とある伯爵と不遇な男爵夫人の計画~虐げられるだけの結婚生活は捨てます~
瞼に優しい夜明けの光が差し込んでくるのと同時に、憂鬱な気分が身体全てに襲い掛かって来た。
ああ、また朝がやってきてしまったのね。このまま死んでしまえばよかったのに。
「はあ……」
愚痴をこぼしたいけど、そうしてはいられない。私……ユーティア・エレミーは貴族のものにしては簡素なベッドから身を起こし、クローゼットから今日の服を取り出す。本来なら朝の身支度は全てメイドがしてくれるものなのだろうけど。
白いが年季の入ったネグリジェから紺色の地味目な服に着替えて、胸元までぴしっとボタンを留める。髪は先に三つ編みにしてそこからお団子にして……と。シニョンはなんだかんだですっきりするからよくしている髪型のひとつだ。
「はやくメイクをしなきゃ」
私はエレミー男爵家の妻。実家も男爵家で私含めて男3人女4人の大所帯だった。なのでわりかし結婚自体はあっさりと決まって、両親やきょうだい達は泣いたりもしていたけど温かく送り出してくれたのは今でも覚えている。
だけどこの嫁ぎ先は地獄だった。まず夫のクライストは平均程の身長に華奢で茶髪と目立たない容姿を持ち、言葉遣いは穏やか。でも一言でいえばとにかく弱い。弱すぎる。もやしのような軟弱な男だ。
――ユーティア。ママの言う事はちゃんと聞いた方がいいよ……。
このクライストが言いなりになっているのが彼の母親で私からすれば姑にあたるマレナお義母様と、クライストの妹・クララのふたり。お義父様は結婚前にお亡くなりになっているみたいだけど、そのせいかこのエレミー男爵家はマレナお義母様を中心に回っている。
そしてマレナお義母様とクララは理不尽でわがままかつ浪費癖が凄まじい。家事や領地経営は全て私に押し付けている上に、これまで何度も実家はじめ他の貴族から融資を受けたりしている。だから私のお小遣いはないに等しい。
――ユーティアさん、まだ朝ご飯出来ていないのかしら? 全く愚図でのろまね。
ああ、今にもマレナお義母様から朝ご飯の催促が飛んできそうな気分になってきた。早くメイクを終わらせて厨房へ向かわないと。
メイクを終わらせると手を洗い、厨房へと走っていると、廊下で会いたくない人物に遭遇した。
「あっお義姉様ぁ。何してるのよぅ」
「クララさん。お、おはようございます」
豪華なシルクの寝間着姿のクララだ。あんなシルクの服を着るから、借金がかさんでしまうのよ。いつも綺麗にくるくるとセットされているブロンドの長い髪はボサボサにみだれている。するとおぉ〜いと間の抜けた男性の声が聞こえてきた。
「クララ、どうしたんだい?」
のっそのっそと歩いてきて、クララの腰に手をやる上半身裸の金髪の男はサンタル・ヴェリテ伯爵。クララの婚約者だ。彼の金髪もまた、あちこちに毛先が飛びまくっているのが見える。
……お盛んな事だ。おそらくはヴェリテ伯爵はクララがわがままで男好きなのを知らないのだろう。
「あら、ヴェリテ様。何でもありませんわよ。ただお腹が空いたなって」
ちらりと私を横目で見たクララ。早く朝食を用意しろとでも言いたいのだろう。
「そうだな。僕も朝食を頂きたいな」
「ですって、お義姉様? ヴェリテ様、お義姉様の作るお料理はとっても美味しいのですわよ?」
クララはわがままな娘。でも婚約者であるヴェリテ伯爵にはそのような面は見せない狡猾な部分もある。
もちろんここにはコックはいないし、私が断れば私含めて食事にありつけないし、マレナお義母様とクララが機嫌を悪くさせるのは容易に想像可能だ。
「かしこまりました。すぐにご用意いたします」
「お願いね、お義姉様?」
にっこりと笑うクララにヴェリテ伯爵は見惚れているようだけど、私には恐怖しか感じない。
実家よりも狭く暗い厨房へ足を踏み入れ、朝食に使う食材を取り出して机に置く。クララは卵料理が好きなのだがこの頃卵の値段は高くなりつつあるのでどうしたものかなどと考えながら朝食を作り食堂に準備した。
「いただきます!」
クララはさも当たり前とでも言わんばかりの笑顔を見せながらパンにかじりつく。正直テーブルマナーはなってるとは言えないけど、ヴェリテ伯爵は気にしていないようだ。
「あら、朝食もう準備出来ていたの。なら早く言えば良かったのに」
このタイミングでマレナお義母様とクライストがゆっくりとした足取りで食堂に入ってきた。クララとヴェリテ伯爵とは違い、2人とも髪を整え着替えを済ませている。マレナお義母様の眉にはいつものように深い皺が幾重にも刻まれているのが見えた。
「おはようございます。お義母様」
「ふん、じゃあ朝食を頂こうかしらね。クライストも座りなさい」
「うん、ママ」
お小言をネチネチ言われるかと身構えたけど、どうやらお小言よりも食欲の方が我慢出来ないようだ。マレナお義母様は無言でお気に入りのお白湯を飲んでから朝食にありつく。
「あらあら、クララ……おいしいの?」
途中でマレナお義母様がクララに甘い声で語りかけると、クララは私に向けておかわりは? と問うてきた。
「ユーティアさん、おかわりは?」
「はい、すぐにご用意いたします」
「お願いね、お義姉様~」
その後。私がクララの分のおかわりを持って食堂へと再び戻ろうとしていた時、食堂の中からヴェリテ伯爵がクライストに何やら質問しているのが聞こえてきた。
「へえ、子供はまだなんだね」
「は、はい……」
「ユーティアさんにまだ子供が出来ないなんて呆れますわ。ふふっ、私もいつまで待てばいいのやら」
そのマレナお義母様の軽い言葉に私は呆れた声を出してしまった。
そもそもマレナお義母様は子供は嫌いと言う上に、私はクライストとは殆どベッドを共にしていない! それもこれも私がクライストとそういう事に至るのをマレナお義母様が許さないからではないか!
