第1話 翡翠の瞳と事件の幕開け
――陛下が魔女に襲われた。
噂は、瞬く間に城内を駆け巡った。
「お母様! どこですか、お母様!?」
王族を守る近衛の役割を持つ私軍や文官達が忙しなく出入りする中、銀髪の少女が叫びながら玄関ホールへと駆け出てくる。
「姫様!? いけません、このような所に――」
鼻の下にわずかな髭を生やした大男に引き止められ、少女は今にも掴みかからんばかりの勢いで言った。
「お母様の姿が見えないんだ! お父様が魔女に襲われて……まさか、お母様まで……」
「な……っ」
大男は、そばにいる部下に向かって叫んだ。
「第二部隊に連絡をとれ! ヴィルマ様の所在の確認を!」
「はっ!」
部下は、広い廊下を慌ただしく駆けて行く。
「王妃様の事は我々私軍に任せて、姫様はどうか奥へ……」
「陛下がお戻りになったぞ!」
喧騒の中、外から聴こえて来た声に、少女は外へと飛び出した。
「姫様!」
臣下の止める声にも構わず、真っ直ぐに大門へと駆けて行く。大勢の兵に囲まれて城壁の内側に入って来た馬車は、少女の前で止まった。
馬車から、少女と同じ銀髪の男がよろよろと降りて来る。
「お父様! ご無事で何よりです。お母様が、見つからなくて……」
「彼女になら、会った」
国王は、沈んだ声でぽつりと言った。
「良かった……! では、お母様もご無事なんですね? 今は、どちらに?」
急き込んで尋ねる我が娘の小さな肩を、彼は抱き寄せた。
「お父様……? お母様は――」
「あれはもう、帰って来ない。我々は、騙されていたのだよ……!」
搾り出すような彼の声は、悲憤と悔恨に満ちていた。
少女を手放し、国王は立ち上がる。不安げに見上げる少女に背を向け、彼は朗々とした声で言い放った。
「ヴィルマを探せ! 奴は魔女だ、気を付けろ! 逮捕に当たっては、軍属魔法使いを前線に立たせろ!
元王妃ヴィルマは、捕らえ次第、火刑に処するものとする」
――王妃は魔女だ。
魔女による虐殺が始まってどれ程経った頃からか、そんな噂が国中を駆け巡っていた。国王はこの噂に耳を貸さず、王妃を処刑しろと喚く者達を粛清した。
しかし、結局のところ、市民の噂が正しかったのである。王妃は魔女で、伴侶を欺き、人々を次々と殺めていた。
この日、国王は交友に出掛けた先で、偶然にも彼女の犯行現場に鉢合わせた。自らの目で、信じていた妻の正体を確認する事となったのだ。己の罪が露呈した王妃は、軍との死闘の末、逃亡した。
北歴一七〇八年九月二十七日。
百余日間に渡る大量虐殺事件は、魔女ヴィルマの逃亡によって幕を下ろした。
* * *
* * *
汽車の走る駅からは少し離れた、暗い町並み。そこに、小さな宿屋があった。白い壁に、赤い三角屋根。
たいていの宿屋は、二階に寝泊まりする部屋があり、一階は泊まり客以外も受け入れたレストランになっている。この宿屋も例に漏れず、一階の窓からは灯りが漏れ、客達の笑い声が絶えなかった。
店内の壁際の席には、銀髪の少年が座っていた。
ところどころはねた銀髪に、翡翠色の瞳が特徴的な少年。年は十六だが、同じ年頃の男子と比べると背は低めだ。
少年は青いコートも脱がずに、メニューを手元に広げながら、店内を見回す。店の客は男か中年以上の女性が多い。そのほとんどは常連客らしく、店員の少女に親しげに声を掛けていた。
「アリー! 次、こっちも頼むよ!」
「はいはいー」
緩やかにカーブを描く金髪を二つに結んだ従業員が、明るく答える。
「坊や、見かけない顔ねぇ。旅人さんかい?」
相席になった年老いた女性達の一人が、少年に声をかけた。
少年は、無言でうなずく。そして再び、少女の方へと目をやった。
「アリーちゃんが気になるのかい?」
老婆はニンマリと笑みを浮かべて問う。
「可愛い子だろう。この街の人気者なんだよ。この店の男性客はだいたい皆、あの子が目当てさ」
「どこかで見た事がある気がして」
青いコートの少年は、短く答えた。
静かな、男とも女ともつかない中性的な声だった。
