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3 赤ん坊の魔の手

 メタゾール子爵家は貧乏貴族である。当主のゲシュタールに経営手腕はない。三年前に前当主が、当時十三歳だったゲシュタールに仕事の引き継ぎをせずに死んでしまったからだ。

 そして何より、ゲシュタールには欲や野心というものがない。他の当主が贅沢三昧なのにたいして、メタゾール子爵家はかなり質素で使用人も少ない。


 メタゾール子爵領には三百人程度の領民がいる。領民は低い税率のおかげで生活に余裕があり、当主が質素な生活をしていることも知っているので、当主に反感を抱いたりはしない。

 メタゾール子爵領は、他の領と比べると治安が良い。ド田舎ということもあって、領民は穏やかな気質をしている。


 野心もなく贅沢もしないとなれば、当然社交界に出たり、パーティを開くこともない。ゲシュタールもリンダも人付き合いがほとんどないのだ。

 そのため、二人は常識に疎い。六ヶ月で歩き、言葉を喋るようになった赤ん坊に、感動することはあっても、驚くことはなかった。


 このような閉鎖的な環境においては、使用人もこのおかしい赤ん坊にあまり疑問を持っていない。使用人の中には子供を育てた経験のある者もいるのだが、お貴族様の子女というのは優秀なのだなぁという程度にしか感じていない。



 そんな家人たちに、おかしい赤ん坊の魔の手…、いや、魔の親指が迫っていた。


「とやっ!」

「えっ?お嬢様、いけませ…、んん…ああぁん…」


 屋敷の廊下でリネンを運んでいたメイドとのすれ違いざま、アンネリーゼはスカートの中に潜り込んで、足首のツボを、魔の親指で辻マッサージした。メイドは膝かっくんでもされたかのように、へたり込んでしまった。

 アンネリーゼのマッサージは、あまりにも気持ちが良いのだ。押された患部だけではなく、その患部が原因で滞っていた血流が改善され、全身に血が行き渡る。これがなんともたまらない。指圧された瞬間だけでなく、あとからじわじわと気持ちよさが広がってくる。


 脱力して座り込んでいるメイド。そこにすかさず、


「ちゃんしゅ(チャンス)!」

「ああああん…!」


 メイドさんの背中を指圧しまくりだ。やはり凝っているところが黒ずんで見えるのは便利だ。そして、力を入れることもなく、軽く触れるだけで押せてしまうなんて、最強すぎる!

 でも、いつかはじっくり触診してちゃんと自分の力でマッサージするためのお店を持ちたいなぁと思うアンネリーゼであった。


 メイドさんはリネンを床に落としてしまったので一部を洗い直ししなければならない。それにもかかわらず、周りの者は怒ることもなく、やや顔を赤らめながら傍観している。

 なぜならこのマッサージのおかげで仕事がいつもより早く終わるようになるからだ。全身の血流が改善したため、何事もテキパキできるようになり、仕事がはかどるのだ。洗い直しはこのあとの仕事次第でいくらでも挽回できる。だから、周りの者は文句を言わない。

 一度マッサージされると、しばらくは効果が続く。すでに何人かのメイドがマッサージしてもらって、屋敷全体の仕事の効率が上がっているのだ。


 まだやってもらっていないメイドは、自分の番はまだかと期待の眼差しでアンネリーゼを見つめていた。ちなみに男の使用人はまだ誰もマッサージしてもらっていない。

 アンネリーゼは前世で男の客も見ていたから、男に触れることに忌避感を持っていない。基本は服の上から触るのだ。おかしなところを触るわけでもない。

 それでも、アンネリーゼは淑女が男性に触れていいものかと、一応自粛しているようだった。一応貴族だという自覚を持っているからだ。


 しかし…、マッサージされて気持ちが良いのは分かるのだが、なんだか声だけ聞くと誤解されそうだ。いかがわしいことは何もしてないのだが。

 このようなあえぎ声を上げられるとあっては、やはり男性にやるのははばかられる…。魔法のマッサージなんて素晴らしい力であることには違いないが、ちょっと使いづらい…。このままお店を開いたら、いかがわしいお店になってしまう…。何か対策を考えないと…。