「私も早く欲しいのですけどね? それにお義母様が子供を欲しがっているなんて初めて聞きましたわ」
クララへおかわりの入ったお皿をことりと置いてから、むかむかした感情を全て吐き出すと、食堂は一瞬にして静寂に包まれた。マレナお義母様のヴェリテ伯爵に見せていた余所行き用の笑顔は不自然に引きつっている。
「そうなのかい? エレミー夫人」
「ほほほ……そのような事はありませんわ。この愚嫁はいつもこうしてわがままばかりおっしゃっているので困っておりますの」
「なっ……!」
クライストに目を向けると、彼はバツが悪くなったのか用を足しに行く! と叫んでその場から走り去っていった。当然クララもマレナお義母様の味方だから、この場に私に味方してくれる人は誰ひとりとしていない状況に至る。
「ユーティアさん、わがままはよろしくないよ? 貴婦人として貞淑にね?」
これは私を陥れる罠だったのね。完全にヴェリテ伯爵は彼女達の言葉を信じきっているようだ。言い返そうにも決定的な証拠が無いので黙っているより他なかった。
「申し訳ありません……」
深々と頭を下げ、ゆっくりと頭を上げた時。クララのにやついた悪どい笑みが視界に飛び込んできた。
「お義姉様、かわいそう〜」
くすくすと笑う彼女と、冷たい視線を向けながら出ていきなさいと小さく語るマレナお義母様に耐えきれず私は部屋から小走りで出ていくしかなかった。
◇ ◇ ◇
「はあ……」
ヴェリテ伯爵が馬車に乗り帰路につく様子を書斎の窓から確認しつつ、領地経営に関する書類に目を通す。
本来ならクライストが行うべき役目なのだが。
「! これ、期日が迫ってきているじゃない!」
1枚の書類……マーチャド・リューゼスト伯爵との取引が記された書類を手に持ち、子供部屋で人形作りに精を出しているクライストの元へと走った。
なぜならこの書類は、当主であるクライストの印が必要なのである。しかもクライストの印は彼が自分で管理するから、と書斎ではなく彼の子供部屋にあるのだ。
「クライスト、ここに印を押して頂戴!」
「えぇ?」
「はんこを押すだけでいいわ、早く!」
「え、えぇと……」
人形制作に必要な木材や絵の具などでしっちゃかめっちゃかになっている部屋の中を、クライストは乱雑に探し回る。だが、印は一向に見つかる気配が無い。
「どこに置いたの?」
「うぅ、ここに置いたはずなんだ……!」
「私も手伝います!」
クライストが探し回っている窓側の茶色い作業机に手を伸ばし、木片を掴むと彼は甲高い叫び声を上げる。
「さ、触らないでくれ! 大事なものなんだ!」
どうやら彼の逆鱗に触れてしまったようだ。クライストは片付けが嫌いなのだが、こうなるなら彼がいない間に片付けすれば良かったと後悔する。
「っ、す、すみません……」
「ここに置いたはずなんだ、置いたはずなんだよ!」
目をかっと見開いて半ば狂乱の様子を見せるクライスト。すると部屋の外らへんからカツカツと靴音が近づいてくるのが聞こえ出した。まずい、どうやらこの騒ぎを聞きつけていたみたい。
「何をしているのかしら?」
「ま、ママ!」
クライストが青ざめた顔で部屋を訪れたマレナお義母様を見つめる。彼女のキツい瞳は明らかに私に向いていた。
「ユーティアさん、何をしたのかしら?」
「あの、こちらの書類に印が必要で……」
「だから息子をパニックにさせたの?」
まるでクライストをパニックにさせたのは私のせいだと言わんばかりの口調。針のような圧力が私の胸に襲いかかる。
だが、この書類に印を押さねば、リューゼスト伯爵との取引が……!
