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記憶を失った悪役令嬢は、愛した人の罪を告発する  作者: マルコ


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第7話 麦の国の朝に

 春の風が、金色の大地を渡っていく。

 果てしなく続く麦畑が、陽光を受けてさざ波のように揺れていた。

 村の子供たちが笑いながら駆け回り、遠くでは風車がのんびりと回っている。


 この土地の名は――麦の国(グランツ領)。

 数年前、荒野だった場所に最初の種を蒔いた日から、四度目の春を迎えた。


 リリアナ・グランツ。

 かつて「悪役令嬢」と呼ばれ、そして「告発者」として国を揺るがせた女は、

 今ではこの村の“教師”として、静かに暮らしている。


「リリアナ先生、見て! 麦、もう背丈まで伸びた!」


 小さな少女エルナが、腕いっぱいに麦の穂を抱えて走ってくる。

 あの冬の日に出会った子だ。今はもう十二歳。

 村の象徴のように明るく、そして逞しく育っている。


「すごいわね。去年よりずっと早いわ。」


「だってね、“あの人”が新しい水路を作ってくれたから!」


 エルナの指が、村の北側を指す。

 そこには、新しく建てられたせきと小さな石橋。

 麦畑を潤す水が、川から静かに流れ込んでいる。


 私は思わず息を呑んだ。

 その橋の影で、ひとりの男がゆっくりと水を汲み上げていた。


 陽を受けて白く光る髪。

 背は少し曲がり、粗末な麻の衣をまとっている。

 だが、その横顔を見た瞬間、胸の奥がざわめいた。


(……まさか)


 男は水桶を置き、こちらに気づいた。

 ほんの一瞬だけ、目が合う。

 青い瞳――あの色。


 しかし彼は何も言わず、静かに帽子を取って一礼すると、

 再び背を向け、作業に戻っていった。


 私はその場に立ち尽くした。

 時間が止まったように、麦の音だけが耳に残る。

 そしてようやく、微笑んだ。


(いいの。これで。)


 過去はもう、言葉にしなくていい。

 彼が贖いの果てにたどり着いた“生”の形が、そこにある。

 それを確かめられただけで、十分だった。


 その夜、私は小屋の机に向かって新しい手帳を開いた。

 インクの匂い、紙の手触り――どれも懐かしい。

 でも、今書く文字は、あの頃の「断罪」ではなく「希望」だ。


「私は今、麦に囲まれて生きている。

罪も愛も、時間の中で穏やかに混ざり、やがて芽を出す。

人は、何度でも蒔き直せる。

たとえ記憶を失っても、心はまた、愛することを覚える。」


 書き終えると、焚き火の明かりに照らされた窓の外で、

 誰かが笛を吹いていた。

 低く、穏やかで、懐かしい音。


 私は窓を開けた。

 夜風が頬を撫で、遠くの丘の上――

 白い外套を纏った人影が、麦の波を背にして立っていた。

 風に乗って、ひとことだけ届く。


「……ありがとう。」


 月がその姿を照らした瞬間、

 彼は振り返らずに、麦畑の向こうへ歩いていった。


 翌朝。

 太陽が地平線の向こうから顔を出す。

 麦が一斉に光を返し、世界が金色に染まる。


 私は丘の上に立ち、両手を広げてその光を受けた。

 風が髪を揺らし、あの人の声が心の奥で囁く。


 ――「生きろ。君の言葉で。」


 私は目を閉じて、深く息を吸い、

 静かに呟いた。


「私は生きる。もう、誰の影でもなく。」


 その言葉とともに、朝の鐘が鳴った。

 村人たちが目を覚まし、子供たちが笑い、

 新しい一日が始まる。


 リリアナは手帳を胸に抱きしめ、

 空を見上げた。


 そこに映るのは、もう「断罪の空」ではない。

 罪を赦し、愛を知り、

 そして――“生きる”ことを選んだ者たちの空だ。


 金色の麦が、風に揺れている。

 その波の先には、きっと未来が続いている。

 ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


 本作は「悪役令嬢」という定番の題材に、“記憶喪失”と“告発”という現代的なテーマを重ね合わせた物語です。

 ――愛と正義は、いつも同じ方向を向いているとは限らない。

 その矛盾の狭間で揺れる一人の女性の心を、できるだけ丁寧に描きたいと思って書き進めました。


 主人公リリアナは、断罪された過去と向き合いながらも、

 「記憶を失っても、心は真実を覚えている」という信念で生き抜きました。

 彼女が“愛した人”を告発するという行為は、単なる復讐ではなく――

 自分自身を、そして“真実そのもの”を取り戻すための戦いだったのだと思います。


 そして、セドリックという人物もまた、

 「悪」であり「正義」でもある存在として描きたかったキャラクターです。

 彼の選んだ“必要悪”と、リリアナの選んだ“真実”。

 二人は決して理解し合えなかったけれど、

 最後にはそれぞれの形で“赦し”に辿り着いた――その静けさを、

 読者の皆さまにも感じ取ってもらえたなら嬉しいです。


 この物語の結末は、断罪でも勝利でもありません。

 それは「生きる」という再出発。

 リリアナが最後に見上げた空は、過去を乗り越えた者だけが見られる“麦の国の朝”です。


 読後、少しでも心が温かくなったなら、それがこの物語のいちばんの報酬です。

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