 そんなとき、勇者が名乗りを上げた。


「アンネよ。その…、私にも…あれをやってくれんか…」


 当主、ゲシュタールである。


「あい!おとしゃま!ベッド、ねんこして!」


 アンネリーゼが遠慮していたのは、未婚の女が男に触れるなんて、はしたないとか言われると思っていたからだ。だけどそんなことはなかった。この世界の貴族ってそんなもんだろう。

 頼まれたらためらうことは何もない。ゲシュタールは寝室のベッドに横たわった。


「エミリー!だっこ!」

「はい、お嬢様!」


 靴を脱いで、エミリーにベッドの上に載せてもらった。半年前は、ベッドに横たわったリンダをどうやって押してやろうかと考えていたが、今ではもう屋敷中で公認だ。むしろ手伝ってもらってる。


「いきましゅ!」

「アッー!」


 ゲシュタールは運動らしい運動もせず、基本毎日、ちょっとした書類仕事をして、あとはぐーたらしているだけなので、肩と首がカチカチだ。とても十五歳とは思えない。

 イケメンなのに…。見た目以外はけっこう残念な人だ…。


「あなた、どいて!次は私よ!」

「おかしゃま、さっきやったじゃないれすか」

「ええっ?何度やってくれてもいいのよ」

「まだ気持ちよくなりましぇん」

「ぐぬぬぬぬ…」


 ツボというのは筋肉が凝り固まって血管が詰まっているところだ。それを開通させて血が行き渡るときが気持ちいいのだ。もともと開通しているところを押しても意味がない。

 それに押すというのは多少なりとも筋肉を傷つける。短期間に何度も同じところを押してはいけない。


 と思ったのだけど、私は普通の治療魔法も覚えたんだよ。一般的な治療魔法は表面的な傷しか治せないと言われているけど、ちゃんと血管や筋肉、神経の修復行程をイメージしたら、押して傷つけた分も治ったよ。自分の身体で実験したから間違いない。この世界の文明の人々は血管や神経をイメージできないだけなんだろうね。

 だから押したところを普通の治療魔法で治してしまえば、すぐに押すことができる。だからといって、押したばかりのところは詰まっていないので、これ以上は気持ちよくなりようがない。


「じゃあ、今日のおっぱいは抜きよ!」

「なんと!卑怯でしゅ…」

「ならば、私にもやって!」

「あい…」


 しかたなく、普段あまり手を付けていないところをマッサージする。まあ、いつも母乳をもらったあとにやってるマッサージと同じだ。


「うーん。なかなか良いわね」


 マッサージをするなら、ちゃんとしたベッドが欲しいなぁ。これじゃ効果が上がらない。




「エミリー、みんなをあちゅめてくだしゃい」

「おはようございます、お嬢様。お早いですね。まだみんな起きたばかりですよ」

「朝が良いんでしゅよ」


 みんなに朝のストレッチ体操を教えた。


 それはヨガの太陽礼拝である。アンネリーゼは固有名詞を思い出せないから、とある国のストレッチ体操ということしか覚えていないが、手順や意味は覚えている。

 ヨガは血流が悪くなりやすいところを伸ばす動きが集められている。ヨガでは毒素を吐き出すとかいうけど、毒素がたまっているというのはツボと同じだ。アンネリーゼのマッサージで血流が改善しても、使わない部位はまた毒素で詰まってしまう。それを防ぐためにストレッチ体操を皆に教えたのである。