「あなたがちゃんと余裕を持っていたらこうはならなかったのよ」
「っ……申し訳ありません」
「クライスト、あなたの好きなミルクティーを飲みましょう」
マレナお義母様がそう言ってクライストを甘い声でなだめると、強張っていた彼の顔は落ち着きを取り戻した。
「全く……」
マレナお義母様は私を睨みつけながら、クライストの肩を抱いて部屋から去っていった。
残された私は今がチャンスとばかりにはんこを探す。
「あった……」
机の右側にある真ん中の引き出し奥に眠っていたとは。はあ……とため息をこぼしながら書類に印を押す。
「疲れた……」
終わりがない。早く終われこんなめんどうなの。と心の中で唱えながら部屋を足早に後にする。どうせ後からマレナお義母様に片付けなさいって言われるかもしれないわね。
「……あ」
廊下を歩いていたら、とぼとぼとクライストが歩いていた。マレナお義母様の姿はいない。
「……クライスト」
「ユーティア」
「……離婚しましょう」
この国は結婚して3年経過と両者の合意が無ければ離婚が認められないという法律がある。私達は結婚してもう3年が経ったのだから、あとはクライストの合意があれば……。
ああ、無意識に離婚しましょうだなんて。私はもうそこまで至っているみたい。
「無理だよ」
クライストの冷たい言葉が、頭の上に降りかかる。
「どうして? だって私……」
「無理なものは無理だよ。ママが許すわけないし。ユーティアにはいてもらわないとママ達が困るから」
クライストはそれだけを言って背中を見せて歩き出す。私とはもう話したくないというのが見え隠れしているけど、止めなきゃ……!
「ま、待って!」
私の呼びかけに彼が答える事は無かった。
◇ ◇ ◇
「そちらになります……」
あれから時間が経ち。今、私はこじんまりとした面談室でリューゼスト伯爵に例の書類を渡している。
リューゼスト伯爵は金髪を束ね、白とグレーを基調とした衣服に身を包んでいた。私が言うのもなんだけど、どこか神秘的というか、ミステリアスな雰囲気だ。
彼とは何度か話した事はあるけど、とりわけそこまで仲が良いって訳でもない。
「ありがとうございます。おや、ユーティアさん顔色が浮かばないようですが?」
リューゼスト伯爵の指摘になんて返せば良いのか躊躇っていると、彼はくすりと苦笑いを浮かべる。
「ご家族の事、でしょうね」
「な……」
なんで知っているの!? それにまずい、外で誰か聞いているかもしれないのに……!
「な、何でご存知なのですか……」
蚊の羽音のような小さい声で返すと、リューゼスト伯爵は腕組みをする。
「取引相手の事を調べるのは当たり前の事ですから」
ぐ、ぐうの音も出ない……。
「あなたはこのままで良いと思っていますか?」
「このまま……でも」
そりゃあ当然こんな環境からは逃げ出したいと思っているけど……。
「あなたはこの環境からは抜け出せない。そうお考えで?」
困った。リューゼスト伯爵は何もかもお見通しのようだ。彼には隠し事は出来そうにない。
「はい……」
「では、私が力をお貸ししましょう。あなたに「良いお仕事」を紹介します」
リューゼスト伯爵が笑顔を浮かべながら高級なソファから立ち上がり、私に両手を差し出す。多分握手って事ね。
お仕事……何かしら。私の胸の中がなんだか弾んでいるような感覚を覚えている。
「……とりあえず話が聞きたいです。決めるのはそれからにします。よろしくお願いします」
まずは話を聞いてからにしよう。彼の冷たい手をぎゅっと外側から包み込むようにして握った。
ああ、藁にもすがりたいって気持ちはこういう事を言うのね。
◇ ◇ ◇
今、私はリューゼスト伯爵に連れられて彼が運営している葬儀場へ訪れている。面談室から私の腕を引っ張っていったリューゼスト伯爵は、たまたま廊下で花を生けているマレナお義母様に「葬儀場へ行ってまいります~」と告げて、ユーティアは結婚している身なのだからクライストも連れて行きなさい! と止めるマレナお義母様を尻目に私を馬車の中へと突っ込んだのだった。
……そのせいか、お尻が痛い……。
「大丈夫ですか?」
「す、すみません……」
お尻をさすっているとリューゼスト伯爵から心配そうに声を掛けられる。まあ、あなたが慌てて私を馬車の中に押し込んでそのまま馬車を発進させたせいなのだけど……。
葬儀場は白を基調とした内装をしている。外観もちょっとした貴族の屋敷のようで、かなりお金をかけているのが見て取れた。
「かなり贅沢なつくりですね」
「そうですね。教会っぽさも取り入れております」
確かに言われてみると内装も外観も教会らしさはあるか。第一印象は貴族の屋敷って感じだったけど。
通常、私達が死ねば葬儀は教会で執り行われるのが普通。でもこの国の教会は数が多いって訳じゃないし、戦地や貧民街とかにいけば誰からの供養もない行き倒れになっている人々の死体だってあるのだ。
だからリューゼスト伯爵はそこに目を付けて、葬儀屋を経営し始めた……というのを彼から聞いている。既にキャパオーバーになりつつあった教会から場所を移すというこの商売は、かなりの大当たりだったらしい。
「では、早速話に移りましょう。すみません、この面会室を開けてもよろしいですか?」
リューゼスト伯爵が近くを通りがかった中年くらいの黒い服を着た修道士に語り掛けると、彼は快く私達の左手前にある面会室の扉を開けてくれた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
面会室はソファと机が置かれただけ。でもソファなどの家具はかなり高級そうだ。
「座ってください」
リューゼスト伯爵に促されて下座の方に腰掛けると、面会室の扉はリューゼスト伯爵の手により厳重に閉められた。
「まずはあなたに行ってもらう事を簡単にお伝えします」
「お仕事ですね」
「はい。あなたのお仕事は……今から私の屋敷に留まる事になります」
「はい?」
リューゼスト伯爵の屋敷にいって、そこでしばらく滞在するって事? たったそれだけ?
