大地の聖剣師
王国の東にそびえる火山周辺は緑が少なく、大きな岩石がゴロゴロと転がる痩せた土地だった。
曲がりくねりながら山頂へと続く道は細かい石が敷きつめられた砂利道で、すこし気を抜くと足をすべらせてしまいそうだった。地面に手をつくと地熱が伝わって温かい。そのせいで、休憩しようと地べたに座ると、かえって汗をかいてしまうのだった。
「素直に馬を借りればよかった……」
額の汗をぬぐいながらぼやいたカイルは、その道を徒歩で上り続けている。
「だから麓の村の人も言っていたでしょう、歩いていくにはつらい道だと」
そのすぐ後ろをのんびりとした様子でついていっているのは、馬にまたがったレイスだった。彼は強い陽射しを避けるためにローブのフードをかぶっている。
「ここまでの悪路だとは思わなかったんだよ。麓から見えてたし……」
カイルは毒づいて山頂の方を見上げた。彼の視線の先、火山の火口付近には、石造りの建物がいくつも身を寄せ合っているのが見えた。あそこがふたりの目指しているアードの街だった。
レイスはカイルを見下ろしてため息をついた。
「聖剣師ともあろう方が情けない」
「あのなー、こっちは荷物のほかに、それはそれは重い重い聖剣さまを背負ってんだよ」
カイルがうんざりした口調で噛みついた。レイスは肩をすくめる。
「そんなことはしりません」
相手をするとますます疲れそうな気がして、カイルは黙ることにした。
ふたりはそのまましばらく無言で歩き続けていたが、ふいにレイスが思い出した様子で言った。
「そういえば、アードの街には有名な温泉があるらしいですよ」
その言葉を聞いて、カイルが頭をもたげる。
「温泉か……イイな、それ」
「噂では、王族や名だたる貴族たちもときどきお忍びで湯治に来るとか」
「へぇ、そういえば、麓の村にも小さな温泉宿があったな。入っていこうか」
カイルがすこし明るい声になったのを聞いて、レイスは言った。
「元気出ました?」
「……うるせーよ」
カイルは気恥ずかしさに足を早めた。レイスはその背中を見て微笑した。
「邪剣がいない?」
街に入り、事件について話を聞こうと町長のもとを訪ねたカイルたちを待っていたのは、意外な言葉だった。町長は困った顔をした。
「ええ、聖剣師さまがたにわざわざお越しいただきまして、まことに申し訳ないのですが……」
「おい、どういうことだよ?」
「カイル、言葉に気をつけなさい」レイスが咎める。
町長の館の応接間で椅子に座り、机を挟んで彼らと向かい合う町長は、また頭を下げた。
「実は昨日、たまたまべつの聖剣師さまがこの町に来まして、その日の夜に邪剣を退治してくださったのですよ。だからもう邪剣はいないのです」
「先を越されたか。みっともね」
カイルが小さく舌打ちし、唇をとがらせた。
レイスは穏やかに頭をさげる。
「ごくたまにあることです」
「いやはや本当、すいません」
「お気になさらないでください。街の皆様の日々の平穏こそが私たちの願いでございます」
その言葉をうけて、町長はなにか思いついたようなしぐさをした。
「ではせめて、この街いちばんの温泉宿へ泊まっていかてはどうでしょう? もちろん宿泊代は街が負担いたします」
レイスは顔を輝かせた。
「本当ですか! ご厚意に感謝いたします」
町長は豪快に笑う。
「わざわざ遠方からいらしたお客様を何もなく帰してしまったら、わが町の名折れです。小旅行にでも来たと思って、今夜はゆっくり羽をのばしていってください」
「聖剣師やってるとさ」
紹介された温泉宿への道中、不意にカイルが言う。
「けっこうこういうのがあるのがいいよな、役得ってやつ?」
「そうですね」レイスも笑って肯う。
「ですが聖剣師がこのように人々の尊敬を集めるのは、先人たちの努力と犠牲の結果であるということをお忘れなく」
「わかってるよ」
カイルは歩きながら深く息を吸い込んだ。街全体に漂う硫黄のかすかな臭いが鼻の奥に絡みつく。湿度の高く温かい空気は不快だが、街全体に溢れる活気と、道路に面した店々の呼び込みの声が、この街を魅力的に輝かせていた。