「お嬢様、これは気持ちが良いですね」

「そうでしょう。みんな、あしゃ起きたら、このたいしょう、わしゅれないでね」

「「「はい!」」」


「でもお嬢様、我々はそんなに曲がりません…」


 アンネリーゼは前屈をして、上半身と下半身がぺたりとくっついている。

 赤ん坊は柔らかいものである。成長するに従って筋肉が付き、筋肉痛を放置したりすると、だんだん堅くなっていく。

 しかし、アンネリーゼは鍛えた筋肉をすべてすぐほぐしてしまうので、すべての筋肉が筋肉とは思えないほど柔らかいのである。もちろん、力を入れるとそれなりに堅くはなる。

 アンネリーゼはぷにぷにの赤ん坊に見えて、赤ん坊とは思えないほど筋肉があったりする。これも光の精霊のおかげだ。


「いいんでしゅよ。こういう形にしよう思うことが大事でしゅ」

「はい!分かりました!」




 何回か治癒魔法を実験していたら、あるときから私が転んだり頭をぶつけたりしたときに、光の精霊が寄ってきて勝手に治療魔法を使ってくれるようになった。やばい。私、自動HP回復だよ。しかも、自分のMPっていうか魔力を使わないんだよ。もしや、精霊というのは魔力の積立貯金なのでは?

 精霊に触れるといつも精霊に魔力を与えてしまうのだけど、精霊から魔力を取り出すことをイメージしたら、精霊に貯めてある魔力で魔法を使えたよ!

 いつもついつい光の精霊ばかりに魔力をあげちゃうけど、他のやつにもあげないとね。というか火の魔力と光の魔力は別だ。火の魔力を火の精霊にあげても、光の精霊にあげられる光の魔力が減るわけじゃない。

 どれか一つでも魔力が尽きると気絶してしまうから、切らさないように注意しつつ、時間の許す限りみんなに魔力をあげよう。



 それにしても、黄色い精霊と黒い精霊は何なのだろう。火が赤とか、水が青とか、イメージカラーとしては一般的だけど、実際には青い火の方が高温だし、水は透明だし。そもそも身体を司るのが白とか意味分からないし…。


 じゃあ黄色いイメージのもの…。バナナ?カレー?


「お嬢様、厨房になんのご用ですか?」


 厨房へ探しにきたものはバナナとカレーではない。そもそもバナナなんてこの世界に存在するのだろうか。カレーのような香辛料の塊も見たことがない。

 この屋敷には十数人しか働いていないからか、料理人は一人しかいない。休みはあるのだろうか。


「焼く、いれもの、見しぇて」

「鍋のことですかね」

「しょれしょれ」


 前置詞だか助詞みたいなものはいまいちわからないが、文法をある程度理解して少しは話せるようになった。だけど、この国の言語の語彙が圧倒的に足りない。私はまだまだ前世の言語で物事を考えている。


 鍋から五センチ離れたところから指を向けて、黄色い魔力を流しながら、空中放電をイメージした。すると、プラズマが見られた!黄色い精霊は電気の精霊だ!


「お嬢様…、今のはいったい…」

「ふふふ、魔法でしゅ」


 説明するには語彙が足りない。そもそも電気に該当する言葉は存在しないだろうし。屋敷から出たことがないけど、窓から雷のようなものを見たこともない。


 料理人は私を見つめてそわそわしている。


「ふふふ、用はしゅみまちた。ありがとでしゅ!」

「はぁ」

「ご褒美でしゅ!えいっ!」

「アッー!」


 料理人の足首の付け根を押してあげた。だいたいの人は、足首か腰の関節がこってるんだよ。

 料理人ががくりと崩れたから、今度は背中を押してあげた。


「えいっ!やぁっ!とぉっ!」

「アッー!」


 最近、使用人の私への眼差しが熱い。まだやってあげてない人はいるかな。姿勢の悪い人はすぐこってくるけど、だいたいはそんなに短い間隔でやってもしょうがないんだよね。



 とにかく!電気の魔法が使えるようになったのは大きい。低周波治療器ができる!前世のお店では、指圧による治療の前に、軽く低周波治療器を使っていたのだ。何本も電極がある業務用のでっかいやつだよ。心電図測定の端子に似ている。


