37、帰還
一人にならないで教室で待っている。それで安全だと思ったのは大きな間違いだった。
「ですから、ノア様は初恋の方と結婚なさるべきなのです。」
「そうですわ、ディーノ先生もノア様と結婚しても良いと仰って下さっているのですから、お断りなさるなんて失礼はいけませんわよ。」
「うんうん、皆もこんなに言ってくれていることだし、俺がノア嬢と結婚してあげてもいいよ。」
「私達、ノア様の為を思って言って差し上げているのよ?クラウス王子殿下はもう他の方とご結婚なさるのでしょう?私達のノア様が黙って捨てられるだなんて耐えられませんわ!」
「そうよ!あんな浮気症な方、ノア様から捨ててやるくらいでなくては!」
「だから、何度もいうが殿下が私を捨てると決まったわけではないし、申し訳ないけれど私はディーノ先生と結婚したいと思っていないので。」
放課後になるやいなや、過激なご令嬢達に取り囲まれたと思ったら、ディーノ講師まで連れてこられた。
彼女達はそれからずっと私の話を聞かず、クラウスとの婚約を私から破棄して先生と結婚しろと繰り返すばかりで話が発展しない。
このまま堂々巡りをしていても仕方がないので、まだ来ないユリアン王子の所に逃げようと背にしている壁伝いに扉へ近づこうと試みた。
そろーっと動いた途端、顔の横にバン、と講師の手が突き出された。彼は私の顔を覗き込んで重々しい声で言う。
「皆が貴方のためを思ってこれだけ言ってくれてるのに、自分のわがままを通そうとするのはよくないと思わない?」
「・・・全く思いませんが?そちらこそ、真実のハッキリしない噂でクラウス殿下を浮気症などと貶め、私に無理やり婚約破棄をさせようとするのは如何なものかと思います。」
目の前に迫ってきた講師の顔を避けつつ、私は何の感情も出さないようにして答えた。すると周りのご令嬢達がグッと輪を縮めてきた。
「無理やりだなんて酷いですわ!私達はノア様に傷ついて欲しくないのです。」
「そうなんです!ノア様にはいつも笑顔でいて欲しいから私達こうして言い難いことをいって差し上げているのです。」
大きなお世話だ、と言いたいところをグッと堪える。彼女達は本気で私を心配してくれているだけなんだ、その方向が随分と間違っていて強引なだけで。
私は彼女達を宥めて穏便に解散する努力をもう少し続けることにした。
「婚約を解消するにしても、クラウス殿下に確認してからで遅くはない。噂の段階でそんな行動に出るのは性急過ぎる。だから今日のところはこれで終わりにしよう。」
私がこれ以上は踏み込むなと真剣に訴えれば、ご令嬢方が怯んだ。
「ノア様がそこまで仰るなら・・・」
「本当に殿下が浮気をされていたら、ノア様から婚約を破棄して下さいませね。」
「ああ、善処するよ。」
フッと私を取り囲んでいた輪が緩みかけたその時、グイッと顎を掴まれた。
「ディーノ先生?!何をっ・・・」
同時に右の手首も壁に押し止められて困惑する私へ、講師はギラついた目を向けてきた。
「ノア嬢、貴方にはどうしても今直ぐに婚約破棄すると言ってもらわないと困るんだよな。なあ、知ってる?男女の既成事実って簡単に作れるんだぜ?」
この男はご令嬢達と違って自分の目的の為に私を利用している。が、どこか滑稽な芝居がかったものを感じる。
周囲の令嬢達も何事かとざわついているが、誰も動かない。それはいいとして、此処で彼に何かされたら彼女達が自動的に証人となって噂を広められてしまう!
