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第5話 逃走

 メアリーは、今の状況が信じられなかった。信じたくなかった。

 メアリーは屋敷へと帰って来た。けれど、こんな帰宅は望んでいなかった。


 目の前には、優しい兄。けれどいつもの優しい面影は消え、彼の笑顔からはただ冷たい印象しか受けない。

 床に叩きつけるようにして解放され、メアリーは座り込んだまま彼を見上げる。


「お兄様……どうして、こんな事を……!

 お願いです、もう止めてください!! 今まで通りの優しいお兄様に戻って……!!」


 悲痛な声でメアリーは懇願するが、彼には届かなかった。

 ただ冷たい瞳でメアリーを見下ろし、背を向ける。


「奥の部屋に閉じ込めておけ」

「お兄様!」


 再び腕を引っ張られ、立たされながら、メアリーは兄の背中に呼びかける。メアリーの兄は、角を曲がって見えなくなった。


「ほら、歩け」


 メアリーを立たせた男は、強引に腕を引く。メアリーは渋々と歩いて行った。

 恐らく、閉じ込められるのは屋敷の一番奥にある部屋だろう。外からしか鍵が掛けられず窓の無いあの部屋は、実質牢屋のようなものだ。


 メアリーは唇を噛む。

 信用していたのに。信頼を置いていたのに。

 例え血は繋がっていなくても、彼はかけがえの無い兄だった。


 遺産が欲しいなら、くれてやる。屋敷も、美術品も、メアリーにとっては大して重要な物ではない。

 両親がいて、兄がいて、使用人達がいて。何の変哲も無いいつも通りの生活が続けば、どんなに良かっただろう。

 メアリーは、廊下の途中に生けられた花をじっと見つめる。大きな花瓶に生けられた、たくさんの花。色鮮やかな筈のそれも、今のメアリーには灰色に見えた。


 その花瓶の前まで来て、メアリーは掴まれた方の腕を振り払った。慌てたように男は振り返る。彼が振り返った時には、メアリーは横にあった花瓶を振り上げていた。

 鈍い音が響き、磨かれた廊下に数滴の鮮血が落ちる。男がよろめいている内に、メアリーは駆け出した。


 屋敷は代々増築を繰り返し、複雑な作りになっている。先々代の遊び心で、隠し通路のような物も中にはある。

 メアリーは、この屋敷で生まれ育った。兄に雇われた者達は、たった数日居座っただけだ。上手くいけば、逃げ切れるかも知れない。


 幾つもの扉を潜り、何度か床板を外して下の階に降り、廊下を疾走し、メアリーは兄の部下の者達の手から逃げ回る。奴らと鉢合わせした時は、壁に掛かった絵画や棚に置かれた骨董品などを、手当たり次第投げつけた。そうして、メアリーは徐々に屋敷の外へと近付いて行く。

 あと少し。先に見える角を左に回り込めば、窓のある部屋の並ぶ廊下に出られる。


 ほっと息を吐いたのも束の間。

 その角を曲がって、大柄な女性が出てきた。迷わずメアリーは、途中の棚からくすねた写真立てを投げつける。続いて現れる人影にも投げつけようと振りかぶり、メアリーはその手を止めた。


