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はじまりの夜

「はじめに闇があった。

 天地は未だ分かたれず、空は海と大地と混じり合い、ただ無音の闇だけがすべてを支配していた。

 あるときひと振りの聖なる剣が虚空よりいでて天地を分かち、世に秩序と光をもたらした。聖剣は聖剣王という偉大なる存在によってのみ振るわれた。だが聖剣がこの世にあらわれたとき、同時に闇のなかから現れたものもあった。それは邪剣王と呼ばれる邪悪なる存在で、邪剣王はふたたびこの世に闇をもたらそうと聖剣と戦った。

 人々は聖剣とともに戦い、ついに邪剣を無数の破片へと砕くことに成功した……」

「では司祭さま、邪剣はもうこの世にいないということでしょうか?」

 礼拝堂に子どもの声が響いた。

 田舎の小さな村の中、木造の教会の礼拝堂では七日ごとの礼拝が行われていた。

 説教台では年老いた司祭が経典を開いてそれを読み上げていたが、子どもの質問に顔をあげると、にっこり笑った。

「よい質問ですね、アンナ」

 説教台の前の長椅子にはふたりの幼い少年と少女が座っていた。彼らのほかに人影はまばらで、最前列に座っているのは彼らだけだった。

 少女は目をキラキラと輝かせて真剣に説教を聴いていたが、その隣に座る少年は眠ってしまいそうなのをなんとかこらえることで精いっぱいのようだった。

 ふたりはともに金の髪と青い瞳をしていて、兄妹であることがあきらかなほどに顔つきもよく似ていた。質問をしたほうが兄で、歳のころは十二歳くらい、眠そうな方は十歳くらいであろうと思われた。

 司祭はゆっくりと首を振った。

「残念ながら、邪剣は滅びたわけではありません。邪剣は今もなお欠片となって世界中に散らばり、人の心を狂わせ、人々を殺めようと虎視眈々と狙っているのです」

「では私たちは常に邪剣に怯えて暮らさねばならないのでしょうか」

 司祭はまた首をふる。

「その心配はありません。なぜならば、我々を邪剣という恐ろしい存在から守ってくれる人々がいるからです」

 そして司祭は幼い兄妹に向かって優しげにと微笑んだ。

「あなたがたの父親もそのひとりですよ」

 そう言われて、アンナと呼ばれた少女は誇らしい気持ちになって胸を張った。それからとなりの眠たげな少年をちらりと見て、その肩を揺さぶった。

「起きて、カイル」

 アンナが囁くと、カイルは目をこすって顔を上げた。

「んぁ……なに?」

 間抜けな声に彼女は呆れた顔をする。

「司祭さまが父さんのことをお話してくださっているんだよ」

 するとカイルはあぁ、と小さくうなずいた。

 司祭は彼らのその様子を見下ろして、カイルの目がしっかり覚めるのを待ってから、他の人々に向けて少しだけ声をはりあげた。

「私たちの村には英雄『不死の聖剣師』グリゼル・ラックハルトがいます! 今日は、彼がいかに聖剣王の掟に忠実に従い、人々を救ってまわってきたかをお話しましょう……」

 


