カマキリは歌わない
『殺人は癖になる』と言った言葉をご存知だろうか。
オリエント急行殺人事件で知られる名探偵、エルキュール・ポアロの言葉だ。
この言葉は、人を殺めた人間が人殺しの快感に目覚めてまた人を殺してしまう、といった意味ではない。
一度、殺人によって問題の解決を図ったものは、次なる問題が発生した場合、やはり同じように殺人によって状況を打破しようと考える、という意味だ。
私はこの考え方にひどく同意をせざるを得ない。
なぜなら、その実例がすぐ側にいるからである。
カーテンの隙間から朝日が差し込む。
私は光から逃れようと体を丸めた。
海外の映画のようにスカッと起きられる人間はこの世にさしていないだろう。
まあ、仕方ない。
今日は予定のある日だ。
私はゆっくりと起き上がって辺りを見回した。
昨日、うちに泊まったはずの私の彼女の姿がそこには無かった。
まあ、何処にいるか大体の憶測はついている。
私はさして焦りもせず、階段を下り、リビングに入っていった。
「おはよう」
リビングにいた弟、富郎に声をかける。
弟はゆっくりこちらを振り向くとにんまりと微笑んだ。
富郎は先天性の吃音症を患っていて、声をうまく出すことができない。
彼もそのことを分かっているから、あまり自分から声を出さない。
私はキッチンへと向かい、コーヒーを淹れた
食パンをトーストしながら、カーテンを開け、日めくりカレンダーをちぎった。
キッチンへと戻ると、トーストを取り出し、バターと蜂蜜を塗った。
足元の死体が邪魔でキッチンが狭い、後でこれはなんとかするか。
私はトーストとコーヒーを持って食卓へとつき、朝食を取った。
富郎はテレビを消すと、私を軽く見て微笑んでから、二階の自分の部屋へと帰っていった
私は血の生臭い匂いをコーヒーで上書きしながら、食事を続けた。
弟の富郎は14歳で、本来であれば中学三年生にあたる年齢だ。
まあ、いわゆる登校拒否といったやつで彼はずっと家にいる。
吃音症のこともあるし、家族も納得している
と言っても、母は弟の事で責任を感じ、無責任なことに自殺、元から浮気者だった父は蒸発、育ててくれた祖父母は富郎が一年前に殺したから、彼の家族は私だけなのだけれど。
そんなことを考えながら『昨日まで彼女だったモノ』をビニールでくるんでいたら、足元にジャックがやって来た。
ジャックと言っても別に外国人でもなんでもなく、私たちの飼育している犬だ。
白黒の毛並みを見せつけんばかりに登場した大型犬の首元を撫でてやった。
「そうだよな、お前も富郎の家族だもんな」
ひとしきり甘えたら気が済んだのかジャックはどこかへ去っていった。
まあきっといつものように水浴びでもしているのだろう。
私は時計を見るとそろそろ準備を始めなければまずいことに気づき、死体の処理を急いだ。
今日の予定は地域清掃のボランティアだ。
私は小学生の頃からこういったボランティア活動を盛んに行なっている。
心ない人から偽善者と罵られたりもするが、私がやりたくてやっていることだし、感謝してくれる人たちのことを思うと頑張れる。
「おはよう」
背後から聞こえた涼やか音色に呼応して、私の胸が締め付けられる。
気取られないよう細心の注意を払い、私は振り向く。
「おはよう」
そこには想定通り作業用のジャージが妙に似合う女性、藍が立っていた。
藍はニッコリとこちらに笑いかける。
私は視線を落とし、軍手をはめながら忙しなく働く心臓を抑えようと意識を向ける。
しかし、考えれば考えるほど強くなる胸の痛みで私は実感せざるを得ない。
『私は、藍のことが好きだ、ボランティア仲間としてでなく、一人の女性として』
激しい鼓動が収まらない。
まったく難儀な体だ。
軍手がうまくつけられないフリをして時間を稼いでいたが、これ以上はやはり不審がられるか。
