おわりの朝
太陽が地平の果てに隠れた。
燃えるような茜色に染まっていた王都の街並みは闇に沈みはじめ、薄暮の中に、時間をかけて喉や皮膚を焼かれた人々の死が、静かに満ちている。
今や虚ろな光すら無い彼らの瞳は、予期せず訪れた自らの死を嘆き、見た者に鳥肌をたたせる怨念に満ちていた。
いきなり、その瞳に水滴が弾ける。
彼らを焼き尽くした凄まじい熱が雲を作り、空高く舞い上がった埃と塵と結びついて、粘り気のある黒い雨となったのだった。雨はあっという間にどしゃ降りとなって王都に降り注ぎ、城を覆う透明なバリアにそって、ドーム状に流れた。
ドームの内側に雨音は届かないが、遠くに見えるどす黒い雲に、カイルは、ああ、雨が降っているのか、とぼんやり思った。
体を分断された兵士たちの血で地面は濡れ、倒れ伏すカイルはのどに絡むような臭いと、いまだ温かい血の海に沈んでいたた。
しかし足に力は入らず、すさまじい疲労感が指先まで体を支配していた。
カイルの頭にはさまざまな想いが渦巻いていたが、そのなかで一番鮮烈にカイルの意識をつなぎとめていたのは、エレナのことだった。
邪剣王はエレナをさらっていってしまった。その目的はわからないが、ヤツは玉座の間で待つと言い残していった。
早く行かなければ彼女がなにをされるかわからない。
しかし、足が動かないのだ。
カイルは無力感に包まれた。結局、自分はいつだって肝心な場面では何もできない。
父さんが殺されて肉体をのっとられたときも、母さんとクリスが殺されたときも、一年前に王都でヤツが暴れまわったときも、ついさっきゴードンさんが斬られたときも、何もできなかった。
(さんざん『復讐』だとか『滅ぼす』だとか言っておいて、このザマはなんだ!)
カイルの虚ろな目に、ふたたびかすかな光が灯った。
彼は腕を地面につき、なんとか体を持ち上げようとした。しかし横すべりし、血の海に仰向けになった。
(いいや、まだ間に合うはずだ)彼はそう考えた。
(せめて、エレナだけは――)
「――絶対に、助ける!」
カイルはカラカラの声で叫んだ。そのとき、彼はふいにさっきの邪剣王の異様な姿を思い出し、ある直感をおぼえた。カイルはもしかして、とそれを試すことにした。
カイルは力を振り絞って左腕の触手を伸ばし、自分の体を包み込むように這わせた。触手は左腕全体を包み、胸と背中を斜めにつっきり、腰から下を包みはじめた。触手が太もも、膝、ふくらはぎ、足先まですっぽり覆うと、カイルは立ち上がった。
彼は驚いた。つい今まで足腰がたたないほどに疲弊していたのに、邪剣の触手によって手助けすれば、ほんのわずかな力で立ち上がることができたのだった。自由に動かすには少しだけ慣れが必要そうだったが、今のままでも日常の行為なら問題なく行えそうだった。
カイルは聖剣を背負ってあたりを見渡し、少し歩いた。そこには気絶して倒れ伏すゴードンがいた。カイルは両腕を触手で覆い、彼の体を抱える。ゴードンの体は後ろに転けそうなほど軽く持ち上がった。
このまま彼を医務室まで運んであげたかったが、エレナのことがあるのと、今のこの姿を見られたらまた面倒なことになるのがわかりきっていたので、手早く止血と包帯だけを施して、近くの壁によりかからせるだけにとどめた。
カイルはそれから、いくつかの建物の向こうにそびえ立つ城の本丸の影を睨んだ。
聖剣を背負いなおし、一度だけ深呼吸をすると、カイルは跳び上がる。石壁を蹴り、建物の屋根に上がって、彼は本丸まで一直線に駆けていった。
同じころ、レイスもまた怒りと屈辱に唇を震わせていた。
城の中心、玉座の間の入り口には兵士や僧侶が大勢詰めかけて、異様な緊張とともに中を覗き込んでいる。レイスはその先頭にいた。
高い天井の隅々にまで典雅な意匠が施された玉座の間は、一見すると礼拝堂のようにも見える。床には真紅のカーペットが敷かれ、壁ぎわには炎の灯った背の高い燭台が一定間隔で並んでいる。一番奥の、床から三段上がった壇上で、優美な装飾のされた大天窓の下に、王と王妃の玉座が並んでいた。それらの主の避難はすでに済んでいたが、今、そこには別の王が腰かけていた。
