てすと
「梨が食べたい」
学生鞄を胸に抱き、彼は独り言のように呟いた。その背中では黒のリュックが、私のあげたト音記号のキーホルダーを揺らしている。横顔を見ていたのに、こちらを向いたせいでその楽しみが無くなってしまった。けれど、それと同時に新たな楽しみが生まれる。
「そこのスーパーにさ、盛り合わせみたいなの売ってないかな」
「良いね、私も食べたい」
こういうことを彼のほうから提案してくることは少なかったから、私は二つ返事でそれに乗った。
「じゃ、行くか」
嬉しそうな表情を見て、私も彼に釣られる。今自分を鏡で見たら、気持ち悪くて直視できないんだろうな。何とか自然体を取り戻してから、こっそりと彼をみやった。その横顔には、無防備で何とも言えない心地よさがある。私は見つめ合うよりも、こういうふうに、勝手に見つめているほうが好きだ。偶に気付かれて怪訝な顔をされるが、それも嫌いじゃない。人間何も、笑顔とか、そういう良い顔だけが魅力的ではないことは誰もが知っている。
「そういえば、"大分の子"とどうだった?」
覗き見に気付かれそうな予感がしたので、咄嗟に別の話題を振った。"大分の子"とは、彼が修学旅行でナンパした、大分の女子高生である。大阪の遊園地の帰り、旅館に向かうバスでその噂を聞いた。集合時間になり皆が集まりつつある中、彼がうちの制服でない、見知らぬ女子に別れを告げているのを数人が見ていたらしい。そのとき私は彼がそんな人ではないと思い信じなかったが、後日、本人に尋ねると噂は本当だったようだ。
「まぁ、楽しかったよ」
仕方ない、といった感じで答える。あれから三カ月、久々の再開を果たしてデートをしたらしい。
「でも凄いよね。ナンパなんて普通イケメンじゃないとできないよ」
「また酷いこと言うな。それに、あれはナンパじゃない」
私の揶揄いに、少し怒った演技を返す。彼には失礼だが、確かにイケメンではない。明るくて面白い、といった人気キャラクターでもない。故に、クラスではあまりモテない。だが何度か話せば、いつの間にか好きになっている。私だって、何を隠そうその一人だ。初めは殆ど興味すらなかったのに、勝手に片思いが始まり、気が付けば一年経っていた。今ではすっかり彼の虜になってしまっている。
「どこまでいった?」
「どこまで? まぁ、天文館辺りをブラっと」
嚙み合っていない。聞きたいのはそんなことじゃない。
「そうじゃなくて、こっちのほう」
胸元で小指を立てて見せる。彼をあきれたような表情で目を逸らした。
「そんなんじゃない。健全に遊んだだけ」
「ほんとかなあ?」
おちょけた感じで疑いの目を向ける。あまり詮索しても、彼が離れていくだけだ。ふざけ顔で気にしていない風を装う。いつもの表情、いつもの会話。この距離感こそが彼のスイートスポットに違いない。そう信じて、何があろうとこの関係を保ち続けてきた。それゆえ永遠に友人どまりなのだが、それでも良かった。彼と居られるのなら、それが一番の幸福だ。とはいっても、内心は限りなく不安だった。"大分の子"には彼から話しかけたようだし、一日中話したのなら、彼女のほうからアプローチをされていてもおかしくはない。
「キスした……?」
不安が昂ぶり、思わず訊いてしまった。とはいえ、本気だと思われないよう変なニヤけ顔を作る。彼のほうはそんな不安を意にも介さず、んな訳ない、といつも通りの雑な返答をした。何故だか、がっくりした。どうしてだろう。私の不安を気にも止めてくれなかったから? 対して、そう、と素っ気ない返事をする。いやダメだ、こんな態度では下心が丸見えになってしまう。しかし放ってしまった言葉は二度と帰らない。散財した時と同じような感覚。どうしていいか分からず、結局気まずくなってしまった。会話が消える。彼となら無言でも心地良いのが常だったが、この時ばかりは少し眩暈がした。
そうこうしているうちに、気付けば辺りが賑やかさに囲まれていた。店内の音と明かりが漏れる自動ドアから、田舎の割に多くの人が出入りしている。彼と私も、自然とそこへ吸い込まれていた。何故だか何者かに不可抗力で操られているような、よく分からない気分になる。少し繊細な日なのかもしれない。良いことも悪いことも、深く胸に残ってしまいそうな感じがした。
「ありそうだね」
入口すぐの野菜アイランドを通過し、すぐにお目当てのコーナーに到着した。カキとか、ブドウとか、キウイとか。例年より気温の高い初秋。ここに並んだぜんぶをまとめて口に入れたら、ほんとうに幸せに違いない。だが彼は浮かない顔をしているようだ。それもそのはず、この幸せ売り場には肝心なものが欠けていた。