「あなたは私の屋敷にいるだけで結構です」
「え? で、でも……」
「それで良いのですよ。どうかご心配なさらず。ああ、内職とかしたいのでしたら別途ご用意いたします」
「えっと、その……」
なんて言えばいいのかよくわからないし、リューゼスト伯爵が何をしたいのかもよくわからない……。
一体リューゼスト伯爵は何を考えているのかしら……?
「あの、リューゼスト伯爵は……」
「私の考えを説明しましょう。あなたはたった今から「死んだ」事にしようと思いまして」
「し、死?! 私が?!」
「声が大きいですよ」
しーーっと人差し指を立てているリューゼスト伯爵はちょっとだけ色気があるように見えた。いや! 今はそれどころではない。
「簡潔に説明すると、あなたは今から「死んだ」事になります。そしてその事をあなたの嫁ぎ先などご家族にお知らせし、替え玉となる死体も用意してここで葬儀を執り行います。死んだ事になったあなたは私の屋敷に隠れて時間を食いつぶしていてください」
「な、なるほど……死んだふり、みたいな事ですね」
「そして、あなたが死んだのは過労である。という事であなたの嫁ぎ先を糾弾し、この事を国王陛下にもお伝えする……。どうです? 素敵なお話でしょう?」
リューゼスト伯爵の口元が一瞬だけ歪んだように見えたけど気のせいかもしれない。
でもあのマレナお義母様達をぎゃふんと言わせるには良いお話じゃないの! と感心している自分が胸の中にいる。
「すごい面白そうだと思います!」
「そうでしょう? 君ならそう言ってくれると思っていましたよ」
得意げに鼻を鳴らすリューゼスト伯爵がちょっとだけ可愛く見えたので、可愛いと言おうとしたけどやめておく。
「という訳で今からあなたを送る為の馬車を手配します。誰かに見られていてもいけないので、あなたには木箱の中に入ってもらってから、裏口に停車している馬車へと載せますね」
「はい、わかりました……」
「替え玉の死体は既に用意しております。ちょうどあなたとよく似た見た目の女性の遺体が運び込まれてきていたので」
聞けば替え玉となる死体は貧民街の女性で、持っていた私物からして最下層の娼婦だろうとの事だった。
葬儀の際は死体は裸になるのかしら? それならクライストとは一度もベッドを共にしていないから私の体型もわからないわね。
「という訳で。失礼しますね」
一旦退出していったリューゼスト伯爵。しばらくして大きな木箱を持って戻って来た。
「さあどうぞ。この中へ」
リューゼスト伯爵は木箱を置き、笑顔で蓋を取った。木箱の中は当たり前だけど暗くて、少し足を踏み入れてみるとひんやりとした冷気が足首から下を襲う。
このまま木箱の中に入ると、もう後には戻れない気がした。でも、リューゼスト伯爵の誘いに乗れば私はあの家から逃れられる。それなら迷う暇はない。
だって離婚できないなら、私が死ねばいいんじゃない?
「はい」
木箱の中に入ると、服の裾を木箱の中に収めてから三角座りをする。
「扉、閉めますよ」
リューゼスト伯爵の低い声が頭の上に降りかかるのと同時に、ぱこっと木箱のふたが収められた。
「なんだか君を拉致したみたいですね。……興奮します」
ちょっと不穏な空気をまとうリューゼスト伯爵の冷たい声が鼓膜まで届いた気がした。
◇ ◇ ◇
それから私は入っている木箱ごと裏口から出て、馬車でリューゼスト伯爵の屋敷に送り届けられた。
屋敷のエントランスホールにて木箱から出る事が出来、少しだけリューゼスト伯爵に中を案内してもらったのだけど、屋敷内はとても清潔感があり、エレミー男爵家の屋敷よりもとにかく広い。特に屋敷中央の中庭には花々がたくさん植えられていて、蝶々も2.3匹姿を見せていた。
「では、これからあなたが倒れて死んだとエレミー男爵家とあなたのご実家にご報告しにまいります」
エントランスホールで私に数秒程笑みを向けた後、リューゼスト伯爵は元来た道を引き返していく。
「ユーティア様。お腹はすいていませんか?」
私の右隣にいつの間にか私と同い年くらいの美人なメイドが2人いた。この屋敷、メイドいるのね。
うちはマレナお義母様とクララが浪費して借金こさえているせいでメイドやコックは雇えないのを思い出す。
「少しすきましたね……」
「お食事をご用意しております。食堂へどうぞ……」
もう食事を用意してくれてるなんて。嬉しさと予想外の出来事で混乱しそうだが、メイドに促されて食堂へ足を踏み入れる。
「わあ、広い……」
大人数での会食も余裕そうな食堂の真ん中に鎮座するテーブルには、すでにベテランそうなコックが2人待機している。
「ユーティア様でしょうか。こちらへどうぞ」
ぎこちない動きで茶色い年季の入った椅子に腰掛けると、数秒後に前菜が運び込まれてきた。
ああ、他人が作った料理を食べるなんていつぶりだろう。
「季節の葉野菜と焼貝の前菜となります」
「ありがとうございます。いただきます」
焼貝は東の国で採れるハマグリみたい。野菜はシャキシャキしていて美味しいし、オイルと酢が混ざり合ったドレッシングが食欲を刺激させる。
「ごちそうさまでした」
「メインになります」
メインは鳥肉のステーキ! パンも美味しいしステーキは思ったよりも柔らかくてとにかく美味しくてナイフとフォークが止まらない。