「それにしても」

 教会を出たアンナはとなりを歩くカイルに言った。まだ陽は高く、温かい空気が村を包んでいる。大人たちは野良作業にいそしみ、幼い子供たちは辺りを元気に駆け回っていた。

「司祭さまのお話はためになるなぁ」

「そうかー?」

 カイルは両手に持ったパンで軽いお手玉をしながら返事をする。

「いつもいつもタイクツなこと聞かされて、ツマンネー勉強させられて、パンが無ければゼッテー行かないわー」

「なんてことを言うんだよ、お兄ちゃんは」むっとした様子でアンナが言った。

「いい!? 今の時代、平民だって文字を読めるのが当たり前なの! そのくらいの勉強はやろうよ。みっともないよ」

「いや、そういうことじゃなくてさ」

 お手玉をやめたカイルはぐるりと肩をまわした。

「ジッとしてるのが性に合わないってカンジ? 何時間も椅子に座ってると、ケツがむずむずしてくる」

「でも、パパがいつも言ってるでしょ、『みっともないことだけはするな』って」

「体動かしてるほうが好きだ」

「うらやましいな。私は逆」

 アンナはカイルをじろじろ眺めた。カイルはなんだか恥ずかしい気分になって、ぷいと顔をそむける。

「あ、メアリ!」アンナが声をあげた。

 カイルが彼女の視線の先を見ると、そこにはひとりの赤毛の少女がいた。

 カイルが「おーい」と声をかけると、メアリは振り向き、明るい表情で手を振る。

「何やってんの?」

 アンナがメアリに近づいて訊いた。メアリは手に持った空のバケツを見せた。

「泉に水を汲みに行くところ」

「手伝おうか?」

 少し遅れてきたカイルが言う。すると、メアリはそはかすのある顔をパッと輝かせた。

「本当!? じゃあ、おねがい!」

 メアリはアンナの手をとった。アンナは笑い、カイルをふりかえって言った。

「カイル、先に帰って」

「え、なんでだよ。俺も手伝う」

「だーめ! 私の分のパンもあげるから!」

 アンナはメアリと顔を合わせてくすくす笑いあった。カイルは仲間外れにされたような気がしてむっとしつつ肩をすくめる。

「わかったよ、でも畑仕事サボんなよ!」

「あとで行く!」

「じゃあ、帰るわ」

 カイルはアンナたちを残してまた歩きだした。

 その途中、なんとなくまた彼女らの方をふりむくと、アンナとメアリは肩がふれあいそうなほどの近い距離で、並んで歩いていた。

(おんな同士で遊ぶのがそんなに楽しいかよ!)

 カイルは駆け出し、村を出た。

 カイルたちの家は村はずれの丘の上にあった。

 丘の上から村を見下ろすと、村は清らかな小川と森に挟まれた土地であることがわかる。そのため、ならず者たちの標的にされることもままあり、聖剣師であるカイルの父親の家は見張りの役割も果たしているのだった。その事実を意識するたび、カイルはとても誇らしい気分になる。

(強くあり、正しくあり、人々に尊敬される父さん……彼のようにならなければ!)と、いつもそう思うのだった。

 カイルは少しだけ明るい気分で自宅の庭の門を押し開けた。

 カイルたちの家は背の低い柵に囲まれた平屋で、庭の菜園とウッドデッキまわりの花々が美しい家だった。洗われたばかりの白いシーツが庭の木に張られたロープにかけられ、風をうけて静かになびいている。

 カイルは門から玄関まで続く平たい石をぴょん、ぴょん、と飛び越えてポーチに着地した。ふと横の柱を見ると、そこにはカイルとアンナの身長を測ったときの傷が刻まれていた。カイルはそれを見て、もしかしたら前回測ったときより伸びていないかと思ったが、実際その前に立つとそんなことはなかったようなので、少しがっかりした。

 カイルは居間に上がり、もらったパンを一口かじってテーブルの上に置くと、家の裏手の畑に向かった。

 畑には母がいた。

「母さん!」呼びかけると、彼女はカイルを見た。

 カイルは子供心に彼女を、きれいな人だ、と思っていた。

 なめらかな肌は透きとおるほどで、細い手足は白かった。黄金色の髪を後ろでまとめていて、長いまつげの大きな目は優しげだった。まっすぐとおった鼻筋に、微笑をたたえた唇は、彼女の内面の美しさがあらわれたものだった。名前はクレアという。

