その2
体育館は外とは対照的だった。外のありとあらゆる熱を奪い尽くしたみたいにここは熱気で包まれ、ざわめきも止むことを知らなかった。まもなく試合が始まるからだ。やがてそれぞれの裏口から今回の主役たちがぞろぞろと出てくると、客席の喧噪は一つの最高潮を迎えた。彼女らはお互い列をなして相手チームと向き合って礼をした。その片方の列の中心に彼女はいた。
彼女は一瞬だけ何かを確認をするかのように、意味ありげにこちらの観客席の方を向いたが、またすぐに自分のいるところへと視線を降ろした。
やがて体育館中に響き渡っていた強いざわめきは少しずつ収まっていき、最終的に辺りは物音一つしないほどに静まりかえった。嵐の前の静けさの如く、周囲に緊迫した空気が立ち込めた。
そんな中、審判は勢いよく始まりの笛を吹いた。試合が始まったのだ。すかさず、彼女はボールを手にして、共にゴールへと向かう仲間たちを引き寄せつつ、チームの先陣を切って相手チームを攻めた。順調な滑り出しだった。はじめ敵チームの選手たちは皆まるで自分たちの縄張りを守る熊のように、仲間内で落ち着きを見せつつも、彼女らの動きをはかるかのようにじわじわとその行く手を阻もうとしていた。対して彼女らは子犬のように熊達からの攻撃を受けない経路を彼女らの知恵と結束と軽快な動きを持ってして進んでいく。そんな彼女らの巧みな連携に敵チームは少しずつ危機感を覚え、牙を向けて、実際彼女をとって食おうとするかの如くボールを奪いにかかった。自らの限界を感じ取った彼女は素早く仲間にパスをするも、それをいち早く察知していた敵チームの一人にあっさりとゴールの目をとられてしまった。振り出しに戻ったのだ。そして、今度は敵チームによる報復が始まろうとしていた。
気が付けば僕はおおよそ考えうる限りでの応援をしていた。もちろん周りの人たちのようにはいかなかったけれど、自分でも驚くほど僕は繰り広げられている試合に釘付けになっていたのだった。
僕をここに行かせたのはキャプテンだった。「お前。いま帰ろうとしたよな」いつものように早足で下校する僕にキャプテンは笑ってそう言った。僕が頷くのとほぼ同時に彼は僕の頭を叩いた。
「ばかやろう。今日の試合お前が行かなくて誰が行くんだよ」と彼は言って、僕を体育館へと連れて行ったのだった。
試合は惨たらしくも彼女達にとって最悪の状況で進行していた。敵チームの報復はもはや今では報復としてではなく、まるで数ある中の一つの余興のように、それでいて彼女達の心を粉々にするには十分すぎるほど繰り返された。彼女達は強大すぎる敵を前に惨敗してしまうかもしれない。観客達の間では勿論、彼女達の間でもそんな空気が漂っているように思えた。応援席からかけられる彼女達への声援は今ではかえって一抹の虚しさを与えた。しかしそんな絶望の淵でも諦めない選手がいた。全力で声を上げて動き回る一人の選手がいた。それは彼女だった。そしてそんな彼女の気概は現に明確な形を伴ってあらわれていた。彼女らの心臓部へと接近する敵の一瞬の隙を狙ってボールを奪い取ったのだ。彼女の抵抗は、仲間たちを今一度奮い立たせて、彼女らへと送る声援を熱く盛り上げた。彼女は間違いなく我々と自分達に希望を与えているのだ。
しかしそれは思いがけない形で断たれる。彼女は思いっきり転んだ。それは一瞬の出来事であった。この体育館という一つの世界に空白の時間が訪れた。しかしそれ以上のことは何も起こらなかった。ボールは彼女との間に何らかの魔術的な力が働いたかのように彼女の元から離れていき、その行き場を失った球体は必然敵の手に渡ることとなった。敵は当然のようにそれを手にしようとしていた。一つの悲劇が、一つのまとまりを持って観客席全体へと伝わるのに十分な時間が経つと、異質なざわめきが心配や不安の声と相まって観客席に渦巻いた。
