第3話 愛と疑念の狭間で
鉄の扉が開いた瞬間、冷えた空気が肌を刺した。
地下の通路は灯りひとつないのに、足元だけがぼんやりと青く光っている。
壁に埋め込まれた魔法石が、来訪者の気配に反応して淡く輝いているのだ。
私は息を整え、ゆっくりと中へ踏み込んだ。
通路の先に広がっていたのは、巨大な円形の書庫だった。
天蓋のように広がる石天井。何段にも重なる棚に、金糸で綴じられた帳簿や箱が積み上げられている。
中央には祭壇めいた机があり、そこだけが白く磨かれていた。
(王国監査局――告発記録庫)
プレートに刻まれた文字を指でなぞる。
その瞬間、掌に痛みが走った。
見下ろすと、私の右手首――細い古傷の上に刻印が浮かび上がっている。
茨の輪の紋。
痛覚が記憶の底を叩く。暗闇の中、誰かの声が蘇った。
『告発者の印だよ、リリアナ。君が選んだ道に、もう後戻りはない』
誰の声だっただろう。低く、穏やかな男性の声。
名を呼ぼうとしたが、口が乾いて出てこない。
私は机の上の水晶端末――記録結晶に手を伸ばした。
触れた瞬間、結晶が明るく光り、薄い霧のような映像が宙に立ち上がる。
女性が一人、机に向かって座っていた。
――私だ。
過去の私が、冷たい目で結晶を見据えている。
頬は痩せ、目の下には疲労の影。それでも声は揺れなかった。
「監査局記録第七一八号。告発者コード《茨》。
王国備蓄穀倉の欠損は自然災害ではない。意図的な焼き討ちである。
実行犯は辺境傭兵団《灰牙》。資金の出所は――王太子セドリック・アストレア。」
喉が冷たくなる。
記録の中の私は、淡々と数字と証拠の列を読み上げた。
穀倉の搬入帳簿と税記録の差、偽装伝票の筆跡、焼き討ちの前日に出入りした馬車の数。
最後に、封蝋の割れ跡が映し出された。王太子の私印――アストレア家の星紋。
「王は“慈善祭礼”で民に麦を配る予定だった。だが倉は空だ。
王家の失政として民の怒りは王へ向かう――そう仕組まれている。
祭礼の混乱に乗じ、王太子派は“改革”の名で王を退位へ追い込むだろう。」
映像がそこで一度途切れ、別の記録が自動で再生された。
暗い部屋。私の前で、茶髪の男が口を固く結んでいる。
胸元のバッジ――王城警備隊の印。
「……自分は王城厩舎番ルーク。配達の封箱は、王太子付きの執事に渡した。中身は……火薬樽だった」
男の声が震え、映像が砂嵐のように揺らいだ。
私は無意識に周囲を見回した。誰かに見られている気配。
だが、ここには私一人しかいない。
結晶は次々と記録を吐き出す。証言、計算書、航路図、油染みのついた手紙。
どれもが、同じ一点へ矢のように収束していた。
――セドリック。
(どうして……)
頭の奥がぐらぐらと揺れる。
あの優しい笑顔。私の名前を呼ぶ声。震えるほど丁寧な手つき。
けれど、記録は容赦なくその仮面を剥いでゆく。
机の引き出しに、小さな箱があることに気づいた。
開けると、黒い指輪が一つ。内側には細い刻印。
《誓約:真実を告げる者に、沈黙はない》
指輪をはめた瞬間、机の底板が音もなく沈み、隠し抽斗が開いた。
そこには、封を切られていない一通の手紙。
宛名は――「未来の私へ」。
私は震える手で封を切った。
「この手紙を読んでいるあなたへ。
あなたはきっと、怖れているだろう。自分が誰かも、何を信じてよいのかも分からずに。
それでも、心は知っている。セドリックは“愛している”と言いながら、真実を焼く人だ。
彼は王を直接殺すつもりはない。民意で王を退け、“善き改革者”として戴冠する。
そのために倉を空にし、祭礼の日に混乱を起こす。
証拠はこの書庫に残した。
あなたが私の手となり、声となって、告発してほしい。
私が倒れたなら――あなたが続けて」
最後の行だけ、インクが滲んで読めない。
手紙の隅が茶色に染みている。涙の跡なのか、血なのか分からない。
私は手紙を胸に抱き締め、ゆっくりと目を閉じた。
心の底に沈んでいた石が、かすかに動いた気がした。
あの夜、断罪台の上で感じた冷気――それは、絶望ではなかった。
決意だったのだ。誰かのために、真実を言い切ると誓った熱。
――私は、告発者だった。
足音。
地下の入口から、微かな砂を踏む音が近づいてくる。
私は結晶の光を落とし、棚の陰に身を滑り込ませた。
「……合図は点いてる。誰か入った」
低い声。複数。鎧の擦れる金属音。
セドリックの近衛ではない。装備が軽い。訓練された動き。