邪剣王だった。彼は玉座にゆったりと身を沈め、足を組んでくつろいでいた。そのとなりの王妃の席には、エレナが座らされていた。
彼女は体を邪剣の触手で縛られたまま、恐怖に身を震わせていた。美しい顔は青ざめ、エメラルド色の大きな瞳は涙に濡れている。肩や足の部分の服がところどころ裂けて、周囲に血が滲んでいるのは、邪剣王がときどき軽く切りつけて楽しんでいるためだった。
邪剣王がエレナとともに王城の入り口に現れたとき、何人もの聖剣師がかかっていったが、みな殺されてしまった。聖剣すら持っていない普通の兵士たちがその光景を見て戦意を保てるはずもなく、結果として邪剣王はほとんどなんの障害もなく玉座の間に入り、あの場所に座ったのだった。
レイスは周囲の人々を横目でちらりと見た。
(助けたいが、下手に手を出したら、エレナが危ない……!)彼は歯笛を吹く。
まわりの人間たちも、人質の存在と我が身可愛さになにも決断することができずに、手をこまねいているだけしかなかった。ときどき、人質を無視して攻撃しようとか言い出す輩もいたけれど、尋常ではない聴力でそれを聞きつけた邪剣王はそのたびにエレナの体を軽く切りつけて悲鳴をあげさせるのだった。
こう着状態だった。
誰もが、この鬱屈した状態を、スパリと切り開いて欲しいと思っていた――
「遅いな」
――不意に邪剣王が言った。人々は彼に注目した。
邪剣王は玉座から立ち上がり、聖剣ムラマサを抜いた。
「いい加減待ちくたびれた」
彼はムラマサを持ち上げると、その反り返った刃をエレナの顔の前に持っていく。彼女の顔がさらに青ざめた。
「い……イヤ……!」
「貴様邪剣王ッ!」
レイスが飛び出そうとして、まわりの人々に押さえつけられた。床に頭と体を強く抑えこまれるが、彼は精いっぱいの力で暴れる。
「エレナをやるなら俺をやれ! エレナだけはやめてくれ!」
「ほぅ」
邪剣王はそんなレイスの様子を見て、楽しそうに目を細めた。
「まったく、貴様ら人間はどうしていつも……」
彼は口の端を吊り上げた。
「こうもやりがいある反応をしてくれるのだろうな!」邪剣王は剣を振り上げた。
「やめろぉおおおお――――ッ!」レイスは絶叫が響いた。
そのときだった! 邪剣王の頭上にある大天窓のガラスが割られたのは。
美しい彫刻が施されたガラスや窓枠を粉々に砕いたのは、外から飛び込んできた怪物だった。その光景を見た者はみな、あらたな邪剣が現れたと思った。レイスでさえも、それがカイルであるとわかったのは彼が絨毯の上に着地して、顔をあげたときになってだった。
カイルによってぶち破られたガラスは、邪剣王とエレナの上に降り注いだ。カイルはしまった! と思ったが、エレナに傷はつかなかった。
邪剣王がエレナの体を抱き寄せて、破片から守っていたのだった。振り向き、その光景を目にしたカイルは意外に思いつつも激怒した。
「エレナから離れろ!」
怒鳴り声に、入り口に集まっている人々がざわめいた。邪剣王を逆上させてしまうかもしれないという恐怖が、カイルへの罵声となった。しかしそうして彼らの興味の対象がカイルに移ったために、押さえつけられていたレイスは解放された。彼は素早く立ち上がり、引き止めようとする腕をすり抜けて、カイルのそばに駆け寄った。
「いくぜ、レイス」
カイルは横に立ったレイスのことを見ずに、そう言いながら剣をかまえた。レイスはガンを抜いてうなずいた。
「ええ、いきましょう」
「ソイツを離しな!」
カイルが聖剣を邪剣王に突きつけて怒鳴った。
邪剣王はエレナの体を抱き寄せたままニヤリと笑った。
「かまわんぞ」
「なに……?」
意外な返答にカイルはたじろいだ。横のレイスが怒りのこもった声で訊く。
「交換条件があるのでしょう? 貴様はカイルを待っていた」
「そのとおりだ」
邪剣王はエレナの顔をカイルたちによく見えるようにし、その首にムラマサを突きつけた。飛びかかりかけたカイルが、自分の足を無理やり止める。
「娘よ、死にたくないか!」
邪剣王はそう問う。エレナは何か言おうとしていたが、鳴り続ける奥歯に、言葉が出ないようだった。かろうじて首を横に振るのが見えた。
