなく、弾力に富んでいるのが傍目にもわかった。優しげな笑みを常にたたえた口もとと、潤んだ瞳は魅力的で、青い目はじっと見ていると吸い込まれそうなほどの底しれなさと、優れた知性の輝きを備えていた。

 首や手足はすらりと長く、しかし痩せすぎというわけでもない。シンプルな長いスカートと、シャツの上に細やかなレースを肩に羽織っていた。

「信じられないのも無理はないでしょうね」

 彼女の声は転がる鈴の音のようで、よく通り、心に染み込んでくる。

「聖剣教のおしえにある聖剣王は、いかにも男性的なシンボルだったでしょう。そのほうが支配階級たちには都合がいいのね」

 聖剣王は片手のひらを頬にやり、物憂げに息を吐いた。その仕草は艶やかで、カイルの心はかき乱されるように感じた。

「でも、あまりにも……」

 カイルは無意識につぶやいた。聖剣王はそれを聞きつけて、小さくうなずく。

「『違いすぎる』」

 カイルは声に出ていたことにハッとしたが、ゆっくりとうなずいた。

 聖剣王はくすくす笑う。

「私をはじめて見た人はみんなそう言うわ。あなた達の信じる神である聖剣王が、こんなどこにでもいそうなおばさんのわけがないってね」

「まさかそんなこと!」

「いいのいいの、当然よ。それよりクッキーはいかが? 今朝のは上手く焼けたのよ」

 聖剣王は椅子から立ち上がり、部屋の壁ぎわにある小さな金属製の箱へと歩いていった。

 カイルはこのときはじめて部屋を見渡す余裕を持つことができた。

 緊張のために気がつかなかったのだが、この部屋の広さは大したことがなく、せいぜいがカイルの家の居間よりやや広い程度でしかなかった。内装は金属製の家具と、用途の分からない不思議な箱がそこかしこに見える以外はとくにおかしなところもなく、その金属製の家具の無機質な表面にも、彼女の手作りだろうか、柔らかな色のクロスやカバーがかけられて、その上に花の活けられた瓶などが置かれていた。

 壁にはドライフラワーや絵画、刺繍などが飾られていて、彼女の趣味のよさを伺わせた。絵画の前の安楽椅子には作りかけの編み物と毛糸玉もあった。

 聖剣王は金属製の箱から大皿に乗ったクッキーをひっぱり出し、テーブルの中心に置いた。カイルはなんだか申し訳ない気持ちになってきてしまっていた。

「あら、取皿がないわね」

 聖剣王の言葉に、おもむろにレイスが立ち上がった。

「手伝います」

 聖剣王は微笑んだ。

「悪いわね、お客様に手伝わせるなんて」

「いえ」

 レイスは聖剣王の示した戸棚から小皿を四組とりだし、カイルたちの前に並べた。ふたりは席に戻った。

「召し上がれ」

 聖剣王はそう言ってまた微笑んだ。カイルたちはクッキーを数枚、自分の皿にとりわけた。

 カイルはクッキーを一枚手に取り、顔の前でまじまじと見つめる。カイルは今までに何度か王宮のパーティーなどでこの菓子をごちそうになったことはあったが、このクッキーにはクリームが添えられておらず、代わりに表面が焼けたような黒いつぶつぶが混ぜられているのだ。カイルはこのタイプのクッキーを見るのははじめてだった。

 口に運ぶと、脳天まで突き抜ける衝撃がカイルを襲った。

「甘い! スゲー甘い!」

 カイルは舌が痺れそうなほどの甘さに、嚥下してからそう叫んだ。レイスも叫びこそしなかったものの、同じような感想らしく、目をまん丸くしていた。ふたりはアバルオンに来てから驚きっぱなしだった。

