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個人的趣味強め不思議系短編集

10分間の恋人

 チガヤの穂が銀色に揺れる季節に、彼に出会った。


 家の庭で一人で佇んでいるところだった。5時のチャイムが流れていて、明るく光に満ちた季節に疲れた私は、暮れ始めのオレンジ色を眺めていた。長い髪の彼は気づくと隣りに立っていた。背中には大きな翼が生えている。


「迎えに来たよ」


 見上げる程に背の高い彼はかがみ込んで、私の耳元で囁く。


「あなたは天使?」 


 私の質問に彼は答えない。ただただ微笑むだけだった。


「俺はね、一人ぼっちの人間のもとへ来るんだ」


 そう言うと、私を抱いて空へと舞い上がる。ふうわりと風のように。彼から水の匂いがした。田んぼの脇の水路を勢いよく流れる水の、闇を含みつつ透き通ったあの匂い。


「何故?」


「君は一人じゃないって、教えるために」


 彼に抱かれたまま、その肩に顔を埋めた。


「私は一人だよ」 


 夜風に体を撫ぜられながら私は呟く。私の庭は寂しい庭だ。チガヤの生える荒れ庭には、ささくれだった私がいるだけだ。


「誰も味方なんかいない」


 このまま私を遠くまで連れていけばいい。帰れなくなるまで遠くへ。そうすれば、二度とあそこには戻らなくていい。

 空を進みながら、どうしょうもない夢を見る。

 彼は小さく笑った。そこには嘲りが含まれていた。


「夜の女王が東の空からやってくる。夜の帳が降ろされて、悪い子は連れて行かれてしまうよ」


「悪い子?」


「だって君はひどい偏見を持っている」


「偏見なんて持ってない」


「そういう人間が一番危ないんだ」


 彼が突然、抱きしめる腕に力を込めた。


「偏見はない、なんて言えるはずないんだ。たくさんの思い込みを抱えて生きているはずなんだから。もし君に偏見がないと宣言してしまったら、君の世界はひとつも間違いが許されない世界だ」


「説教をしに来たの?」


 それなら帰りたい。今すぐに。


「そうさ。一人じゃないことを、お説教で知らしめたい」


 彼は腕を緩めると、私を空中へと突き飛ばした。


「心を開くんだ」


 私は急降下していく。


 迫りくる地面は、田植えを終えた田んぼだった。夕焼けを映してオレンジ色に染まっていた。

 上空から落下しつつ、その美しい光景に涙が溢れた。これが私の望みなのか。それなら喜んで落ちよう。


 そして、私は顔から田んぼに落下したのだった。



 まずは罪悪感からだ。田んぼの所有者への申し訳無さ。


(弁償しないと)


 田んぼという所有物、財産を破損してしまったのだから。


 私は田んぼの真ん中に醜く落下した。うつ伏せにべしゃっと。顔全体どころか、胸から腹から足の先まで泥だらけ。

 息苦しいから顔の泥を拭っていると、背後から声がした。


「大丈夫?」


 振り返ると、そこにいたのは、大きなリュックを背負った小さな子どもだった。5歳くらいだろうか。髪が短いから男の子かもしれない。Tシャツにかわいいペンギンのキャラクターが描かれているから女の子かもしれない。

 子どもは、私の顔をみるなりゲラゲラ笑い出した。


「顔、泥だらけ!」


 そして、笑いながら大きなリュックの中から器用に手鏡を取り出し、私に渡した。覗き込むと、口の周りにまるでヒゲのように泥がついている。


「ホントだ!」


 私も思わず笑ってしまった。

 それにつられて子どもはますます笑った。あんまり笑うから、田んぼの中でフラフラしだして、結局自分も泥だらけになっている。


「君は誰?」


 私が訊くと、子どもはピタリと笑うのをやめた。西日を背に、こちらをじっと見つめて答える。


「お母さんを待っているの」


「田んぼの真中で?」


「うん。迎えにこれないように」


「どうして?」


「迎えに来てほしいから」


 田んぼを渡って風が吹く。夕焼けが染み出してほんのり夜の匂いがする。


「……そうか」


 涙が込み上げて、喉がヒリヒリ痛かった。


「手鏡、ありがとう」


 私はそっと手鏡を返した。リュックを背負った子どもは寂しそうな笑顔で受け取った。

 この子の心を開きたい。

 私がそう願った時。子どもの顎で何かがキラリと光った。


(あれ?)