「そんなはずはないのだけど。この街に来たのは初めてだから」
「あら。あの子、この街の生まれじゃないわよ」
口を挟んだのは、また別の女性だった。こちらも、なかなかのご高齢だ。
「元々は、首都にいたって聞いた事があるわ。この街に来たのは、十年くらい前だったかしらねぇ……?」
「そうそう、それくらい。ヴィルマの事件があった頃に首都から来たって話だったから、よく覚えているよ」
「ヴィルマ……」
少年の顔に、わずかに表情が浮かぶ。
眉根を寄せた、思い詰めるような表情。
「ヴィルマって、先の王妃の事かい。そう言えばあんた、その頃中部にいたんだっけ」
「そう。ありゃあ地獄だったよ。坊やぐらいの年じゃ覚えていないかもしれないが、話には聞いた事があるんじゃないのかい。
毎日何人もの人が無差別に殺されていく。場所も、北の町だったり南の町だったり、それが一日の内でだ。汽車や車を使ったって、普通の人間にゃあ出来ない所業だよ。
今日は無事、生き残れた。
明日は誰が殺されるんだろう。
毎日そんな事を思いながら過ごしてた。皆、窓も扉も閉ざして、通りにゃ人っ子一人ありゃしない。
王様は完全にヴィルマに騙されていた。だから自分で目撃するまで、ヴィルマが魔女だって言う民の噂を信じなかったんだ」
知っている。
よく、覚えている。
ヴィルマ。彼女の存在こそが、この旅の要因なのだから。
先の王妃ヴィルマは、魔女だった。
十年前、彼女は民を騙し、家族を騙し、大量虐殺を行っていた。犯行は魔法によって行われ、防ぐ手段もなければ、何の目的でどのような人を狙っているのかも分からなかった。街は、恐怖のどん底に突き落とされた。
まだ幼かった少年自身も、ヴィルマは無実だと信じて疑わなかった。
――国王が彼女の犯行現場に遭遇し、処刑宣告が下されるあの日までは。
黙り込む少年に構わず、彼女達はなおも会話を続けていた。
「ヴィルマと言えば、知っているかい? もう、十八年も前になるのかね、あの女が国王陛下を騙して妃になる前だ。街で大火事があってね、ヴィルマとその友達だけは無事だったそうだよ」
「何だい、そりゃ。初耳だよ。どうしてその時に魔女だって分からなかったかねぇ。怪しいだろうに」
「その時も魔女騒ぎにはなったみたいだよ。ヴィルマじゃなくて、一緒に助かった友達のね。ヴィルマは友達を身代わりにしたのさ。まったく、恐ろしいったらないよ」
「騙された友達も可哀想にねぇ……おおかた、その火事もヴィルマが起こしたんじゃないかい」
「かもしれないねぇ。隣町の大火事を一瞬で消した魔法使いとは、大違いだ」
「ああ、昨日の? ここからも黒い煙が見えていた程の大火事を、例の魔法使いが一瞬で消したんだってねぇ」
「例の魔法使い? この街にも、魔法使いがいるのか?」
聞こえてきた言葉に、少年は口を挟んだ。
魔法使い。
魔女と近しい力を持つが、決して私利私欲のために力を行使する事はなく、人々に恩恵をもたらす者達。その知識と知恵の多さから、賢者とも呼ばれる。
「ええ。隣町に、二人」
「二人? 一人じゃないのかい。光の賢者の事なら知っているけど……他にも?」
「そう、その光の賢者。彼のお孫さんも魔法使いでね、隣町で軍に入ったらしいのよ」
「へぇ。軍属魔法使いってやつかい。こんな小さな町にもいるんだねぇ」
魔法使いの中には軍に所属する魔法使いもいるが、そのほとんどは首都に集中していた。首都の街を護る市軍、そして城で王族を護る私軍に。
ここ、ペブルは首都まで汽車で丸一日は掛かる。町の規模も市より一つ格下の「町」だ。首都や王宮とは、程遠い世界だろう。
「ここじゃなくて、隣だけどね」
念を押すように老婆は言って、話を続けた。
「それでその魔法使いが、なかなかの美形だそうで。うちの孫達も、きゃあきゃあ言っちゃって」
「火事と言うのは?」
少年は真剣な顔で尋ねる。別の老婆が、口を挟んだ。
「火事って、川のこちら側じゃなかったかい? あそこも、隣町の管轄になるのかい?」
