第2話 実家
チーン
ガラスの鈴が澄んだ音を響かせる。
写真の中の母たちは、どれも幸せそうな笑顔だ。
実家に仏壇はない。
壁の飾り棚に、父が撮ったたくさんの母の写真と、母が好きだったものが置かれているのがその代わり。
母の写真の側には私や兄の写真もあって、高校の入学式に私が母と二人で写ったものは、少し引き伸ばされている。
将来どちらの世界を選んでもいいように、高卒認定試験で資格だけ取ればいいのではと考えていた私に、母は高校へ進学するよう強く勧めた。母は、高校という時代とその空間に特別な思い入れがあったからだそうだ。
異世界から日本に迷い込んだ母が、父と恋に落ちた場所。
出会って恋をして結婚し、まもなく兄が生まれ、その七年後に私が生まれた。
「菜々、飯だぞ」
「はーい」
帰宅を早めたにもかかわらず、父は遅めの夕食をささっと用意してくれる。
父は料理人だ。
背が高くマッチョで、髭を生やしている。見た目は戦う料理人? みたいな雰囲気の強面だけど、四十代半ばとは思えないくらい若々しくて自慢のお父さん。私の理想の男性は、昔私を助けてくれた警邏のお兄さんやお父さんのような、頼れる人なのよね。若君のような綺麗な男なんて、最初からお呼びではないのよ。
「お兄の帰国は明日?」
兄は調理系の高校を卒業後、ヨーロッパで修行をしている。今はフランスにいるはずだ。
「ああ、そうだ。そろそろ嫁でも連れてくる頃か?」
ニヤッと父は笑うけど、私はないないと手をひらひらと振る。
「彼女はいるかもしれないけど、お兄の性格からしたら、修行が終わって日本に帰るまでは結婚しないと思うよ」
「そうかぁ?」
父よ、なぜ残念そうなんだ。
そんなに嫁が見たかったのかしら?
お兄には、高校まではとても素敵な彼女がいたけど、卒業と同時に別れてしまったらしい。きれいで優しいお姉さんだったけど、遠距離恋愛は大変だってことだったんだろうなぁと思う。当時小学生だった私にも優しかったし、お姉ちゃんみたいに思ってたんだけどね。とはいえ、お兄もまだ二十五歳だし、これからでしょう。
「で、菜々のほうは、ほれ、その、どうなんだ?」
なぜか大きな体でもじもじしながら、父はあいまいにぼかした言い方をする。
「んー。お父さんみたいな人は、まだ見つからないなぁ」
にっこり笑って事実を告げると、父は「そうか」と一言言って、ご飯をかきこんだ。うん、なんだか少しうれしそうだね。
私はもうすぐ十九歳になるんだけど、恋人いない歴は年齢とイコールだ。誰ともお付き合いというものをしたことがない。
母の期待に応えられなかったのは申し訳ないけど、せっかく両親の母校に進学しても、父と母のような素敵な恋は生まれなかった。
それは私の特殊な事情のこともあるけど、理想の人に出会ってないことも大きいのだ。仲のいい男子もいたけど、彼らを友達以上に思うことはなかったし、向こうもそうだったのは間違いない。
そもそも周りで彼氏彼女のいる人のほうがレアって環境だったしね。
私の初恋は、幼稚園の時に助けてくれた警邏のお兄さんで、残念ながらそれ以降に好きになった人はいない。ときめかないわけじゃないけど、恋まではいかない。
年頃の女の子としてそれもどうよ? と思わなくもないけど、母も祖母も「夫運」がすこぶるいいので今後に期待をしているのよね。
きっと素敵な人と一瞬で恋に落ちて、結婚して、ずっと相思相愛で幸せに生きていくんだ。我ながらロマンチストだけど、身近でそういう例を見てれば自然とそうなると思うのよ。
「ああ、でも、会うたびに嫁に来いって言ってくる人もいるけどね」
若君の顔を思い浮かべ、私が肩をすくめてそう言うと、父はぴくっと右眉だけ動かした。
「そりゃあ、お前。菜々みたいな別嬪、ほっておく男はいないだろう?」
と、どこかぎくしゃくした声で言う。
私は内心笑いをこらえる。
父にとって、母に似ている私は美人らしい。
確かに母はきれいだったけど、父の血も入った私は、なんかこう、似てはいるけど微妙にバランスが違うのが残念なところだ。同じく母似の兄はイケメンなのにね。
「うーん、単純に私のご飯を気に入ったらしいよ。領主の息子だし、家の料理人にしたいってことじゃない? ならないけど」
「ああ、なるほどなぁ」
私は裁縫よりも料理のほうが得意だ。
食べた味をかなり正確に再現できるので、もしかしたら料理人に向いているのかもしれない。
だけど、母が出来なかったことをかなえるのは私の夢だ。それに、ゲシュティに帰ることが叶わなかった母の代わりに、祖母のそばにもいたいと思う。
あの国に行くことができるのは私だけだ。
母も兄も、見えない壁に阻まれて行くことができなかった。
父にいたっては、つながった先を見ることもできないらしい。
私が初めてゲシュティに行ったのは、私が幼稚園のころ。まだ子猫だったタキを拾って、うちで飼うことが決まり、とても嬉しくてはしゃいでいたからよく覚えてる。
動物病院から帰って、私はまだ小さなリュックをしょったままタキと遊ぶのに夢中だった時、それはおこったんだ。