「おっと」
いきなり路地から飛び出してきた髭面の男と肩がぶつかって、カイルはあやうく転びそうになった。ぶつかった男も大きくよろけ、近くの建物に手をつく。カイルは髭面の男に怒鳴った。
「あぶねぇな、気をつけろ!」
「す、すぃません!」
髭面の男は深く頭を下げる。レイスは彼に怪我はないかと訊き、男は頷いた。
「急いでいたもので……本当にすいません」
「こちらこそ道を塞いで、申し訳ありませんでした」レイスが男に謝った。
「では急いでいますので、失礼します」
そう言い残して立ち去ろうとする男の進路を、カイルは大きく足を踏みだしてふさぐ。レイスと男はいぶかしげにカイルを見下ろした。
「あの、なにか?」
髭面の男が言うと、カイルは彼に手のひらを差しだした。
「カネをよこしな」
そう言い放った彼を見て、レイスはけわしい顔をする。
「カイル、あなた――」
「勘違いすんな」カイルは男を睨みつけた。
「今、俺からスリ盗ったサイフを返せっつってんだよ!」
髭面の男の表情が変わった。それを見たレイスは素早く男の背後にまわった。すると男は観念したようで、懐から小さな巾着を取り出した。
「ほんの出来心で……」
カイルは巾着を奪い返すと、道をあけて、首で彼を促した。
「今回は見逃してやる。二度とそのみっともねぇツラ見せんなよ」
「ありがとうございます、すいませんでした」
「さっさと消えな」
カイルに一喝されて、髭面の男は走り去った。
男の背を見送るカイルに、レイスは感心したような顔をする。
「珍しいですね」
カイルは振り向いてレイスを見た。
「観光地ならよくあることだろ?」
「あ、いえ、そうではなく」レイスは柔らかい笑みを浮かべる。
「あなたなら問答無用で憲兵に引き渡すものと思いました」
「ああ……」カイルは顔をそむけた。
「あいつにも、もしかしたら腹を空かせたガキがいるかもしれねぇしな」
その言葉を聞いて、レイスは嬉しそうな表情をした。カイルはそんな彼の様子に眉をひそめる。
「ンだよ、気持ちわりぃ顔して」
「いえ、なんでもないですよ?」
「にやにやすんな! さっさと行くぜ!」
カイルは大股で歩きだした。レイスは苦笑しながらそのあとに続いた。
紹介された温泉宿は石造りの重厚な建物で、豪奢な装飾ときらびやかな家具が並んだエントランスを目にしたふたりは、思わず感嘆の声をあげた。
「すっげ……」
「これは見事な……」
緊張のあまり固くなりながら、カイルたちは真紅の絨毯を越え、落ち着いたフロントに町長からの紹介状を手渡すと、とても丁寧な物腰の従業員たちがふたりを部屋に案内した。
「当宿で最上のお部屋でございます」
そうして鍵を渡された部屋は、建物の最上階をまるごと使っていて、まるで貴族の屋敷のようだった。リビングの床には繊細な模様の絨毯が敷かれ、暖炉はひとつの巨大な大理石の塊から削りだした特注品だった。マントルピースの上には純銀のオブジェが飾られて、壁には風景画や静物画が何枚もかかっている。リビングの中央にはマホガニーのどっしりとしたテーブルがあり、その上にみずみずしい果物の盛り合わせと、高級果実酒の瓶がなんと氷水につけられて用意されていた。居間の奥の壁は寝室へと続いていて、寝室もこの部屋と同様に贅を尽くした内装になっているようだった。
「スゲーなぁ……」
カイルはあんぐりと口を開けながら、ただ呆然とそれらを眺めていた。レイスは荷物を受けとると、従業員たちに礼を言った。従業員たちは部屋を出ていった。
「すばらしい部屋ですね。こんなところに泊まるなんて、きっとこの先そう何度もありませんよ」
レイスはガンを提げているベルトを外してテーブルに置き、暖炉の前の革張りのソファに腰かけた。
「まぁ、今日はこれでお仕事終了、ということにしましょうか」
「ああ……」カイルが力の抜けた返事をした。
「では、あとは自由行動ということで」
レイスはそう言って首を鳴らし、大きなあくびをして僧服を着替えはじめた。