「梨、無いね」
まじか、というふうに唇を噛む彼に、そう声を掛ける。うん、と言った彼が、鮮やかなカットフルーツの詰め合わせをひとつ手に取った。
「色々入ってるし、これで良い?」
梨は諦めたのか、モモとかリンゴとかのパックをこちらへ見せる。私は、良いよ、と返事をして、その艶やかさに負けないような笑顔を作ってみせた。すると苦そうだった彼の顔もすぐに甘くなる。彼はそれから、醤油がない、ニンニク切らしてたんだ、と言いながら色々と買い集め、私も大学ノートを何冊か補充し、店を後にした。
初めと同じ自動ドアをくぐると左手の駐輪場近くに自販機とテント屋根の掛かったベンチがあり、そこに二人で腰掛ける。ずらりと並んだ自販機の異様な商品数の多さに気を取られていると、先に座った彼がパックを開封してくれていた。そして、ふたつある爪楊枝の片方を受け取り、ふたりでフルーツをつつく。まるで恋人同士みたいだ。身体の内でも外でも、幸福が広がり続ける。対してただひたすら担当の果物を見つめ、義務のように口へと運ぶ彼。とても同じ幸せを共有しているようには見えない。何を思っているのだろう。私と恋人まがいの行為をしていることがそんなに嫌なのか。もしかすると、そうなのかもしれない。いつも私が冗談で恋人ごっこをしても、きちんと冗談で返してくれる。だが茶番の後は大抵、先ほどの"梨が無かった時"のような表情をしている。だからこそ、私はいつだって一線を超えないような対応を心掛けていた。けれども今日はおかしい。どうしても彼と、もっと近づきたくなる。彼にもこの幸せを感じて欲しい。私に恋して欲しい。願わくば、梨になりたい。梨にさえなれば、彼に求めてもらえるのだろうか。食べてもらえるのだろうか。けれども、あのみずみずしくて程よい甘さの果物に、私はきっとなれない。私の本心はもっとドロドロとして、疲れるように甘ったるい。甘すぎるのは嫌いだと、彼は言っていた。梨になれないのなら、私はこれ以上彼に近づくことは出来ないのだろう。
「最後、良いよ」
タオル地のパジャマのような、程よく優しい声で我に返る。二人の間に置かれたパックにはたったひとつのリンゴが残されていた。
「ありがとう」
ありがたくいただく。こういう時、彼はどうしても最後のひとつを私に食べさせたいらしい。仲良くなった頃は毎度譲り合いをしていたが、今では直ぐに自分が引き取っている。すると、彼が満足そうな表情をするからだ。私は爪楊枝で、最後のそれを口に運んだ。何故だか彼から貰った最後のリンゴは、嫌な酸味を感じたような気がした。
「やばっ、降ってきた」
スーパーを後にして、三分ほど。駅に向かう道のりで、突然雨に降られた。今まで気配すらなかったのに、ありえない速さで雨量が増える。比例して、雨音がどんどん騒がしくなってきた。いわゆるゲリラ豪雨というやつだ。彼も私も、ひたすらに賭けている。スーパーに戻るより進んだほうが近いので、引き返しはせずに駅へ向かう。少し行った先に、ガード下のトンネルを見つけた。お互い無言だが、彼も同じことを考えているようだ。なんとか避難任務を完遂し、非日常なほどの雨音の中で私たちは見つめ合った。
「最悪だ」
彼がそう呟く。見ると二人とも、学校指定の白い夏服がうすく透けている。髪もぴったりと皮膚に張り付き、せっかくのセットが水の泡だ。
「タオル持ってる?」
彼に聞いてみる。
「うん」
彼は、ちょっと湿ってるな、とか言いながらリュックから大きめのタオルを取り出し、こちらに投げた。私はすぐに、それを投げ返す。
「自分から拭いて」
実のところ私だって拭くものくらい持っているのだが、使うなら彼の持ち物のほうが嬉しい。そして欲を言うなら、体を拭いた後のもののほうが、より嬉しい。投げ返されたタオルで髪と体を拭いている彼は、珍しく色っぽく見えた。普段はそんな気配ほとんど感じられないが、雨も滴る良い男とはよく言ったものだ。
「予報、晴れだったのにね」
「確かに」
「折り畳み持ってきた?」
「いいや」
「帰れるかな、電車もう間に合わんよね」
「だね」
素っ気ない。いつもなら、もっとちゃんと会話をしてくれる。機嫌が悪いのか、走って疲れたのか。けれど機嫌の悪い彼はこれまで見たことがないし、どんなに疲れていても明るく接してくれる。もしかして具合悪い? それか、私の変な下心のせい? いや、それとも、梨が食べられなかったから?