 この世界には電気に該当する言葉はないし、雷の原理も分からないだろうから、電気の精霊が見える人がいたとしても誰も使い方が分からないのかもしれない。だから、火、水、風、土、光の五大精霊なんて言われている。メンバーに入れてもらってない電気の精霊…かわいそう…。私が育ててあげるよ。

 といっても、光以外はなかなか大きくならないね。まあ地道にやろう。


 あ、黒い精霊のことを忘れていた。でも電気と違って思い当たる節がない。でも、この黒い光は、ツボになっていしまっている黒ずみと違って、悪い感じはしない。

 白が光魔法なら、黒は闇魔法とかありそうなもんだけど、そもそも光魔法は光といっておきながら、人体の治療とか強化ばかりだ。灯りの魔法は火魔法なのだ。そんなんだから闇魔法なんて見当も付かない。

 あまりイメージカラーに騙されていると、応用が利かなくなるかもしれない。気をつけよう。




 この世界ではよほど魔力の大きな者にしか精霊は見えず、精霊に魔力を与えて育てるというようなことも知られていない。


 一方で、魔力を与える者が幼いほど、精霊はよく育つし、魔力を流すときに本人の魔力も上昇する。

 アンネリーゼは胎児の頃から知らずに精霊を育て魔力を流す訓練をしていた。光魔法に適性が高いのではなく、とくに好んで光の精霊ばかり相手にしていたから、光の精霊ばかりが育っているし、アンネリーゼ自身の光の魔力も膨大になっている。


 加齢とともに精霊を成長させる力と自身の魔力を成長させる速度は減衰していく。これは受精したときから生きている時間に反比例して効率が落ちるようになっている。だから、光以外の属性を光と同等のレベルまで成長させるのはもはや不可能。

 それでも、魔力を操る一歳児というのは異例であり、アンネリーゼは光以外においても最強の魔法使いとなる可能性を秘めている。

 もちろん、アンネリーゼはそんなことは知らない。


 精霊に愛された者は、魔法の発動を補助してもらえるということは知られている。しかし、精霊に魔力を与えて成長させることが精霊に愛される条件なのだが、誰もそれを知らない。

 希に、アンネリーゼのように気がつかずに精霊に魔力を与えてしまった者が、精霊に愛される者となる。



 精霊の補助は、まず魔力を与えてくれることだ。アンネリーゼは精霊に魔力を与えて成長させることは魔力の貯蓄だと思っているが、実際には精霊の最大MP(マジックポイント)を向上させることである。


 そして、精霊が術者に魔力を貸すときは、MPを与えてくれるのであって、精霊の最大MPは減らない。時間が経てば精霊は周囲の魔力を吸うことで最大MPまで魔力を回復できる。使い捨てではないのだ。精霊を成長させるということは、ソーラーパネル付きのバッテリの最大容量を増加させることに等しい。


 ちなみに、MPなんて言葉はなく、アンネリーゼが前世のゲームの記憶を元に、都合がいいから脳内で使っているだけである。



 精霊による補助は、魔力の供給だけではない。魔法のイメージを手伝ってくれるのだ。魔法は、イメージが具体的なほど効果と効率が上がる。


 水を生成する魔法は初歩的なので、単に水が出てくるイメージだけでもそれなりに水を生成できるのだが、どうやって水を出すかまでイメージすると、格段に水量が向上し、魔力消費も抑えられる。どうやってを掘り下げていけば、さらに効果と効率が上がる。


 例えば、周囲の水蒸気を集めて水を生成するとイメージすれば、効果と効率は十倍にもなる。八割程度の人間はコップ一杯の水を出す程度はできるが、イメージ次第で簡単に二リットルの水を出せるようになったりするのだ。


 その、どうやってやるかの部分を補助してくれるのが精霊だ。結果だけイメージすれば、方法や過程は精霊が考えてくれるのだ。どうやって水蒸気を集めるか…、圧力?精霊が運んでくれる?そこが一番難しいところに見えて、精霊にとっては簡単なことなので、意外にも、精霊に愛されていない者に対しても、ものを集めるみたいなことは手伝ってくれる。