 顎の先に金色の金具がついている。それはファスナーの引き手だった。ファスナーと確信したのは、そこから線状にファスナーの歯が伸びてたからだ。首を伝い、胸からおへそのあたりまで伸びている。


「開いていいかな」


 私が訊くと、子どもは黙って頷いた。

 夜が迫っている。この子が夜の女王に連れ去られてしまうかもしれない。


(急がなきゃ)


 私は引き手を引くと、白い光が漏れ出して、夕闇に沈もうとする水田をほのかに照らした。ファスナーをおへその辺りまでま完全に下ろすと、子どもの胸は大きく開かれ、そこから一斉に何かがヒラヒラと飛び出してきた。


「これは……蝶々?」


 その蝶の群れはカラフルな折り紙でできていた。ピンク、白、黄色、水色、青、黄緑。蝶々たちが胸の中から飛び出していく。


「お母さーん!」


 胸の中から聞こえてきた。ぼんやりと小さな声で。

 私は自分の顎の下を触る。指先にひやりとした感触があった。何となく予感していた。私にもファスナーがあるって、心の何処かでわかっていたのだ。そして開けなくては。この子のファスナーを開けたんだから、私も開けたい。

 ゆらゆらと揺れる引き手をゆっくりと引くと、ジリジリと音を立てて、ファスナーは開いた。


 泥のついた私の胸からは冷たい風がふいた。少し物悲しく、影のある風。


「寂しいね」


 子どもが言った。

 子どものファスナーの向こうには、白い光と折り紙の蝶々がでてきたのに、私の中身は風しかない。人を寄せ付けない、冷たい風。


「うん。私は寂しい」


 そう言うと、子どもは私の手を掴んだ。


「同じだね」


 子どもがぽつんと言った。それから空を仰いだ。


「お母さーん!」


 今度は子ども自身が叫んだ。胸の中からではなく、子ども自身の口から飛び出した声だった。


「寂しいよー!」


 すると、大きな風が吹いて、田んぼの中を通り過ぎた。


ーー迎えに来たよ!


 風の中に声がした。


「お母さんだ」


 子どもの顔がぱっと明るくなる。


「ありがとう」


 そういうと、子どもはその風に乗って、田んぼの上空を飛んでいった。あっという間に子どもは姿を消した。


(お母さんのところへいったのか)


 不思議とそんな気がする。

 一人きりになったけれど、胸にぽっと明かりが点った気がした。体の中が温かい。


 その時。白と黒の縞模様の羽根がヒラヒラと落ちてきた。


「酷い顔だね」


 頭の上で声がする。

 翼を広げた彼がふわりと舞い降りてきたのだ。そして、私の顔をまじまじと眺めて、クスクスと笑う。それから、どこから取り出したのか、濡れたタオルでゴシゴシ拭きはじめた。少し痛かった。


「あの子の心を開いたのかい?」  


 そう訊ねられたけれど、私にはよくわからなかった。


「開いたのは胸のファスナーだけ」


「そう」


「それだけ」


「そう。それでいいんだよ」


 彼は私を抱き上げて、再び空へと舞い上がった。私を抱く彼の腕も、胸も、泥に汚れている。


 それなのに、見下ろした田んぼは私が落ちて乱される前に戻っていた。  


「君は一人ではなかっただろ?」


 ふと、彼は訊ねた。そう言われてもわからない。私は彼の胸に顔を埋めた。


「あなたは誰なの?」


 彼の胸はわずかに汗ばんで、シロツメクサの茂る庭の匂いがした。


「君の恋人だよ」


 驚いて顔を上げた私の頬に、彼は風にあたりっぱなしの冷たい頬を寄せる。


「もう次の人のところへ行く」


「次の人?」


「次の恋人のところへ」


 私は彼の顔をそっと押しのけた。

 恋人が他にもいるなんて、思いもしなかったのだ。


「胸が痛い」


 悔しいことに、締め付けられるように痛い。


「恋だから」


 彼は微笑むと5月の庭に私を降ろした。


「5月のこと、好きになった?」


 庭に帰された私は彼を見上げて頷いた。

 明るすぎる季節に、私は置いてけぼりにされている気がしていたのだ。


「好きになった」


 彼は微笑む。柔らかく。

 時計は5時10分を指し示している。彼と恋人だったのは、10分間の出来事だった。


「さようなら」


 私が言うと、長い髪を風にたなびかせ、彼は西の空に消えた。夢ではない。私の胸ポケットに折り紙の蝶々が紛れ込んでいたのだから。翅の裏には子どもの字で「おかあさん大スキ」と書かれている。あの子が飛ばした折り紙の蝶々を、私も解き放ちたい。「大スキ」と思いを綴り、空に逃してやるんだ。


 チガヤの穂が銀色に揺れる5月。

 風の匂いも銀色。それは、光に満ちた季節の匂い。

 私は好きになった。

 あなたのことが好きになった。



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