第53話 日本
目が覚めた時、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
「日本?」
はね起きてあたりを見回し、ようやく私は自分のベッドに寝ていたことに気づく。まだ外が明るい。
「ウィルフレッド様!」
慌ててベッドから降りて部屋を見回す。いない。私だけなの?
部屋からリビングに出ると、美鈴おばあちゃんが椅子に腰掛けていた。
「おばあちゃん? なんで?」
祖母が家族の留守中にこの家に来ることはない。父はまだ仕事のはずだ。私は夢を見ていたの?
「菜々、気がついたのね」
「おばあちゃん、ウィルフレッド様は? 男の人は一緒じゃなかった?」
恐怖で喉が締め付けられる私に、おばあちゃんは穏やかに微笑む。
「その人なら、健人の部屋で寝ているわ」
「お兄の?」
もつれる足でお兄の部屋へ向かいドアを開ける。カーテンをしめた薄暗い部屋のベッドで若君が横になっている。
「ウィルフレッド様?」
そっと近寄る。
まだ冷たかったら。そう思うと恐怖でどうにかなりそうだった。
そっと頬に手を当てると、温かな彼の温度が伝わってくる。呼吸も穏やかでただ眠っていることが分かり、私は力が抜けてペタンと座り込んだ。
「よかった。生きてる」
大きな感謝で胸がいっぱいになった。
よかった。生きていてくれてよかった。
「お兄さん」
また助けてくれた。助けてくれたんだ!
「菜々」
しばらく泣きじゃくったあと、改めて若君に怪我がないか確認し、ようやく落ち着いた。私はリビングに戻って水を一杯飲む。
「おばあちゃん」
祖母を呼び、でも何を話していいかわからなくて何も言葉が出ない。
代わりに、傷は痛くないかと聞かれたので大丈夫だと頷いた。魔獣につけられた傷は、なぜか日本ではあっという間に癒やされる。なかったことにはならないけれど、超高速で治るのだ。
「そう、よかった。でも髪は、美容院に行かなきゃね」
悲しそうなその言葉を聞いて頭に手をやると、髪が一部ばっさりと切れていた。氷の刃が頭部をかすった時に切れたらしい。シャワーを浴びるように言われ、洗面所の鏡で見た私はひどい姿だった。切り裂かれたボロボロワンピース、祖母が拭ってくれたのであろう、あちこち乾いた血のあと。そしてバラバラの髪。右目の斜め下あたりにも斜めに走る赤い傷あとができている。
「気づかなかった」
生暖かいものは血だったのか。
「でも、顔の傷が増えたくらい、どうということもないわ」
髪はショートカットにすればいい。今までロングばかりだから、たまには新鮮かもしれない。ゲシュティに行ったら浮きまくるだろうけど。
「……っ」
ポロポロと涙が溢れるけど、唇を噛み締めて声を殺した。
ウィルフレッド様が生きていてくれただけでいい。あとはテイバー様を探して、ゲシュティに送り届ければいい。それだけでいい。
それでも、こんなひどい姿を若君に見せるのは辛いと思った。嫌いな上に醜い女の子なんて、目に入れるのさえ嫌かもしれない。作った笑顔さえ見せてくれないかもしれない……。それがどうしようもなく辛かった。
☆
「これは美容師さんにびっくりされちゃうね。なんて説明しよう?」
シャワーを浴びてこざっぱりし、普段着のジーンズとTシャツに着替える。チェイス様に借りたハンカチは無事だったので、丁寧に手洗いして干しておいた。髪をまとめようと思ったけど、あまりにバラバラでどうにもならず、とりあえず乾かしたままリビングにもどる。
「ねえ、タキは見なかった?」
「ああ、タキね、怪我をしてたから病院なの」
「えっ?」
「ちょっと入院してるけど、大丈夫よ」
「すぐ行く。タキ不安がってるわ」
「大丈夫。ゆっくり眠ったほうがいいって話だから。ね?」
タキは問題ないから、まずは話すことがあるでしょうと言われ、渋々座る。
元々タキは、昼間はおばあちゃんの家で過ごすことが多かったし、予防接種なんかも全部任せることになっていたから、こういうときはいつも黙って従うしかないのだ。
そこでお茶を淹れながら話す準備をしていると、玄関のチャイムが鳴った。
「誰だろ」