「何やってんだよ! 体弱いんだから、寝てなって」

 カイルは畑の中に立つクレアにかけより、彼女の持っていた鎌をとりあげた。すると彼女は困ったような顔をする。

「ごめんねぇ、でも、今日は調子がいいの」

「それでもキツい仕事は俺たちの仕事! 母さんは家事だけしててよ」

「でも、ときどきやらないと忘れちゃうし……」

「忘れていいよ、俺らがやるから。ほら! 家のなかに戻った戻った!」

 カイルは母の背中を押して、畑から追い出した。クレアはまた困ったような仕草をしたが、今度は何も言わずに家の中へと戻っていった。

 カイルはそれを見届けると、鎌で雑草を掘り起こしはじめる。 

 この家の畑はとても狭く、ひとりでも雑草を掘り起こす作業程度ならすぐ済んでしまうのだった。そのうえアンナが途中で戻ってきたので、作業はすぐ終わってしまった。

 カイルとアンナは道具を片付けると、かいた汗を流しに川へ行くことにした。

 丘を下りて川べりへ着くと、涼やかな空気と爽やかな水音、ときおりする魚の跳ねる音に、カイルたちはとても心安らぐ気持ちになった。川にそってまばらに生えている木々からは小鳥たちの歌声が聞こえ、木々の葉は太陽の光を受け、その力強い生命力を輝かせている。

カイルたちはともに服を脱ぎ、川の浅瀬へと踏みこんで体を洗いはじめた。冷たい川の水は熱くなった体にとても心地よかった。カイルは水をすくいあげて頭を濡らし、顔を洗った。

「ぶっは! 気持ちいいー!」

 カイルは全身に太陽の光を浴びながら大きくノビをした。そのときいきなり背中に水が浴びせられて、何が起こったのかとふりむくと、笑顔のアンナがまた水をすくい上げ、浴びせかけてきた。

「てめコノヤロ!」

 カイルも笑って水を浴びせ返した。アンナもますます激しく水を浴びせた。ふたりは笑い、お互いにへとへとになるまでじゃれあった。

 ひとしきり騒いだあと、ふたりは河原に腰かけて休憩することにした。柔らかな風に体が冷やされて、アンナは身震いして立ち上がった。

「あれ、誰かくる」

 彼女の言葉にカイルもそっちを見た。アンナの言ったとおり、川の上流から馬に乗った人間がやってきているのだった。まだ遠いので誰なのかまでははっきりとわからなかったが、なんだか見覚えがある気がして、カイルは目をこらした。

 アンナがアッと声をあげた。

「お父さんだ!」

 カイルは驚いた。

「本当!?」

「間違いない!」

 アンナは走り出した。カイルも慌ててあとを追った。

 馬に乗った男が近づくとともに、そのがっしりとした体格や、ひきしまった顔つき、聖剣師としての服装にカイルも確信した。

 父が帰ってきたのだ!

「おかえり! 父さん!」

 カイルは叫び、アンナとともに馬の両側にかけよった。馬上のグリゼル・ラックハルトは目を丸くして「お前たち、なんで裸なんだ? みっともない!」とすっとんきょうな声をあげた。



「今回の旅は辛かった」

 太陽も地平の果てに沈んだ夜闇のなか、壁のロウソクの火だけが照らす薄暗い居間で、テーブルについているグリゼルは言った。カイルとアンナはその向かい側に座り、身を乗り出している。クレアは父のとなりで、微笑みながら話を聴いていた。

「北方の街で邪剣が出たというから行ったんだ。しかしそれは誤報で、本当はただの、邪剣のしわざに見せかけた殺人だった」

「まぁ……それは、残念でしたね」

 クレアの言葉にグリゼルは首を振る。

「ある意味、な。人が死んでいるのは間違いない」

「じゃあ、今回は邪剣と戦わなかったの?」

 カイルが残念そうな声をあげた。グリゼルはまた否定した。

「いいや。俺がその街を出た直後、今度は本物の邪剣が街に出たんだ」

「じゃあ、急いで戻ったんだ?」

 今度はアンナが訊いた。グリゼルはみたび首を振る。

「最悪の状況だった。直前にそういうことがあったせいで、邪剣の犠牲者が出てもまた偽装だろうと街は判断したんだ。通報は遅れ、ふたり、三人と殺されて、俺が戻ったときには六人も死んでいた……」