カイルはバルコニーに出て、その先の風景を眺めた。この宿は山の斜面に築かれた街の中心にあって、バルコニーからは展望台のように、街の目抜き通りとその終端の正門、そこから伸びるカイルたちが登ってきた山道、その先にある山のふもとの小さな村と、さらにその先の広大な平野までが見渡せた。青空に雲はまばらで、午後の気持ちの良い風が下方から噴き上がってきていた。
「どうすっかな……」
カイルは爽やかな風に涼みながら、自分がすっかり余暇の過ごし方を忘れてしまっていることに気がついた。
「なぁ、レイスはこのあとどうするんだ?」
部屋の中にむかってそう呼びかけると、レイスは「美味しいものでも食べてから、この街の教会に挨拶にいくつもりです。一緒に来ます?」と答えた。カイルは断った。
「しゃあねぇな、とりあえず、温泉でも入ってくるわ」
カイルは部屋に聖剣を置くと、レイスにそう言い残して部屋を出た。
温泉は宿の敷地内にある別棟にあった。カイルは受付で水着とタオルを受けとると、脱衣場で水着を履いて、浴場へと入った。
浴場も宿と同じく豪華なつくりで、床に敷きつめられたタイルは美しいモザイク画を描き、柱には彫刻が刻まれ、天井にはランプがいくつも下がっていた。
時間帯のせいかほかに人影はなく、湯けむりの向こうに見える大きな湯船を独り占めできるかもしれないという期待に、カイルの胸はおどった。
カイルはまず小さな浴槽から湧き出る湯を汲み、タオルと石鹸で体の汚れを落とした。
それからいよいよ湯船に向かうと、カイルは少しがっかりした。なぜならば、さっきは気づかなかったが、湯船には先客がひとり居たからだった。カイルはその人影に会釈をして湯船に足を浸けた。
湯は少し熱めで、触れただけで汗が吹き出そうな温度だった。カイルは乳白色に濁った湯にとっぷりと浸かると、全身の力が抜けていくのを感じた。
それから湯船の最奥、浴場の壁ぎわまで移動すると、壁に寄りかかって、長く息を吐く。
「ああ……来てよかった……」
自然とそんな言葉が漏れた。全身の筋肉がとろけていくような感覚に、まぶたが重くなりそうだった。カイルは湯で顔を洗った。
カイルは気分が良くなって、鼻歌でも歌いたくなったが、そこで一緒に湯船に浸かっている人のことを思い出して、やめた。その代わりに、彼に話しかけてみることにした。
「いいお湯っすね」
カイルはその人影に近づいて、そう声をかけた。見たところ彼は三十歳くらいの男性で、ガッチリした体格と、顔全体に斜めに走る大きな傷跡があることから、傭兵かなにかだろうとカイルは推測した。
男はカイルを見て、笑顔で応える。
「ええ、本当に」
「地元のヒトですか?」
「いえ、旅の者です」
「そうなんですか、俺もですよ」
カイルは笑顔でそう言った。男も微笑し、カイルに訊いてきた。
「ここへは観光で?」
「いや、仕事っす」
「まだお若いのにご立派ですね」
カイルは苦笑しながら顔の前で手を振った。
「たいした仕事じゃないっすよ、いつも怒られてばっかりっす」
「怒られるということは、それだけ期待されているのですね」
「なんだかむず痒いですね。そちらのお仕事をお聞きしても?」
「私は聖剣師です」
男の言葉にカイルは目をみはった。
「え、マジッすか?」
「ええ」
「じゃあ、昨日街にやってきて、邪剣を倒したっていう?」
「はい、そうです」
「偶然! 俺も聖剣師です!」
カイルは口笛を吹いた。音は浴場内に反響した。
「あの、俺、カイルっていいます。どんな邪剣だったか聞かせてください!」
その言葉に男は少なからず驚いていた。
「君が? 本当に?」
「はい、『黄昏の聖剣師』カイル・ラックハルトです。トワイライトブレイドの」
男はその名乗りにさらに驚いたようだった。顎に手をやり、複雑な表情で彼を見る。その視線は彼の金髪、青い瞳、そして左胸の不気味なアザへと移り、そして納得したように頷いた。
「そうか、君があのグリゼルさんの……いや失礼」
男は肩をすくめ、カイルの目をまっすぐに見返した。