邪剣王は満足げにうなずく。
「カイルよ、この娘の命を助けたいなら――」
邪剣王はカイルを見下ろして言った。
「――我にその体を明け渡せ!」
「なんだと……!?」
カイルの眉尻が上がった。レイスは彼を一瞥した。
邪剣王は語る。
「我がなぜ人間の体に寄生するか、知っているか?」
「興味もねぇな」
掃き捨てるようにカイルが言った。だが邪剣王は無視する。
「我は不老不死であり、自由に体を変形させることができる触手の塊だ。つまり全身が筋肉のようなものだ。だから他者の体が必要なのだ」
「そんな御託を聞いているヒマは――」
「――そうか! そういうことだったのですね!」
なにかに気づいた様子を見せて、レイスがそう言った。カイルはそっちを見る。
「なんだよ!?」
「カイル、海に住むタコという生き物を見たことはありますか?」
「今はそんなの関係ない――」
「――さすが、僧侶は理解が早いな」
邪剣王が含み笑いをしながら肩をすくめた。カイルだけが疑問の色とともにふたたび邪剣王を見た。
「我は骨を持たない。ゆえに、このように人間のかたちを保つためには、肉体と、それを支える『骨』が必要なのだ。しかし、我の体を完全に支えられる骨を持った生き物など自然には存在し得ない。無理に搭載しようとすると、このように触手で体を覆い、支えなければならなくなる……だから我はいままで、各地に散った我の一部を放っておいたのだ」
「そのためにカイルに邪剣の一部を埋め込んだのですね」
「そのとおりだ」邪剣王はうなずく。
「幼い子供に我の一部を植えつけて、成長期の数年間をかけてじっくり、骨の髄までなじませる。すると成人するころには、我のパフォーマンスを存分に発揮できるだけの強度を持った骨が完成するわけだ。そうすればもう、いちいち定期的に人間の体を奪わずに済む」
「ンだよ……それ……」
カイルは愕然としていた。聖剣を握る腕がかすかにふるえていることにレイスは気づいた。
「さらに言えば成長期によく運動し、人並み以上に体を鍛えていると望ましい。邪剣の浸透がより良くなるからだ。そして子供をそう仕向けるには、強い目的意識を与えてやれば良い」
「そんな……そんな……」
語り続ける邪剣王から視線をおとして肩を震わせていたカイルは、いきなり顔を上げて、今までで一番の大声でどなった!
「そんなくだらない理由でみんなを殺したのかッ!!」
「ならば人を殺すに足る理由を見せて見ろッ!」
邪剣王はカイルに、片手に形成した邪剣の切っ先を突きつけた。
「さぁどうする聖剣師カイルよ! 大義をとってこの娘を殺すか、己を殺すか、選べ!」
「俺は、俺は――!」
「悩む必要などありません!」
響き渡ったのはエレナの声だった。その場にいる人間はみな彼女に注目した。
「カイル! あなたは聖剣師でしょ! だったら、邪剣を滅ぼして!」
「人質が喋るんじゃな――グッ!?」
邪剣王がくぐもった叫びをあげ、身をすくませた。そのときムラマサの刃があがり、エレナは額に大きな傷を負いながらも、するりと邪剣王の手から逃れる。そのとき、カイルは邪剣王の脇腹に、かつて自分がエレナに送ったかんざしが突き刺さっているのを見た。
「貴様ァ!」
邪剣王が憤怒の表情で触手を伸ばし、エレナを攻撃しようとする。しかしそれは遮られた。カイルが左腕から伸ばした触手に阻まれたのだった。
「はやく行けぇ!」
彼の叫びはエレナとレイス、両方に向けられたものだった。レイスはすばやく、走りこんできたエレナを抱きとめ、部屋の入り口へと走る。
邪剣王は触手を弾き、カイルを睨みつけた。
「できれば無傷で手に入れたかったが、しかたない!」
彼は全身から触手を伸ばし、全方向から同時にカイルに襲いかかった。
(聖剣一本では、防ぎきることはとても不可能――!)しかし彼は恐れていなかった。
カイルが邪剣王の触手に刺し貫かれたように見えた直後、邪剣王の触手はすべて切り飛ばされ、宙を舞っていた。邪剣王は驚愕し、何が起こったかを理解すると、その滑稽さに腹を抱える。
「なんだ! なんだそのザマは!」