「それは『チョコレート』というの。美味しいでしょう?」

 こくこくとカイルはうなずいた。聖剣王はまた微笑した。

「喜んでくれてうれしいわ」

「聖剣王さま、あなたは――」

「イヴ」

「え?」

「イヴ――私の名前よ。聖剣王なんていかめしい呼び名より、そっちで呼んでくれるとうれしいわ」 

「じゃあ……イヴ、さん」

「なにかしら?」

「こんなことをお訊きするのも失礼かもしれませんが――」

 カイルはクッキーを置き、まっすぐに彼女を見つめた。

「――あなたは、いったい何者なんですか?」

「難しい質問ね」イヴは寂しげな表情をする。

「自分がなにものか、なんて、ほんとうにわかっている人はどれだけいるのかしら……」

 それから彼女は反応に困っているカイルとレイスをちらりと見て笑った。

「冗談よ。そんな哲学的な問いをしにきたんじゃないことは聞いているわ。でもその質問に答える前に、教えてくれないかしら」

「……なにを、ですか」

「自己紹介。だって、私はまだあなたたちの名前も直接聞いていないのよ」




 カイルたちが恥ずかしさに赤面しながら自己紹介を終えると、イヴは難しい顔でカイルを見た。彼女は眉間に皺をよせ、手で口もとを隠し、なにか思案しているようだった。

「そう……カイルさんは邪剣王を……」

 彼女がつぶやいたので、カイルはゆっくりうなずいた。イヴは悲しげに目を細めた。

「……じゃあもしかしたら、私の話は、あなたにとって辛いものになるかもしれないわね」

 イヴはそう言うと軽く息を吐いた。それからテーブルの上で指を組み、どこか遠くを見るような目をした。

彼女は語りだした。



「まず、私が生まれたのはずっと昔。あなたたちのおばあさんの、おばあさんの、おばあさんの、おばあさんの、おばあさんの、おばあさんの、おばあさんの、おばあさん……くらいの頃かしらね。

 信じられないのも無理はないわ。私自身、まだどこか夢を見ているようだもの。

 そのころ、この世界は今とはぜんぜん違っていた。緑はなく、山は拓かれ、金属とガラスでできた背の高い建物群がどこまでも広がって、そこに住む人々は何不自由なくくらしていたけれども、みなどこか心を病んでいた。

 私はとある科学者――今ふうに言えば錬金術士かしら――の家庭に産まれ、幼いころから科学に没頭したわ。ひとつ未知を知るたびに快感に身を震わせて、仮説を実証するためにはどのような困難も苦ではなかった……そのあたりの話は関係ないわね。

 そう、私は科学者だった。大学を卒業してからは国の研究機関に入ったわ。

 そしてちょうどそのころだった……『最終戦争』が起きたのは。

 原因はもう思い出せないけれども、それは間違いなく、人類史上最悪の戦争だった。世界はふたつの勢力に分断され、あらゆる大陸、あらゆる国家、あらゆる人々の上に鉄と火の雨が降り注ぎ、地上のいっさいを瓦礫と灰の砂漠に変えた。土も水も空気も汚染され、この星はいちど死んだのよ。

 生き残った人々は地下に逃れたけれども、戦争は終わることがなかった。

 人々は戦争をしながら、地上に戻ることを夢見て、そのための努力をしたわ。そしてそれこそが、決定的な決別だった。

 ふたつの国はそれぞれ別の道を歩んだ。

 片方の国は地上の毒の中でも活動できる防護服と、敵国の人間を殺すための武器を開発した。

 もう片方の国は地上の毒の中でも耐えられるように人体を改造する術と、副産物として、不老不死を実現したの」

 そこでイヴは言葉をくぎり、ふたりの顔を見渡し、うなずいた。

「そう。私は不老不死なの」

「そんなことはありえません」

 素早くレイスが言った。カイルが彼を見ると、レイスは真剣な表情で彼女を見つめていた。

「あなたは、ご自身が聖剣王だという前提でお話をされていますが、私にはとても信じられません。今まで私があなたのお話を聞いていたのは、あなたがそのことに関して納得のいく説明をしてくださると思ったからです。

