第5話 裁きと別離
夜が明ける前に、王都は別の色になっていた。
広場には焼け落ちた花飾りと、撒き散らされた麦袋。
人々のざわめきは潮騒のようにうねり、誰もが空を見上げている。
――昨夜、夜空に映った“告発の映像”の残像を、まだ探しているのだ。
「王太子が連行された」
「近衛が武器を捨てた」
「王が沈黙した」
真偽入り混じる声が、冬の風に乗って城壁をくぐり抜ける。
私は手首の包帯をきつく結び直した。茨の紋が、皮膚の奥で脈打っている。
アグネスの印刷所は一時閉鎖、仲間たちは離散して再集合の手順に入った。
テオは偽造許可証の版木を火にくべながら言った。
「今日の正午、王国大審院が“暫定開廷”する。法としてはあり得ない速度だ。
王家は“沈静化”を急いでる。……行くか?」
「行く。私の言葉の行き先を、最後まで見届ける」
テオは目だけで頷いた。「護衛はつける」
私は白いマントのフードを深くかぶり、朝の群衆の背に紛れた。
◇
王国大審院は石の箱のように冷たかった。
両開きの扉の奥、円形の法廷。中央に被告台、周囲に三重の桟敷。
傍聴席には臣下、行政府、商会の代表、市の自治会長――“民と権力”が混ざり合って座っている。
鎖の音がして、彼が入ってきた。
セドリック・アストレア。
昨夜の軍装は剥がされ、簡素な灰色の囚人服。
それでも背筋はまっすぐで、足取りは静かだった。
ざわめきが走り、すぐに引く。
首席判定官が木槌を一打。声が響く。
「大審院は、王国秩序への重大な疑義に関し、暫定審理を開始する。
告発は《茨》の印において、証拠は印刷複写および原本複数。
被告、弁明を許す」
セドリックは顔を上げた。
その青い瞳が、私の居場所を探すように広間を一度だけなぞる。
見つかってはいけない。私はフードの影に沈んだ。
「弁明をしよう。――まず、帳簿と私印の件。
私印が使われたことは事実だ。ただし、あれは『王を退位させるための陰謀』ではない。
“倉の欠損”は腐敗の摘発を促すための“誘導”だった」
法廷がざわつく。判定官が眉を寄せた。
セドリックは微笑を捨て、言葉を正確に置いていく。
「王は飢饉への備蓄を怠り、儀礼と宴に資金を投じていた。
臣下の多くは利権に絡み、倉は空にされた。
私は――民の怒りが“誰の罪”へ向かうかを計算した」
「では、焼き討ちは?」
判定官の声が硬い。
「辺境傭兵団《灰牙》への資金流入と、火薬樽の搬入は?」
「誘導を過ぎた。……認める」
空気が冷える。
セドリックは被告台の縁に手を置き、指先で石の目を撫でた。
その仕草は奇妙に柔らかい。
彼は、まるで自分に判決を下す書記官のように、続けた。
「私は“善き改革者”として戴冠する筋書きを描いた。
混乱を収め、王を退位させ、民の歓呼の中で即位する。
そのために、いくつかの“必要悪”を選んだ。
それが人の命を奪ったことも、知っていた」
沈黙。誰かの喉が鳴る音だけが響いた。
判定官が視線を落とし、次の証人を求める。
「証人、王城厩舎番ルーク」
痩せた男が進み出て、震える声で語る。
合同倉へ搬入された“空箱”、王太子の執事印、傭兵団の合図。
彼の証言は昨夜の投影と一致し、数点の細部を“生の言葉”で補った。
続いて、印刷所の親方アグネスが呼ばれた。
彼女は低く短く、必要なことだけを告げる。
告発鍵の検証過程、複写の対照、偽刻の否定。
証言が重なる度、法廷の空気がわずかに傾いていく。
罪は明白だ――だが同時に、多くの視線が揺れているのが見えた。
「腐敗は確かにあった」「しかし手段が」
誰もが“真実”と“秩序”の間で立ち尽くしている。
判定官が最後の名を呼んだ。
「証人、リリアナ・グランツ」
私の胸が跳ねた。
予定にない。名を呼ばれる覚悟はしていたが、心臓は嘘をつけない。
テオが隣でわずかに首を振った――“降りろ”とも“立て”とも取れる曖昧な合図。
私は立ち上がった。足は自分のものではないみたいに軽い。
桟敷から降り、中央へ。
石床の冷たさが靴底を通じて上がってくる。
茨の紋が疼く。私はフードを外した。
ざわめき。誰かが息を呑んだ。
断罪された悪女――その名が、別の意味で呼ばれ直す音がした。
「証言しよう」
声は震えていなかった。
私は告発鍵の由来、手帳に残された記録、地下記録庫で見た映像――
そして、塔で見た彼の顔を、短く、真っ直ぐに述べた。
「私は被害者でもあるが、加害者でもある。
王太子に近い立場にいながら、見抜けなかった。
そして、気づいた後も“愛”という言葉に足を縛られ、遅れた。