「ごちそうさまでした」
「デザートもご用意しております」
デザートはなんと小さなケーキだった。ケーキはクララに言われてよく作っていたっけ。
でも、もうクララ達にしばらくは食事を作らなくていいのか。ああ、それだけで嬉しい。
「甘くて……ジャムも効いていて美味しいです。こんなに美味しい食事初めて食べました」
「エレミー男爵家は確か貧乏だと聞いておりますが」
コック達が心配そうに顔を見合わせている。ここは正直に話しても良さそうね。
という訳でエレミー家の内情をコックとメイドらに詳しくは教える。
◇ ◇ ◇
「まあ、そんな事が……」
予想通りの同情の視線。心の底から気持ちよさが湧き上がってきた。
やっぱり今までの環境は間違っていたのね。
「ここにいれば、ユーティア様は理不尽な扱いを受ける事はありません。しばしの間ですが、ご安心ください」
「ありがとうございます」
この屋敷は私にとって身の安全と精神の安全を保証してくれる場所なのが改めて理解できた。リューゼスト伯爵には感謝しかない。
「しばらくしましたらゲストルームにご案内します。そちらで宿泊頂くご予定になっております」
「ありがとう、お願いします」
今はお腹いっぱいだから、もう少し食堂で休憩していこう。
さて、そろそろエレミー家に連絡が行っているかもしれない。ひょっとしたら実家にも……。
実家に関しては悪くない。大家族だったからそりゃあ、きょうだいとくだらない喧嘩をした事はあるけど、皆いい人だ。
(実家の皆には申し訳ないけど……付き合ってもらおう)
ああ、そういえば私は今死んだ事になってるけど、すべてが終われば私の死は嘘だって皆に知らされるのかしら?
それはそれで悪意のあるいたずらで面白そうだし、いっその事嘘だとは伝えずに名前も全部変えて新しい人生を歩むのも悪くないわね。家事は出来るから食堂で働く……なんてのもいいかも。
◇ ◇ ◇
ユーティアがリューゼスト伯爵邸でくつろいでいる間、エレミー男爵家に急ぎの手紙が届けられた。
最初に手紙を受け取ったのは、クライストである。
「手紙? 誰から……?」
手紙の配達人から送り主はリューゼスト伯爵だと聞かせれたクライストは、わかった。と小さく返しながら白い無地の封を開ける。
「え?」
クライストは文字通り絶句する。手紙にはこう記されていた。
――エレミー男爵夫人・ユーティア様が私が経営する葬儀場の視察中に倒れ、介抱虚しくそのまま息を引き取りました。彼女のご遺体はシルリアの街の葬儀場の一室に移動いたしました。つきましてはご遺体の検死とお葬式のご準備を行いますので、すみやかに葬儀場へとお越しください。
淡々とした一文が記された手紙を、クライストは震える手で掴んでいる。
「ゆ、ユーティアが……死んだ……? ど、どうしよう! ママ!」
クライストは手紙をクシャクシャに握りしめて自室で紅茶を飲んでいるマレナへと向かった。
「ママ! ユーティアが……ユーティアが! 死んだ!」
「な、なんですって!? さっき葬儀場へ行ったばかりじゃない!」
クライストがマレナへ手紙を弱々しく差し出す。その手紙を半ば強引に奪い取ったマレナは手紙に鋭い目を通した。
「今から来いっと書いてあるわね……相手は伯爵。行くしかないわ」
「ママ……!」
「あなたとクララは喪服に着替えなさい。あの伯爵、まさかユーティアさんを殺したんじゃないでしょうね……」
クライストが出ていきひとりになったマレナの部屋。彼女はクローゼットから埃の被った喪服を引っ張り出し、ぱんぱんと埃を払う。
その間も机に置いた手紙に目を通していた。そんな中でマレナの目に刻まれたのは検死というワードである。
「……検死を行うのね、まさかユーティアさんが死んだのは私のせいだとでも言いたいのかしら……?」
そう考えた瞬間、マレナの全身に悪寒が走る。そんな悪寒を振り払うように彼女は違う、違うわ! と何度も独り言を繰り返した。
(ユーティアさんには男爵夫人として当然の事をさせていただけよ!)
私は悪くない。ユーティアさんを殺したのはリューゼスト伯爵だ。きっとそうよ! とマレナは心の中で唱えながら喪服を着用し、同じく着替え終わったクララとクライストと共に指定された葬儀場へと向かったのだった。
◇ ◇ ◇
エレミー男爵家3人がシルリアの街の葬儀場に到着すると、入り口でマーチャドが屈強なガタイの修道士を4人両側に待機させ、出迎える。
「エレミー男爵家の方でしょうか?」
マレナがマーチャドを睨みつけながらええ、そうですけど? と冷たい声で返すと、マーチャドはお待ちしておりました。と気持ちのあまり籠もっていない声で返す。
「この度はお忙しい中お越しいただきありがとうございます。そして男爵夫人のお悔やみを申し上げます」
(ふん、エレミーさんを殺したのはどうせあなたでしょうに)
マレナが疑いの眼差しをマーチャドに向けているとクララがマーチャドに近づいた。
「あなたがマーチャド・リューゼスト伯爵様ですかぁ?」
「ええ、そうですが」
「私はクララ・エレミーと申しますぅ」
ヴェリテ伯爵という名の婚約者がいるにも関わらず、クララはマーチャドに媚びを売り始めた。
(ヴェリテ様もいいけど……リューゼスト様もかっこよくていいわあ。これで夜がお盛んだったら言う事なしね!)