「私は『大地の聖剣師』のゴードン・ストーンマンだ、剣の名はグラビトンプレート。よろしく」そう言ってゴードンは片手を差し出してきた。カイルはその手をとって握手を交わした。
「君の父上にはお世話になったよ」
「父さんを知ってるんですか?」
「私の師だ」
「本当ですか!?」カイルは目を丸くした。
「ああ」ゴードンは頷き、懐かしむようにカイルの顔を見る。
「グリゼル・ラックハルトは偉大な聖剣師だった。当時は、いや今も、彼の剣の腕前に並ぶものなどいない……」
彼はそう言ったが、カイルはその言葉を否定したい強烈な衝動に駆られた。カイルはぐっとこらえ、ほかに適当な話題を探す。
「ここに宿泊されているんすか?」カイルが訊くと、ゴードンは首を振る。
「いいや。昨日泊まって、今日出発するところだ。実はこのあと上がったら、すぐに街を発つつもりなのさ」
「ええ? 残念ですね」
「私も残念だよ。王都の聖剣教会本部以外で、他の聖剣師に会うことはほとんどないからね」
「宿泊を延ばすのはやっぱナシですよね」
「聖剣師ならば、な。君もそうだろう?」
ゴードンのいたずらっぽい口調に、カイルは笑った。
「私がここで一日立ち止まれば、次の街へ着くのが一日遅れる。一日遅れれば、邪剣はひとりの命を奪う。聖剣師が立ち止まっていいのは棺に入るときだけさ」
ゴードンは立ち上がった。そのとき、カイルは彼の広い背中や太い手足に無数の傷跡があることを知った。それらが物語る彼の壮絶な戦歴に、カイルは尊敬の念を抱いた。
「またどこかで会おう、カイル君。それまで聖剣の加護があらんことを」
「聖剣の加護があらんことを。よい旅を」
「ありがとう、君もよい旅を」
ゴードンは浴場を出ていった。
カイルはそのあとしばらく静かな浴場にひとり残って、ゴードンの言葉を反芻していた。
「……よし!」
やがてカイルも立ち上がり、湯船から上がった。
(邪剣がいなくても、なにかできることはあるハズだ)
部屋にレイスの姿は無かった。カイルはいつのまにか新たに部屋のテーブルに用意されていた水の入った瓶を持ち、バルコニーに出ると、眼下の街並みを眺めた。
太陽の位置は低くなり、もうすぐで夕方になろうというころだった。街の建物の影は濃くなり、商売をする人々は最後の追い込みとばかりにますます声を張り上げている。
カイルはしばらくぼんやりと、彼らのためにできることはないかと考えていたが、いいアイデアが浮かばなかった。そこで瓶の栓を開けて、中の水をひと口飲むと、そのあまりの美味しさにびっくりした。
部屋のドアが強くノックされたのはそのときだった。カイルは顔をあげた。
「はーい、開いてますよー」
カイルは頭髪を少し手櫛で整えながら、部屋に入ってきた人物を見た。カイルはまたびっくりした。
「ゴードンさん?」
浴場で出会ったゴードンが困惑した顔でそこに立っていた。彼は私服の上に両腕全体を覆う、金の縁取りがされた真紅の布の防具を身に着けて、大柄な彼の身長よりもさらに長大な、柄の尻に短冊型の飾り布が一枚だけついた剣を背負っていた。
カイルは彼のただならぬ様子に、何か大変なことがあったのだということを察した。
「何かあったんですね」
「ああ、カイル……まずいことになった」
ゴードンは冷や汗をかいていた。カイルは棚から強い酒の瓶を取り出すと、それをゴードンに渡した。彼はそれを受けとり、ひと口飲むと、落ちついたようだった。
「それで、どうしたんです?」
カイルが訊くと、ゴードンは深く息を吸い、静かに言った。
「邪剣の欠片を盗まれた」
カイルは愕然とした。それは聖剣師としてあってはならない状況だった。カイルは動揺を抑え、まずはなにがあったのかを把握することにした。
「盗まれた邪剣の欠片は、昨日ゴードンさんが仕留めた邪剣のものですね?」
ゴードンは頷いた。
「昨日の邪剣から回収した欠片を、瓶の中に保管して懐に入れておいたのだ」
「どこでなくしたんですか」