顔を上げると、藍の姿が目に飛び込んできて、しっかりと網膜に焼き付けられる。
ああ、やはり、『彼女』とは全然違う。
今朝私が処理した『彼女』は藍より背が高くて、藍より痩せていて、藍より賢くて、藍より美形で…
それでも、藍には到底敵わない。
『彼女』が私に告白してきた時、私は傷つけてしまうことが恐ろしく、断ることができなかった。
彼女が私の家に来たいと言った時も、来たら私が取られると勘違いした富郎の手によって殺される事なんて分かっていた。
なんたって全く同じ前例があるのだから…
でも、私は断る事が出来なかった。
それが彼女を傷つけることに繋がるから。
それに、私が恋人を作って家になかなか帰れなくなってしまったら、富郎はどうするのか
私を慕ってくれて、声のうまく出せない、あの子は一人では生きていけない。
なら、やはりああなるのが全てうまくいく選択だったではないか。
その日、私は大きな袋三つ分のゴミを回収した。
なぜ皆こんなに街を汚してしまうのだろうか。
袋を見つめて達成感と共に虚しさを覚えた。
でも、私たちの行動を見た人が一人でもポイ捨てをやめてくれれば、きっとこの活動の意味はあったと言えるだろう。
「君はさ、彼女さんとかいるの?」
二人で駅へ帰る道すがら、藍は私にこう尋ねた。
私は何とも思ってないフリをしながら答える。
「全然いないよ、てか、藍は?恋人とかいるの?」
藍は「んーん」、と首を振った。
その行動に私はまた彼女のことを好きになる。
家に帰ると、富郎が夕食を作って待っていてくれた。
本当に出来た弟だ。
私は富郎の頭を髪がぐしゃぐしゃになるまで撫でてやった。
その夜は、伸びてきていた富郎の爪を切ってやった。
白かった爪を削ぎ落とすと、富郎はじーっとその指を見つめ、ニッコリとすると私にお辞儀をして部屋に戻っていった。
翌朝、私は玄関からのベルの音で目を覚ました。
慌てて部屋から出ると、富郎も部屋から出ていて、私に気づくとじっとこちらを見つめてきた。
宅配か何かだろうか。
私は玄関の扉を開いた。
「じゃーん!びっくりした?」
そこにいたのは完璧過ぎるほどの笑顔をみせる藍だった。
弟が私に出来た彼女を最初に殺したのは、半年以上前の話だ。
私は初めて出来た恋人に、浮かれていたのだ
富郎が自らの祖父母ですら殺したことをすっかり失念していたのだ。
祖父母が私に迷惑をかけた、ただそれだけの理由で…
彼にとって私の恋人なんて邪魔者でしかないことをなんで気づかなかったのだろう。
私の家にやって来た、ただそれだけで変わり果てた姿になった彼女を私は忘れないだろう。
富郎に藍だけは会わせたくなかった。
藍から目を逸らし、富郎の方へ振り向く。
彼と目が合う。
終わった。
藍も今までの恋人たちのように、モノへと変えられてしまうのだろう。
他の人だったら『仕方がない』と諦めただろう。
富郎には私しかいなくて、私は兄なのだから
でも…
それでも…!
私は藍の手を無理やり掴んで外へと走り出した。
藍はしばらくの間困惑したような声をあげていたが、最寄駅に着く頃には楽しそうに笑っていた。
私たちは電車の車両に乗り込んだ。
「それで?どこに行くのさ」
藍は息を切らせながら尋ねてくる。
私は藍から視線を逸らす。
まだ発車しないのか。
「ごめん、とりあえず理由を聞かずに逃げてくれないか?」
藍は不思議そうな顔をしながら、頷いた。
電車がようやく出発する。
しかし、その瞬間、富郎が飛び乗ってくるのが見えた。
別の車両ではあるが、このままでは見つかるのも時間の問題だ。
私は藍の手を引き、富郎が乗った車両とは逆方向の車両にどんどん移っていく。
藍はその小さな柔らかい手で私の手を握り返してくれた。
やっぱり、好きだ。
一番端の車両まで来てしまった。
富郎が追ってきているかは分からない。
でも、もし追ってきていたら?
