54 ヴィスワ伯爵夫人
生演奏の音楽に乗って華麗に踊る正装の人々。くるくる回る彼らを壁際のソファに座って眺める私。ついさっきまで私もあの中にいたのだけど、今は一人。
ふーっと息を吐いてドレスの中で踊り疲れた足をこっそり伸ばした。
「ご機嫌よう、ヴェーザー伯爵家のイザベル様。」
急に声を掛けられた私は、慌てて脱ぎかけた靴を履いて立ち上がる。
目の前には艶やかに結った黒髪をこれでもかと飾り立てた妖艶な美女が立っている。
「ご機嫌よう、ええと・・・」
しまった、夜会はできる限りサボっているからすぐに思い出せない。どなただったかしら?私は必死に記憶を手繰る。
「あっ、・・・」
私の最初の婚約者、ヘルムート様と結婚した人だと気づいて困惑した。だって彼女は大いに揉めて婚約破棄した二番目の婚約者、ゲラルトの義姉でもあるわけだから、私としては非常に話しにくい相手なのだ。
それは向こうだって同じだろうに、何故急に声をかけてきたのか。意図が分からずどう会話すべきか迷っていたら相手がキュッと真っ赤にに縁取られた唇を上げた。
「カミラ・ヴィスワよ。相変わらずおっとりなさった方ねえ。本当になんでこんな可もなく不可もない方があのハーフェルト公爵家の次男と婚約なさっているのか、不思議だわぁ。」
こってりとした化粧でまつ毛をバサバサさせて、見上げてきたヴィスワ伯爵夫人の言葉に私は赤くなった。
この人、確か人が気にしていることをズバズバ言うから避けられているのよね。しかもそれを本人が気がついてないという・・・。あまり長くは話していたくないわ。
ちらりと踊っている人がいるホールの中心へ目をやれば目敏く気づかれた。
「貴方の婚約者、今夜は他の方とも踊っているのね。」
「ええ。」
彼女とは一年近く前から約束していたものですから。というのは省略する。
先日、ベティーナからこの夜会に出るから例の約束を果たして欲しい、と手紙をもらった。私がなんだかモヤモヤしたままパットにその話をしたところ、彼はずっとイザベル以外と踊らないってのも無理な話だし、貴方の友達ならいくらでもと快諾してくれた。
でも、それを聞いた私の心の中には、引き受けてもらってホッとする気持ちと、嫌な顔一つしなかった彼への小さな不満がごちゃごちゃに存在していた。
私は一体、彼に何と言って欲しかったのだろう・・・?
「イザベル様は愛されている自信がおありだから、誰もが羨むような婚約者が自分より美貌の女性と一緒でも嫉妬なさらないのでしょうねぇ。」
割と楽しそうに踊っているパットとベティーナを眺めながら、カミラ様が言った言葉にハッとした。
「・・・私だって嫉妬くらいします。」
現に今、私はベティーナに嫉妬しているような気がする。私、本当はパットにイザベル以外とは踊りたくない、と駄々をこねて欲しかったんじゃないかしら。
実際にはごねられたら困るのだから、私の不満はただの我儘でしかないのだけど。
自分のあまりの身勝手さに落ち込んでいたら、クスリ、と笑われた。
「あらまあ、貴方もそういう気持ちになるのね。安心したわ。それなら嫉妬をしないで済む方法を知りたいと思わないこと?」
「え、そんなことができるのですか?!」
「ええ、もちろん。今度、お茶会の招待状を送りますから一度イザベル様もおいでになって。」
「ありがとうございます!」
出来ることなら嫉妬などという感情は持ちたくない。私は彼女の誘いに飛びついた。
その後すぐ、ベティーナと踊り終えたパットがやってきたのを見て、カミラ様はそそくさと去って行った。
「・・・ねえ、イザベル。ヴィスワ伯爵夫人と何の話をしていたの?あの人とそんなに仲良くなかったよね?」
「せ、世間話よ?!あっ、今度お茶会に招待されたの。」
「えっ、ヴィスワ邸でのお茶会?!」
「ええ、多分・・・?」
パットが不審気な目で見てくるのを目を合わさずにやり過ごす。
だって嫉妬なんて感情は無くしたほうがいい。パットだってその方が結婚してから過ごしやすいはず。
彼と結婚してからのことを初めて自分が考えたことに気づいて顔が熱くなる。
私はそっぽを向いてパタパタと扇で顔をあおいだ。
■■
数日後、カミラ様からの招待状を受け取った私は勇んでヴィスワ邸を訪れた。もちろんパットには言っていない。
婚約者だからといって彼に私の行動を全て教える必要はない、わよね?