 たいていの生成魔法は、物質を生成しているのではなくて、周りから集めているだけである。周りに存在しないものを生成しようとすると、魔法は失敗する。



 そして、アンネリーゼの光の精霊の愛は、前人未踏の領域に達している。アンネリーゼがイメージするまでもなく、痛いなどのちょっとした感情を示すだけで、その痛みを解決するための手段を精霊が考えて実践してくれるようになっていた。だから、転んだりぶつけたときに勝手に治療魔法を使ってくれるのである。


 アンネリーゼが早く歩けるようになったのは、筋トレしていたからだけではない。光魔法は肉体を司る魔法。治療だけでなく筋力の強化の魔法もあり、一部の戦士は使っていたりもする。


 筋力の強化には二種類ある。一つは筋肉自体の強化。

 アンネリーゼの育てた光の精霊は、アンネリーゼの望みを率先して叶えてくれる。筋力強化の魔法も本人の知らぬうちに使ってくれているのだ。アンネリーゼは一歳とは思えないほどの筋肉を有するが、すべての筋肉がほぐれているのでマッチョには見えない。

 もう一つは、念動力的なものである。アンネリーゼはしょせん一歳児。それにも関わらず、熊並みの力が出せるのだ。本人は認識していないが。




 低文明の世界でなんとか暮らしているアンネリーゼであるが、この屋敷の衛生事情にはうんざりしていた。そして、ある日、ぶち切れた。トイレは臭い!すべての人は汗臭い!

 手洗いは井戸水を樽に貯めておいて、しばらく時間の経った水を使う。背が足りないので中を覗くことはできないけど、コケ生えてないかな。黴びてないかな。

 そもそも、みんなそれほど頻繁に手を洗わない。トイレの後に手を洗っている者などいない。料理人も調理の前に手を洗っているかあやしい。鼻くそをほじった手かもしれない。


 もちろん風呂なんてない。ぬるくなったお湯を布にしみこませて身体を拭くだけ。その布もどうやって汗や汚れを落としているのやら。


「おかしゃま、おしょとに出たいれしゅ」

「ええ?どこに行きたいの?」

「お庭れしゅ。裏庭」

「お庭なら、そろそろいいかしら。エミリー、付いていってあげて」

「はい、奥様」


 外に出るのは初めてだ。貴族の娘ってこんなもんなのかな?それとも箱入り娘ってやつ?

 そんなことはない。メタゾール子爵家がインドア派すぎるだけだ。しかし、この屋敷の誰も世間一般というものを知らない。

 アンネリーゼは初めて出る外の世界に…、あまり胸を躍らせていなかった。貴族の屋敷内ですらこの生活。外はもっと低文明に違いない。

 でも、護衛とか付けないで、付いてきたのはメイドさんだけか。それくらい平和なのかな?


 屋敷の扉を開くと…、門までの道は土が踏み固められていて草は生えていなかいが、周りはとくに手入れされていなくて雑草だらけだ。はぁ…、貴族ってこんなもんか…。


 そんなことはない。メタゾール子爵家が、美観に興味がないだけだ。だが、アンネリーゼはこれが貴族だと思ってしまった。

 庭師なんて雇う金はない。そんなもののために税率を上げても領民から反感を買うだけだ。ゲシュタールはその辺りのやりくりだけはうまかった。否、何もしないだけだ。


 屋敷は一応塀で囲まれていた。屋敷は土魔法で固めた土でできているのだ。塀くらい簡単に作れる。屋敷は土色をした直方体の平屋だった。美しさのかけらもない。どこの貴族屋敷もこんなものなのだろうか。


 土を固めたといっても、水がしみこんだりしない。コンクリートみたいになっている。

 今日はそのまねごとをするのだ!屋敷の裏にお風呂を作るぞ!


「お嬢様、裏庭で何をするのですか?草が生い茂っていて、行くだけでも大変ですよ…」

「はぁ…。しょこからかぁ」


 門の外に見える町…、村?も気になるけど、今はどうでもよい。


 土を耕す魔法で土を柔らかくして、片っ端から雑草を抜いていく。そして、土魔法で固めて再び雑草が生えないようにする。こうして裏庭までの道ができた!