私はどうにか逃げようと身体を捻った。その途端、教室の扉がパーーーンと開いた。
驚いてきゃああっと叫ぶ令嬢達、その喧騒に混じって一際はっきりと聞こえた私を呼ぶ人の声。
「ノア!」
それを聞いた瞬間、私は講師の腕を捻り、床に引きずり倒し押さえ込んだ。
「先生、失礼します。私は貴方と噂になりたくありませんので。」
「痛えって!なんだよ、令嬢のクセにそんなに無愛想で乱暴だなんて最低だな!嫁の貰い手なんざ絶対ねえぞ!」
私自身の力はそんなに強い方ではない。ただ、力の使い方を知っているだけだ。だから、この押さえ込みは長く続けられない。
喚く講師に逃げられないよう必死の私の耳に靴音が聴こえてきた。それは近づいてきて直ぐ側で止まる。不穏な気配を感じたか、講師も首をひねってその音の相手を見上げた。
「何処のどなたか存じませんが、その心配は無用です。彼女は何があろうと僕の妻になると決まっているので。ノア、もう手を離しても大丈夫だよ。」
その言葉とともに講師は伸びてきた力強い腕でグイッと襟首を掴み上げられ引き起こされた。
「誰だ、お前。あっ、うげっ、『僕の妻』って、赤い髪って、まさか・・・」
相手の目と同じ高さまで吊り上げられ、紺地に金の刺繍が入った高位の城務めの制服を纏い、赤い髪に深緑の瞳の偉丈夫に険しい顔で睨まれた講師の顔は真っ青になっている。
「クラウス王子殿下だわ!」
「まあ!ノア様の窮地をお救いに?!」
「あらあ、おとぎ話みたいねえ。」
呆然とする講師の周りでいち早く正体に気がついた令嬢達が騒ぎ出す。
「嘘だ、あと一週間はいないはずだろ?!」
慌てふためく講師に片眉を上げて見せたクラウスが、聞いたことがない低く重い声で言う。
「船旅だよ?天候が良ければ期間は短縮されることもあるでしょ。で?僕の大事な婚約者に乱暴狼藉を働いてたお前は何者なの?事と次第によらず、ノアに触れた時点で許さないけど理由は聞いておこうか。」
クラウス、順調に航海できたとしても、七日は早くならないだろう・・・?
私はこれは随分と予定を急いで消化してきたな、と思いつつ立ち上がった。それから一歩引いて講師が何を言うか、彼が私の初恋相手だと知ったらクラウスがどんな反応をするか興味を持って見守ることにした。
「いや、その、何というか・・・」
「殿下、その方は最近新しく来られた帝国語の講師のディーノ先生ですわ。」
「そうそう、なんとノア様の初恋のお相手ですのよ!」
「ですから私達、ノア様にはディーノ先生がお似合いじゃないかって思ったのですけど、こんな風に助けに来てくださるなら殿下でもいいわね。」
「ちょ、今更何言ってんの?!そんなこと言われたら、俺の立場がなくなるだろーが!」
「はあ?!君達何を言ってるの?僕がノアの正式な婚約者だよ!それに、ノアの初恋相手がこの男だなんて、そんなはずはない。」
クラウスの言葉に皆の視線が集中する。それに構わず彼は目の前の男を掴む手に更に力を入れて尋ねる。
「聞くけど、お前はいつ何処でノアと会った?その時食べた物は何?それから二人で何をした?」
矢継ぎ早にされた質問に講師は視線を泳がせた。それを見て私は小さくため息をついた。
やはり、偽物か。そうだろうと思ってはいたがどんな相手であれ、ずっと心の隅で探していた人に出会えることを私はまだ期待していたようだ。そして、そんな夢物語は起こらなかった。
心が重くなった私は講師に引導を渡して、今度こそ初恋の思い出を捨てようと口を開いた。
「先生は誰かにああ言うように指示されただけですよね。私は『ある街でお菓子を落とした時に自分の分をくれた男の子が初恋だ』としか言ってませんから、それ以上は知らないでしょう。」
「なるほどね。ノアの大事な思い出をいいように利用してくれたわけか。とりあえず情報源と余罪を追求だね。」
そう言い捨てたクラウスは、もはや蒼白になって黙っている講師を後ろに控えていた側近のケヴィンに雑に渡すと私の両手を取って微笑んだ。
「ノア、ただいま。十二年前エルベの街で君が落としたお菓子はクレープで、代わりにもらったのはアイスクリーム。溶けちゃうからその場で食べてて家族とはぐれちゃったんだよね。」
その具体的な説明に目を瞬く。私はそんなに詳しく彼に話しただろうか?それに何故か私の覚えていないことまで混ざっているような気がするのは聞き間違いか・・・?
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
クラウス王子は婚約者が城に来るのが待ちきれなくて迎えに来たという設定を書けなかった。痛恨。