 現れたのは兄だった。


 メアリーは踵を返し、逃げるようにして駆ける。右手の小部屋に駆け込む。そして、メアリーの足は止まった。

 この小部屋は、出入り口が二箇所あった。今メアリーが入ってきた扉と、対角線上にもう一つあったはずなのだ。

 しかし通る予定だった扉は、木材が打ち付けられ塞がれていた。

 直ぐにも出て、別のルートを捜さなければ。振り返り、メアリーは硬直した。部屋の戸口には、兄が笑みを湛えて立っていた。


「まさに袋の鼠だな、メアリー」

「お兄様……」

「まったく、仕方の無い子だ。私の部下をあんなにも傷つけてくれて、どうしてくれるんだ?」

「……」


 メアリーは、ただ無言で彼を見つめる。

 あの時、迷わず物を投げつけていれば、こう直ぐに追いつかれる事は無かった。

 けれど、メアリーにはそれが出来なかった。例えどんな仕打ちを受けようと、彼はメアリーの兄なのだ。いつもの優しい笑顔がちらついて離れない。


「ああ、そうだ」


 ふと、彼は思い出したように口にした。首を傾げてにっこりと笑う。


「君と一緒にいた二人の少年だがね、始末しておいたよ」


 メアリーの目が見開かれる。がくがくと身体が震え出すのが分かった。

 まさか。彼らが、そう簡単にやられるとは思えない。


 けれど、メアリーが人質にとられた事で身動き出来なくなっていたのも、事実。


 殺されたとすれば、メアリーがあの場に向かったから。

 メアリーが、彼らを巻き込んだから。


 メアリーはその場に崩れ落ちる。

 ただ、逃げる事しか念頭に無かった。ただただ生き延びる事に必死で、他人を巻き込むと言う事がどういう事なのか、分かっていなかった。

 床についた手の横に、ぽたりと雫が落ちる。


「どうしてです……? どうして……っ。

 彼らは、何も関係無いじゃありませんか!?

 屋敷が欲しいなら、譲ります。家督も要りません。ロケットさえあれば良かったのでしょう?

 彼らを殺す必要も、私を捕らえておく必要も、無いじゃありませんか……っ!!」

「……そうだな」


 予想外の答えに、メアリーは顔を上げる。

 戸口に立つ兄は、メアリーに銃口を向けていた。


「……お兄様」

「曲がりなりにも、妹だ。本当は、手を掛ける事はしたくなかったんだがね。屋敷を血で汚す事にもなるし……だがこの際、仕方が無い」


 銃声が鳴り響く。


 同時に、叩きつけるような大きな音がした。


 痛みは無い。

 恐る恐る目を開くと、戸口には黒髪の男が俯き加減で立っていた。メアリーの兄は、扉と向かい側の壁に叩きつけられている。


「とことん、馬鹿な奴だ」


 男の声に、メアリーは目を見開く。


「事を運ぶ際、仲間同士の顔は覚えさせておいた方が良いぞ」


 顔を上げた彼の顔はまだ青年と言うには幼く、瞳は翡翠色だった。


「メアリー!」


 叫び、ルエラはメアリーに手を差し伸べる。メアリーは駆け寄り、その手を取った。


 メアリーの兄は立ち上がり、二人を追おうとする。

 しかし、何かに衝突し再び引っくり返った。よく見れば、壁の無い三方を薄い氷で囲まれていた。殴ったり蹴ったりする程度では、破れそうに無い。


「どうなさりましたか?」


 廊下を通りかかった部下の者が気付き、立ち止まる。

 彼は噛み付くように叫んだ。


「火を持って来い! 後の者はメアリーを追え!