彼はカイルを見て笑っていた。
触手を切り飛ばしたのは、カイルの『二本』の剣だった。
右腕に握っているのは聖剣トワイライトブレイドで、その刃は赤熱し、陽炎をまとっている。カイルは消耗した体力を補うために、右半身にも触手をまとわせていて、いまや全身が触手に包まれていた。
左腕の剣は触手を寄せ集めたもので、腕と一体化した幅広の刃だった。それは彼がいままで倒してきた邪剣たちが使っていたものとまったく同じものだった。
カイルは、聖剣と邪剣をそれぞれの腕に握っていた。
邪剣王の笑いはなかなかおさまらなかった。おもしろくて仕方がなかった。なぜならば、全身を邪剣の触手で包み、聖剣と邪剣の二刀を構えるその姿は、邪剣王自身にしか見えなかったからだ。
「よかろう」
邪剣王はひとしきり笑い尽くすと、聖剣ムラマサを握りなおし、反対の手に形成されている邪剣とともにかまえた。
部屋の入り口にたどり着き、後方を振り返ったレイスとエレナからは、カイルと邪剣王の姿は同じように見えた。レイスはカイルの姿から伝わるその危うさに、戦慄した。
「カイル……あなたは、カイル……?」レイスがつぶやいた。そのとき、エレナがふっと倒れる。レイスは慌ててその体を支えた。
「しっかり! 傷は浅い!」
「カイル……だめ……それ以上……!」うわごとのようにエレナがつぶやく。
「どいてくれ! けが人なんだぞ!」レイスはエレナの体を掲げ、入口をふさぐ人込みをかき分けて廊下へと出ていく。
兵士たちがかたずをのんで見守る中、残されたのは静寂……。
長い静寂だった。
カイルと邪剣王は長い時間にらみ合っていた。カイルは強い炎を秘めた瞳で邪剣王を射抜き、邪剣王は氷のように冷たいまなざしでカイルを刺していた。周囲の人間は、彼らの放つ緊張感に、自らの身の安全よりも、この戦いを見届けたいという欲求がまさって息をひそめていた。
先にしかけたのはカイルだった!
カイルは床を蹴り、二刀を振り上げて邪剣王に跳びかかる。
邪剣王は一本の剣で両方の刃を受けると、飛び散る火花に照らされながら、もう一本でカウンターをしかけた。するとカイルは、人間にはとても不可能な跳躍でそれを避ける。空中に浮いたカイルを刺し貫こうと邪剣王は触手を伸ばしたが、カイルはそのうちの一本ををつかみ、引っ張って、逆に邪剣王に突っ込んだ。すれ違いざまに邪剣王の腕を深く切りつけて床に着地したカイルは、そのままの勢いで床に転げる。
「やるな!」
邪剣王が嬉しそうな声をあげ、転がったカイルに追い打ちをしようとした。カイルは危険を察知すると、腕の力のみで床から跳び上がり、空中で体をひねって蹴りを放つ。
放たれた蹴りは聖剣ムラマサの腹によって受け止められ、そのままカイルは弾かれた。全身をバネのようにして壁に着地し、体勢を立て直しつつ地面に降り立って、ふたたび剣をかまえる。
その一連のやりとりを見ていた兵士たちの誰かが、ぼそりとつぶやいた。
「人間じゃない……」
彼らの後方でエレナの快方をしていたレイスは、その言葉に凍りついた。
「人間、じゃない……」口の中で小さくそう繰り返す。
ふと、何かが間違っている、という感覚が胸のうちに湧いた。
(聖剣王さまが仰っていた……物事はその『本質』によって判断されるべきなのだと……)
レイスはつぶやいた。
「では……本質とは……?」
彼はそっと腰に提げたガンに触れる。そのとき、兵士たちがどよめき、叫び声が上がった。
「燭台が倒れたぞ!」
カイルと邪剣王の戦いに巻き込まれて、火のついた燭台が絨毯の上にぶちまけられたのだった。火は広がりはじめている。
「いけない! みなさん、逃げましょう!」
レイスがそう叫ぶと周りの兵士たちはクモの子を散らすように、いっせいに逃げ出しはじめた。レイスもエレナの体を抱えてその中に混ざった。
玉座の間ではどんどん燃え広がる炎を気にもとめず、カイルと邪剣王が切り結んでいる。聖剣と邪剣が火花を散らし、ときどき互いの体液が飛び散って蒸発する。
だんだんと鋭くなるカイルの打ち込みに、もはや邪剣王の顔にも余裕はなくなっていた。カイルの思考も余計なものは絶たれ、いまや全脳細胞が目の前の怪物を倒すことのみに稼働している。