 ちなみに、私も美観にはあまり興味がないし、今更この雑草ぼうぼうの屋敷をどうにかしようとは思わないので、抜いた雑草はその辺に積み上げていくだけだ。火魔法で燃やすのは危ないのでやめておこう。


「お嬢様はほんとうに魔法が得意ですね!」

「えっへん!」


 ドヤ顔の一歳児。普通の一歳児はドヤ顔をしないし、道を整備したりもしない。


「でも、ドレスが汚れてしまいますよ」

「このどれしゅは、最初から汚れていましゅ」


 このドレスはお母様のお古なのだろうか。薄汚れているし、ほつれているし。それに臭いし。いや、なんだか良い匂い。お母様の匂いかも…。


「そ、そうですね…。申し訳ございません…」

「エミリーが謝りゅことじゃないれしゅ」

「はい…」


 きっと、領民に比べるとこれでも良い服なんだろう。文句を言うつもりはない。



 さてさて、屋敷の廊下の突き当たりはこの辺かな。完成したら屋敷の中から風呂場に行けるようにしたい。風呂場を建てるためにまずは土台だ。風呂場スペース分、土魔法で土を柔らかくして雑草を抜く。そして、少し深めに土を固める。

 ああ、少しふらついてきた…。土の魔力の残量がなくなってきたかな。最近鍛えてるから、魔力の残量が分かるようになってきた。うーん、光属性と比べると、他の属性はへなちょこだなぁ…。


 アンネリーゼがそう感じているだけで、実際はそんなことはなかった。光属性以外もすでに宮廷魔術師二人分の魔力がある。おまけに精霊に魔力消費を手伝ってもらっているから、ここまでの作業で消費した魔力は、宮廷魔術師四人分に相当する。

 しかし、相場を知らないアンネリーゼは、光属性以外の属性においてはまだまだ自分は見習い以下くらいに思っている。


 実際には土魔法にすぐれた宮廷魔術師などいない。宮廷魔術師といったら火水風の魔法使いなのだ。治療魔術師といったら光の魔法使いなのだ。

 今日の作業は、土属性の魔力を鍛えたベテランの大工十人が四日かかってやる量だ。しかしアンネリーゼはもちろん、エミリーもそのようなことは知らない。無知って恐ろしい。


 魔力を消費すると、周辺に漂っている魔力が自然に取りこまれて、魔力が回復する。魔力は六時間寝ると全回復する。起きていても十二時間で全回復する。精霊の魔力は六時間で全回復する。つまり、今日の作業は終わりだ。今日は土台を作っただけで終わってしまった。



 翌日は壁を作った。自身から遠いところに魔法を発動させると、効果が落ちて消費魔力も大きくなることが分かったので、足場も土魔法で作って、建てている壁に近いところから魔法を発動させる。


 足場を作って高いところに登ったら、屋敷の塀の外が見えた。ぽつりぽつりと、土色の直方体が見える。うちの屋敷より小さい。平民の家かな。

 人はまばらだ。見える範囲には三人しかいない。領民は三百人だっけか。まあ、村だよね。


 こうして六日かけて、風呂場の建家ができあがった。土を固めて作ったものなので、お世辞にも美しいとは言えない。でも屋敷も同じだ。これがこの世界の常識なんだからこれでいいでしょ。

 屋敷に延長する形で繋げたので、増築したようには見えない。それだけはこだわった。


 あとは屋敷の通路の壁を壊して整形。屋敷内から風呂場に行けるようにした。屋敷の壁を壊すなどという奇行を犯している赤ん坊を誰も止めない。家人もアンネリーゼが外に建家を建築中であることを知っているからだ。