そんな時、コートからの激しい声を聞いた。それは僕には弱った獣の咆哮のようなものに聞こえた。しかし確かにそれは人間の、しかも一人の少女のものに違いなかった。今の今まで転倒していた彼女のものだった。彼女は素早く立ち上がり、絶え間なく空気を震わせるように何度も声を上げて、それを原動力に今まさに敵の懐へと突き進もうとしていた。そして彼らのボールを奪った。客席は再び異様なムードに包まれたが、やがて大きな喜びと興奮を含んだ強い声援へと変わっていった。
試合は終わった。彼女達を一度は奈落の底に突き落とした敵チームの奇襲は一人の少女をかえって覚醒させ、仲間達に希望と勇気を与えて、形成そのものを逆転させたのだった。結果彼女達の勝利だった。試合が終わると辺りの空気は本当の意味での最高潮をむかえた。皆が思い思いに彼女の噂をしていた。僕はそんな観客席の雑音は耳に入らなかった。この瞬間、ただ僕は嬉しかった。おめでとうと伝えたかった。可能な限り早く彼女に伝えたいと思った。でも同時に僕はわからなくなった。一体何を伝えるのだろう。僕は心から彼女の栄光を祝福できているのだろうか。僕にはそんな資格があるのだろうか。きっと僕には彼女の喜びを受け止めることのできるための大切な何かが欠落しているのかもしれないとも思った。僕は静かに席を立った。体育館にこだまする群衆達のざわめきは、もはや僕にその場しのぎの心の高まりも喜びもやすらぎさえも与えてはくれなかった。結局それらは自分とは関係のない雑音だった。
空は巨大な灰色の雲で覆われていた。吹き付ける風は穏やかなのに刺のように鋭い冷たさが僕の肌を抉る。いよいよ新たな季節が始まるのだと僕は思った。
僕は彼女のことを考えた。彼女は絶望の淵にいても諦めなかった。大事なものを守るみたいにずっと手放さなかった。彼女はいったい何と戦っていたのだろうか。何を守っていたのだろうか。しかしそれは僕にはわかりようもなかったし、もはや関係のない話だと思った。このグラウンドの上に広がる空のことみたいに僕にはいつまでもわからず、関係のないままなのだ。
「どうだった?」僕は振り返った。そこにはキャプテンがいた。
「あのさ」と彼は言った。
「少し向こうで話さないか」と彼は続けた。グラウンドの向こう側にある鉄棒の方を指さしながら。僕は頷いた。
「凄かったな、あいつ」と彼は言った。僕は頷いた。
「確かにあいつの技術は並外れているし、才能もある。もしかしたら全国で通用するレベルだ。でもコンディションは俺のみたてでは最悪だった。とびきりな」
「あのままなら彼女は負けていたはずなんだ」と彼は声を漏らした。僕はそんなのは自分のわかることではないというような顔をした。
「お前、あいつのことよく知ってるだろ」と彼は言った。
「最近になって少し変なんだよ、あいつ。確かに今日の試合には勝ったけどな。でもこのままああいう風にバスケを続けても、彼女にとってあんまり良いようにはならない気がする。俺が言えたことじゃないけどな」
「俺、あいつに話したいことがあるって言われたよ。今日、この試合の片づけが全部済んだら、あそこの裏山で」
「でも俺はそこに行く気にはなれない」
僕は空を見上げた。彼女は言うなればこの広く横たわった灰色の雲の上にいた。巨大な灰色の雲は、お前などが彼女の邪魔をしていいはずがない、と雲の遥か上にいる彼女に地上で這いつくばる僕の姿を見せること自体を拒んでいるように思えた。だって彼女がこんな僕を見たら間違いなくいつもみたいに手を差し伸べるに決まっている。どんなに僕との距離が遠くたって、いつもみたいに笑って明るく話しかけてくれるに決まっているから。
