1 胎児の魂百まで
真っ暗だ。何も見えない。何も聞こえない。身体は動かない。というか自分の身体があるのかもわからない。
いや、何も見えないことはなかった。無数の光の玉が見える。ピンポン球くらいのぼやけた光。蛍よりは大きい。
色は赤、青、黄、緑、紫、白、黒。黒い光って何だ?あたりは真っ暗なのに、黒が見えるのもよく分からない。むしろ周りは真っ暗というより何もない。だから、何もない部分と黒い玉を区別できる。
そもそも見えるといっていいのだろうか。視覚じゃないのかもしれない。何しろ自分の目玉を動かしている感覚すらない。
光の玉に触れてみたい。でも、たぶん私には手足がない。それなのに、光の玉に触れたような感覚はある。暖かい気がする。
夢なのかな。記憶にないことを夢に見るものだろうか。こんなシーンの映画やゲームを知らない。
それにしても、この夢は長い気がするなぁ。そもそも、夢って起きた瞬間にたいてい忘れてしまう。夢をどれくらいのあいだ見ていたかを覚えていたことはない。
でも、かれこれ一時間とか二時間とかじゃないレベルで、この夢を見ている気がするよ。
夢かもって思った時点で目覚めようと思ったのだけど、目覚める気配はない。
はぁ…。何だろう。そろそろ起きないといけないんじゃないかな。起きて…、どうするんだっけ?仕事に行くんだっけ?いつも起きてから何をやってたのかな…。
ダメだ。夢の中だからかな。起きてから何をすべきなのかも考えられないや。まあいいや。唯一見える光の玉で遊んでいよう。
そうやって光の玉でどれだけの時間遊んでいただろうか。光の玉は少しずつ大きくなっている気がする。何だろうね、これ。もう何日もこんな感じだ。
こんな真っ暗な世界で身体の感覚もないなんて、きっと、私は死んでしまったのだろう…。ここは天国かな…。
自分の姿は分からないけど、周りに見える光の玉と同じようなものだったりして。じゃあ、玉は魂とかかな。私も魂だけになっているとか。
あるとき、もごもごと音が聞こえた。久しぶりの感覚だよ。そうだよ、音ってこんな感じだよ。
光の玉は相変わらず見えているけど、やっぱり視覚とはちょっと違う。それに対して、このもごもご聞こえるのはちゃんとした聴覚だよ。
でも、音が聞こえたからといってできることは変わらない。相変わらず光の玉に触れているだけだ。もちろん手足で触れているのではなくて、何だろう…、とにかく何かで触れてるんだよ。
そして、触れれば触れるほど、光の玉は大きくなっていくんだよ。白いヤツがいちばんお気に入りだからなのか、いちばん大きくなっている。でも他のやつも少し触れてやろうか。
そしてまたあるときから、全身包まれているような感覚が伝わってきた。袋に閉じ込められているんだろうか。もう何日もこうしているような気がする。ああ、でもなんかドクドクと心臓の鼓動も感じる。そうだ、震動も分かるよ!
そしてまた何日も光の玉と戯れていると、衝撃が伝わってきた。そしてもごもごと聞こえる。もううるさいよ!えいっ!
「蹴ったわ!」
「本当かい?」
「たしかに感覚があったのよ。こうしてなでて話しかけてると…、ほら!また蹴ったわぁ!」
「どれどれ…、おお!本当だ!」
「でしょう」
ここはメタゾール子爵家の屋敷。当主ゲシュタールと妻リンダの寝室。
ベッドに横たわったリンダが、まだ膨らんでもいないおなかをさすりながら話しかけると、けっこうな頻度で胎児が蹴り返してくる。本来なら胎動を感じるのは早くても十二週くらいだが、この胎児はわずか五週で胎動を始めた。
それもそのはず。この胎児は明確な意志を持っていた。なぜならこの胎児は転生者だからだ。もちろん、転生者などというものを二人は知らない。
「なんだか暖かいね」
「そうなのよ。優しい暖かさでしょ?」
「うむ。だがこれは…魔力…?」
胎児と戯れている光は精霊と呼ばれるものだ。この世界の人々は精霊が存在することを知っているが、その存在を感じることができるのは魔力の高い者だけだ。この世界は魔法や精霊の存在するファンタジーな世界だ。
人が魔法を使うのを精霊が補助してくれるのはよく知られている。精霊に愛されている者ほど、より多く補助してもらえる。しかし、どのようにすると精霊に愛されるのかは知られていない。
ところがこの胎児は、知らぬうちに精霊に愛されることをやっていたのだ。それは精霊に魔力を与えるということだ。胎児は意識が芽生えたとき、まだ手足も感覚器官もなかったが、唯一、魔力を操作することと魔力を感じることができていた。胎児が光に触れることは、精霊に魔力を与えることだったのだ。おかげで胎児は精霊にかなり愛されている。それだけでなく、精霊は胎児から魔力をもらって成長して大きくなっている。
精霊に魔力を与える過程で魔力が流れると、どうやら暖かさを感じるようだ。物理的な熱ではなくて、感じである。
胎児はずっと精霊と戯れているだけだったが、部位や感覚器官ができあがるに従って、次第に分かってきた。
ここはおなかの中だ。私が閉じ込められているのはおなかだ。うん。私は死んで、生まれ変わったんだろう。いや、まだ生まれてないのか。