「街を出ようと大通りを歩いていたときに、いきなり路地から飛び出してきた男にぶつかったんだ。おそらくそのときにスられたんだろう」
「その男って、髭がもじゃもじゃ?」
「知っているのか?」
「あのヤロウ!」
カイルは片手の平を拳で殴った。それから聖剣を背負い、ゴードンに向かって言い放つ。
「そのスリなら俺も知ってます! 探しましょう、急がないと大変なことになる!」
「すまない! 協力してくれ」
「行きましょう!」
ふたりは部屋を飛び出した。
夕闇は確実に街を覆いはじめていた。人々は仕事を切り上げて、店の並びは次々と看板を下ろしはじめている。橙色の光が強くなるにしたがって建物のあいだの暗がりはますます色を濃くし、見通しが悪いなか、人をひとり探すのは次第に困難になっていった。
カイルとゴードンはふた手に分かれ、それぞれ走り回ってスリの男を探していたが、手がかりすら見つけることができずにただ時間だけが過ぎていくことに焦っていた。ふたりは街の住民たちに聞き込みもしていたが、なにぶん人の出入りが激しい観光地のことなので、有益な情報はなにひとつ出てこなかった。
いよいよ太陽の半分以上が地平線の向こうに隠れ、街の建物の窓から灯りが漏れ出し、紫の薄暮に街が染まったころ、ふたりは宿の前で合流した。
「見つかったか!?」ゴードンが息を荒げて言った。
「何も見つからない! 手がかりもない!」カイルも肩で息をしながら嘆いた。
「マズいぞ……このままじゃ、本当に……」
「なにをされているんですか?」
そのとき、不意に聞き覚えがある声がふたりにかけられた。
カイルがふりむくと、怪訝な顔で立っていたのはレイスだった。彼はゴードンを見る。
「もしかして、聖剣師の方ですか?」
「ああ」ゴードンが頷いた。
「はじめまして。レイス・ボールドウィン助祭と申します。聖剣師カイルの付き人兼監督係をしております」
「レイス、大変なんだ!」
ゴードンに向かって丁寧に頭を下げるレイスに、カイルは大声でそう言った。レイスは不快そうに眉を潜めたが、それも一瞬のことで、ふたりの尋常ではない様子に真剣な表情を見せた。
「とりあえず、簡潔に問題を説明してください」
カイルはレイスに事のあらましを語った。
「……なるほど。それでこの街のどこを探しても誰に聞いても、手がかりが無いと」
「ああ」カイルが苛立ちを隠さずに頷く。
「まぁまぁふたりとも、こういう時こそ冷静になりましょう。状況を整理しさえすれば、道はおのずと見えてくるものです」
なだめるようにレイスは柔らかく微笑んだ。そして指を一本立て、はっきりとした語り口で説明をはじめる。
「まずその一。手口や態度から男はスリの常習犯であることは間違いない。
次にその二。スリの常習犯の情報というものは、ここのように商業が活発な街の住民たちは共有するものです、しかし情報は出なかった。ということは、このスリは流れのスリである可能性が高い。
さらにその三。流れのスリは成果をあげたら、その街を素早く去ることで利益を確保し、報復を回避します。この街のどこを探しても彼は見つからず、そしてゴードンさんが被害に遭ったのも、街を出ようとする途中だったのでしょう? でしたら――」
「もう街を出ているということか!」
ゴードンが叫んだ。レイスは頷く。
「それが一番可能性が高いですね」
「チクショウ! 急ぐぜ!」
カイルは踵を返し、街の正門へと向かって駆けだした。レイスも慌ててその後を追おうとするが、ゴードンがその場に立ったまま動こうとしないので、不審に思って声をかけた。
「行かないのですか?」
ゴードンは肩をすくめた。
「仮にスった直後に街を出たとしても、せいぜいが麓の村に着いた頃だろう。だったらまだ充分追いつける」
そう言っておもむろに彼は背負っている長大な聖剣を抜いた。レイスは身構えたが、ゴードンは笑ってその尖端を地面に刺した。
「いいかげん、ちったぁイイトコ見せねぇとな」
髭面の男は麓の村まで辿りつくと、後方の山の頂上付近に見える街の灯りを一瞥した。