…もう逃げられないな。
そして永遠にも感じる時間の果てに、電車は次の駅に着いた。
扉が開く時間も惜しむように、私たちは電車から出た。
走って改札を目指す。
チラリと後ろを向くと、同じく電車から降りた富郎がキョロキョロしている姿が見えた。
そっからはただひたすら走った。
いつからか自然に私たちは手を繋いでいた。
「ちょっと…!もう…無理」
後ろから聞こえる綺麗な声に私は思わず立ち止まる。
藍はもう限界そうだ。
私は近くにあった大きな公園に入った。
ここなら木が鬱蒼としているから、身を隠すことができる。
「んで?なんでこんなに走ってたの?」
息を切らせた藍はどことなく色っぽくて、私は目を逸らす。
「君が私の弟に会うと、弟が君を殺すんだ」
私は隠す事なく打ち明けた。
藍はびっくりした顔で固まってしまった。
そこで私は富郎が今までどういったことをしてきたのかを伝えることにした。
初めは富郎が中学一年生のとき、二年前だ
その頃はまだ富郎も学校に通っていた。
そして、富郎の吃音症を馬鹿にした同級生の男の子と掴み合いの喧嘩になった。
その時、富郎は相手の子をボロボロになるほどに引っ掻いてしまった。
幸い先生が止めに入ったらしく、殺すまでのことにはならなかった。
それから富郎は学校に行かなくなった。
それから一年が経ち、ほとんど家から出ない暮らしからか、富郎は私に異様な執着を示すようになったようだ。
いや、そんな素振りは無かったのだが、行動で示されてしまったのだから仕方がない。
ある日私が帰宅すると、祖父母がボロボロになって床に伏していた。
二人の体はまるで獣か何かに襲われたように引っ掻き傷が大量に見られた。
まあ、頭のコブから、直接の死因は脳震盪であるようであったが…
私はなぜか考えた。
強盗だろうか?いや、それにしては家が荒れていない。
私は突然、前日のことを思い出した。
その事件の前日、私は祖父母に叱られていたのだ。
大学に進学したいと言い出した私を二人が止めた。
資金的問題である。
私はそう言われては仕方がなく、おとなしく引き下がったのだが、私が引いたのちも彼らは私を罵倒し続けた。
お前が金を稼がないでどうする。
お前がいなければこんなに生活は苦しくない。
お前が嫌だから両親は姿を消したのだと。
その姿をじっと富郎が見ていたことが非常に記憶に残っていた。
そして、二人の遺体の引っ掻き傷から、富郎の関与の可能性に気がついた。
彼が喧嘩した相手につけた傷と似てはいないが、どちらも同じ、引っ掻き傷だ。
しかし、富郎が殺したと思いたくなく、私は
駆けつけた警察にその話はしなかった。
皮肉なことに、二人の命にかかっていた保険料によって私は大学へと進学できた。
そして次は二人の私の恋人だ。
彼女たちの遺体にも引っ掻き傷の跡があった。
彼女たちの場合は、その深い引っ掻き傷が直接死因になったようだった。
富郎の犯行を確信した私は二人の遺体は警察に隠すことにした。
もう遺体の処理は慣れてしまった。
正直、富郎の人殺しは仕方が無いように思う。
人と違う体に生まれ、人と違う対応をされた彼ならば。
私は幼い時、小さなカマキリを見つけた。
私は興味本位でカマキリの前にその周辺を歩いていた蟻を差し出した。
見えない数瞬の後に、蟻はカマキリの口元へ移動していた。
深い切り傷を入れられた状態で…
ここまでの話を聞いた藍は
「君、モテるんだねー」と場違いにも程があるコメントを残した。
しかし、そう言いながらもカクカク震えた膝から、彼女の動揺が伝わってきた。
私は藍の手を引いて公園の中を進んでいく。
この間にも富郎が追いかけてきているかもしれない。
藍はこの空気を変えようとしたのか、震えた声で言う。
「ねえ、覚えてる?ここ私たちが初めて会った場所なんだよ?」
もちろん、忘れるはずもない。
ボランティアを始めたての私に藍だけは声をかけてくれたのだ。
私が力強く頷くと、藍は嬉しそうに微笑む。
あくまでも私の想定だから、違うかもしれないが、藍は私のことが好きなのではないだろうか?
