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第4話 村人

 開いた目に映ったのは、梁が露になった木製の天井。ルエラは簡素なベッドの上に寝かされていた。布団に手をつき、上体を起こす。

 見知らぬ部屋だった。壁や床は白いペンキやニスが塗られているが、天井はそのままになっている。小さな窓は開かれて、風に煽られパタパタと開閉していた。


「お兄ちゃん、起きた!」


 甲高い声に振り返ると、小さな女の子が部屋の戸口から覗いていた。誰かに伝えるかのように起きた、起きたと叫びながら、廊下を駆けて行ってしまう。

 女の子の声が遠くなり、入れ替わりに少年の顔が現れた。年の頃は、ルエラよりやや下だろうか。少年は戸惑いながら愛想笑いを浮かべ、部屋の中へと入ってきた。


「……初めまして。具合はどう?」

「問題無い。ここは……? 助けてくれたのか?」


 少年はこくりと頷く。


「でも、見つけたのはエレーナだよ。さっき、走って行った奴」


 少年は壁際にあった椅子を引き寄せ、ルエラの傍らに座る。


「エレーナが君を見つけて、僕が家まで運んで来た。ここは北部コーズン村。

 僕はシモン・ダン。よろしく」


 そう言って、シモンは微笑む。先程の戸惑いを含んだ笑みよりも、ずっと自然になっていた。

 扉が開き、良い香りが流れ込んで来た。真っ先に入ってきたのは、先程の女の子。続いて、盆に食事を乗せた母親らしき女性が入って来る。


「おはよう。痛む所は無い? ずっと寝ていたんだもの、お昼はまだでしょう。ちょっと冷めて来ちゃったけれど、良かったら食べてね」

「どうも……」


 女性はシモンを立たせて、彼が座っていた椅子に盆を置いた。


「昨日の晩、崖の下で倒れていたのよ。

 お名前、聞いてもいいかしら? 私はライサ・ダン。この子達は、シモンと、エレーナ。

 この子達が、あなたをここまで運んできたのよ。後、今は仕事に行っているけど夫のヤコブがこの家にはいるわ」

「リン・ブロー。

 ……私が倒れていた傍に、他に人は見なかったか?」


 ルエラは、後半をシモンとエレーナに向かって言った。

 シモンは首を捻る。


「誰もいなかったと思うよ。君一人だった。なぁ?」

「うん。お友達が一緒だったの?」

「いや……いなかったなら、いいんだ」


 ルエラは言葉を濁し、運ばれて来た盆からスープの入った皿とスプーンを取る。再度ライサに礼を述べ、ルエラはそのスープに口をつけた。ライサは冷めてしまったと言ったが、温め直せる物は、温め直してくれたようだ。このスープからも、湯気が立っている。中に入った野菜は、ほど良く柔らかくなっていた。


 何かあれば呼ぶように言って、ライサは部屋を出て行った。

 しばしルエラは食事を進めていたが、何とも言えない居心地の悪さに顔を上げる。シモンとエレーナは部屋に残り、じっとルエラを見つめていた。聞きたい事はたくさんあるが、言葉が出ない。そう言った様子だ。

 ルエラは手を休め、兄妹に笑いかけた。


「……助けてくれて、ありがとう。土砂の下から引っ張り出すのは、大変だったろう」

「土砂の下になんていなかったよ」


 シモンはきょとんとして言った。


「土砂があって、その上に倒れてた。あんなのの下にいたら、もう生きてないだろうし、僕一人じゃ連れて来られないよ。それにまず、エレーナも見つけられなかったろうし」


 ルエラは目を瞬く。

 崩れた足元。頭上から降ってきた土砂。そして、ルエラは落ちて行った。どう考えても、ルエラは土砂の下敷きになるはずだ。土砂の上に着陸するなど、あり得ない。

 何者かがルエラを助けたのだろうか。でも、何故? そしてその者は、一体何処へ消えた?