彼は街に比べると簡素な建物がまばらに並ぶ村の道を、軽い足どりで歩いていく。その理由は、おそらくただ者ではない身分の人間であろう大男の懐から、なにやら意味深なまでに厳重に密閉された瓶をスリ盗ったからだった。
男は村の中心にある広場に焚かれた篝火に近づき、その瓶を取りだして中身を透かし見た。
瓶の中には光を反射して妖しくきらめく小さな金属片があった。形から見て、どうやら元はなにかの一部のようだったが、この人差し指程度の大きさしかない欠片だけでも価値がありそうなほどに美しかった。男はその神秘的な魅力に、なんとかして直接手にとりたいという強烈な欲求を感じた。
「見つけたぞ!」
突然、広場の薄闇に男の声が響いた。ひどく驚いた髭面の男は慌てて辺りを見渡したが、声の主が見えないので恐ろしく思った。
すると、再び声が響いた。
「ここだ!」
声は上方からのものだった。髭面の男が見上げると、不可解な光景が目に飛び込んできた。
人が空を飛んでいた。
夜空に姿を現したばかりの月を背景に、男が空を飛んでいた。彼は自分の体以上はある長大な金属の板の上に立ち、篝火の灯りに下から照らされて、中空にふわふわと浮かんでいる。金属の板はまるで剣のようなかたちをしていた。
髭面の男があんぐりと口を開けて固まっていると、その男はゆっくりと目の前に下り立った。髭面の男はそのとき、目の前の男が瓶を盗んだ相手だと気がついた。
「その瓶を返してもらおう」
ゴードンは『聖剣グラビトンプレート』の柄をつま先で弾いて片手で掴み、先端を地面に突き刺すと、男にそう言った。
男はゴードンの迫力にたじろいだ。男はもうすっかり邪剣の欠片に魅入られていて、渡したくないというのが本心だった。
ゴードンは険しい顔で怒鳴った。
「今すぐ渡さないと叩き斬るぞ!」
ゴードンは聖剣を男に突きつけた。『グラビトンプレート』はその大きさに反して片手でも扱えるほどに軽いようだった。男は彼の恫喝に震え上がった。
「わ、わかった、返すよ……」
「それでいい」
男はぶるぶる震える手で瓶を差し出す。ゴードンはそれを受けとり、火に透かして中身を確かめた。金属片が無くなっていないことを確認すると、彼は安堵した表情を見せた。
「危ないところだった……」
「危なぁーいッ!」
いきなり、暗がりにそんな叫び声が響いた。その声は村の出口、山道への入り口方向から響いたものだった。夜闇の向こう側のことだったので、何があったのかは明るい広場からは見えなかったが、そうしてゴードンの注意がそちらへ向いた隙をついて、髭面の男はゴードンの手から瓶を奪い返すことに成功したのだった。
「きさま!」ゴードンが気づいたときには遅かった。
髭面の男は瓶を固い地面に思いきり叩きつけ、中の金属片を飛び出させた。そして素早くかがんでそれを拾い上げる。
ゴードンは聖剣を地面から抜き、手遅れになる前に男の腕を切り落とそうとした。しかし間に合わなかった。男の手には金属片から生えた無数の触手が一瞬で絡みつき、すでに短い刃を形成していたのだった。ゴードンの一撃はその剣に軌道を反らされ、地面に深い傷をつけた。
「うぎゃああぁあああっ!」男が絶叫していた。
「なんだよこれ、なんだよぉ! こえぇよう!」
「ジッとしてろ!」
ゴードンはふたたび剣を振るが、また弾かれる。
邪剣の触手はついに男の頬を這い上がった。
「テメーの『聖剣』はッ!」
男の声色が奇妙に歪んだ恐ろしいものとなった。同時に、顔に浮かんだ邪悪な表情に、ゴードンは彼を助けられなかったことをさとった。
「その剣身にかかる重力をッ! 自在に操る機能を持つゥッ!」
邪剣は男の頭を完全に支配したらしく、流暢な喋りだった。触手が絡みついた腕の表面は硬質化し、鎧のように戦いに適したかたちに変化しはじめている。
「しかしィ! 攻撃に必要な『重さ』を確保するとォ! とたんにスットロくなるんだぜぇええ!」
ゴードンは無言だったが、内心焦っていた。