クララの考えている事は完全な浮気なのだが、彼女にはその認識はない。
クライストはただマレナの後ろで立っているだけだ。
「ではエレミー男爵夫人の元へと向かいましょう」
「ええ、そうね。案内してくださいな」
マーチャドがユーティアの身代わりである娼婦の遺体が安置されている個室へと案内する。金色のドアノブをがちゃりと開けると、そこには派遣されてきた修道女3名によって清められ、既に木造りの白い棺桶へと収められた娼婦の遺体が安置されていた。
(蓋を先に閉めて置いて正解ですね。エレミ―男爵とその妹は気づいてないでしょうけど、マレナ様は何か疑っている様子……)
マーチャドはエレミー男爵家の3人にどうぞ。と促しながら閉じられた棺桶の蓋を眺めながら考えを巡らせている。
「! ユーティア!」
最初に遺体へ駆け寄ったのはクライストだった。彼は完全にユーティアだと信じきっている。
「ユーティア……! ああ、ユーティアぁあ……!」
クライストは棺桶にしがみつくようにしてわんわんと泣き始めた。
「ユーティア! 愛していたのに……!」
(エレミ―男爵……どこが愛している、だ。母任せでユーティアさんをあれだけ困らせておいて)
マーチャドは心の中で泣きわめくクライストへ悪態をつく。
「お義姉様、亡くなってしまったのね……残念だわ」
クララは眉を下げ寂し気に語るが、気持ちが籠っていないのはマーチャドからすれば明らかだった。
まだ泣きわめいているクライストを尻目に、マーチャドは沈痛な面持ちを崩さず皆様……を口を開く。
「では、早速ですが葬式を執り行いましょう……」
「お待ちください、リューゼスト伯爵」
マレナが右手を軽くあげて、マーチャドの動きを制する。
「うちの息子がああなっているのに、今すぐ葬式だなんて」
「お気持ちはよくわかります。この後たくさんお別れの時間を設けますのでご心配なく」
「それと……検死は?」
「……それに関しては先ほど終了いたしました。到着前に行い、申し訳ございません」
これに関してもマーチャドの嘘である。手紙では検死について触れていたが、実際には検死をしたという偽の報告書を医者に頼んで作ってもらっただけ。
「どうして待てなかったのかしら?」
相手が格上の伯爵だろうと、強気な姿勢は崩さないマレナ。そんな彼女へマーチャドは医者の都合です。と淡々と返す。
「医者もお忙しいですからね。私としてはエレミー男爵家の方々がお越しになられてから検死を行いたいと考えておりましたが……こればかりは仕方ありません」
「まあ……そうでしょうね……お医者様もお忙しいでしょうしねえ」
「報告書をお預かりしております。お読みしても構いませんか?」
(嫌な予感がするわね……)
マレナが敏感に何かを感じ取っている中、クララは早く済ませてくださいぃ~とマーチャドに近づき両胸に手を寄せてアピールしながら催促してくる。クライストはいつの間にか泣き止んだようだが、まだ棺桶のそばにへばりついていた。
「では報告書を読まさせていただきます」
「ど、どうぞ……」
「結果から述べますと、死因は過労でございます」
「!」
嫌な予感が的中したとばかりに苦々しい顔に変わるマレナと、驚きの表情を浮かべるクララとクライスト。そんな3人にマーチャドは軽蔑のこもった目線を投げる。
「実の所、取引のさなかにエレミー男爵夫人は忙しくて休む間もない。貧乏で借金があるからメイドやコックも雇えない。そしてマレナ様とクララ様の浪費癖が凄まじく、理不尽な応対をしてくる。と打ち明けてくださっていたんですよねえ……そしてこの結果です。私が言いたいのは何か、わかりますかね?」
怒涛の勢いでつらつらと事実を指摘され、クララは真っ青に顔色を悪くさせている。にっこりと口角を上げているマーチャドだが、彼の目は笑っていない。
「だって! お義姉様が全部やってくれるって言ってたもの!」
「それも確認いたしました。が、事実ではございませんでした」
「なっ……!」
「クララ様とマレナ様が最近お買い上げになったドレスやアクセサリーなどの領収書なども入手出来ました。なので証拠はございますよ」
マーチャドがズボンのポケットから領収書を1枚取り出す。真珠のネックレスの領収書なのだが、そこにはしっかりとクララの名前が記されていた。
「なっ……!」
「クララ! どうして自分の名前を書いたのよ!」
とマレナが怒り任せに声に出したがすぐさま口を抑える。
「……なるほど。先ほどのお言葉、しかと耳に刻み込みましたよ」
「! リューゼスト伯爵様……!」
「この報告書や領収書などは葬式が終わり次第国王陛下にお渡しする予定でございます」
腹の底に隠していた怒りを放つかのようなマーチャドの宣言に、エレミー男爵家の3人は身体を震えさせる。
◇ ◇ ◇
さすがのマレナも余裕がなくなってきているようだ。
「男爵夫人として当たり前の事を、ユーティアさんはやってきただけですよ……? それなのになぜ私達が悪いだなんて」
「医者が嘘をついているとでも思っているのですか?」
「それを言うならリューゼスト伯爵も怪しいです! 棺桶の蓋を開けないのは、何か隠したいんじゃないのです?」
(ここでそう指摘してくるか……想定内の範囲だが思った以上にマレナという女は厄介だ。こんなのをユーティアさんは相手していたんだな……)
マーチャドは、蓋を開けましょう。と言ってそばで控えていた修道士1名と共に棺桶の蓋に手を伸ばし、そっと蓋を開けた。
「ユーティアさん……」
「マレナ様は、私がエレミー男爵夫人を殺したと仰りたいのですか?」
「ええ、そうです! だっておかしいじゃないですか、いきなり葬儀場の視察へ赴いて、そこで亡くなるだなんて!」
ただでは引かないマレナ。だがそれもマーチャドからすれば想定内のうちだ。
娼婦の遺体は死化粧が施されているが、それはユーティアに出来るだけ似せるようにもしている。マーチャドはというと、ここまで瓜二つな死体なのだから、見破れる訳がないだろうと言う自信と、これで見破れたらどうしようもない。とスリルにも似たものを感じていた。
「損傷はありません。綺麗でしょう?」
「あら、ユーティアさんてこんな顔だったかしら?」
(……気が付いたか?)
