第1話 霧市の小さな救い
燈草堂は霧市の小路にある、古びた小さな薬局だ。大通りの喧騒から外れたその場所では、扉の上の行灯が朝まで静かに眠っている。客の方が早く起きている日もあるけれど、店の息吹はいつだって私の手の中にある。香りの善し悪しが商売の成否を決めるのは、薬師の世界なら当たり前のことだ。
私、香月桐子は匂いを読む。大げさな魔法ではなく、長年の修練による嗅覚記憶術――“香痕”の力だ。誰がいつ薬草を触ったか、どんな火で炙ったか、湯に混ぜられた蜂蜜の種類まで鼻が教えてくれる。今日も鼻は正確に働いてくれそうだ。
午前の客は八百屋のおばさんと、その荷車越しに舞い込んだ薄絹の袖の女性。彼女は汗も拭わず、ふらりと膝を折った。私は手を拭き、菊花を取り出してお茶を淹れる準備をしていたが、その膝折れで手順が狂う。
「――大丈夫ですか?」
声をかけると、薄絹の女は目を見開き、指で胸元を押さえている。呼吸は浅く、皮膚が白く浮いている。袖に黒い粉が付いているのを見逃すはずもない。直感ではなく習性だ。指先で粉を触り、匂いを取る。最初に感じたのは、金属の苦味と、腐った卵のような硫黄臭。それに甘い蝋のような香りが混じる。
「鉛ではない。硫黄成分に有機物の分解臭……触媒か何かで変質しているわね」
私の声は淡々としているけれど、その頭の中ではすべての化学反応が瞬時に計算されている。女は目を大きくして私を見る。理解できるのは三割ほどで十分だ。
「すぐに飲ませるものは?」
八百屋が慌てる。私は小瓶を取り出し、淡い黄色の液体を指先に垂らす。ラベンダーではない、薬草の蜜のような香り。消化と呼吸の緊張を和らげる。金属毒とは別の“混乱物質”に触れたようだ。
「落ち着いて。二滴だけ口に含んで……それから店に来なさい。詳しく調べる必要がある」
女は震える手で瓶を受け取り、唇に垂らす。呼吸が深くなり、顔色も戻った。しかし背筋に冷たい感覚が走る。袖の黒い粉――ただ事ではない予感だ。
後ろから、硬い息遣いと官服の足音。霧市で官服が来るとき、それは決して粗相ではない。
「宮中の者ね」
私は低く呟いた。今日の匂いは、噂話で終わらない。