 しかし失礼ですが、あなたのお話は現実離れした、とても信じられないものばかり……そろそろ物的証拠をお出し願いたい」

 するとイヴは面白そうに目を細め、無言で片手を差し出した。レイスはローブの下から、腰に提げた『ガン』を抜いて、持ち手を彼女に向けて差し出した。

 カイルは嫌な予感がした。

 イヴはガンを受け取ると、弾倉を引き出して中身を確認してから上部をスライドさせ、まるで髪でもかきあげるように平然と、銃口をこめかみに当てたのだった。

 カイルが止める間もなく、ぱん、と大きな音がし、椅子が倒れる音と、柔らかく重い物が床に落ちる音がした。

 カイルは弾かれたように椅子から立ちあがり、テーブルを回り込んでイヴのそばに駆け寄った。

「そんな、なんで!」

 女性の死体が床に転がっていた。

 イヴは体を横に向けて倒れており、頭に空いた穴から赤黒い血をどくどくと溢れ出させて、ビクビクと体を痙攣させていた。濃い血溜まりは想像以上の早さで白い床に広がっていき、その様子がかつての母の死体を連想させて、カイルは吐き気をもよおし、口を押さえてテーブルにもたれかかった。しかし鉄錆の臭いはそれでもカイルの鼻から侵入してきた。

「死にましたね」

 レイスが、ゆったりとした歩調でテーブルの反対側から回り込んできて、死体を挟んでカイルと向きあった。

「レイスお前っ……なんてことを!」

「私は何もしてません」

「聖剣王を殺した!」

「彼女は自殺です。ゴードンさんもご覧になったでしょう」

 そうしてレイスは席についたままのゴードンに視線を飛ばした。彼は紅茶をすすって、ゆっくりとうなずいた。

「ああ、レイス。おまえは何もしていない。俺が保証する」

「ゴードンさんまで!」

 カイルは裏切られたような気持ちになった。

 レイスはイヴの死体を見下ろした。

「不老不死なんてありえません、彼女は単なる誇大妄想狂だったということです。おまけに聖剣王の名を騙るだなんて……」

「レイス、それは違う」

 穏やかに、しかし刺すようにゴードンは言った。レイスは眉をひそめた。

「聖剣王さまは、いっさい嘘や欺瞞をおっしゃっていない」

 そのときカイルとレイスはイヴの死体に起こった異常に気づき、全身が総毛立った。

 イヴの死体は自身が出した血液の海に沈んでいたが、床に広がった血の一滴一滴が、ひとりでに動き出していた。

 カイルはよく見ようと、吐き気をこらえながらかがみ込み、ぐっと血に顔を近づけ、それから悲鳴をあげて飛び退いた。

 血液は互いに寄せ集まり、カエルの卵のようなぷるぷるしたものになって、その中にとても小さな目玉や、虫の触角らしきものが形成されていたのだ。血液の塊は一滴残らず、それぞれに小さな生き物の形態をとり、ある塊はミミズのように、またある塊は昆虫のようなかたちになった。それらはそれぞれの感覚器官を駆使してイヴの死体を見つけると、自身が流れ出た頭の風穴に殺到した。その光景はカイルやレイスが今までの人生で見た他のなにものよりもおぞましく、嫌悪感をもよおさせる光景だった。

 カイルはあまりの恐怖に聖剣を抜いていた。レイスは壁ぎわまで後退し、目をむいていた。ゴードンだけが、平然とクッキーを味わっていた。

 イヴの中に血液からできたものたちの全てが収まると、死んでいたはずの彼女の体が激しく痙攣し、パチリと目を覚ました。それからややふらついた様子を見せながらも二本の足でしっかりと立ち上がり、乱れた頭髪を整えた。