もごもご聞こえるのは人の声。でもおなかの中からじゃ母音しか聞こえない。ただ、母音から推測すると、知らない言語だな。
もちろん前世のどの言語でもない。魔法の存在するファンタジー世界なのだから。
「それにしてもこの子、よく動くわ…」
「そうだな。もう触っていなくてもおなかが盛り上がっているのが分かる…」
胎児はおなかの中で筋トレしていた。そのたびに、リンダのおなかがぶるぶると振るえる。
ところで、ここがおなかの中ってことはもう分かったんだけど、じゃあこの光は何だろう。光に触れているのは手じゃないし。手はもう生えたよ。指はまだよく分かんない。
まあ、とにかく手で光に触れているわけじゃないんだ。でも、手じゃない何かを使って光に触れているんだよ。
それに、まぶたももう開いてると思うんだ。視界が赤っぽくなってきている気がする。これは手のひら越しに見た光の色に似ている。そして、今まで光だと思っていたものは、やっぱり視覚ではない別の方法で知覚していると思う。
魔力の高い者は、目をつぶったりすると精霊を見ることができるという。ところが、胎児は目をつぶるどころか目がまだなかったし、生まれながらにそれなりの魔力を持っていたために、精霊を知覚してしまった。そして、あろうことか、精霊に魔力を与えてしまっていた。
魔力を与えるということは消費するということである。魔法を使って魔力を消費するほど魔力を高めることができるというのは知られている。
転生した胎児はもちろんそんなことは知らなかった。しかし、精霊にずっと魔力を与えていたために、まだ胎児だというのにかなり高い魔力を有している。
普通は、魔力が減ってくると疲労や不快感を伴う。魔力が尽きると気を失う。ところが胎児にはまだ疲労するだけの身体や不快感を感じるための神経ができあがっていなかったため、平気で魔力が尽きるまで精霊に魔力を与え続けていた。しかし真っ暗なおなかの中で何も知覚できないので、気を失ってから目覚めたということすら分かっていなかった。
なんだか外でもごもご言ってるのが騒がしい。そして、母体がもぞもぞしている。私はそろそろ産まれるんだ。
うわっ、押される。母体が息張ってる。もう全身の感覚は備わってる。圧迫感がすごい。いたたたた…。息苦しくはないけど…。そもそも息をしてないし。
うぅ…、今まで少しはスペースに余裕があったけど、今はすごく狭くて締め付けられている。ここは産道だ。頑張れ、お母さん!頑張ってくれ!私に出ていく力なんてない。いつまでもこんな狭いところに閉じ込めたままにしないで!じゃないと圧死する…。
自分を産んでくれる母親の応援をするなんて斬新。いや、私は出産の立ち会いをした記憶はないけどね。たぶん自分も出産していないし。
「産まれましたよ!女の子ですよ!」
「おおー!なんと可愛らしい!」
「はぁ…、はぁ…。あなたはアンネリーゼよ!」
出られた!生まれた!私は生まれた!目を開くことができた!光だ、まぶしい!今までの薄暗い赤みの光と違って、少しオレンジ色のランプの光だ。
焦点が合わなくてよく分からない。左目と右目が逆方向に向いているような気もする。
私を掲げているのは父親かな。怖いよ…そんなに高くしないでよ。首は支えてくれてるけど、まだぐらぐらなんだよ…。
あとは寝っ転がっているのは母親かな。もう一人は助産師かな。
耳に羊水が詰まってるのかなぁ。まだもごもごしてて何言ってるのか分からないよ。いや、そもそも知らない言語っぽいし。
苦しい…、気がする…。今まで呼吸をしなくても苦しいと感じなかったのは、へそが繋がっていたからかな。それが苦しくなってきたってことは、へそから酸素が供給されなくなったってことだよね。じゃあ、必要なのは…
「げほっ…、おぎゃあっ!おぎゃあっ!」
産声だよね。そういえば、私、今まで息をしてなかった。
咳をしたら気道に詰まってた羊水を吐き出せたかな。
ああ…、疲れた…。出産って産む方も生まれる方も疲れるんだな。ダメだ…、意識が遠のいて…。
こうして、なぜか前世の記憶を持ったアンネリーゼ・メタゾールは、魔法や精霊の存在するファンタジーな世界に生を受けた。
■アンネリーゼ・メタゾール子爵令嬢(胎児~誕生)
胎児のときから意識を持っている転生者。
■ゲシュタール・メタゾール子爵
■リンダ・メタゾール子爵夫人
■助産師
メイドのエミリー。
ここでは人物紹介や固有名詞、用語の説明をします。
基本的に本文中の内容をまとめるだけですが、ときどき本文中にない容姿などの説明を加えます。
また、年齢や容姿に変化があった場合もここに載せます。ただし、具体的な誕生日や現在の日付は載せないので、一人が歳を取ると全員歳を取ります(数え年のように進みますが、そういう概念があるわけでもありません)。
変化のない人物は載せないことが多いですが、あまり登場しない人物を作者の覚え書き目的で載せる場合もあります。
話が進んでいくと、グループやチーム扱いされる者が出てきます。グループ全員のセリフが並んでいる場合、具体的にどれが誰のセリフか書かれていない場合は、たいていの場合、ここで紹介されている順番にセリフを並べるつもりです。