棚の影がふいに揺れて、細い体が私の前に滑り込んできた。
灰色の外套を纏った少年――いや、年齢不詳だ。琥珀の瞳がこちらを見上げる。
「声を出すな。味方だ」
「……誰?」
「監査局の残党。《帳守》のテオ」
テオと名乗るその少年は、ちらりと通路の方に目を走らせ、短く舌打ちした。
「王太子派の探索班が来た。ここが生きてると嗅いだらしい。動くぞ」
私は一瞬迷い、けれど頷いた。
彼に手を引かれ、棚と棚の間をすり抜け、奥の壁へ。
テオが石の一つを押すと、壁が横に滑った。狭い通気路だ。
「潜行路だ。外の運河に出る」
「待って。証拠をいくつか――」
言い終える前に、テオは私の手に小さな札束のようなものを押しつけた。
薄い石札が十数枚、皮紐で括られている。
「記録結晶の投影鍵。これがあればどこでも読み出せる。君の“印”が必要だがな」
私は右手首の茨の刻印に視線を落とす。
テオがわずかに目を見開いた。
「……やはり君が《茨》か。伝説の告発者が、生きてたなんて」
「私は……記憶を失っているの」
言うと、テオは目を逸らした。
同情ではない。計算だ。私をどう使えるか瞬時に測るような、冷たい光。
「なら余計に急げ。あんたの“婚約者”は、もたもたしてると全部焼く」
遠くで金属の跳ねる音。
誰かが鉄扉をこじ開けようとしている。
私たちは通気路に身を滑り込ませ、暗い急斜面を四つん這いで進んだ。
背後で扉が破られる重音が響いた。
私は無意識に息を止める。
狭い通路に人の声が反響した。
「記録の反応が消えた? 誰か抜いたな。――王太子殿下に連絡を」
セドリックの名が、刀身のように空気を切った。
胸の奥で何かが硬くなる。恐怖か、怒りか。多分その両方。
やがて通路は外へ繋がり、湿った空気が流れ込んできた。
出口は城外の運河沿いに開いていた。夜に沈む水面が細く光り、舟が一艘繋留されている。
「乗れ」
テオが手際よく綱を外し、舵を取る。
舟は音もなく滑り出し、暗い水の上を走った。
しばらく無言のまま進む。
城壁の影が遠ざかり、街の明かりが広がっていく。
遠くで鐘が鳴った。低く、長い音。続けて幾つもの鐘が重なる。
「……祭礼の鐘?」
「ああ。三日後の“慈善祭礼”の予鈴。準備が始まった合図だ」
テオは艪を押しながら言った。
「王は今年、施しを倍にすると宣言した。だが倉は空だ。どうすると思う?」
「……列に並ぶ民は、配られない麦に怒り、暴徒になる。そこへ“秩序”を掲げて現れるのが――」
「王太子だ。暴徒を平らげ、賢君の座をかっさらう。台本はできてる」
舟がゆるく旋回し、薄暗い倉庫の裏手に入る。
テオは扉を叩く合図を三度送った。中から鍵の外れる音。
扉が開いて、壮年の女が顔を出す。袖をまくり上げ、手はインクで黒い。
「遅いよ、テオ。……その子が?」
「《茨》だ。記憶は抜かれてるが、印は本物」
女の視線が私を射抜く。
敵意はない。だが、安易な信頼もない。現場で磨かれた目だ。
「名は」
「リリアナ・グランツ」
名を口にした瞬間、女の眉がかすかに動いた。
噂ぐらいは聞いたのだろう。断罪された悪女、あるいは王家の裏切り者――そんな名。
けれど女はただ頷き、倉庫へ通した。
「私はアグネス。印刷所の親方だ。ここは地下配布網《夜書》のひとつ。
証拠は?」
私は皮紐で括った投影鍵を差し出した。
アグネスは無駄のない手つきで結晶板へ鍵を差し込み、映像を壁面へ投影する。
瞬時に室内の空気が変わった。集まっていた数人の男女が息を呑む。
「……証言に帳簿、物流路の地図。揃いすぎてる」
「これ、王太子の私印じゃないか。偽刻か?」
ざわめきが広がる。
アグネスは皆を手で制した。
「証拠は十分。問題は“どこで”“誰の声として”出すかだ」
テオが私を見る。
彼の瞳に、はっきりとした期待と焦りが点った。
「《茨》は顔を出せば炎上する。だが、顔を出さねば“作り話”で終わる。
君は――祭礼の日、民衆の前に立てるか?」
喉が鳴る。
恐怖が大きく口を開けて待っている。
だが、胸の奥にもう一つの熱がある。手紙の最後に滲んだ、言葉にならない約束。
「……立つ」
気づけば、私はそう言っていた。
アグネスの口角がわずかに上がる。テオは短く息を吐き、頷いた。
「なら、段取りだ。祭礼の壇上は王家の儀式場。近づくには“許可証”がいる」
アグネスが机に広げたのは、祭礼当日の会場配置図だった。
王の演説台、供給所、楽隊席、装飾花道、そして非常口の位置。