 彼は顔を伏せ、片手で腰に下げた聖剣の柄を撫でた。その様子があんまりにも悲しそうで、見ていたカイルは胸が締めつけられる思いがした。

「で、でも邪剣は倒したんでしょう? お父さんなんだから」

 アンナが慰めるように言った。しかしあろうことか、またもやグリゼルは否定した。

「逃げられた」

「そんな……!」

 そのひと言にいちばん衝撃を受けていたのはクレアだった。彼女は口もとを両手で覆っていた。アンナとカイルも少なからず驚いていた。グリゼルは非常に有名な聖剣師で、邪剣を取り逃すなんてことは今まで一度もなかったからだった。にわかには信じられず、カイルは少し大きな声で訊いた。

「どうしてさ! ただの邪剣だろ!?」

 グリゼルは顔をあげた。  

「ただの邪剣ならば逃がすようなことはなかった。しかし今回は『邪剣王』だったんだ」 

「邪剣王!?」

 その場の全員が驚いた。グリゼルはうなずいた。

「千載一遇のチャンスだった……すべての邪剣を束ねる王……ヤツさえ倒せばすべての邪剣は力を失うというのに、俺は逃がしてしまった」

 彼は激しく、しかし静かに、噛みしめるようにそう言った。言いながら、彼の瞳のなかに激しい炎が燃え上がっているのをカイルは見た。そしてそのために、父は以前と変わらず素晴らしい聖剣師にほかならないとの確信を深めた。

「村の方には、帰ってきたことを言ったの?」

 クレアは言った。グリゼルは「いや」と返した。

「明日の朝に挨拶に行くつもりさ、今夜はゆっくり――」

「ごめんください!」

 突然、玄関のドアが叩かれた。四人はいきなりのことにびっくりしたが、すぐにグリゼルは立ち上がって、玄関先へと出る。

 彼が居間に戻ってきたとき、その面持ちは緊張していた。

「すまない、みんな。俺は出る」

「こんな夜遅くに?」

 クレアが目を丸くした。グリゼルはうなずいた。

「ああ、今、聖剣教会からの手紙を侍祭が届けてくれた。それによるとこの近くで、今話していた邪剣王が見つかったそうだ。これはチャンスだ」

 クレアが立ち上がり、グリゼルの腕をそっと掴んだ。グリゼルは彼女の顔を見て微笑み、強くその体を抱きしめた。

「心配するな、かならず戻ってくる」

 それから彼はアンナとカイルを手招きし、彼らのことも抱きしめた。

「母さんのことを頼むぞ」

「任せとけって」カイルは笑って言った。

「なるべく早く帰ってきてね」アンナは心配そうに伝えた。

「どうかご無事で」クレアはもう一度父を抱きしめた。

 そしてとうとう、グリゼルは彼らから離れた。

「すぐに戻る!」

 グリゼルは壁にかかっていたマントを羽織ると、馬にとび乗って夜の丘を駆け下りて言った。

 残された三人はみな形容しがたい不安を感じていた。



 夜が建物の影からにじみ出て、紫色の空に星々がまたたきはじめたころ、村の人々は一日の仕事を終えて自宅に戻っていく。アンナとカイルもその中にいて、丘の上の家へと戻っていった。