彼は僕に何を伝えたかったのだろう。彼もまた彼女と同じ空にいたはずだ。しかし彼はあろうことか僕にわけのわからない言葉を伝えた。きっと僕をからかおうとしていたに違いない。彼にとってはこの地上でのありとあらゆることがほんの余興に過ぎないのだろう。
僕は空を見るのはやめて眼下に広がる古い街とやぐらを見ようとした。やぐらにはあの女の人はいなかったけれど、そばにいけばきっと現れるのだろうと思った。僕はそう思いながらも、結局やぐらの方を見るのはやめてそのまま家の方へと足を進めた。僕は一人でいるべきなんだ。
その刹那、僕は違和感を覚えた。それは身体全体に感じる予兆だった。それはひんやりと僕を包み込み、僕の心を惑わせるようなぬくもりだった。
どうしてなのだろう。僕はもう金輪際見上げるつもりのなかった空をもう一度見上げることになった。あの巨大な雲は変わらずどっさりと空に横たわっていたけれど、さっきとは何から何まで違っていた。あの雲はもはや僕を遠い所から嘲笑ったり、突き放したりしてはいない気がした。雲は空高くから使者を送って、彼の言葉を僕に届けた。
お前はなにをしているんだ、と僕には聞こえた。
こんなところで何をやっているんだ、と。
この冬はじめての小さな雪は僕が本当にいるべき所を僕に伝えようとしているのだ。
舞い降りた雪はやむことなく降り続けた。僕を催促するみたいに止めどなく降り続けていた。雲は僕に早くしろと言っているように思った。だから僕は走った。生まれもった身体の弱さなど何の問題にもならなかった。高鳴る鼓動は僕に一切の疲れをも与えなかった。家々を過ぎ去り、横断歩道を飛び越え、校舎沿いの長い道を軽快な靴音を立てて進んだ。途中、何人もの同級生達とすれ違ったが彼らの目線はまったく気にはならなかった。
校門に着いた。グラウンドに降り続いている雪をみると僕はそこに飛び込むかのように大きく横切った。そして、あらゆる人という人を吐き出した体育館の裏に回った。舗装されていない土と木の階段を歩いた。降り続ける雪は相変わらず僕の顔や目に幾度となく付着したが、それらは僕に何の障害を与えることもなくすぐに溶けていった。その先にある景色を思い浮かべると、僕の脈は加速し続けた。このまま意識が朦朧として道半ば倒れてしまうかもしれない。しかしそんなことは許されないと言わんばかりに、雪は降り続けた。僕は階段を上り終えて、ようやく僕の行くべきところへとたどり着いた。そこは公園と言うには何もなさすぎるし、なにより狭かった。登山の休憩場のようなところだった。そこに一人の少女はいた。
雪は津々と降り続いていた。彼女は僕を見て、驚きの声を上げた。そして僕を心配そうな顔で見つめている彼女の目は幾ばくかの潤いを含んでいた。雪がそうさせたのかもしれない。あるいはもっと別の何かがそうさせたのかもしれない。わかることは一人の少女が雪の降り続ける中で、ただずっと来ない相手を待ち続けていたということだ。
「なんか大丈夫?凄い疲れてるみたいだけど」と彼女は取り繕うように言って、一緒に座ろうよと続けた。僕たちはベンチに座った。「凄い雪だね」と彼女は言った。「ねえ、雪って好き?」と彼女は訊ねた。僕はなんと答えていいかわかりかねていた。おそらく僕はそれに対して好きや嫌いという尺度で測るには、あまりにも複雑な感情を持ち過ぎていたのだろう。
「私は好きかな」と僕が答える前に彼女は呟いた。しかしどう見ても好きだと言う人の表情をしてはいなかった。
「昔一緒にさ、雪だるまを作ったよね」彼女は遠い昔の話をした。僕も覚えていた。あの日も今と同じように雪が降り続いていたのだろう。