私の視線がある一点で止まる。――楽隊席の裏、音響魔導具の制御塔。
「ここなら、声を全広場に流せる」
「鋭いねお嬢さん。だが塔は王太子派の監視が厚い。鍵も魔術も二重」
「鍵は私が作る」
テオが即答した。「魔術は君の“印”で通る」
アグネスが私に視線を戻した。
真っ直ぐな、逃げ道を与えない目。
「最後にもう一つ。これは公開でやる以上、王太子は黙っていない。
衛兵が君を捕らえに来る。……その先も生きる覚悟はある?」
私は答えられなかった。
“その先”の映像は一度も夢に現れたことがない。
けれど、思い出す。
地下で読んだ手紙の文字。――「あなたが私の手となり、声となって、告発してほしい」。
顔を上げる。
「覚悟は……今、作る」
アグネスが短く笑い、作業台を叩いた。
「よし、準備開始。テオ、偽造許可証の版下。
ミハイルは広場の偵察、交替衛兵の時刻割。
私は声明文の下書きを受け持つ。……リリアナ、君は“自分の言葉”を書くんだ」
「私の――言葉?」
「そうだ。告発は紙や証拠だけじゃない。人を動かすのは、声だ。
《茨》としてじゃない、“リリアナ”としての言葉を書きな」
胸の内側が熱くなる。
私は震える指を落ち着かせ、ペンを握った。
真っ白な紙が目の前に広がる。
言葉はしばらく出てこなかった。
だがふいに、指が勝手に動き始める。
溢れるものを掬うように、線が文字になって紙を走る。
「私は覚えていない。けれど、心は覚えている。
飢える子供に麦を、泣く母に水を、嘘つきには真実を。
それを差し出すことが、私の名より先にある」
顔を上げると、アグネスが無言で頷いた。
テオがふっと笑う。「戻ってきたな、茨」
そのとき、倉庫の天井が低く鳴った。
外を大きな隊列が通る振動だ。
アグネスが窓口からそっと外を覗き、眉を寄せる。
「……近衛隊だ。王太子の馬印が出てる」
心臓が跳ねた。
テオが素早く机の上の物を重ねて布で覆う。
「嗅ぎつけたか。動きが早い」
倉庫の扉を叩く音。
規則正しく、容赦のない拳の重さ。
アグネスが短く息を吐き、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「裏口から離脱。テオ、護衛。……リリアナ、これは持っていけ」
渡されたのは、小さな真鍮の笛。
中央に茨の刻印。
「《告発の笛》。祭礼の喧噪でも通る周波だ。三度吹けば“夜書”の仲間が動く」
扉が再び叩かれる。
「開けろ! 王太子殿下の命で検分する!」
アグネスは平然と扉に向かった。
私とテオは裏口へ走る。
冷たい夜気が頬を切る。遠くで祭礼の準備を急かす太鼓が鳴っている。
「走れ」
テオが言う。
私は真鍮の笛を握りしめ、夜の路地へ飛び出した。
背後で扉が開く音、硬い声のやりとり。そして――沈黙。
アグネスは時間を稼いでいる。私たちは、生き延びなければ。
角を曲がった瞬間、影が一つ、壁から剥がれた。
黒い外套。冷たい青の瞳。
セドリックだ――と思った刹那、影が静かに頭を下げた。
「お嬢様。迎えに上がりました」
胸が凍る。
城の侍従頭――セドリックの腹心、イザーク。
笑みは礼儀正しい。手は空。だが、足元の姿勢が殺気を隠していない。
「殿下がお呼びです。お戻りください」
「……いいえ」
私の声は意外なほど静かだった。
イザークの瞳が細くなる。
テオが半歩、私の前へ出た。その指が私に合図を送る――“三”。笛だ。
私は真鍮の笛を持ち上げ、空に向けて息を吹き込む。
澄んだ高音が夜気を切り裂き、三度響いた。
次の瞬間、周囲の屋根や路地の陰から黒い影がいくつも跳び降りた。
夜書の仲間たち。棒、ロープ、煙玉。
イザークがわずかに眉を上げ、微笑んだ。
「なるほど。――連れて行け」
どこからともなく現れた近衛兵が路地を封じる。
逃げ道は一つ。屋根だ。
テオが私の手を引き、箱を足場にして塀へ、塀から屋根へ飛ぶ。
背後で金属が交わる音が弾け、火花が夜を散らした。
屋根の上の風は冷たく、月が近い。
私は一度だけ後ろを振り返った。
路地の入口に、セドリックが立っていた。
静かな笑み。
目が合う。
彼は唇だけで囁いた――「愛している」と。
胸の奥で、何かが裂けた。
私は前を向いた。
逃げるのではない。次へ行くのだ。
祭礼の壇上、音響塔、告発。
生きて言う。私自身の言葉で。
屋根から屋根へ、奔る。
遠くで、鐘が再び鳴り始めた。
大祭まで、あと二日。