だから、私も裁かれるべきだと考えている」
法廷が静かになった。
セドリックがわずかに目を見開き、笑うでも泣くでもない顔になる。
判定官が頷いた。
「本件、主たる罪は“計画的混乱の誘発と人命喪失”にある。
しかし、腐敗の構造は明白であり、王の監督不行届も看過できぬ。
――評決に入る」
木槌が三度、重く打たれた。
評決は速かった。昨夜の映像が全市を覆っている。もう、否認の余地は少ない。
「被告、セドリック・アストレア。
王位継承権剥奪。終身禁錮。贖罪として、辺境保全工務隊に付す。
併せて、備蓄倉の管理責任者および関係官に連座、追放――」
声が遠のき、戻ってくる。
私は一度も目を閉じなかった。
セドリックもまた、顔を上げ続けていた。誰も見ない一点を凝視して。
木槌が最後に一打。
群衆のざわめきが戻り、涙、罵声、安堵の吐息が一斉に溶け合う。
そのどれもが、私には“終わり”ではなく“始まり”の音に聞こえた。
◇
審理の後、私はひとつの扉の前に立っていた。
地下房の面会室。
鉄格子の向こう、簡素な椅子に彼が座っている。
看守が距離を取り、私たちは向き合った。
セドリックは少し痩せたように見えた。
けれど瞳は、出会った頃と同じ色だった。
「……来てくれたのか」
「最後に、言葉を交わすべきだと思った」
沈黙。
鉄の匂い、石の湿り気、遠くで水滴が落ちる音。
彼はやがて、ゆっくりと口を開いた。
「君は、正しい」
その言葉は刃ではなく、極小の針のようだった。
痛みは小さいのに、深く刺さる。
「私は“正しさ”の別の側を選んだ。
君が夜空に掲げたのは、真実。
私が選んだのは、秩序の速度だ。……どちらも、誰かを傷つける」
「でも、選んだのはあなた」
「ああ。私が選んだ」
彼はポケットから、白薔薇の花弁を一枚取り出した。
乾いて色を失いかけている。
押し花にするつもりだったのだろう。
鉄格子越しに私へ差し出し、苦笑した。
「受け取ってくれ。これは……私の“負け”の印だ」
私は花弁を受け取った。
指先に、ほとんど重さはない。
それでも、涙がこぼれた。
悔しさでも、哀れみでもない。
過ぎ去った“ある可能性”への、静かな悼みだった。
「ひとつだけ、教えて」
私は花弁を胸ポケットにしまいながら言った。
「あなたはいつから、私を“黙らせる対象”として見ていたの?」
彼は少しだけ考えるふりをして、首を振った。
「ずっと。……そして最後まで、君を愛していた」
嘘のない声だった。
だからこそ、終わりなのだと思った。
看守が時刻を告げる。
私は立ち上がり、鉄格子に手を置く。
彼も同じ場所に手を置いた。冷たい鉄を挟んで、指先が重なる。
「さよなら、セドリック」
「さよなら、リリアナ。
――生きろ。君の言葉で」
◇
地上へ出ると、王都の光は別の配列に並び直していた。
臨時の糧食配布が始まり、民兵が倉を護る。
王は評議会に権限の一部を移譲し、暫定の監査局再建が布告された。
アグネスは紙を抱えて走り、テオは新しい印章を彫る。
世界はきしみながら、動き始めている。
私は城門を見上げ、深く息を吸った。
ここに留まれば、私は“象徴”になる。
人々は私の言葉を“便利な旗印”として消費し、やがてまた誰かが真実を焼くだろう。
私は――私自身の足で立てる場所へ、行かねばならない。
印刷所の裏で、アグネスが黙って包みを渡した。
乾いたパン、旅券、簡素な外套。
テオが笛を指で弾き、ふっと笑う。
「境界を越えろ。《茨》の印は国境でも効く。
辺境には、まだ“倉”がある。麦も、水も、人の希望も」
「あなたは?」
「紙の方が似合う。……それに、ここでやるべきことが山ほどある」
私は頷いた。
別れの言葉は短いほうがいい。
背を向けると、冬の風がまっすぐ頬を撫でた。
城外へ続く街道。
その最初の一歩を踏み出す前に、胸ポケットから白い花弁を取り出した。
陽のない光にかざすと、かすかに透ける。
私は花弁の裏に、小さな文字を書いた。
「私は生きる。黙らないために」
風が吹いた。
花弁は指から離れ、空へ昇り、石畳の陰へと舞い落ちていく。
私は前を向いた。
背後で鐘が鳴る。正午。新しい監査局の旗が上がる音。
足元の影が長く伸び、どこかで誰かが笑った。
私も、少し笑った。
記憶はまだ穴だらけだ。
けれど、心はもう十分に、私の名前を知っている。
――リリアナ・グランツ。告発者。生存者。
そして、誰かの麦となる女。
歩き出す。
冬の空は深く、遠かった。