「違う違う。川沿いでもあったけど、隣町でも大きな火事があったんだよ。そちらは、例の魔法使いのおかげで直ぐ鎮火したみたいだけどね」
「二件あったと言う事か?」
少年の問いに、老婆はうなずく。
「そう。隣町と、こちらの街でね」
「こっちの町で起こった火事なら、僕、近くにいたよ」
そう口を挟んだのは、店員の少女アリーだった。
アリーが小首をかしげるのに合わせて、高い位置で二つに結ばれた金髪が横に揺れる。
「昨日でしょ? ユマと一緒に駅の方へ買い物に行ってたんだ」
「あの大火事の場所に? それは大変だったねぇ」
「良かったよ、アリーちゃん達が無事で」
「あれ、結局何だったんだい? あの辺にあるものなんて、湿った枯れ草くらいだろう。火の気も無い場所で、突然あんな火柱が上がるなんて……」
「うーん……軍にいる友達に聞いてみたんだけど、軍もよく分かってないみたい。原因究明中、だってさ。
なんか、燃え方もおかしかったんだよねぇ。耳鳴りがしたかと思うと、急に目の前に火がついて……」
ガシャンと皿の割れる音が、アリーの話を遮った。
戸口の方から、悲鳴が上がる。
がたいの良い、五、六人の男達がそこにいた。
どの男も、背丈は少年より高く、二メートルはありそうだ。手には各々、刃物や鉄パイプを持っている。
「さーて、ちょっと遊ばせてもらうぜぇ」
男達は、ひゃひゃひゃと下卑た笑い声を上げる。
客達の間から、悲鳴が上がった。
少年は眉根を寄せる。
どこにでもある小さな宿。繁盛はしているようだが、決して高価な店ではない。客数は多く、それもアリーが目当ての男性客が多数を占める店。強盗に入るには、決して向かない店だ。
アリーが街の人気者と言うからには、客層についてもよく知られている事だろう。
少年は、店内をざっと見回す。アリーの気を引くべく、我も我もとメニューを注文していた男達は、皆、怯えた様子で机や椅子の陰に隠れていた。
どうやら、彼らは当てにならないようだ。少年は、アリーに尋ねた。
「従業員に男性は?」
「おじさん……宿の亭主が、一人。でも今は隣町へ買い出しに出かけていて、僕とおばさんしかいない」
鉄パイプを持った男、ひげ面の男、丸顔、眼鏡、ナイフ――全部で、五人。
「アリーちゃん……?」
「およしよ、危ないよ」
客の老婆達の制止も聞かず、アリーが男達の前へと進み出た。
「ここは、お食事をしたり、旅人の方が羽を休める場所です。お引き取り願えますか」
「あんたが例のアリー・ラランドって娘か。なかなか器量の良い娘じゃねぇか。こりゃ、儲けもんだ」
男の言葉に、少年は眉をひそめる。
アリーも、気が付いたようだった。
「……狙いは、僕?」
「おうよ。悪いがちょっと、痛い目にあってもらうぜ!」
男は鉄パイプを振り上げる。客達が叫ぶ。
「アリーちゃん!!」
パシッ……と音を立て、アリーは振り下ろされた鉄パイプの先を掴んでいた。
「……お引き取りください」
威圧感のある低い声で、再度繰り返す。
男は、わずかにたじろいだ。
「このアマ……っ、女だと思って甘く見てりゃ、いい気になって……!」
別の男がナイフを手に、アリーへと襲い掛かった。
アリーは身を翻してその切っ先を避けると、男の腹に拳をめり込ませる。ナイフの男は短い呻き声を上げると、その場に膝をついた。
続けて襲い掛かった眼鏡は、腕を掴み、背中に乗せるようにして投げ飛ばす。
すぐに身を起こすと、横から殴りかかる丸顔の男の拳を避け、その腕を引き、足を引っ掛けて転倒させる。
鉄パイプの男が我に返る。
再び振り下ろされたそれを避ければ、背後からは短剣を持った男が突進して行く。
アリーの顔に焦りの表情が浮かぶ。
しかし、短剣がアリーに届く事はなかった。
翡翠の瞳の少年が、アリーと短剣の男の間に割って入っていた。
少年は流れるような動作で短剣の男の腕を掴み、その腕をひねり凶器を奪ったかと思うと、強烈な蹴りをその横面に入れる。
「坊主はお呼びじゃねぇんだよ!」
鉄パイプの男が、少年へと標的を変える。