「でも、結局他の子達に壊されちゃって、喧嘩しちゃったんだよね。ほんと馬鹿みたい。あれくらいのことで怒っちゃうなんて」と彼女は過去の自分を嘲笑うみたいに言った。彼女は白い息を吐きながら、手を口元にやって何度かすり合わせていた。僕は着ていたコートを脱いで彼女の膝にかけようとした。しかし結局彼女にそれを与えることはできなかった。それとほぼ同時に彼女はベンチから立ち上がったから。
「ねえ。キャプテンに来てって言われたんでしょ」僕は首を振って、立ち上がろうとした。
「座ってていいよ」と彼女は僕に先回りして言って「私の話を聞いて」と続けて、僕の方を向いた。
「私ね、ここにキャプテンを呼んだの」と彼女は打ち明けた。まるで自分が悪いことをしてしまったかのようにそう言った。
「でも、結局来なかったね」と彼女は面白おかしく笑って言った。
「来ないって知ってたんだ」僕は彼女との距離を縮めた。ただ一言、もう帰ろう、と伝えるために。ここはとても寒いから。
「付き合わせちゃってごめんね」と彼女は言った。そして僕の方を向いた。
「帰ろっか」と彼女は笑顔で必要以上に明るい声を出して笑いながら言った。
彼女を家の前まで送ると、そこに彼女の母親がいて、心配そうな顔で彼女を迎えた。彼女の母は僕に軽い会釈をした。別れ際、彼女は僕に「ありがとう」と言って、母と一緒に中へと入っていった。
「あんた、来ないだの話どないした?」
家に帰ると、母がいて僕にそう訊ねた。僕はこないだの話はなくなったと伝えた。
「なんやて?うじうじしなさんな。しゃきっとしいや、しゃきっと。男の子やろ」
母はそう言って僕を叱りつけた。これは母の口癖のようなものだった。
「あんたね、絶対誘わなきゃあかん。あんたはいつもあの子の世話になってるんだからな。この年になってまで一緒に通ってくれてる子なんておらんよ。私がいない間、晩御飯も作ってくれとったみたいやないか。うちの旅館はしばらく空いとるんやから。なあ?誘ってみいや」
僕は誘うつもりはないから、やめてほしいと伝えた。
「ああそうかい。あんたはそういうやつなんかい。うじうじうじうじしてんのは父親譲りやし仕方ないと思っとった。せめて心根だけは立派やと思ってたさかい。けど私が甘かったわ。あんたはもうだめや」僕は母の怒鳴り声を背に自分の部屋へと向かった。
「ちょっと待ちいや。私の話は終わっとらん」という母の声もドアを閉めると少しは小さく聞こえた。僕は椅子に座って、窓の外の景色を眺めた。雪はあたり一面に降り積もっていた。
母が仕事に出ていくと、僕は引き出しから一冊のノートを出した。中を開いてみる気にはならなかった。当然何かを綴る気にもなれなかった。雪はすっかり降り止んでいた。僕は鍵を閉めて、リュックサックを背負って外に出た。
僕は歩いてすぐのところから古い街をみた。古い街の家屋の屋根には雪がどっさりと積もっていたし、石の道も雪で覆われていた。僕はやぐらの方をみた。やぐらの一番上には冬に現れる小さな白い鳥が一羽だけ止まっていた。彼はずっと僕を見下ろしているように思えた。
僕は坂を滑り降りるように下って、古い街へと向かった。確かにそこは以前来たときとはずいぶん様変わりしていた。それも何もかも雪のせいだった。石の道は雪の道となり、僕の靴の中はそれを踏みつける感触とともに少しずつ濡れていった。ここはもうさっき降り出したのが嘘みたいに相当積もっていたのだ。
僕はやぐらへとたどり着いた。僕はいったいどうしてここにいるのだろうと思った。僕は何をやっているのだろう。僕は何を求めているのだろう。僕はここにきてしまっていた自分が嫌になって、来た道を引きかえそうとした。
