第2話 宮中の招待状
霧市の朝は相変わらず湿っていて、街角の灯りは霧に溶け込んでいる。燈草堂を閉め、荷物をまとめると、私を呼びに来たのは予想通り、官服の一行だった。八百屋の顔をちらりと見て、軽く手を振る。今日の任務は小さな市場の薬ではなく、宮中だ。
馬車に揺られながら、考える。嗅覚の勘は、先日の黒い粉のことを忘れてはいない。あの粉の残り香は、単なる鉛や硫黄ではなく、古い禁忌薬と何か混じった匂いだ。宮中の空気が、さらにそれを複雑にすることも覚悟しておかねば。
宮中に着くと、広間には緊張が漂っていた。側室たちが次々に体調を崩し、医術では原因が特定できないという。侍医の綾目が私を迎え、「桐子殿、匂いを頼りに調べてください」と頭を下げる。柔らかい笑顔と落ち着いた声音に、少しほっとする。
そのとき、馬車の車輪の音に混じって硬い足音が近づく。振り返ると、一人の若者が私を見ていた。濃紺の官服に身を包み、眉間に影を寄せる。鋭い目つきだが、声は低く、落ち着いている。
「香月桐子殿ですね。護衛の雪代蓮です。宮中での安全は私が保障します」
無骨な自己紹介に、私は軽く眉を上げる。無駄な愛想はない。だが、嗅覚が告げる。彼の体から、規律と警戒の香りが混ざっている――任務感と個人的な緊張、微妙な揺らぎもある。
「護衛までつくの? まあ、事故防止にはなるか」
思わず口をついて出る。蓮は眉ひとつ動かさず、ただ黙って頷いた。
側室たちは、次々と薄い布団の上でぐったりしている。呼吸が浅く、唇は青みがかる。布に残る微かな粉、肌の匂い――嗅覚が全てを拾う。金属臭、硫黄、何か甘い薬草の残り香。混ざり合い、しかし秩序だったパターンを示している。
「これ……ただの食中毒じゃないわ」
私は小さく呟き、手元の薬袋を開く。ラベンダーやカモミール、少量の解毒草を混ぜ、簡単な応急処置を作る。呼吸を整え、体の緊張をほぐすだけでも症状は落ち着く。
「助かった……」
側室の一人がかすかに声を出す。私の薬は、まだ仮の処置だ。原因を特定するには、もっと匂いを追う必要がある。
蓮が静かに私の横に立つ。
「宮中では、慎重に動いてください。怪我や中毒はすぐに噂になります」
注意の言葉に、私は軽く肩をすくめる。誰より慎重に動くのが私の仕事だと知っているからだ。
だが、蓮の香りを嗅ぐと、ただの忠告ではない、個人的な緊張も感じる。――少しやっかいな護衛ね。
午後になると、私は側室の部屋をひとつずつ回り、残り香を嗅ぎ分けていった。黒い粉の成分は、単純な毒ではなく、古い薬の断片と樹脂のような香料が混ざっている。宮中で使われる薬の歴史と、匂いの組み合わせを頭の中で照合する。時間とともに、少しずつパズルの輪郭が見えてくる。
「これは……偶然じゃない」
私は低く呟き、蓮に目を向ける。無言で頷く護衛。二人の間に、必要最低限の協力が生まれた。
夕暮れ、宮中の庭で黒い樹脂の小さな断片を拾う。霧に溶ける夕日が、それをほんのり輝かせる。匂いはまだ淡く、しかし確かに次の手がかりを示していた。明日になれば、さらに深く調べられる――桐子の香痕が、宮中の陰謀に少しずつ迫っていく。