この邪剣は『グラビトンプレート』の性質を完全に把握している。そのことは戦いにおいて非常に不利な状況だった。だが聖剣師に逃走は許されない。
(せめて、ヤツに隙を作ることができれば……)
「オラァッ!」
怒声が響いて、疾走する蹄の音が近づいてきた。ゴードンがその方向に視線を飛ばすと、見覚えのある少年が暴走した馬に乗ってこちらに突っ込んでくるところだった。カイルの姿を見て、さっき登山道の方から聞こえた「危ない」という声が彼のものだということにゴードンは気づいた。
カイルは馬の手綱から手を放し、鞍の上に立って跳ぶ。そのまま頭の上まで振り上げた聖剣で斬りかかったが、振り下ろした刃は弾かれて、カイルの体は地面を転がった。
「カイル!」
ゴードンはグラビトンプレートを大きく横薙ぎし、邪剣を牽制しながらカイルに駆け寄る。
「かすり傷だ!」カイルは素早く立ち上がり、トワイライトブレイドを構えなおした。
ゴードンは彼に言う。
「カイル、ほんの一瞬でいい。ヤツの目を引きつけてくれ」
「一瞬で良いんだな?」
「それだけあれば『叩き潰せる』」
「わかった」カイルは視線をすばやく周囲に飛ばした。
カイルはゴードンから離れるように、邪剣を中心とした円周上を走り出した。邪剣がしっかりとこちらのことも目で追っていることを確信したカイルは、男の背後にまわると、お互いの間合いのギリギリのところで立ち止まり、聖剣の刃を橙色に輝かせた。
「くらえぇ!」
カイルは一気に踏み込んだ。が、聖剣の刃は男の背中に届く前に防がれた。剣身を防いだのは、男の体から伸びた邪剣の触手だった。聖剣の刃に触れた部分は発火したが、ダメージが入っているようには見えない。男はこちらを振り向いた。その隙に乗じて、ゴードンが闇にまぎれて姿を消した。
「てめぇの聖剣はッ! 次世代型か!」
「消し炭にしてやんよ!」
カイルは邪剣にむけて舌を出した。邪剣は凶悪に口元をゆがめながら体をこちらに向け、とびかかってきた。邪剣の触手が四方からカイルに襲いかかる。
「あっちこっち!」
カイルは複数方向からの斬撃を一本の聖剣でなんとかいなしつつ、素早く後退していった。途中、聖剣による防御をすり抜けたこともあったが、そうした攻撃は、カイルの身に着ける肩当てや腰布によって防がれた。
「防刃布かぁ!?」邪剣が怒鳴る。
しかしカイルは反撃もできず、次第に追い詰められていく。後退の果てに背中がなにかにあたって、カイルは少なからずぞっとした。
背中に当たったのは漆喰の塀だった。左右に長く高い塀が通りに沿って建てられていた。カイルはそこに追い詰められていた。
「もらったぁ!」
邪剣が歓喜の叫びをあげながらとどめを刺しに来た。カイルはすばやく聖剣を壁に突き刺し、そこを足場にして塀の上端に手をかける。そのままほぼ腕力のみで自身の体を引っ張り上げた。邪剣の攻撃は空を切った。
「置いていくなんて馬鹿かてめぇは!」
そう言った邪剣は壁に刺さったままの聖剣に触手を伸ばすが、引き抜く前に触手は切り飛ばされた。カイルは聖剣の鍔についている短冊形の飾り布を、跳んだときにはすでに握っていて、それを塀の上から引っ張ったのだった。聖剣は宙を舞い、カイルの手に戻った。
「待てやぁッ!」
塀の向こう側に姿を消したカイルを追って、邪剣も跳んだ。人間にはとても不可能な高さにまで跳躍した邪剣は一気に塀の向こう側に着地する。足元の予想外の感触に、邪剣は驚いた。
「お湯!?」
邪剣が着地したのは露天風呂の浴槽内だった。湯面から湯気が立っていて、硫黄の匂いがあたりに漂っている。
「湯加減はどうだぁ!?」
挑発的な声が聞こえて、邪剣はそっちを向いた。浴槽から出たところにカイルが立っていた。
「逃げてばかりか! 臆病者!」
「みっともねぇけど、それでいいんだ!」
「なに!?」
そのときになってやっと、邪剣はカイルが聖剣を持っていないことに気がついた。はっとなって周囲を見渡すが、気づいたときには遅かった。聖剣トワイライトブレイドは邪剣の足元、湯船のなかに転がっていた。その周囲が沸騰している――!