「あまりにも無防備だな。少年」という声を背後に聞いた。それはあのやぐらの女の人だった。彼女もまた以前とは何から何まで違っていた。彼女は紺色の傘をさして、模様のない薄水色の浴衣を着ていた。彼女の長い黒髪は降り積もる雪の中で、孤立してそこに確かに存在していて、それは奇妙な輝きを持っていた。
彼女に連れられて古い街のとある一棟の家屋の中へと入った。我々は下駄に履き替えると、廊下を無言で歩いた。歩くたびに床の軋む音だけが聞こえてくる。当然中には僕たち以外には誰もいないだろうと思った。それどころかそこはもう何年も使われていないような感じだった。彼女は途中で足を止め、障子を開けて僕に中に入るように促した。
そこは何もないただの畳の部屋だった。机も無ければテレビも置かれていない。絵が掛かっているわけでもなければ、花瓶も置かれていない。クーラーや押入れもなかった。唯一、一台のストーヴが置かれていたのがせめてもの救いだった。しかしそこに一台だけストーヴが置かれているのはかえって不自然に感じられた。
「持ってきた?」と彼女は障子を閉めてから言った。僕は鞄からそれを出した。例によって彼女からこの不自然な部屋にまつわる一切の説明はなかった。
「よろしい」と彼女は言った。彼女はまるで稽古の師範のような調子でじっくりと、それを持つ僕を眺めてから、そっと受け取った。彼女は僕に適当な所に座るように促して、彼女も体育座りになり、野原でスケッチするみたいにそれを抱えた。
「ふむふむ」と彼女は呟いて、楽しげにパラパラと頁をめくりながら「随分ためこんでいたんだね」と言った。
「これからも続けてほしい」彼女は一通りそれの全体を確認し終えた後、そう言って「明日から毎日ここに来れるかい?」と訊ねた。僕は来れると伝えた。
「うん。それならもう私から言うことは何もない。パーフェクトだ。だから約束した通り、その褒美として私は君に何かを与えなければならないね」と彼女は僕の目をじっと見て言った。僕は何かを与えられることがかえってあまり良い感じがしなかったので、少し目をそらした。
「私は君の望みはなんでもこたえてやることができるんだ。それは本当だ。ただひとつを除いてね。君は私を求めることばかりはできない。でもそれ以外のことはなにもかもできる」と彼女は言った。
「例えばもし君が望むなら、今ここで私がこの浴衣を脱いで君に私の身体を隅々まで見せてやることができる。上から下まで全部君に見せてやることができるよ。しかしそれ以上のことはできない。私たちは裸で抱き合ったりして、情を交わすことはできない。それどころか意味もなく互いの手を重ね合ったりするようなこともよろしくない。心の内を語り合うのもだめだ。まあその点に関しては、君の場合、心配はないのだけれど」と彼女はルールブックを読むみたいに立て続けに話してから、お分かり頂けたかなと言った。僕は彼女の言うことがあまりにも現実離れしているように感じられて真に受ける気にはならなかったが、それに反対する意味もないので頷いた。
「ともかく是非そっちの方も考えておいてくれよ」と彼女は言って、今の今まで読んでいたそれを閉じて僕に返すと、また明日会おうと言って、障子を開けてどこかに消えていってしまった。そして彼女のいなくなったこの部屋には、一台のストーヴの放つ暖かさだけが残った。
翌日も同じ時間のやぐらの前に彼女はいた。彼女は昨日と同じように部屋へと案内すると、僕からそれを受け取った。今日の彼女は全体を読みのではなく、初めのページから一つ一つの文字をゆっくりと取り込むかのようにかなり集中して読んでいた。
僕はそれからも約束通り、一日足りとも欠かさずにそこに通い続けた。そこに通い続ける中で、あの厳しい寒さも、町に降り積もる雪も、僕にとっては当たり前で面白くない一つの事象となっていた。一方で、あの初めて雪が降った日の喪失感も、冬に幾度と舞い降りる雪が僕のこころの穴を埋めていくかのように、少しずつ忘れつつあった。