 黙りこんだルエラを、シモンは心配そうに覗き込む。


「どうしたの? 何処か痛い?」

「いや、大丈夫だ。ところでまた似た質問になるが、昨日から今日にかけて、この村に訪問者はいなかったろうか」


 シモンは首を傾げる。


「いないと思うなぁ……。こんな小さな村だもん、外の人が来たら直ぐに知れ渡ってるよ。君を運んで来た時だって、村中が注目してたんだから。

 でも正確に知りたかったら、村長さんの所に行くのがいいんじゃないかな。あの人なら、村の全部を把握してる筈だから。案内しよっか?」

「頼む」

「エレーナもーっ。エレーナも、お兄ちゃん案内する!」

「ああ、そうだな。一緒に行こう」


 兄の服の裾を引っ張って主張するエレーナの頭を、シモンは優しく撫でた。

 微笑ましい光景に、ルエラの頬が緩む。残りの食事を一気に平らげ、ベッドを降りた。


「エレーナ、リンのコート持ってきて」

「うんっ」


 エレーナは元気良く頷くと、とてとてと走って行った。

 シモンはそれを見送り、ルエラを振り返る。


「土砂の上に倒れてどろどろになっちゃってたし寝苦しそうだから、上着だけは脱がさせてもらったんだ。勝手にごめんね」

「いや、構わない。ありがとう。台所は、どちらだろうか」


 食べ終えた食器を持ち、ルエラは尋ねる。

 シモンは背を向けた。


「こっちだよ、ついて来て」


 ルエラはシモンの後に続き、部屋を出る。部屋を出るなり、シモンは左を向いて叫んだ。短い廊下だ。エレーナは、どこか部屋の中にいるらしい。

「エレーナ~。僕達とリン、台所行ってるよー」

「待ってぇ~」


 先に行くとでも聞き違えたのだろうか。エレーナは呼び止めるが、シモンは構わず背を向けた。


 部屋を出て右に進み、突き当たった所は扉が無く、扉のような大きさに壁がくりぬかれていた。

 中は先程までルエラが眠っていたよりはやや広く、だがやはり小さな部屋だった。中央に置かれた食卓。四つの椅子がそれを取り囲んでいる。椅子を引けば、何とか人一人通れる程度しか幅が残らないだろう。


 奥にもう一つ扉があり、開かれたままになっていた。そこから、ライサが慌てて出てきた。


「あらあら。そのまま置いといて良かったのよ。リンは、お客様なんだから」

「いえ……そう甘える訳にも行かないので」


 ルエラはそう言って、ライサに盆を渡す。


「ありがとうございます。美味しかった」

「いえいえ。具合はどう?」

「おかげ様で」


 ルエラは微笑い、健康だと示す。

 そこへ、エレーナが食卓に入ってきた。腕には、ルエラの青いコートが抱えられている。エレーナの小さな体には、それはとても大きく持ちにくそうだった。エレーナは、誇らしげにルエラに差し出した。


「お兄ちゃん、はいっ」

「ありがとう」


 エレーナから受け取ったコートに、ルエラは腕を通す。

 そして、シモンとエレーナを振り返った。


「さあ、行こうか」



* * *



 村は四方を山に囲まれていた。正確に言えば、この村も山の中腹にある。ルエラは、この村の西にある山を回り込んでやって来た。東の山にはトンネルが通っており、旧サントリナ国へと続いている。


 サントリナ国は、今から二十九年前に滅亡してしまった国だ。

 国民の間で王族への反感が高まり、謀反が起こった。それは国内全土へと渡り、暴動がリムへと溢れ出る事を恐れたリム国は、サントリナ国に軍を送り込んだ。城へと遣いをやり、民を治めるよう指示した。

 しかしすでにサントリナ国は取り返しのつかない所まで傾いており、とうとう王族は反乱軍に首を取られた。リム国軍の仕事は、頭首を失ったサントリナ国の統治となってしまった。そのまま国を丸ごとリム国内に取り込み、今に至る。


 ルエラは、大きく息を吸い込む。清らかな空気が、肺の深くまで取り込まれていく。

 緑に包まれた、長閑な風景だった。「魔女の里」と言う噂も、嘘ではないかと思ってしまう。ただ、サントリナ国と繋がるトンネルがある。それだけではないだろうか。サントリナ国の云われだって、確固たる証拠は何も無いのだ。