それなら拒否はされないよな?
私はもうしばらく繋ぐ必要はなくなったが、藍の手を握った。
藍は何も気にしてないように笑顔のままだった。
この時間がずっとずっと続けば良い。
そのまま少し歩いたのち、藍は口を開く。
「実はね、全然気に病まないで欲しいんだけど」
藍は言いづらそうに言葉を区切った。
「その弟くんが喧嘩しちゃった子、多分私の弟なんだよね」
衝撃で口が聞けなくなった私を見て、慌てたように続ける。
「いや別に責めたりしたいわけじゃないんだよ?あの件は完全に私の弟が悪いし、あれ以来人をいじめたりしなくなったし、あの傷はもう治ってるし」
アワアワとフォローしてくれる藍の姿を見て、私は少し落ち着いた。
そして私はその場に膝をついた。
「本当にごめんなさい」
生まれてはじめての土下座だった。
藍はより焦ったように喋っていたが、私は私の気が済むまで頭を下げた後、体制を立て直そうとして、後ろから聞こえる走るような足音に気がついた。
恐る恐る振り向くと、まだ、遠いが確実に視認できる距離に富郎がいた。
私はまた藍の手を引き、走り出した。
もう、肺以上に足が限界だった。
息も絶え絶えの私たちが辿り着いたのは、崖だった。
まるで二時間サスペンスの終わりのような場所だった。
私は海沿いに走って逃げることを提案するが、藍はその場にへたり込んでしまった。
さっきまでの笑顔も結構無理をしていたのかもしれない。
私も藍の隣に座った。
きっとまだ、富郎は来ない。
藍はゆっくりと口を開く。
「私ね、君と会えて、君とボランティアやれて楽しいんだ。
今まで私そういう活動を一緒にできる人が居なくて、誘ってみて一回来てくれた人も、二回目は来てくれないの」
藍は私の目を覗き込むようにしてじいっと見た。
「いつも、ありがとうね」
私は彼女を抱きしめたい衝動に襲われたが、なんとかその衝動を抑え込んだ。
こつり、こつり、
人が殆どいないここには似合わない足音が聞こえてきた。
私は視界の遠くに富郎の存在を確認する。
もう、無理か。
ならせめて…
私は両手で藍の方を掴む。
藍はビックリしたように私を見る。
ああ、かわいい。
「ねえ、藍」
「うん…」
顔が熱くなっていくのを感じる。
もしかして藍に気づかれてしまうだろうか。
いや、もう気づかれてしまってもいい。
「藍、私、藍のことが好きだ
私と付き合ってくれないか?」
藍は目をゆっくり広げた。
そして、その視線を下に落とした。
「ごめん、私、他に好きな人いるから」
理解が追いつかなかった。
視界の端から幕を引かれたかのように、どんどん見える範囲が狭まり、目の前が真っ暗になった。
気がつけば、富郎の足音はとても近くまで寄ってきていた。
私の口は私の意思を無視して開いた。
「富郎、藍を殺してくれ」
富郎の歩みは止まった。
藍がこちらを見たことに気がついたが、私は無視して声を荒げる。
「聞こえないのか!!藍も今まで殺してきた人と同じようにやれって言ってんだよ!!」
その時顔を上げた私に見えた富郎はポカンとした顔をでこちらを見ていて、私はまた胸糞悪い気持ちになる。
私は激情に任せて藍の襟首を掴む。
そして崖の淵から彼女の体を出す。
藍は叫んでいる。
富郎は固まっている。
私は、手を離した。
『殺人は癖になる』
私はこの考え方にひどく同意をせざるを得ない。
なぜなら、私がその実例となったからである。