僕はそこに通い続けてしばらく経ったある日、彼女になぜこんなことをしているのかを訊ねた。それを読みことに何か彼女なりの意味があるのかと。
「意味というものはないさ」と彼女は言った。
「いいかい。君は書き続ける。そして私はその君が書き連ねた文字列を一文字ずつ読み取っていく。それらの操作に意味なんてものはない。慣れるまではいまいちわからないと思うけどね。わかりやすく言うなら、例えばこういう事だ。いま私たちを暖めているここのストーヴを見てくれよ。これは私たちがスイッチを入れたから、それこそいくらでも動き続けているけれど、それはおおよそ考えうる限りにおいて彼からすればまったく意味がないことだろう?彼からすれば目的もなくただ動いているに過ぎないでしょう?私たちがやっているのはそれと同じなんだよ。君がそこにどう意味を付与するかは、それこそ君の自由だけれどさ」と彼女は長々と説明した。それは僕の聞きたかった話とは大分趣旨がずれているような気がしたが、気にしないことにした。確かにこれらはおそらく彼女には意味がないことなのだろう。あるいは本当のことを僕に隠したいだけなのかもしれない。それこそ僕の知る限りではない。
「それはそうと。私にして欲しいことは決めたのかい」と彼女は言った。
「私はいつでもいいんだよ」彼女は足をゆっくりと前に伸ばしながら、浴衣の紺色の帯に手を当てた。僕は慌てて彼女の方から目をそらした。
「君はさ。女の人の身体を今までこうなんというかさ、まじまじと隅々まで見たことはないのだろう?」と彼女は言って帯をほどこうとした。僕は何も答えずにその場から立ち去ろうとした。
「冗談だよ冗談。そんな顔をしないでくれ。しかしあれだな。君は年頃の男の子に比べると随分変わっているようだな。まったく面白い」と彼女は子供の機嫌を直そうとするみたいに言って、僕の顔をのぞきこんだ。僕は周辺に漂うほのかな香りから彼女との距離感に半ば動揺して、おおよそ彼女に気づかれない範囲で後ずさりした。彼女は言動こそ変わっていたけれど、一目見てわかるくらいには一人の美しい女性だった。しかし美しいかどうかは僕にとってどうでもよかった。むしろその美しさはかえって僕には恐ろしく、耐え難いものであった。少なくとも僕には必要のないものだ。
「ともかく君は遠慮しないでさ、なんでもいいから君の望むことを私に言ってくれよ」と彼女は言った。
家の鍵を閉めると、今日もまた古い街へと向かうべく歩き出した。積りに積もった雪は、より一層この町に静寂を与えているような気がした。そして、昼にもかかわらず辺りは暗かった。どんよりとした大きな灰色の雲が空全体を覆っていたからだ。歩いて間もなくすると黒いレインコートを着た大人の女性を見かけた。それはどこかで見たことのある女性に思われたが、ついに誰なのかを思い出すことはかなわなかった。彼女は携帯電話を耳に当てて常人ならぬ荒らげた声をあげていた。まるで電話越しの相手を罵倒するような口ぶりだった。その姿は僕にはひどく恐ろしく感じられた。だから僕は何かしらの酷いことに巻き込まれないように、彼女に気づかれないようにそっと彼女の前を通りすぎて、坂を下りて古い街の方へと歩いて行った。
「ここ最近、あまりはかどっていないようだね。いったいどうしたというんだい?」と彼女は読んでいたそれを閉じてからから言った。僕はとぼけたような顔をした。