 彼女は深呼吸をする。傷口にいちど手を当てて、離すと、そこにはガンから放たれた弾丸の弾頭がにぎられていた。

「やっぱり頭はよしたほうがよかったわね……ふらふらする」

 イヴはそう言ってカイルたちの顔をぐるりと見渡し、にっこり笑った。

「ごめんなさい、少し服が汚れてしまったので、着替えてくるわね」



 死者の復活という信じがたいできごとを目の当たりにしたカイルとレイスは、席に戻っても無言のままだった。

 レイスはいままで積み上げてきた常識的な世界観の根底をひっくり返されるような衝撃に口をつぐみ、カイルはレイスのそれとはまた違う理由で黙りこくっていた。ゴードンだけが、思うところありげにふたりを眺めていた。

「お前たちが何を考えているかはわからないが」

 唐突に彼は言った。

「聖剣王さまの高度な知識とおしえがあったからこそ、このソードランド王国の今日の繁栄があるのだ。彼女が古代の知識をもたらしてくれたおかげで……」

 ふたりは黙ったままだった。

 そのとき、部屋の奥にある扉が音もなく開き、聖剣王が戻ってきた。

「おまたせしてごめんなさい」

 イヴはにこやかな表情でテーブルにつく。カイルは無言で彼女を睨んだ。イヴはその視線に気づき、微笑みかける。

「どこまで話したかしら」

「『最終戦争』のあたりまでです、聖剣王さま」

「ありがとう、ゴードンさん」

 イヴは軽く頭を下げて、説明を再開した。

「ふたつの国はそれぞれ人体改造と、科学による防護のふたつの道を歩んだ。そして地上に戻った彼らは、なおも戦争を続けた……」

 彼女は悲しげに目を伏せる。

「しかしこの戦いは、人体改造の国の圧勝だった。追い詰められた科学の国は、全ての力を結集させて、巨大な地下要塞を作った――それが『アヴァロン』、いま風の発音だと『アバルオン』となるわね。……そう、今わたしたちがいる、ここがそうよ」

 カイルたちはあたりを見渡した。このような高度な技術が使われた建造物をカイルたちは知っていた。古代遺跡の在りし日の姿を目の当たりにしていることに、あらためてカイルは不思議な気持ちになった。

「そしてここである『兵器』が誕生した」

 イヴは真剣な表情でそう言った。

「その兵器は不老不死であるはずの人体改造の国の兵士を殺傷せしめることに成功した。なぜならば、人体改造の国の兵士たちの不老不死は擬似的なものであったということと、その兵器によってつけられた傷は特殊で、改造人間たちの再生能力を無効化することができたから……さてふたりとも、ここまで言えば、これらがなんのことかわかるかしら?」

 イヴがカイルを見た。カイルは息を呑んだ。

「『聖剣』と、『邪剣』……!」

 カイルの言葉にレイスも目をみはった。イヴはうなずいた。

「私が死から復活するときに起こったことを見たでしょう? 私の不老不死のメカニズムは邪剣と同じ。ばらばらになった肉片がそれぞれ新たな生物の形態をとり、お互いに結集して結合する。自己複製する有機生体ナノマシンと遺伝子操作によるテロメアの無制限再生の融合により実現した、禁忌の技術よ」

 カイルにはイヴの使う単語の意味がわからなかったが、どうやら彼女の不老不死は魔法や奇跡などではなく、人の手による技術なのだということはなんとかわかった。

「聖剣王さま、邪剣王はあなたと同じ不老不死なのですか?」

 レイスが訊いた。

 聖剣王はうなずいた。

「ええ。不老不死の技術を開発したのは私だし、あなたたちのいう邪剣王を生み出したのも、私よ」

「じゃあつまり、アンタが真の邪剣の親玉って言っても過言じゃないわけだな!」

 聖剣王の言葉が終わると同時にカイルが椅子から立ち上がり、トワイライトブレイドを抜いた。彼は片方の靴底をイスの上にドンと置き、聖剣の切っ先を聖剣王に突きつける。しかし、彼女はなおも微笑む。