 ライサも、エレーナも、魔力など到底持たないように見えた。それとも、ルエラというよそ者が来たから、力の使用を控えているのだろうか。

 ルエラは、前を行く小さな少女に視線を向ける。

 こんな小さな子供が魔女だなんて、考えられなかった。


 実際のところ、魔女に年齢など関係無い。そのほとんどは先天的に力を持っており、ルエラもそうだった。

 けれど魔女と言うと、己も魔女であるルエラでさえ禍々しいイメージを抱いていた。ルエラの母ヴィルマや、西部ペブル町で出会った軍人パトリシア。彼女達は、魔女だった。

 ヴィルマは、多くの罪無き人々を虐殺した。パトリシアは嫉妬に身を費やし罪無き者を陥れ、火刑に処そうとした。

 それが、魔女なのだ。


 ふと、隣を歩くシモンがルエラを振り返った。


「そう言えば、リンはどうしてコーズンに? こんな辺鄙な所、お客さんなんて滅多に来ないのに」

「……観光だ。この村には、旧サントリナへと続くトンネルがあるだろう」

「うん。でも、暗いし年に数回しか使われていないし、あんまりお勧めの観光スポットとは言えないよ。むしろ、僕らは気味が悪くて近寄らないようにしてる。坑道とはまた違った雰囲気だしさ」

「シモンは坑道に行った事があるのか」

「父さんが、銀鉱で働いているんだ。危ないからって、なかなか連れて行ってくれないけどね。特に最近は、陥没が多いから……」

「おばあちゃんだ!」


 突然、エレーナが叫んで駆けて行った。

 彼女が駆けて行った先には、深く腰の曲がった老婦人がいて穏やかな表情で笑っていた。


「おやおや、エレーナじゃないかい。今日も元気だねぇ。一週間前はあんなに高い熱を出してたのが、嘘みたいだ」

「えへへ。あのね、お客さんが来たんだよ。おばあちゃん、聞いた?」


 エレーナは振り返り、ルエラ達に手招きする。

 ルエラとシモンは歩み寄り、ルエラはぺこりとお辞儀した。


「初めまして」

「リンお兄ちゃんだよ。エレーナがね、見つけたの」

「昨日の夕方、崖の下で倒れてたんだ。エレーナが見つけて、僕が運んできた。

 リン、こちらはマーシャ・セシナさん。凄い物知りなんだ。先週もエレーナが発熱で寝込んじゃった時、見た事無い薬草と薬を使って直ぐに治してくれたんだよ」


 シモンはエレーナの後に付け足して紹介する。それから、マーシャに向き直った。


「ねえ、おばあちゃんはリンの他にこの村に人が来たか知ってる? 僕ら、それで村長さんの所に行こうと思ってるんだけど」

「お客さんかい? 見ては、いないねぇ……」


 ルエラは、その言い方に妙な違和感を覚えた。

 マーシャは続ける。


「確かに私は色々知っているけど、村の出入りに関してはアクロワの方がよく知っていると思うよ。私も、先刻まで彼の所に行っていたところさ。

 それより、シモン。お前、今崖の下にいたのを見つけたと言ったね」


 マーシャの表情が険しくなる。

 シモンは「しまった」というように口を抑えた。


「言った筈だよ。村の外は危険だ。昨日も、土砂があったのだろう。

 好奇心旺盛なのは結構な事だが、危険に首を突っ込むのだけはやめなさい。お前達を心配して言っているんだよ」


「はーい……」


 シモンは口を尖らせる。

 思わず、ルエラは笑みをこぼした。シモンはそれに気づく。


「何が可笑しいんだよ」

「いや、すまない。似ている、と思ってな」

「誰に?」

「私と知り合いだ。つい先日も、『危ない真似はするな』と叱られたばかりだ」

「大人って、いっつも口煩いよね」

「だがそれは、私達子供の身を案じればこその言葉だ。私には、彼の存在はありがたいよ。私の親は忙しくて、周りの大人も到底口出しなど出来ぬ様子だったからな」

「リンは、大人だねぇ。見たところ、シモンと同じ年頃だろうに」


 マーシャはそう言って微笑む。

 ルエラは苦笑する。ルエラから見れば、シモンは自分より年下だろうと思えた。今、ルエラは軍服を着ていない。加えて、身長も女性の平均程度。男子として見れば、幼く思われても致し方なかった。


「マーシャさんは、医者か何かですか?」

「いいや。とうの昔に隠居した、しがない婆さんだよ」


 マーシャは、にこにこと穏やかな笑みをルエラに向ける。

 ルエラは愛想笑いを浮かべていたが、その目は油断無くマーシャを見つめていた。


「へぇ……。それにしては、随分と物知りでいらっしゃるようですね。まるで……賢者のような……」


 賢者。

 魔法使いが、時にそう呼ばれる事がある。

 魔法の使用には、人並み外れた深い知識と知恵が必要となる。先見の明、治癒能力、読心術――知識や知恵とは別に、そう言った能力を持つ者も中にはいる。そのような魔法使いは、賢者と呼ばれ敬われる。