普段なら誰もいない時間なのに。
「ああ、葉月ちゃんでしょう。呼んでおいたから」
パタパタと玄関に向かったおばあちゃんはそんなことを言い、本当に葉月を連れて戻ってきた。
「菜々」
夏らしいキャミソールにミニのタイトスカート姿の葉月は、私を見て大きく目を見開く。
「美鈴さんに連絡貰って……」
そう言ったまま言葉を詰まらせると、私をぎゅっと抱きしめ泣き出してしまった。
「葉月、泣かないで」
「泣くよ! 何よ、その髪! あんなにきれいだったのに! 何があったの? ちゃんと話しなさいね」
命令口調なのに優しい葉月の言葉に、私の目にも涙が浮かぶ。
今朝もメッセージのやり取りをしていたから、余計に心配させたのだろう。
「とりあえず髪をそろえようか。六時にお母さんの店に予約ねじ込んできたから、簡単にそろえよ?」
葉月の母親は美容院を経営している美容師で、私もいつもお世話になっている。人気店なので、偶然キャンセルが入ったのでない限り本当にねじ込んでくれたのだろうと思うと申し訳ない。
葉月の持ってきたハサミで髪をそろえようとしてくれたけど、震えて切れなくなったようで、編み込んだりピンを使ったりでおしゃれに仕上げてくれた。
あとはプロに任せればいい、と。
二人の質問にも答え、話し終わった時にはだいぶ時間がたっていた。
「そう」
心臓が止まるんじゃないかというくらい、顔を青くしたおばあちゃんと葉月の姿に身が縮こまる。うう、ごめんなさい。
途中でゲシュティのほうにも連絡をしなくちゃと思いだし、サリーおばあちゃんに「私と若君は無事。このまま彼の半身を探すので心配しないで」とメッセージを送っておいた。被害状況も心配だった。「こちらのことは心配ない。死者なし。しっかり養生せよ。バーナード」と、なぜか陛下から返信が来て微笑む。誰も亡くならなかったことにほっと力が抜けた。
ちょっと見せなさいと葉月にTシャツを脱がされたけど、新しくできた複数の赤い傷を見た葉月は、自分のほうが痛いような顔をした。私はもう痛くないけど、かなり流血したせいで色が青白いな、レバー食べたほうがいいかなぁ。そんなことを考える。
Tシャツを着なおすと、リビングの扉がゆっくり開いた。
「ウィルフレッド様」
若君は警戒するような目で私たちを見る。葉月が小さな声で「わお、本当にイケメン」と呟いた。
「もう大丈夫ですか?」
そばに行って見上げると、顔色もいいし問題なさそう。ただ少し混乱しているように見えた。
「ここは私の実家です。日本の」
「ナナ……」
「今、お茶を淹れますね」
小さく微笑んで祖母と葉月を紹介し、若君を椅子に座らせる。まだ彼と目を合わせる勇気はない。できれば自分の姿を隠したいくらいだけど、ここではそんな力が使えないのが残念だ。
若君の分のお茶を淹れて私も座ると、彼の視線を感じていたたまれない。
「ウィルさんは、どこまで覚えているの?」
ふいにおばあちゃんが若君に向かってそう言った。ウィルさんて……。
「たぶん、ゲシュティでのことは全部」
「えっ?」
若君は突然体が動かなくなったことも、私が親白蛇を倒したのも見えていたという。動けなくなった瞬間、頭部だけ薄いけど風でバリアを作り呼吸を確保したそうだ。日本に移動した瞬間まではぼんやり周りも見えていたし、意識もあったのだと。――何もできない金縛りの状態はどんなにつらかっただろうと思うと、ぞっと鳥肌が立つ。
若君は震える手で私の頬に手を当て、傷を隠していた髪をそっと上げた。
「ごめん、ナナ」
「何を謝るんです?」
本気で意味が分からなくてキョトンとする。全て私が勝手にしたことだ。それに。
「私の方こそ今朝はすみません。もっとウィルフレッド様の気持ちを考えるべきでした」
彼の秘密を暴露し傷つけた。もっと時間をかけるべきだった。
「本当に、ごめんなさい」
生きていてくれた。ただそれだけでいい。
ナナの胸を占めるのはその想いだけ。
次は「サロン」。
若君を連れて町に出ます。
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