「日ごろから男爵夫人の顔を見ていなかったのですか?」
ダメもとでマーチャドが嫌味たっぷりにマレナに指摘する。
「そんな……嫁の顔を見るのが好きな姑だなんていないでしょうに」
どうやらマレナはマーチャドからの煽りに付き合うつもりはないようだ。
「では、エレミー男爵様はいかがお考えですか?」
「僕はママの言う通りだと思います」
(やはりマレナ様の傀儡だ。ここはどうにか切り抜ける!)
「では、そろそろ葬式のお時間が差し迫ってまいりました。この棺桶には遺体を保存する薬が使われておりますので、効果が切れない為にも蓋を閉めさせていただきます。よろしいですね?」
マーチャドが同意を求めると、3人は了承の態度を見せた。心の中でほっと息を吐きながら、蓋を再度厳重に閉め直す。
「という訳で後ほど報告書は国王陛下にお見せいたしますので。では、葬式を開始いたしましょう」
マーチャドのそばに待機していた修道士が、エレミー男爵家の3人に近寄り、反論はございませんね? と圧をかける。
「……反論するにしても、この報告書を国王陛下にお見せするのは決まっている事ですからね。この報告書を書いた医者も、王宮直属の医者ですので。口封じしようとしても無駄です」
「ぐっ……!」
さすがの3人もマーチャドの前に立ちはだかる屈強な修道士達には怖くて対抗できなかったのか、おとなしくはい。と返事する他なかったのだった。
◇ ◇ ◇
「っぷ……食べすぎちゃったかしら……」
リューゼスト伯爵邸は本当に自由! 出来ればずっとここにいたいと思ってしまう位には満喫している。
とはいえ、このまま何にもしないというのはちょっと申し訳なかったので、コックに申し出て料理の手伝いをしたりして時間をつぶしていた。
今も、ランチに向けて野菜をざくざく切るという下処理をしているのだが、朝食にスクランブルエッグと焼きソーセージ5本、サラダと穀物パンに野菜スープにデザートの果物を調子に乗って食べ過ぎた結果、お腹がはちきれそうだ……。
「葉野菜はこれくらいでどうでしょうか?」
「ユーティア様、それくらいで大丈夫ですよ!」
快活なコックと調理担当メイドとはすぐに打ち解けられた。彼らと話しているとあっという間に時間が過ぎてしまう位。
ああ、そういえばここにいて3日間は経つわね。あれからリューゼスト伯爵の姿はお見かけしていないけど……大丈夫かしら? マレナお義母様とかが変な事してなければいいけど。
「主様がお戻りになりました!」
このタイミングでメイドがひとり、調理場へと姿を現した。リューゼスト伯爵が戻って来たのね。
「ユーティア様、お迎えにはいかないのですか?」
「あっ……行った方がいいですよね!」
いけない。ついぼーーっとしている所だった。包丁を水洗いしてから専用のカバーの中に収め、玄関ホールまで小走りで向かう。
「ユーティアさん。お久しぶりです」
「リューゼスト伯爵! おかえりなさい……!」
玄関ホールには、何やら書類の束を抱えたリューゼスト伯爵が立っていた。
久しぶりに見たリューゼスト伯爵の顔は少しだけ疲れているように見える。それだけ大変だったのね。
「ユーティアさんは充実した生活を送れているようですね。何よりです」
「いえいえ、皆さんのおかげです。そしてリューゼスト伯爵のおかげでもあります。羽を伸ばせました」
「それならよかった。では、今までの出来事と今後どうするかについてお話ししたいので、少しよろしいですか?」
彼に手招きされ、ついていった先は面談室。ふかふかの赤いソファに腰掛けると、リューゼスト伯爵が持っていた書類のうちの1枚を手渡される。
「まずはこちらをお読みください」
「これは……!」
書類に書いてあったのは、エレミー男爵家の爵位剥奪についてだった。
「その書類に書かれてある通り、国王陛下よりエレミー男爵家は爵位を剥奪され、平民の地位になりました」
「……!」
あの3人が貴族では無くなった。それを聞いただけでお腹の底からざまぁみろ。という感情が沸き起こる。
「男爵夫人を過労で死なせた罪によるものです。平民なら刑務所行きですが、貴族と言う事で爵位剥奪で済んだ。という具合ですね」
「そ、そうですか……」
嘘でこれだけの大事になるなんて。と後から不安感に似た気持ちが湧いてくるけど、こうでもしないと本当に死ぬまで地獄を見る羽目になるだろうし。うん。リューゼスト伯爵には感謝してもしきれない。
「葬式後に医者が書いた報告書を国王陛下に持っていきましてね。それで決まった事です。ああ、葬式自体は問題なく執り行われましたのでご心配なく」
さらに葬式がちゃんと執り行われたと言う事にほっと息を吐いて安堵する。これで正真正銘、私ユーティア・エレミ―は死んだ事になった。