 あ…、ドアをどうしよう…。他のところは木の開き戸になっている。ちょうつがいは金属だ。

 材料は土しかないので引き戸にしよう。引き戸の底面とレールを極力つるつるになるように整形したら、一歳児の私の力でも動かせた。

 もちろん、大人の高さの取っ手と私の高さの取っ手を整形した。



 そして土魔法で地面を掘ってバスタブを作った。大人四人がゆったり入れる程度の広さだ。土を固めて作ったけど、水が漏れたり、土が溶けたりはしない。岩みたいになっている。


「お嬢様、ここは何の部屋ですか?」

「お風呂でしゅ」

「お風呂?」

「うーん、お湯にちゅかるの」

「お湯につかるとどうなるのですか?」

「まあ、できてからのおたのちみ」


 この世界で風呂に入っているのは王族くらいのものなので、風呂という言葉自体が知られていない。


 バスタブに水を貯める。このバスタブは、今のアンネリーゼと水の精霊の魔力で出せる水量で丁度よいサイズだ。大気から水蒸気を集めるというイメージにより効率化された上でこの量なのだ。

 そして、火魔法で加熱する。火の玉を水に沈めるという方法でも加熱できたが、分子振動をイメージした方が効率が良かった。いわゆる電子レンジだ。電子レンジは電波を分子に当てて分子の振動を速くすることで温めている。魔法なら電波を当てなくても振動を速くするイメージだけでよいようだ。

 火を使わないのだが、ものを暖める魔法だからか、火魔法に分類されたようだ。


 もちろん、分子振動などという概念はこの世界に存在しないため、火を使わずにものを加熱する魔法はアンネリーゼしか使えない。

 やっと丁度良い湯加減まで加熱できた。


 ちなみに常温から四十度までの加熱であれば、今のアンネリーゼの魔力で四回ほどできる。ほんとうは、この屋敷の使用人全員が同時に入れる風呂を作りたかったのだけど、自分の魔力でまかなえるものは四人分程度の広さだ。

 自分はまだまだ未熟だなとふがいなさを感じているアンネリーゼであった。もちろん、本人も家人もアンネリーゼが宮廷魔術師四人分に相当する魔力を使えていることを知らない。


「ここで服を脱ぎましゅ」

「はい、お嬢様」


 もちろん脱衣所も作ったよ。自分で脱げるけど、エミリーがいつも手伝ってくれる。


「エミリー、まずはこのお湯をちゅかって、いちゅもみたいに私を綺麗にして」

「はい」


 エミリーはいつも身体を拭くときに使う桶を持ってきてくれた。


 お風呂に入る前に、まずは身体を洗わなきゃね。でも残念ながら、石けんようなものは存在しない。それでも大量のお湯を使えるから、いつもより汗を流せて気持ちいい!