心配性の私が悶々としていると、顔面に何かが覆い被される。突然の暗転に困惑したが、すぐに彼が髪を拭いてくれていることに気付いた。優しく丁寧に、水気を含んだ布地が髪の流れを追いかけている。雨臭さのなかに、落ち着く香りが混じっていた。私も感謝のひとことくらい伝えればいいのに、急な出来事に動揺して声が出せない。視界が開けて彼に目をやると、真剣で、けれども優しい甘みを含んだ柔らかな表情で私を見つめていた。無意識に見つめ返してしまう。併せて、聴覚が鋭くなる。外界で響く、耳が壊されそうなほどの雨音。その殆どすべてを遮断するトンネルの石壁。耳が籠っているような感じ。世界に彼と私しかいなくなったような気がしてくる。無防備に委ねてしまえば心地良い、けれど同時に恐怖を感じてしまう。この雨が聴覚だけでなく、私たちの関係をも壊そうとしているような。私の中の理性が、目を逸らせ、と言っている。笑って誤魔化して、冗談を言え。もしそういう関係になってしまえば、彼は離れていく。知っている、彼は私から下心を向けられるのが嫌なんだ。そして、私は彼とずっと共に在りたい。だからこそ、私たちはこのまま友人の関係で居続けなければならないんだ。
「いやだったら、ごめん」
「えっ?」
彼の一言で、ふと我に返る。耳鳴りがしたかと思うと、聴覚が完全に失われた。本当に耳を壊されてしまったのか。全身が硬直する。すでに彼は、私を拭く手を止めていた。好きな香りがする。はじめて出会った時からしていた、微かなラベンダーの香り。ラベンダーにはリラックス効果があるという。けれど安息どころか、この胸は痛いほどに暴れていた。合わせられた唇から、ラベンダーが流れ込んでくる。相変わらずの無音。そのまま脳と心臓と、肺と胃腸と、順々に侵されていく。気付いた時には、彼のすべてが、私のすべてになっていた。幸福と心地良さ、罪悪感と恐怖、そして解放感。相反するような感情の色々が、唇を通して共有されていく。彼は共感しやすいタイプだ。きっと私の渾沌を感じ取ってくれているに違いない。
ちょっとだけ冷静になって、すると聴覚が戻ってきた。雨は小降りになりつつある。彼の口元が、ゆっくりと私の元から離れていく。もう何時間も経ってしまったような感じがする。恐る恐る目を開けると、彼の瞳が綺麗だった。そのままくり抜いて、ベッドのそばに飾りたいくらい。そんな私たちはまだ、見つめ合っている。それから少しして、目を逸らしたのは私のほうだった。
「……甘かった」
「え?」
私のつぶやきに、困惑したような彼。ボーッとする頭を必死に切り替え、再び目を合わせる。焦点がなかなか合わない。
「甘いもの食べた後だから」
ああ、と納得してくれた。満足して彼のほうに微笑みを投げる。彼も同じような笑みを投げ返してくれた。多幸感でクラクラする。こんな調子で、家までちゃんと帰れるだろうか。
「拭き終わったら返して」
何のことかと思ったが、そうだ、タオルだ。すっかり浮かれていた。そそくさと身体を拭き、ありがと、と本人に返却した。投げてはいない。きちんと手渡した。
それからの記憶はほとんど無い。多分ふたりで電車に乗り、他愛のない話をして、同じ駅で降り、そして、いつものように別れたんだと思う。只々、口づけを交わした時のあの異様な解放感だけが脳に焼き付いている。悪魔の封印を解いてしまったかのような嫌な感じ。けれど喜びもある。生まれて初めてのキスは、私の心を真っ赤に染めてしまった。その刺激的で、かつ綺麗なキャンバスには、ただ彼だけが描かれている。もう戻れない。理性は塗り潰され、ぜんぶ消えてしまった。私はもう、ひたすらに彼を求め続けることしか出来ない。彼なしでは、とても生きられない。そうか、恋愛関係になるのを嫌がっていたのは彼のほうではなく、私のほうだったのか。私は気づいていた。そして、怯えていたんだ。自分自身に。だから必死に抑えてきたし、悟られないよう隠し続けた。この天井のない、ドロドロしたものを。彼の求める"梨"とは似ても似つかない、疲れるような甘ったるい愛を。