 だが、マーシャは老婆。女性だ。若しもそう言った能力を持つのならば、それは彼女が魔女であると言う事になる。

 マーシャは、穏やかな笑顔を浮かべた。


「ありがとうねぇ。けれど私が賢者と同じ力なんて持っていたら、魔女って事になってしまうよ」

「え、ああ。ああ、そうですね。失礼しました」


 ルエラは慌てたように取り繕い、謝った。

 エレーナが、ぷうっと頬を膨らませる。


「おばあちゃんは、魔女なんかじゃないよ!」

「うん、分かっている。ごめんな」


 苦笑し、ルエラはエレーナの頭を撫でる。


「おばあちゃんのお父さんが、魔法使いだったんだって。だから、おばあちゃんも色々教えてもらったらしいよ」


 シモンはそう言い、空を仰ぐ。


「天気が崩れそうだ。急いだ方が良いかもね」

「そうだねぇ」


 マーシャも空を仰ぎ、頷く。空には、どんよりとした灰色の雲が覆いかぶさっていた。


「それでは、私達はこれで……」

「じゃあね、おばあちゃん」

「じゃあねぇ。リンも、何か私で分かるような事があったら聞きにおいで。大体は、家にいるから」

「はい。ありがとうございます」


 ルエラは軽く頭を下げ、彼女に背を向ける。

 エレーナはリンの手を取り、引っ張る。


「行こっ、お兄ちゃん!」

「おいおい、そんなに引っ張ったらリンが痛いだろ」


 ぐいぐいとルエラの手を引くエレーナを、シモンが諌める。


「今夜は、嵐になりそうだねぇ……」


 去り際、マーシャがそう呟いたのをルエラは聞いた。



* * *



 マーシャと別れ、ルエラ達三人は村長の家へと先を急ぐ。



「リンは、どれくらいこの村にいる予定?」

「特に決めてはいない。トンネルを見て気になる事があれば長くいるし、無ければ直ぐに出て行く」

「多分、今日はトンネル見れないんじゃないかなぁ。雨が降ると、この辺り外に出られるような状態じゃなくなるから」

「そうか……」


「それから、天候が怪しいと山越えはしない方がいいよ。行く所無かったら、うちに泊まって行って良いからさ」

「ありがとう」

「リンお兄ちゃん、今夜も泊まるのー? そしたらね、エレーナ、お兄ちゃんが住んでる所のお話聞きたい!」


 ルエラを見上げるエレーナの目は、輝いている。純粋な、子供の目だ。


「そう言えば、リンは何処に住んでるんだ?」

「住居は一応、中部だな。ビューダネスだ」


 ルエラの言葉に、シモンは目を丸くする。


「ビューダネス……? 首都の?」

「ああ」


 ルエラは平然と答える。

 突然、シモンはルエラの両肩を掴んだ。その目は、生き生きと輝いている。


「凄いや! そんな都会の人が、この村に来るなんて!