「よし、じゃあ入りましゅ!」


 バスタブには階段を付けてある。私が溺れないように。


「はぁ~。良い湯だなぁ」


 お風呂には入った方がよい。血管が開いて血行がよくなる。

 エミリーは不思議そうにアンネリーゼを眺めている。屋敷に住まう赤ん坊の奇行には慣れたものだが、風呂のないこの世界で、風呂が気持ち良いものだと想像できる者はいない。


「エミリー、おかしゃまを呼んできて」

「はい」

「あ、男の人を入れちゃダメだよ」

「あ、はい」


 エミリーにお母様を呼びに行ってもらった。お父様が付いてきたりしたらいやなので、忠告しておいた。

 幼女の裸を見て発情するお父様ではないと思うけど、私の中身は成人女子なので、年頃の男の子に裸を見られるなんてゴメンだ。


「アンネちゃん、何をやっているのかしら?」

「湯浴みでしゅ」

「湯浴み?」


 そんな言葉は知らなかったようだ。王族が風呂に入っていることなんて誰も知らないのだ。そもそも、王族だって薪代がバカにならないから、滅多に風呂に入らない。

 でも、これくらいのお湯なら魔法初心者の私でもなんとかなる。魔力は枯渇寸前までは疲労感もないし、コストゼロでお風呂に入れるようなものだ。


「ささ、おかしゃまもそっちの部屋で服を脱いで、入ってきて」

「奥様、こちらでお召し物をお脱ぎください」

「はぁ」


 脱衣所でお母様がエミリーにドレスを脱がされて、浴室に入ってきた。


「ここで何をするの?」

「エミリー、おかしゃまの身体を洗ってあげて」

「はい。奥様、失礼しますね」


「きえいにしたら、入ってきて」

「大丈夫なのかしらぁ?」

「私が入ってうでしょ、気持ち良いでしゅよ」

「そうなの?!」


 気持ち良いという言葉に過剰反応したリンダ。アンネリーゼが気持ち良いことをしてくれる天才だということは、屋敷の全員が知っている。

 リンダは恐る恐るお湯に浸かった。


「はぁー…。これはまた…良いわねぇ…」


 アンネリーゼのマッサージほどではないものの、じんわりと気持ち良さがしみる。


 お母様のお胸は十一歳にしてはかなり大きい。まだまだいくらでも成長するだろう。これは将来私にもなる果実だ。

 前世の自分の姿は思い出せないけど、この年齢でこれだけの大きさのお胸がすごいことは分かる。



 お風呂からあがったら、温風魔法で髪の毛を乾かす。乾かさないと髪が傷んでしまう。

 風を起こす魔法はほとんど誰でも使えるが、温風魔法というのは知られていない。これは、火魔法によって、空気の分子振動を速めることで風を温める、アンネリーゼ独自の魔法だ。


 いや、傷んだ髪も治療魔法で治せるのでは?


「おかしゃま、ちょっとかがんで」

「これでいい?」


 お母様の髪は傷んでいる。これでもこの世界では綺麗なのだろうか。エミリーと比べればマシだ。

 キューティクルとか髪の構造を意識して、お母様の髪の毛を修復するイメージを浮かべる…。


「まあ!なにこれ!髪の毛がつやつやよ!アンネちゃんみたいに綺麗な髪になったわぁ!」


 お母様の髪の毛に艶が戻った。分岐していた枝毛が一本に統合された。ちりぢりだったのがまっすぐになった。

 私みたいにって言われたけど、私の髪って綺麗なのか。まだまだ目に見えるほど伸びていない。


 ああ、お母様って可愛くて美人だなぁ。惚れ惚れしてしまう。これからどんどん美人に育ててあげよう。まだ十一歳の少女なんだから。



 お母様とお風呂を堪能した後は、お父様を案内した。私の精神年齢は外見相応ではない。年頃の少年であるお父様と一緒に入ることはできない。

 前世の親のことは全く覚えていないので、今のお父様が父親である認識を持てるようになってきたのだけど、まあ、無理なものは無理。


 お父様があがったあとお湯を見たら、けっこう汚れていた。うーん、石けんも使わずに、ろくに身体を洗わずに入ってるし、四人くらい入ったらもう汚くて使えないな。使用人にも開放したいんだけどなぁ。かといって、お湯を替えられるほどの魔力はない。私はまだまだ未熟だ。あ、追い焚きはできるな。

 私と両親は毎日入るとして、使用人は一人か二人、交代制で入ってもらうことにした。



 それから私は毎日お母様と一緒に一番風呂をいただくようになった。使用人も何日かおきに汗を流せるようになって、屋敷内の汗臭さが少し減った気がする。


 こうして、メタゾール子爵家ではまた新しい気持ちよさが生まれた。そして衛生面が若干改善された。

■アンネリーゼ・メタゾール(一歳)


■リンダ・メタゾール(十一歳)


■ゲシュタール・メタゾール(十五歳)

 貴族当主としては無能。だが、領民から嫌われているわけではない。


■エミリー(十一歳)


■リネンを運んでいたメイド、その他のメイド、執事

 アンネリーゼにマッサージしてもらい、とても元気になった。


■メタゾール子爵領の領民

 三百人くらい。田舎気質で穏やか。


◆メタゾール子爵領

 ひどい田舎。町ではなく村が一つあるだけ。

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