「……そうね。私たちの時代の後始末をあなたたちにさせてしまうのは、ほんとうに申し訳なく思っているわ」

「お前がいなければ俺の家族は死なずに済んだ」

「そうね」

「お前がいなければ、邪剣王に殺された、数えきれないほどの人たちが死なずに済んだ!」

「……そうね」

「なにが聖剣王だ!」

 カイルはテーブルの上に飛び乗り、クッキーの乗った皿と紅茶の入ったポットを蹴飛ばして、凄まじい形相でイヴに迫った。そばで見ていたレイスは一瞬、彼を止めようとしたが、迷い、結局目をそらした。

「お前こそがすべての元凶じゃないか! 申し訳なく思っているなら、お前が自分で邪剣王を倒せ!」

 言われて、聖剣王は悲しげに首を振る。

「そう考えたこともあったわ。だけどそのたびに私は邪剣王の前に敗れた。……わたしの体はたしかに不死だけれど、それ以外は普通の人間と大差ないの。聖剣を握って振ろうにも、とてもじゃないけれど力が足りない。筋肉の超回復が起きる前に再生してしまうから、鍛えることもできない……」

 イヴはカイルを見上げた。

「私には聖剣も効かない。なぜなら私の不老不死はリミッターが無い第一号だったから。でも邪剣王は違う。あなたが彼を倒すというのなら、私はそれを手助けしたい」

 彼女はカイルの目をまっすぐに見すえた。

「私を殺してあなたの気が済むのなら、それでもいいわ。あなたの手にしているそれは、人殺しの道具なのだから」

 しばらくのあいだ、彼らは無言で見つめあっていた。イヴは優しげな表情を保ったままで、カイルは激しく葛藤していた。

「ひとつ聞かせろ」

 数分後、カイルが言った。イヴは小首を傾げた。

「誰かのことを、殺したいくらいに憎んだことはあるか」

 聖剣王は一瞬だけ黙り、それから答えた。

「ええ、あるわ」

 それを聞いたカイルはとうとう聖剣を納め、テーブルの上から下りた。

「勘違いするな」

 カイルはイヴに背を向けたまま言う。

「お前を許したわけじゃないからな」

「……ありがとう」

 聖剣王は静かに頭を下げた。

「それで――」

 レイスがホッとした様子で口を挟んだ。

「――聖剣王さまは、邪剣を倒すために私たちに協力してくださるのですね」

「もちろん。だってあなたたちは、そのために来たんでしょう?」

 イヴは笑った。

 カイルはどっかと席に戻り、ふんと鼻を鳴らす。

「『協力する』っつったって、いったいどうやって? もしかしてアンタ、すっげぇ強いとか?」

 カイルはイヴに向かってそう言った。すると彼女はおかしそうに笑って肩をすくめる。

「そう見える?」

「いいや」

 カイルは悪びれもせずにそう言った。レイスはそのやりとりに眉をひそめた。

「一緒に戦うことはできないけれど、あなたたちにプレゼントをあげる」

 そうしてイヴは椅子から立ち上がり、カイルとレイスを別室へと案内した。ゴードンはこぼれた紅茶の後片付けをするためにこの部屋に残った。

 カイルたちが招かれた部屋はさっきの部屋と比べて幾分か狭く、白を基調とした清潔そうな部屋だった。部屋に入ったとたん、王宮の医務室で嗅いだことがあるような独特の臭いがカイルの鼻をついた。