「それで……3人は……」
本当は聞かなくても良い事かもしれないけど、一応は聞いておく。
「マレナ様……ああ、もう様付けする必要はないですね。マレナの実家に戻りました」
そういえばマレナお義母様のご実家は男爵家だったわね。そこにいるのか……。
「ヴェリテ伯爵との婚約も破棄され、今は3人とも平民の地位という事で、マレナのご実家である男爵家では使用人として扱われているそうです」
実家の男爵家としては最初、3人を受け入れるつもりはなかったみたい。しかしマレナとクララがかなり抵抗を見せたため渋々受け入れたとか。
だが、男爵家としても体裁を保ちたいので彼らをただ受け入れる事はせず、使用人として扱う事にしたみたい。
「そしてあなたの今後です。あなたは死んだ身となりましたが、いかがなさいますか?」
「そうですねえ……」
「もし嘘だとバラして、それが国王陛下の耳に届いても、あなたが理不尽に扱われてきていた証拠はしっかりありますから、無罪放免にはなるでしょう」
名前を変えて、どこかの食道とかで働いてみたいと言う気持ちはある。食堂でのお手伝い楽しかったし。
「名前を変えて平民として生きようと思います。それで食に関する仕事について、自由に過ごします」
「ふむ」
ここでリューゼスト伯爵が驚きと残念さが入り混じったかのような表情に変わった。私、何かいけない事でも言ったかしら……?
「すみません、どうされました?」
「ああ、その……ユーティアさんの夢なら、応援してやらないと。と思ってましたね」
「? そうですか。応援してくださるのはとても嬉しいです」
ここでコック長が私を呼びに来たので、私はリューゼスト伯爵に頭を下げてから厨房へと戻る。
さっきのリューゼスト伯爵の表情は何だったのかしら……?
◇ ◇ ◇
リューゼスト伯爵が帰ってきてから3日後。リューゼスト伯爵はなんと私の新たな戸籍を作ってきてくれた。
私の新しい名前はユーリ・レティクル。ユーティアの名残が残っているのはとても嬉しい。
「可愛らしい名前ですね。ありがとうございます!」
もう少ししたら、このリューゼスト伯爵邸を後にして仕事を探さなければならない。一応女子修道院の食堂とか、よさそうな所はいくつか目星がついている。
「それではちょっと用事がありますので……」
「ああ、まだ話は終わっていませんよ?」
「え? ああ、失礼しました……」
ぺこりと頭を下げると、リューゼスト伯爵はその必要はないと言う風に両手を振る。
「謝らなくて大丈夫ですよ。悪い事をしたわけではございませんから」
ここでリューゼスト伯爵がひょいっと私をお姫様抱っこして持ち上げる。あまりに軽々と持ち上げるものだから、思わずわっと大きな声で驚いてしまった。
「軽いですね……」
「あの、どこへ?」
「私の部屋です。ゆっくり話しましょう」
という訳で連れてこられたのはリューゼスト伯爵の私室のひとつ。部屋の四方には本棚がずらりと並んでいる。書斎かしら?
「すごい本がたくさんありますね……」
「本を読むのは好きですのでね。ユーティアさんもよかったら読んでいってください。ああ、そうだこれにサインをお願いできますか?」
さらりと机の上にあった書類を1枚手に取り、私に向けてきた。え、これ……婚姻届?!
「ええ! これって……婚姻……届……」
「リューゼスト伯爵夫人。これ以上ない就職先だと思うのですが、いかがですか?」
「で、でも……そんな……リューゼスト伯爵に私、釣り合う人間じゃないような……」
「私があなたに一目惚れしたのだからそんなの関係ありませんよ? それに今のあなたは……」
何を言うんだろうと思ったのと、彼が私の唇を奪ったのがほぼ同時だった。
彼の唇からは先ほど飲んでいたのだろうか? さわやかな紅茶の香りが漂っている。口内で彼の舌が私の舌に巻き付いているのを、私はされるがままの状態になっているとそっと唾液が宝石のように滴り落ちながら唇が離れていった。
「誰のものでもないでしょう?」
「っ……リューゼスト伯爵……」
さっきの口づけの感触が、まだ唇に残っている。ああ、これが大人の口づけ……。
「私はあなたと初めて会った時からひとめぼれしていました。これも全てあなたを助ける為に……あなたを手に入れる為に……!」
「……リューゼスト伯爵?」
「結婚して、いただけますか?」
「私で、いいのなら……」
「もちろん。あなたでなければいけないのです」
にこやかに笑い、私の右手を取るリューゼスト伯爵。この人がいて本当によかったと思うのと共に、これからどうなるのだろう? という、今後の未来へ向けての期待とちょっとした怖さが入り混じっている。