 首都は綺麗な街だって聞くけど、本当? 建物はみーんな真っ白で、豪華な彫り物がされてるって」

「全ての建築物が白いと言う訳ではないがな」

「しゅと?」


 エレーナはきょとんとした様子で問う。

 シモンが、弾んだ声で答えた。


「お城がある、大きな街だよ! 王様やお姫様が、住んでいる所。今は、王子様もいるんだっけ?」

「ああ。王様が再婚なさった方の、連れ子だ」

「首都に住んでると、お姫様とかと会う事もあるの? すっごい綺麗な方だって聞いた事あるけど」

「……いや、一般人が会う事は滅多に無いな」


 表向きは平静を装いつつも、内心は照れがあった。社交辞令として言われる事は、多々ある。だが、純朴な目を輝かせて語られるのは慣れていない。


「それに、姫様は殆ど城にいない。実際の所、王子の方が世継ぎとして向いているだろうとさえ、噂されているよ」

「そうなの? でも、王子は連れ子なんでしょ? 王家の血が流れてないのに、良いの?」

「血縁など、関係無いだろう。有能な者が国王になるべきだ。城の誰もがそう思っているし、私も同意だ……」


 前を行くエレーナが立ち止まった。続いて、ルエラとシモンも立ち止まる。

 村長の家に、着いたのだ。

 過疎の村といえども、さすがに村長の家はそれなりに整っていた。少なくとも、玄関に呼び出しの為のベルがある。

 シモンはそれを鳴らし、大声で呼ばう。


「村長さーん。ダン兄妹でーす」


 ややあって、玄関の扉が開いた。村長は頭髪の薄い、年老いた男性だった。彼はルエラに目を留める。


「おや、お客さんかい?」

「うん。昨日、僕達が運んできた人。リン・ブローって言うんだ。村長さんに、聞きたい事があるんだって」


 ルエラはぺこりとお辞儀する。

 村長は破願した。


「そうかい。どうぞ、入りなさい。立ち話もなんだからねぇ」


 村長の後に続いて、ルエラ達は家の中へと上がる。外装は街中のようで、広さもそこそこあるが、やはり中は質素な物だった。カーテンが閉められ薄暗い室内。燭台には薄っすらと埃が積もっている。入って直ぐ、正面の部屋にルエラ達は通された。

 部屋には、やや広めのテーブルが一つと、椅子が六つ並んでいた。どうやら、客間のようだ。壁沿いには本棚があり、その横には大きな地図が飾られている。別の面には広い窓があり、反対側の壁には柱時計があった。


 ルエラ達は勧められるままに、着席する。シモンも同じようにして座ったが、エレーナは席に着かず、窓際へと駆けていった。そして、横開きの窓をがらりと開ける。

 庭から、何かを抱き上げる。振り返ったエレーナの腕の中にいるのは、一匹の黒い猫だった。


「あれ。そいつ、おばあちゃんの所の猫じゃないか」

「うん。お庭にいたの」

「おばあちゃんについて来てたのかな」


 エレーナは黒猫を抱えたまま、ルエラの隣に座った。

 村長が、三人分の飲み物を持って部屋へと入ってくる。


「エレーナちゃんは、オレンジジュースで良かったかい?」

「うんっ。あと、ナタにミルク~」


 ナタと言うのは、猫の名前のようだ。村長は承諾すると、再び部屋を出て行った。後に続こうとしたナタを、エレーナが抱き上げる。


「ナタはエレーナとお留守番。ね?」


 廊下から、バタンと倒れるような大きな音がした。ルエラ達は席を立ち、慌てて部屋を出る。扉を開けると、村長が身体を起こすところだった。


「大丈夫ですか?」


 ルエラは慌てて傍らにしゃがみ込む。助け起こそうと触れた手は、ぞっとするほど冷たかった。


「ああ、うん。大丈夫だよ」


 やんわりとルエラの手を払い、村長は立ち上がる。


「少し、躓いてね。よくやるんだ。歳かねぇ。座って待っていておくれ」

「あっ。ナタ!」


 村長は台所へ向かう。ナタはその後を追って行ってしまった。


 再び村長が、今度はミルクの入った皿を片手に戻って来て、ルエラは本題に入る。だが、村長に尋ねてもルエラ以外の客人は来ていないとの事だった。


「ここ数十年、外からの客は来ていないよ。東のトンネルの辺りなら、仕事で行き来している人もいるようだけれどね。けれどここ数年は、それも年に一度や二度だ。

 何しろ、最近は周りで土砂崩れや陥没が多いからねぇ。こんな危険な土地、誰も敢えて踏み入ろうとはしないんだよ」


「土砂崩れ……?」

「ああ。この村も、昔は多かったそうだよ。私の父や祖父の頃になるけれどねぇ。南の崖沿いに行けば、今も陥没した後の大穴が空いている。

 危険だから、そっちには行かないようにね」


 ルエラの心中を読み取ったのか、村長はそう付け加える。


「そうだねぇ……。ここ、八十年ぐらいかねぇ……。周りは陥没が続いているけれど、村の中では一切無い。神のご加護って奴なのかねぇ」


 そう言って、村長は笑う。


「この村で、何か事件が起こった記録はありますか?」

「平和な村だからねぇ……強いて挙げるとすれば、さっき言った南側の陥没ぐらいだよ。その陥没も、最近じゃ全く無いぐらいだ」


 ボーン、と柱時計が定時を告げて鳴る。まるでそれに答えるかのようにして、遠くでゴロゴロと雷鳴が低く響いた。

 村長は窓の外に目を向ける。


「嵐が近付いているようだね。早く帰った方が良い。何かあったら、また来なさい」

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