 お前達と同じ服装をした少年が一緒だ!!」



* * *



「あなた、死んだんじゃなかったの?」


 廊下を駆け抜けながら、メアリーはルエラに問う。今までと変わらぬ、きつい口調だった。

 正面に現れた男をルエラは蹴り倒す。


「私がこの程度の者達に殺されるものか。

 それに、お前を守ると言っただろう?」

「……馬鹿」


 メアリーは小さく言って俯いた。


 人質さえ取られていなければ、反撃は容易い。ルエラ達の生存がばれぬよう、始末を命じられていた二人には気絶していてもらい、ディンを連れて病院へと赴いた。

 意識はあったが、あの脚では動けない。彼の治療を待つ事も無く、ルエラはメアリーの兄の部下達に紛れ込んだ。服は、気絶させた者達の物である。


 次々と現れる男達を倒し、ルエラはやや大きな服の袖を捲り上げる。


「こっち!」


 ルエラの腕を引き、メアリーは部屋へと駆け込む。

 クローゼットを開き、奥の壁を押す。何の変哲も無いように見える壁は、扉のように向こう側へと開いた。


「隠し通路か」

「お爺様がこう言うの好きだったのよ」


 二人はその中へと入り、薄暗い通路を駆ける。


「お母様も、好きだったみたい。逃げ回っていて分かったんだけれど、いくつか手を加えられているわ」

「面白い屋敷だな」


 リム城も、万が一に備えた通路はある。けれどもそれはあくまでも万が一の逃走用のもので、この屋敷のような遊び心は無い。

 不意に、前を進むメアリーの身体が前に傾いた。見れば、先には人一人通れそうな程の穴がある。


「や……っ、リ――」


 ルエラは手を伸ばす。しかしその手はメアリーには届かず、ルエラも転げるようにして穴の中へと落ちて行った。

 硬く冷たい壁に何度かぶつかりながら、ルエラは体勢を整える。間も無く、足元でどさっと言う音が聞こえた。


「メアリー、そこを退け!」


 言って直ぐ、ルエラはメアリーに覆い被さるようにして着地した。


「痛っ!」

「退けと言っただろう」

「そんなに直ぐ動ける訳無いじゃない!」


 文句を言うメアリーには構わず、ルエラは辺りを見回す。

 暗い部屋だった。四方の壁は直ぐそこまで迫っている。天井には穴が開いていて、どうやらそこからルエラ達は落ちたらしい。

 背後の壁と壁の間に、僅かな隙間があった。そこから漏れる光で、周囲の区別がついたのだ。


 ルエラは立ち上がり、隙間から外を覗く。

 外にあるのは、広い廊下だった。壁沿いには、幾つもの部屋が並んでいる。

 試しに隙間を挟む壁を押したり引こうとしたりしてみたが、微動だにしない。続いて四方全ての壁を押してみたが、どの壁も扉となりそうには無かった。

 ルエラはメアリーを振り返る。


「ここも隠し部屋か?」

「知らないわ。お母様が追加した部屋なんだと思う……。

 ……開かないの?」

「ああ……どうやら、閉じ込められたようだな」


 ルエラは再び隙間から外を伺いながら、ひそひそと話す。

 メアリーは食ってかかるようにしてルエラに歩み寄る。


「冗談じゃないわ! こんな所にいなきゃならないなんて――」


 不意に、ルエラはメアリーを壁に押し付けるようにし、彼女の口を手でふさいだ。

 ルエラは、黒い服を着て黒髪の鬘を被っている。ルエラが外側にいてメアリーを隠した方が、見つかりにくい。


「……この辺りも捜されているようだ」


 メアリーの耳元で、ルエラは囁く。口をふさぐ手は離したが、メアリーの顔の両側に手を突いたままだ。あまりの近さに、メアリーの首筋にルエラの息が掛かる。


 ルエラ達のいる部屋の前に、一人の男が現れた。奥にいるメアリーもその姿を認める。

 男は一つ一つ部屋を開け、念入りに捜し回っていた。ここは隠し部屋だ。外からも、容易には見つかるまい。そうは思っても、男の接近に恐怖が沸き起こる。

 再び逃げ出せた。ルエラとも再会出来た。

 安心していた心に、言い知れない不安が押し寄せる。

 震えを止めるように、メアリーはルエラにしがみ付いた。



* * *



 屋敷の前には大勢の人が集まっていた。誰もが、くすんだ青色の軍服に身を包んでいる。道は封鎖され、一般人の姿は無い。

 軍人達は整列し、門の前に立ち並ぶ。


「首謀者は、トム・クロス!