鉄パイプが宙を舞う。カラン……と空しい音を立てて鉄パイプが床に落ちると共に、殴りかかった男もドスンと重い音を立てて床に倒れる。
少年は、蹴り上げた足を下ろす。
そして、素早く身を屈めた。背後から丸顔の男が迫る。アリーが少年と男の間に割って入り、男の胸倉を掴むと投げ飛ばした。
これで四人。残るは、鉄パイプの男一人。
ふいに、銀髪の少年は青いコートを脱ぎ払った。
その下に現れたのは、少年の歳とは不釣り合いな暗褐色の軍服。袖にある十字架と薔薇をモチーフにした紋章は、王家直属の私軍隊員である事の象徴。
「な……こんなガキが私軍だと……!?」
「投降しろ。二対一では、勝ち目はないぞ」
少年は静かに告げる。男は尻込みする。
子供とは言え、相手は軍人。それも、私軍ともなれば狭き門だ。これ以上の戦いが無意味である事は、彼にも分かる事だろう。
「きゃあああ!!」
甲高い悲鳴に、少年は客達の方を振り返る。
一人の男が、ポニーテールの少女の腕を掴んでいた。もう一人、刃物を持った男がそばに立ち、周囲の客に脅しをかける。
「二対一ならな……だが、二対三ならどうだ?」
客として紛れ込んでいたらしい。喧嘩に向かない男ばかりの時にタイミング良く襲撃して来たのも、彼らが状況を伝えていたのだろうか。
「ユマを放せ!」
アリーが叫ぶ。よりによって、人質に取られたのは彼女の友達らしい。
男達は、にやにやと下劣な笑みを浮かべていた。
「口の利き方には気を付けた方がいいな」
倒れていた男達が立ち上がり、アリーと銀髪の少年を羽交い絞めにする。
少年は、落ち着き払った様子で店内を見回す。
人質が一人、武器を持った男達が七人。被害を最小限に抑えるためには、奥の手を使うしかないか。
「そんな怖い顔をするなよ。せっかくの可愛い顔が台無しだぜ?」
鉄パイプの男は、アリーを見て笑った。
アリーは、憤怒の形相で友人を人質に取る男達を睨み付けていた。
鉄パイプの男は仲間を見回す。気絶こそしていないとは言え、皆、満身創痍だった。
「ずいぶんと痛めつけてくれたもんだ……こりゃあ、お仕置きが必要だな」
男は人質の少女の正面へと歩み寄り、じろじろと品定めするように彼女を眺める。
少女は震え、身じろぎしたが、男の仲間に羽交い絞めにされ身動きが取れずにいた。
「僕が狙いなら、僕を痛めつければいいだろう。その子は解放して」
「最初から大人しくしていれば、そうしたさ。でも、こっちの方があんたには効きそうだ。それに、こっちの嬢ちゃんの方が、俺の好みにも合ってるしな」
男の視線が、少女の豊満な胸へと注がれる。
「お友達には、皆の前で恥ずかしい目にあってもらうとするか」
「な……何する気だよ……」
アリーの声は、震えていた。
少女はどこか良い家柄の出身なのか、制服らしきワンピースを着ていた。男の左手が、その制服の前面を掴む。
「や……っ」
アリーが声を上げる。
少年は、じっと男と少女の方へと、手を突き出す。――彼女に触れさせはしない。
ワンピース型の制服へと、ナイフが振り下ろされる。
「やめろおおおおおお!!」
「嫌――――――――――――――――!!」
アリーの怒声、人質の少女の悲鳴、そして、バリンと言う大きな音が重なった。
透明の氷に遮られ、男のナイフはガツンと宙に止まる。
バリンガシャンと激しい音を立て、店の窓ガラスが次々に割れて行く。降り注ぐガラスの破片に、客達の悲鳴が上がった。
少年は、目を丸くして窓の方を見る。
――これは、違う。
混乱の中、パシャンと言う小さな水音と共に氷の壁が溶け消えたが、誰も気を留めはしなかった。
「な、何だ一体!?」
「魔女だ、魔女が出たんだ!!」
「く……っ、引くぞ!!」
男達は一目散に逃げ出して行った。
ガラスのなくなった窓。ざわめく店内。少年は、アリーと人質の少女へと視線を移す。
アリーは何が起こったのか分からず、呆然とその場に立ち尽くしていた。
人質に取られていたポニーテールの少女も同じ様子で、ただただきょとんとその場に佇んでいた。