 真っ黒な闇が村を覆い尽くし、家々の窓から柔らかな光が漏れてきて、広場に篝火が焚かれると、村で唯一の酒場へと人が集まりはじめる。

 酒場からの賑やかな笑い声が村の暗やみに響くなか、ひとりの男が村の入り口にやってきた。

 男はほとんど灯りのない暗闇にもかかわらず、何もかも見通しているようにぐるりと村を見渡すと、賑やかな酒場に目をとめた。

 闇に足音を響かせて、男は酒場の扉を開く。店内の人々は入ってきた男を見て歓声をあげた。

「グリゼルじゃないか!」

 近くの卓に座っていた赤ら顔の男が麦酒の杯を掲げて歓迎した。その言葉を合図に店内のほかの男たちもグリゼルへ注目し、歓迎の仕草をする。

 当のグリゼルはにこりともせず、無言で店の中央まで歩いた。するとすっかり出来上がった様子の中年の男が近づいて、グリゼルの肩に腕をまわす。

「どぅしたんだぁ? しけたツラしてよぉ? 女房とケンカでもしたかぁ?」

 しかしグリゼルは無表情のまま彼を見下ろすだけだった。

 そのとき、給仕をしていたメアリがふたりに近づいた。

「もうっ! マリオさん、グリゼルさんが困ってますよ!」

 そう言いながらメアリはグリゼルから男を引きはがしにかかり、マリオはメアリに下品な冗談をあびせた。爆笑する周囲にメアリは大げさに怒った仕草をしてみせて、笑顔でグリゼルに向き直った。

「ごめんなさいね、グリゼルさん。なにか飲みます?」

 グリゼルはその言葉に、冷ややかな笑みを浮かべる。

「注文か……そうだな」その直後だった。

 いきなりグリゼルの太い片腕が持ち上がり、メアリの細い首を掴んだのだ。その様を見て、周囲の客たちは「食われっちまうぞー!」などとふざけた野次を飛ばしたが、彼女がグリゼルの腕に爪を立て、潰れたカエルの断末魔のような声をあげながら泡を吹いているのに気がつくと、たちまち静まりかえった。

「注文は――」

 グリゼルはもう片方の手でメアリの肩を掴んだ。

「――貴様らの死だ!」

 そしてグリゼルはメアリの首を掴んでいた手を、勢いよく上に振り上げた。熱い液体がメアリの体から噴水のように噴き出しているのを見て、周りの人間たちはすっかり固まってしまったが、誰かが、彼が片手に掲げているのがメアリの首とその体から引き抜かれた背骨であることに気がついて、絶叫した。

「うわあああああああぁッ!!」

 酒場内は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。

 グリゼルはメアリの首を投げ捨てると、両腕から邪剣の触手を何本も生やして、手当り次第に周囲の人間を貫き、切断していった。

 酒場のマスターは額をひと突きにされ、酒樽の上へ仰向けに倒れた。ある若い男は背中から胸を貫かれ、吐血しながら時間をかけて死んだ。

 ある男は太った腹を縦に割かれて中身を床に撒き散らし、ある男は肩から先を切り落とされて自分の血溜まりの中に這いつくばった。ある男の上半身と下半身はそれぞれ別の客に投げつけられて、下敷きになった彼らはもがいているうちに口から内臓を引きずり出された。

 悲鳴を聞きつけて集まってきた村の他の人々も逃げることはできなかった。

 背を向けて走り出そうした者はみな例外なく素早く地面にのばされた触手に足をすくわれ、そのまま酒場の中へと引きずりこまれた。

 教会の司祭は酒場からの悲鳴に気づいて真っ先駆けつけたうちのひとりだったが、あまりの惨状に腰が抜けてしまっているところを、酒場から出てきた触手に腹を刺されて、もだえ苦しんで死んだ。

 グリゼルは一滴たりとも返り血を浴びず、綺麗な服装のまま村人を惨殺していった。家々を一件一件順番にまわり、すでに寝床へ入っていた幼い子供や、足腰の立たない老人も、例外なく腸を引きずり出していった。

 村の灯りがひとつ、またひとつと、血を浴びせられて消えていった。火がひとつ消えるたびに闇は濃くなり、グリゼルの姿を覆い隠した。 

 


 雲ひとつない夜空に輝く満月のもと、虫の音だけが誰もいなくなった村に響いていた。

 グリゼルは地面を覆い尽くしている血と肉片の海の中心に立ち、むせかえるような血と汚物の芳香を深く吸いこんだ。新鮮な肉と内臓から蒸発する水分があたりを蒸し暑くしている。

