第1話 記憶のない目覚め
鈍い痛みが、頭の奥で鈍く鳴っていた。
息を吸い込むたび、喉の奥が鉄の味で満たされる。
目を開けた瞬間、世界が白く滲んだ。
天井には、絹の天蓋。
その布越しに差し込む朝の光が、なぜか残酷に見えた。
(……ここは?)
思考が靄の中に沈む。
見覚えのあるようで、どこか遠い部屋。
身体を起こそうとしたが、全身に鉛のような重さがのしかかって動かない。
「リリアナ──!」
名前を呼ばれた。
その声が、胸の奥を痛く締めつける。
振り返ると、若い男がこちらへ駆け寄ってきた。
金の髪、青の瞳。
まるで絵画から抜け出したような整った顔立ち。
その瞳には涙が浮かんでいる。
「よかった……! 目を覚ましたんだね……!」
「……あなた、は?」
問いかけると、男の表情が凍った。
そして次の瞬間、彼は悲しそうに微笑んだ。
「覚えていないのか……僕だ。セドリックだよ。君の──婚約者だ。」
婚約者。
その言葉が、頭の中で何度も反響した。
けれど、その名にも、その顔にも、心は何の反応も示さない。
「……ごめんなさい。何も、思い出せません。」
沈黙が落ちた。
セドリックの瞳が、ほんのわずかに揺れたように見えた。
「大丈夫だ。ゆっくりでいい。君は、ひどい怪我をしたんだ。
倒れて……頭を打って……でも、もう危険はない。」
「私……倒れた?」
「そうだ。断……いや──舞踏会の夜に、階段から落ちたんだ。」
言葉の途中で、彼が一瞬言い淀んだのを私は見逃さなかった。
“断”という音の続きを、彼は明らかに誤魔化した。
その微かな違和感だけが、私の中に残った。
それから数日、私はこの屋敷で静養した。
侍女たちは丁寧に世話をしてくれたが、彼女たちの視線には微妙な恐れが混じっていた。
まるで、私が“何かをした人間”のように。
「お嬢様、紅茶のお加減はいかがですか?」
「ええ、ありがとう。……ねえ、私、以前はどんな人だったの?」
侍女の指が一瞬止まる。
彼女は目を伏せて、小さく言った。
「とても……聡明で、強い方でした。」
言葉の裏に何かを隠している。
けれど、それ以上は教えてくれなかった。
ある日の午後、部屋に一冊の手帳が置かれているのを見つけた。
古びた革表紙。金糸の刺繍が施され、角は擦れている。
中を開くと、几帳面な筆跡でびっしりと文字が並んでいた。
間違いなく、これは私の字だ。
「セドリックを信じてはいけない。」
最初のページにそう書かれていた。
心臓が跳ねた。
婚約者である彼の名前。
あの優しく微笑む男を、信じてはいけない──?
続く文章は、途中で途切れていた。
インクがにじみ、最後の行は読めない。
ページをめくるたび、書き連ねられた言葉の端々に怒りと絶望が滲んでいた。
まるで、自分自身が何か巨大な裏切りに気づき、それを告発しようとしていたかのように。
(私は……何を、知っていたの?)
その夜、部屋にノックの音が響いた。
セドリックが現れた。
月明かりに照らされたその姿は、あまりにも穏やかで、優しげで、嘘のように美しかった。
「眠れないのかい?」
「……ええ、少し。あなたの顔を見ると、落ち着くの。」
嘘だった。
私は彼の瞳を見るたびに、心の奥がざわめいた。
まるで“恐怖”という感情が、私の中に染み付いているかのように。
セドリックは微笑みながら椅子を引き、私の髪を撫でた。
その手が一瞬、冷たく感じた。
「大丈夫。君はもう、何も思い出さなくていい。」
「……どういう意味?」
「過去は、忘れた方がいいこともある。僕たちは、今日からやり直せばいいんだ。」
優しい声。
けれど、その言葉には不自然な圧があった。
まるで「思い出すな」と命令しているような。
夜更け、再び手帳を開いた。
その中に挟まれていた封筒を見つける。
封は切られ、古い蝋の跡が残っている。
中には、一枚の紙片。
「王国の罪を暴け。
すべては“彼”から始まった。」
震える手で、その紙を握りしめた。
脳裏に一瞬、誰かの悲鳴と炎の光景が閃いた。
城の回廊、倒れる少女、剣を抜く男──。
そして、その男の顔は……セドリックに似ていた。
「リリアナ、どうした?」
いつの間にか扉の前にセドリックが立っていた。
光も音も立てずに入ってきたその姿に、背筋が凍る。
彼は柔らかく笑った。
「怖い夢でも見たのかい?」
「……ええ。少し、変な夢を。」
「夢は夢だ。忘れるんだ。」
そう言って、彼は私の手から紙片を奪い取った。
それを暖炉に投げ入れ、炎の中で焼き尽くす。
燃え上がる火の粉を見つめながら、彼は静かに呟いた。
「もう、過去のことは忘れよう。
君は僕の傍で生きればいい。それだけでいいんだ。」
炎が紙を飲み込み、最後の赤い文字が消える。
私はただ、胸の奥で叫びたくなる衝動を押し殺した。
(この人は──何を、隠している?)
数日後、侍女が私の部屋を掃除しているとき、床の下からもう一冊、同じ装丁の手帳が見つかった。
ページの端に、震える筆跡でこう書かれていた。
「この記録を見つけたら、すぐに逃げて。
あの人は、あなたを殺す。」
手が震えた。
背後でドアがきしむ音。
振り返ると、そこにはセドリックが立っていた。
冷たい笑み。
そして、柔らかな声で。
「リリアナ……何を見ているんだい?」