「しまっ……」
聖剣の周囲のお湯が爆発し、強烈な水蒸気があたりに巻きおこった。夜の闇も相まって視界は封じられ、一寸先も見えない。邪剣は逃れようと跳躍しようとして、いきなり頭上から降ってきたものに叩き潰された。水柱があがり、肉片が飛び散り、湯船が真っ赤に染まる。熱く赤いお湯が雨のようにカイルの体に降りかかった。
「……うわぁ」その光景に、カイルは引いた。
空から降ってきたのはゴードンだった。彼は巨大な聖剣、グラビトンプレートの側面で、ハエたたきで虫を潰すように、頭上から邪剣を叩き潰したのだった。彼は全身を真っ赤に染めつつ、濡れた前髪をかきあげた。
全身に熱く臭い血と肉を浴びたのと、凄まじく酷い人の死に方を目の前で見たカイルは、心が冷える想いがした。ゴードンはその場で聖剣の血を拭うと、背中に負う。ぐちゃぐちゃになった邪剣の死体から欠片を拾い上げ、空き瓶に保存した彼は湯船から上がると、カイルに向かって笑いかけた。
「ありがとう、助かった!」
「……あ、はい」カイルは顔に降りかかった血を拭いながら返事をした。
「それにしても、ずいぶん早かったな。私は空を飛べるからいいとして、君はてっきり間に合わないものと思っていた」
「あー、それはですね、街の正門近くの貸し馬屋から足腰の強い馬を借りて、それに乗って曲がりくねっている山道をまっすぐに駆け下りてきたんです。いやぁ、怖かった」
「あの『危ない』という声はそれか……カイル君、私の失態でひどい迷惑をかけてしまってすまなかった。この恩は忘れないよ」
「いえ、当然です。そもそもスリなんてする方が悪いんです。あの人は……自業自得みたいなものですよ」
カイルは邪剣だった男の、もはや原型を留めていない死体を見た。肉の塊は湯船中に拡散し、ぷかぷかと浮いている。
「いいや、それは違うな」ゴードンが言った。
カイルは怪訝な顔をした。
「彼はただ不運だっただけだ。悪いのは邪剣だ。我々は理不尽に人の命を奪う邪剣を滅ぼさなければならない」
ゴードンの口調は断固としたものだった。カイルは彼もまた信念をもって聖剣を振るうのだということを確信して、少し嬉しくなった。
「ゴードンさん、後の処理は俺がやります」
するとゴードンは片眉を上げる。
「いいのか? 迷惑だろう」
「迷惑ついでです。それに、ゴードンさんは次の街へ急がなきゃ。聖剣師が立ち止まっていいのは死ぬときだけ、でしょ?」
ゴードンは何か言おうとしたが、言葉をのみこんで苦笑した。
「たしかにそうだな……では悪いが、私はこのまま出発させてもらう。遅れを取り戻さないとな」
「道中お気をつけて。聖剣の加護があらんことを」
「ありがとう。君にも、聖剣の加護があらんことを」
そうしてゴードンは立ち去った。
残されたカイルは騒ぎを聞きつけて集まってきた村人たちに事情を説明する。
それから全身血まみれなことを指摘されて、苦笑した。
「また、温泉にはいらなくっちゃあな……」
翌朝、山から下りてきたレイスと合流したカイルは、再び旅に出る。
「そろそろ王都に戻りましょうか」レイスが言った。