「そこに座って」

 カイルは示された丸椅子に座った。

 イヴは戸棚から小さな箱を取り出して戻ってきた。それから椅子をもう一脚引き寄せて、カイルと向かい合って座った。

「左腕を出して」

 カイルは指示に従って左腕を差し出した。イヴは箱から取り出した白い綿のようなものに透明な液体を少量ふりかけると、カイルの腕をとって、腕にすりつけた。

 スゥーっとする冷たい感覚にカイルはびっくりした。「何だこれ」と思わずつぶやくと、イヴは「アルコール、とても純粋なお酒のようなものよ」と言った。

 それから彼女は綿を横におき、箱から奇妙なものを取り出した。

 彼女が取り出したのは約十五センチの円柱形の金属で、表面にガラスのはまった細長い窓がついていた。どうやらそれは蓋のされた筒らしく、中身は白い液体のようだった。

 イヴはその一方の底面を、困惑するカイルの、さっきアルコールを塗った場所に押し当てた。

「ちょっと痛いけど、我慢してね」

「え?」

 返事を待たず、イヴは筒の尻にある突起を押した。その瞬間、カイルの腕に痛みが走り、筒の中身が無くなるのが見えた。

 カイルはぞっとして腕を引っ込め、痛んだ場所を抑えた。

「なにをした!?」

 イヴは筒をしまいながら答える。

「注射よ、この筒の中身をあなたの体の中に押し込んだの」

「体の中にべつの液体を入れたのですか! そんなことをして大丈夫なのですか!?」

 レイスが目を丸くした。

「私の時代では一般的な医療行為だったわ」

「なんて野蛮な……」

「まだあなたたちに教えるべき技術ではないから、そう思われても仕方ないかもね」

「何を入れたんだ?」

 カイルが指についた血を服で拭いながら言った。

「有機生体ナノマシンを中心に構成された人工血液と、邪剣を構成する人工細胞と融合性質を持った合成タンパク質。これらは人間の神経細胞との融和性が非常に高く、今は無理やり埋め込んだだけであるために、受け付けていない脊髄からの信号伝達を改善させる機能があるわ。だいたい数時間後には効果が現れるはずよ」

「……何言ってるかわかんねーよ」

 するとイヴはいたずらっぽくウインクした。

「そのときになってのお楽しみってこと」そう言って笑った。

「きっとあなたがここに送られたのも、このことを見越してのことだったのでしょう。あなたたちの上官は優秀ね」

 コロコロ笑う彼女を、しかしレイスは未だに信用しきっていないらしく、訝しげな目でカイルとイヴを見比べると、威圧的な口調で彼女に言った。

「もしもカイルに何かあったら、あなたが不死身だろうが、殺します」

「そうねぇ、それは魅力的ねぇ――」

 イヴの表情が柔らかな笑顔から、緊張感のあるものにいきなり変わった。彼女はポケットから小さな金属の板を取り出すと、それを見て悲しそうな表情をした。

「なんてこと……予想より早い」

「どうかしたのですか?」

 レイスが訊くと、イヴは顔を上げ、ふたりに向かって大声で言った。

「邪剣王が攻めてきたわ」

「なんだって!」

 カイルが勢いよく立ち上がった。椅子が床に転がって音をたてた。

「どこに! いつ!」

「王都に、今」

「なぜわかったのですか」

 レイスが疑うように言った。

「レーダーに引っかかった。彼は爆撃機に乗っているわね。まさかボンドエラにも残っていたなんて……」

「れぇだぁ? ばくげきき? それはいったい――」

「んなこたどうだっていい!」

 カイルはイヴに詰め寄った。

「今、王都に行けばアイツに会えるんだな!」

「ええ」

「よしレイス、急いで――」

「待って!」

 立ち去ろうとしたカイルを、イヴが唐突に叫んで引き留めた。カイルはふりかえった。

「馬を使うよりもよっぽど速い方法があるわ」

「本当か?」

「ええ。でもその前にひとつだけ言わせて」

 イヴはカイルの目の前に立った。それから、静かな声で言った。

「どうか、決して絶望しないでほしい。すべてが終わっても」

「……どういう意味だ?」 

 聞き返すと、イヴは少しだけ寂しそうに微笑む。

「そのときになってのお楽しみ……それよりも急ぎましょう。時間が無いわ」

「ああ。だけど馬よりも速いなんて、いったいなんだ?」

「あなたたちはエンスライン山をどうやって越えたの?」

「ゴードンさんの剣に乗って、空を飛んだ」

「そう。じゃあ、びっくりしないで済みそうね」


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