 どこかで家畜の牛がもぅ、と間抜けに鳴いた。グリゼルは聞こえたその鳴き声にフッと微笑んだ。

「終わりある生の持ち主よ、せめて思うがままに生きよ」

 グリゼルは村中に触手を伸ばし、家畜の柵などを切断してまわった。解放された馬や牛たちはとぼとぼと歩きだしていった。

 その作業を終えるとグリゼルは殺し残しがないかと辺りを見渡した。そして村はずれの丘の上にまだ一件、灯りのついた家があるのを見つけた。

「あれは……そうか、我の、この体の家か」グリゼルは呟き、血溜まりの中を歩きだした。



 いきなりドアが叩かれて、居間で編み物のさなかうとうととしていたクレアは、はっと目を覚ました。目をこすりつつ玄関まで向かい、呼びかける。

「どなたですか?」

 少しの静かな間があって答えが返ってきた。

「俺だ」

「俺、と言いますと」

「グリゼルだ」

 その言葉にクレアの全身が緊張した。彼女は言った。

「あなた、少し待っててください。今手が離せないのよ」

 クレアはそうして急いで寝室に向かった。アンナとカイルはすでに眠っていたが、彼女に強く頬を叩かれて起こされた。寝ぼけ眼の彼らの前にクレアはかがみこみ、声を殺して言った。

「ふたりとも、逃げなさい」

「逃げるって?」アンナが訊いた。

「邪剣が来たの」

 母の言葉に兄妹はひどく驚いた。

「あの人は、もうあの人じゃない……だからお願い、逃げるの」

「逃げるなんて」カイルは憤慨した。

「母さんも一緒」アンナが言った。母は首をふった。

「私がいたら足手まといになるわ。私がなんとか時間を稼ぐから、キッチンの裏から逃げるの、いいわね?」

 ふたりはうなずくしかなかった。クレアはそれを見て微笑み、彼らのことを一瞬だけ強く抱きしめると、泣き出しそうな顔で言った。

「愛してるわ、元気でね」

 クレアはふたりから顔を背け、玄関先に「今行きますから」と呼びかけてそっちに向かった。カイルは彼女をひとりにさせたくないと思い、あとを追いかけそうになったが、アンナに引き止められた。

「なんで!」カイルは小さな声で怒鳴った。

「母さんの言うとおりにするの!」アンナも同じような調子で言った。

「見捨てろっていうのか!」

「お母さんの想いを無駄にするの!?」

 カイルはまた言い返そうとしたが、アンナがその前に「ケンカしてるヒマはない、いこう!」と動き出したので、従うことにした。

 寝室から廊下に出ると、母が玄関の扉を前に、こちらに背を向けて立っているのが見えた。カイルはあんまり見ていると離れられなくなりそうな気がして目を背けた。カイルとアンナは足音を極力立てないように居間へと入った。キッチンは居間の奥にあるのだった。

 そうしてふたりが居間の真ん中、テーブルのところまで来たときだった。

 バン、と玄関のドアが乱暴に開けられる音がして、直後、何か鈍い音がした。

 嫌な想像が頭をよぎり、カイルとアンナは体を硬直させた。暑くもないのに全身から汗が吹き出し、奥歯が鳴り始めた。

 どさり、と重いものが床に落ちた音がした。ふたりはすっかり足がすくんで、ただその場で居間の入り口を凝視するしかできなかった。

 ごつり、ごつり、と木の床を歩く足音があり、すぐにその主は居間の入り口に姿を現した。

「……父さん……!」

 見慣れた顔がそこにあって、カイルはあまりのことに絶句した。アンナは呆然としていた。

「我が息子たちか」グリゼルは彼らを見下ろして笑顔を浮かべた。

「我はお前たちの父だ。お前たちを愛し、慈しみ、見守る存在だ……怯える必要はない」

 彼はとてつもなく優しげな声でそう言った。

 アンナとカイルはその言葉に凄まじい恐怖と、吐き気がするほどの嫌悪感を抱いた。目の前の父の姿をした怪物は、自分たちがその言葉をいっさい信じないことをわかっていてそう言ったのだ。このおぞましい怪物はカイルとアンナが抱く父親の像までも破壊しつくそうと企んでいるのだ。