夜会でのパットの様子を思い出し、若干の後ろめたさを覚えつつ私はヴィスワ邸のテーブルに座って他の奥様方の話を傾聴していた。
「・・・もう、本当にうちの夫ったら若い女性が好きでこの間の夜会でまた誘ってたのよ。歳を考えて頂きたいわ、みっともないったら。・・・ああ、イザベル様は宜しいわね。夫となる方が随分歳下で見目麗しい方ですもの、若い方へ気が行くのは当然ですわ。」
「・・・本当に結婚するまでは私一筋でしたのに、結婚した途端放ったらかしなんて酷いと思われません?!ああ、男って本当に勝手なのだから。イザベル様もお気をつけ遊ばせ。」
「・・・男性はもう本能で複数の女性と関係を持ちたがるのよ。男の甲斐性とかいうけれど、ただの言い訳よ。イザベル様は特に厳しく見張っていないと危ないわね。でも、貴方にそれができるかしら?」
御夫人方は私へ忠告しているつもりなのだろうけれど、聞いている私はなんだか嫌な気持ちになっていた。
皆様の夫は浮気性で釣った魚に餌をやらない若い女性ハンターかも知れないけれど、パットはそんなことしないわ。
一緒くたにして決めつけないで欲しい。それにしてもこれのどこが嫉妬しないで済む方法なのかしら。皆様、嫉妬しまくりじゃないの。
私は顔には出さないように気をつけつつも、内心イライラしていた。
カミラ様はジリジリしている私へ艶然と微笑みかけると側に控えていたメイドに合図をした。
「それでは皆様そろそろ、こちらをどうぞ。」
指示されたメイドが運んできた盆に乗った濃い赤みを帯びた琥珀色の液体に皆の視線が集まり、声もないのに皆の興奮が伝わってきた。
え、何?!この飲み物に何があるの?
キョロキョロする私へ、先程まで夫の愚痴を言っていた奥様方が今度ははしゃぐようにこの液体を勧めてきた。
「イザベル様、これを飲むと嫌なことがパーッと消えていくんですのよ。」
「そうそう、こちらで愚痴を言わせて頂いてからこれをね、こうグイッと飲みますとね、あーら不思議、夫への不満や嫉妬がなくなっちゃうのですわ!ずっと、という訳にはいかないので、切れる頃にこうしてまた飲ませて頂いているんですのよ。」
私は手の中に押し込まれたグラスの中身へ視線を落とした。陽の光にキラキラと輝いて揺らめくその不思議な色の液体は、とんでもなく怪しかった。
次々に飲み干していく夫人達を眺めてどうしようか迷っていると、カミラ様が私の横までやって来てグラスを私の口元まで持ち上げた。
「イザベル様も嫉妬などなくしたいでしょう?さあ、お飲みになって。」
変なニオイはしないけれど、私の本能が飲まない方がいいと警告している。
そういえば留学中に同級生から、口にするといっとき嫌なことを忘れられる植物が流行ってる。でも、常習性があってハマると地獄を見るから気をつけてと教えてもらったっけ。
・・・まさかね?
とにかくこれは飲まないほうがいいとグイグイ押し付けてくるカミラ様の手からグラスを取り返す。
彼女は何故、全く付き合いのない私へ声を掛けてきてこれを飲ませようとしているのか?
「全て飲み干すまで帰さないわよ?」
凄むカミラ様をじっと見返したその時、切羽詰まった男の人の声がした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ラスボス、ではないと思います。