それは、永遠に続くかのような戦いだった。
……どれほどの時間が経っただろうか。
炎は玉座の間全体に広がり、天井が少しずつ焼け落ちはじめても、ふたりの戦いに決着はついていなかった。
だが彼らの体力にも限界はあり、なおかつ邪剣王の体は――カイルの父親の体は――長年の酷使と炎の熱により、限界を迎えていた。そのため、ふたりの体力は同時に尽きかけようとしていた。
ふたりはもはや触手で剣を形成することすら諦めていた。体力は二本の足に全て注ぎ込み、お互いを打ち倒そうという意志の強さだけで自分の体を支えていた。ふたりはふたたび対峙していた。
彼らはしばらく浅い呼吸で睨み合っていたが、カイルがよろよろと聖剣を振り上げ、叩きつけるように振り下ろした。
邪剣王もふらつく足どりでなんとかそれを避ける。すると、カイルの足から力が抜けて、頭から床に倒れ伏した。邪剣王はニヤリと笑った。
「限界か! 無様だな!」
彼はおぼつかない足どりでカイルの横に立ち、肩を蹴って仰向けにさせる。
カイルは苦痛と疲労に満ちた表情で邪剣王を見上げていた。その目から察するに、意識も朦朧としはじめているようだった。だがそれでも彼は剣を離さない。
「勝ったぞぉっ!」邪剣王は大声でそう言った。
彼は聖剣ムラマサをゆっくりと振り上げる。カイルは立ち上がろうとしたが、体に力が入らなかった。
「…も……って、殺し……!」
カイルの絞り出すような言葉に、邪剣王は刃をとめる。
「なに?」
「父さんも、こうやって……殺したのか……!」
その言葉に、邪剣王は嬉しそうな表情をした。
「……ああ、そうだ。覚えているぞ……貴様の父親……ヤツは強かった……」
邪剣王は剣をさげ、懐かしむような口調で語る。
「そう……ちょうど、今のような状況だったな……」
カイルの目には、炎に照らされたその表情が、なんだかとても悲しそうに見えた。
「我も奴も満身創痍で……体力の限界まで戦った。あれほどの男は数十年ぶりだった……強敵だったよ」
「お前は……」カイルが言った。
「これからも、生きるのか……」
「もちろんだ」きっぱりと邪剣王は言った。
「我は可能な限り生き続け、人間を殺し続ける。それが対刀剣型兵器用寄生型生物兵器『ソードハンター』として造られた我の使命だ」
「ソードハンター……?」
「『剣を狩るもの』という意味だ」邪剣王はどこか自嘲気味に笑った。
「さて、そろそろお別れだ……その体、もらうぞ――」
邪剣王は剣を振り上げた。カイルはいよいよかと身をこわばらせた。
そのときだった、カイルの手に、ずっとポケットに入っていた小さな石が触れたのは。
反射的な動きだった。カイルはすばやくポケットから石を抜き出して、指先の力でそれを邪剣王の顔に向けて投げた。消耗していた邪剣王は不意の攻撃に反応できず、その石つぶてを防ぐために一瞬バランスをくずした。カイルはその隙を逃さなかった。
思考を伴わない筋肉の動きだった。ばね仕掛けのようにカイルは立ち上がり、トワイライトブレイドで邪剣王を逆袈裟に切り上げた。その傷は深く、大量の血が周囲の炎にふりかかった。
「ぐあああ!」邪剣王は絶叫した! まるで糸の切れた操り人形のように邪剣王は床に膝をつく。が、すぐにまた立ち上がった。
「長かった……」
直後、静かに発せられた邪剣王の呟きを聞いたカイルは、なくしかけていた意識を一気にとりもどした。なぜならば、その声は聞き覚えのある声で、しかもどこか邪剣王の言葉とは違っていたからだ。カイルはその声の主を知っていた。もう聞けるはずのない声だった。
あまりの衝撃に、カイルは最後の力を振り絞って、聖剣を杖に立ち上がった。震える足に気合を入れて邪剣王を見ると、信じがたい光景がそこにあった。
「父……さん……?」
カイルの父、グリゼル・ラックハルトが、炎の中に立っていた。
カイルは思わず目をこすった。すると、やはりそこにいるのは邪剣王でなく、グリゼルだった。同じ顔と体でも、はっきりわかった。幻覚かともカイルは思ったが、こちらをまっすぐに見つめる邪剣王の瞳の輝きに、カイルは確信した。