「う……う……」

 アンナは嗚咽をもらしながらも、まっすぐに怪物の目を見ていた。カイルは自分で自分の体を抱きしめ、ガタガタと震えていた。そんな彼らの様子に、怪物は楽しげに笑った。

「貴様らの親は死んだぞ!」

「うわあああっ!」 

 アンナが絶叫し、怪物に殴りかかった。だが彼女は怪物に触れることすらできずに、怪物の右腕にまとわりついた触手が変化した刃で、その腹を貫かれた。怪物はぐったりとした彼女を邪魔そうに放る。

 カイルは唐突すぎるできごとに何も反応できなかった。ただ目の前で人形のように脱力した妹が、まるでゴミのように床に落とされるのを見ていた。

「次はお前だ」怪物はそう言った。

 カイルは心臓が撫ぜられるような思いに、怪物に背を向けて床を蹴った。だが彼が逃げたのは居間の隅で、出口や窓からは真反対だった。

 その様を見た怪物は愉快そうに高笑いして、中央のテーブルをひっくり返した。上に乗っていた小さな花の鉢植えが床にぶちまけられた。大きな音にカイルは萎縮してうずくまり、怪物を見上げてとうとう泣き出した……。

 怪物はそれ以上なにもせず、ただ絶望と悲嘆に嗚咽するカイルを見下ろしていた。怪物にとってその光景こそが最も心安らぐものだったからだ。薄暗い部屋に、ただ少年のすすり泣きだけが響いていた。



 ……しばらくして、少年がすすり泣きをやめて怪物を睨みつけ、立ち上がる。

 怪物は口の端を吊り上げて言った。

「我に立ち向かうか」

 カイルは怒鳴る。

「よくも! よくも母さんとアンナを殺したな!」

 怪物は哄笑した。

「ならばどうする!」

「滅ぼしてやる!」カイルは邪剣の目をまっすぐに見上げた。

「邪剣は、一本残らず、滅ぼしてやる!」

「いいだろう!」

 邪剣はそう言って右腕の剣の切っ先をカイルの眉間に突きつけた。しかしそれでもカイルは一瞬たりとも目をそらさない。

「我は『邪剣王』なり! 貴様のようなものを求めていた! 我を滅ぼす意思を持つ、幼い子供を!」

 邪剣王は剣の切っ先をカイルの左胸へと下げる。

「褒美に、貴様に『力』と『資格』を与えよう!」

 いきなり剣の長さが伸びて、カイルの心臓をひと突きにした。カイルの喉奥には血が溢れ、悲鳴をあげることすらできない。

 邪剣王は剣を抜き、床に崩れ落ちたカイルに言い放った。

「今、貴様に我の体の一部を埋め込んだ!」

 傷口を押さえるカイルの手の下で、そこから生えた邪剣の触手がうごめく。

「これにより貴様の体は常人よりも優れたものとなるであろう!」

 カイルは全身から汗を流しながら、それでも邪剣王を見上げた。

「だが忘れるな! もしも貴様が十八の歳を迎える前に我を倒せなかったり、その前に死したときは、貴様は我の眷属となるのだ!」

 邪剣王はそうして踵を返し、部屋の出口へと向かう。

 そして最後に「貴様が我を滅ぼす日を楽しみにしているぞ!」と言いのこし、闇の中へと消えた。



 地平の果てから太陽が顔を出し、大地をまばゆい光で照らす。

 動くもののなくなった村のはずれ、丘の上の一軒家の玄関に、母と妹の亡骸を抱きしめている少年の姿があった。

 彼は左胸に宿った邪悪の鼓動を感じながら、ひとりつぶやく。

「邪剣は、かならず、滅ぼす……」

 はじまりの夜はこうして明けたのだった。


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