 下の者達は、やむを得ず命令に従っている者もいる可能性がある。可能な限り、無傷で捕らえよ。

 同時に、この家の主メアリー・クロスと、リン・ブローと言う銀髪の少年を保護する。

 ――突入!」


 掛け声の主は、艶やかな金髪の少年だった。彼を先頭に、軍の者達はクロス家の敷地内へと踏み込む。


「軍だ!」

「そんな馬鹿な!?」


 そんな声が、至る所でする。中には、何が起こっているのか理解していない者もいた。


「な、何があったんですか!?」


 廊下を突き進むディンに、一人の男が困惑した表情で尋ねる。

 ディンは淡々とした口調で、突入して何度目かの説明をする。


「お前達に指示を出しているトム・クロスは、不当な手段によってクロス家の家紋を入手した。その際、殺人未遂も犯している」

「まさか……!」

「事実だ。――おい、お前」


 ディンは傍につき従う軍人を振り返る。


「彼を外へ」

「どうして!」


 反抗するのは、家の者だ。逮捕されるとでも思ったのだろうか。その顔には、焦りの色が見える。


「当然だろう。この家に凶悪犯がいるんだ。一般人は保護する必要がある」

「え、ああ……なるほど、そうですね……」


 ホッとしたように頷くと、彼はディンの横を通って素直に軍人の方へと向かった。それを見届け、ディンは背を向ける。

 同時に、軍人が声を上げた。


「あっ、貴様……!」


 男は、ディンに拳銃を向けたのだ。

 しかし、取り出した銃には剣が当てられ、天井を向くように押し上げられていた。つられて上がった腕越しに、ディンの青い目が自分を見つめているのを男は見た。


「馬鹿な真似は止めておけ」

「……」


 ディンは剣を拳銃から離し、背を向ける。

 男は、度肝を抜かれたような表情でその背を見送っていた。気がつけば、彼は軍服を着ていない。決して、ただの若い軍人なんかではない。


 ――何者だ、あいつ……。


 軍人に連行されながら、彼は畏怖の念に囚われていた。



* * *



 ディン達は、次々と使用人達を取り押さえていく。抵抗して来た者とは多少の戦闘になったが、戦いに不慣れな者が多い事もあり、ほとんど無傷のままに逮捕出来た。


 ディンは一人、屋敷の奥へと突き進んでいた。脅え、敗走するような者ならば、態々ディンが手を掛けずとも他の軍人が何とかする。

 廊下には、ディンの歩く足音だけがカツカツと響く。


 不意にディンは伏せた。銃弾がディンの頭上を掠める。


「人の事を散々貶してくれたが、君も人の事は言えないようだな。そう足音を立てて歩いていると、襲撃してくれと言っているようなものだよ」


 拳銃を片手に、メアリーの兄トム・クロスが姿を現した。

 ディンは不適な笑みを浮かべる。


「問題ねーよ。その通り、『襲撃してくれ』ってつもりだったからな。まんまと誘いに乗ってくれて、ありがとよ」

「貴様……っ、何処までも馬鹿にしやがって……!」


 そこへ、足音が駆けて来た。駆けつけた軍人は、ディンの背後に並ぶ。


「ご無事ですか!? お一人で先に行ってしまわれたと伺って――」

「ああ、大丈夫だ。こいつがトム・クロスだ」


 ディンの言葉に、彼は手にしていた拳銃をトムに向ける。


「直ちに武器を捨て、手を頭の後ろに回しなさい」


 トムの手にあった拳銃が、床に落ちる。トムはそろそろと手を挙げた。


 軍人が気を抜いた、一瞬だった。


 トムは首の後ろから拳銃を取り出し、撃った。銃弾は軍人を直撃し、彼はどさりと後ろ向きに倒れた。


 次の瞬間、血飛沫が散った。


 ディンは剣を抜き、トムの正面まで間合いを詰めていた。

 血は、トムの物。トムの右腕は、彼の足元にある血溜りの中に落ちていた。


 トムの悲鳴が迸る。

 ディンは剣を振って血を払い、冷ややかな目でトムを見下ろした。


「ほんと、馬鹿な奴だな。実質傷害を加えたのは一人で済んだものを」

「くそ……っ」


 馬鹿だが、執念はあるらしい。残った左手で、彼は拳銃を拾い挙げた。

 定めもせず、引き金を引く。

 もっとも、ディンは目の前だ。定める必要も無かった。対してディンは、この近距離では避けられるはずが無い。


 しかし、ディンが再び撃たれる事は無かった。銃弾は、空中で止まっていた。

 ……否、空中では無い。目を凝らして見れば、ディンとトムとの間に薄い氷の壁があった。銃弾はその壁にめり込むようにして、止まっている。

 氷の壁は、廊下の壁の方まで続いていた。その先を辿り、ディンは壁の間に隙間があるのを見つける。隙間の間からこちらを見つめる、翡翠色の瞳と眼が合った。


「――リンか」

「ああ。……お疲れさん」


 そう言って、翡翠色の瞳が柔らかく微笑んだ。

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