「大きくなったな、カイル」
邪剣王の声に、カイルはまた身を震わせた。グリゼルの声だった。カイルにはわけがわからなかった。
「聖剣『ムラマサ』の機能だ」父は言った。
「持ち主の記憶と人格をバックアップし、一時的に他人の体を乗っ取ることができる機能だ。俺は死ぬ直前に、これを使って剣の中に記憶と人格を保存していたのだ。そして邪剣王が激しく消耗した今になってやっと、乗っ取ることができた」
「じ、じゃあ……」
カイルは震える声で言った。
「……ほんとうに、父さんなのか……?」
「ああ」グリゼルはうなずいた。
「父さん!」
「来るな!」
駆け寄ろうとしたカイルをグリゼルはどなりつけた。カイルは泣き出しそうな顔で足をとめた。
「この機能は数分間しかもたないし、俺はもう死んでいるんだ! いつまでも過去に縛られてはいけない!」
「でも、でも父さん……!」
「いいかカイル」
グリゼルは炎の中から進み出て、カイルのすぐ前にひざまずいた。彼はカイルを見上げ、優しげに微笑む。
「決別のときだ。お前は、俺や母さんやクリスのためでなく、お前の人生を生きるんだ」
「でも、せっかくまた会えたのに……!」
「甘ったれるんじゃない! お前は聖剣師だろう! 邪剣の王が目の前にいるんだぞ! 戦わなくてどうするんだ、みっともない!」
「みっともなくたっていい!」
カイルは号泣していた。立ったままわんわんと大声で泣いていた。グリゼルは悲しげな表情をし、立ち上がってカイルを抱きしめた。カイルも抱きしめかえした。
「ずっと会いたかった! 一緒に夕飯を食べたかった! 旅のみやげ話を聞いて、肩車をしてもらいたかった! なのに……なんで死んだんだよ!」
「そうだ、俺はもう死人だ」
グリゼルはカイルを無理やり引きはがし、ふたたびその前にひざまずく。
「だからな、この世に居ちゃいけないんだ……お前も大人の男だろう」
彼はそう言って、不敵にニヤリと笑った。
「お前にしかできないんだ、頼むぜ」
カイルはその笑顔を見て、無言でうなずいた。涙を拭って聖剣を持ち上げ、ときどき、ヒック、ヒックとしゃくりあげながら、目の前の邪剣王の頭を見た。
「そうだ……立派だ、カイル」グリゼルは静かに言った。
カイルはぎゅっと目をつぶり、絶叫した。
「うわああああああーっ!!」
「愛しているぞ」
聖剣が振り下ろされた。
邪剣王の首が身体から切り離され、床に転がり、聖剣の炎に包まれる。残された体もトワイライトブレイドの機能によって内部から焼けただれていっていた。
涙のあとは乾きはじめていた。カイルは力強く剣を握りしめ、ひとふりして血を払い、床に突き刺す。
それから小さくつぶやいた。
「さよなら、父さん……母さん、アンナ。そして、邪剣王……」
炎の海のなか、少年は力尽き、崩れ落ちた。
炎にまかれた玉座の間に、ひとりの青年が駆け込んでくる。
彼は部屋の中心で倒れている少年を見つけると、そばにかけより、見下ろした。
少年の体は全身が邪剣の触手に包まれて、もはや人間というよりも怪物という形容のほうがふさわしい。その姿に青年はたじろぎ、腰に提げた拳銃を抜いた。
彼は気絶している少年の頭に狙いを定める。しかし彼は引き金を引かなかった。少しばかりの迷いと葛藤の果て、彼は拳銃を後ろに放り、少年の体を抱えあげ、部屋の出口へと走り去っていく。
あとには、床に刺さった一本の聖剣と、そのすぐそばで燃え続ける怪物の死骸だけが残った。
激しい炎は何もかもを焼き尽くしていく……
黒い雨がやみ、地平のかなたからふたたび太陽が顔を出した。
あたたかい光は東の空から、いくつもの山、豊かな森、鮮やかな平原、清らかな川、それらのあいだで互いに身を寄せ合うように存在する小さな村、大きな町を、皆平等に照らす。
王都の火事は、人々の懸命な消火活動によってそのころにはすっかりおさまって、あとには黒ぐろとした廃墟と、何もない荒野だけが残った。
だが人々の目は希望にあふれていた。
なぜならば、この国から邪悪はなくなったのだから!
こうして、長きにわたった聖剣と邪剣の戦いは終わった。いくつもの傷を残して。