「別に言わなくても大丈夫だ。むしろ私たちはそういう関係のもとで成り立っているからね。しかし同時にこうも思うんだ。君は未だにあるはずのない何かを探しているんじゃないかと。つまり君のこころは収まるべきところへと収まっておらず、ひどく不安定で、不確かなままだとね」と彼女は言った。確かに今の僕は自分から見てもどこか不安定で、不確かな存在だった。僕の書いてきたそれをこの古い街で彼女に読んでもらうという生活は、今の僕にとって欠かせないものとなっていたはずだった。しかしそれすらも徐々に不可能になり始めているのだ。だとしたら僕は探さないといけないだろう。本当に僕が何もできなくなる前に、文字をうまく綴ることができなくなってしまった原因を探す必要があると思った。
「いいかい。私はどう頑張っても君のこころの内までは読むことはできないし、そこに直接何かを働きかけるようなことはできない。君のこころはどうしてやることもできないんだ。いくら私がそれを一文字ずつ読んでいったとしてもだ。私がそれを読むことと、君に何かを及ぼすことはまったく別なんだ。そもそも私はそれを理解したり、君を何とかしようとするために読んでいるわけではないしね。もちろん君の望みは、形式的にかなえてやることができるのだけどね」と彼女は言った。「それでも、今の君にはそこに文字を刻むことができなくなってしまった、ということだけはわかる」僕はまったくだという風に頷いて、今日はこれで帰ることを伝えた。
「うん。私もそれが良いと思う。しかしそれはここに置いていった方がいいと思うよ」と彼女はそれを指さして言った。
「今の君を見ていると少し不安なんだよ。確かに私がこんなことを言うのもひどくおかしいと思われるかもしれない。でもこればっかしは私の言うとおりにした方が良いと思うんだ。まるっきり根拠はないがそんな気がする。確かに私は君に特別な何かをしてやることはできないけれど、道を示すことはできる」と彼女は言った。僕は彼女の言うとおりにしてもいいと思った。それに今の僕がそれを持っていたとしてもおそらく意味がないだろう。今の僕には文字を書くことが出来ないのだ。
僕は古い街を出て坂を上った。相変わらず空にはどっさりと灰色の雲が漂っていて、辺りは暗いままだった。そして坂を上り終えると、未だにあのレインコートを着た女性がそこにいた。彼女はさっきみたいに気が狂ったような声をあげてはいなかった。何かをやっているわけでもなかった。彼女はずっとそこに立っていたのだ。誰かを待っているかのように、来ない者を待ち続けるかのように、ずっと立っていたのだった。彼女は古い街の方をみていた。彼女は泣いていた。僕はその泣き顔をはっきりと見ていた。そのとき、僕の頭の中に鋭い痛みのようなものが走った。しかしそれは今までのありとあらゆる痛みとは性質が異なっていた。あるいは、その痛みのようなものはこの女性が泣いていることと何か特別な関係がある気がした。彼女のそれが確かに僕のなにかを呼び起こしたのだという確信があった。僕は家に戻るのをやめて、来た道をそのまま引き返した。僕自身は、間違いなく何かを求めていた。僕は坂を下りて、さっきいた古い街の家屋の一室に戻った。そこには浴衣の女の人はいなかった。手前には相変わらず一台のストーヴが置かれていた。そして、一冊のノートがあった。僕の書いてきたであろう本が置いてあった。僕はそれを手に取って中を開いた。すると僕の頭の痛みのようなものはみるみるうちに増大していった。最終的にはそれは痛みという形容を超越して、同時に及ぼす範囲を大きく拡げて、もやもやと熱せられた木綿が体中をうごめいていく感覚が僕の全身まで伝わっていったのだった。それは僕の記憶そのものだった。どのくらい時間が経ったのかわからないが、僕はそれを全て読み終えて、家屋を出た。そこにちょうど浴衣を着た女の人がいた。
「もうなにかもわかったのだろう」と彼女は僕の方を振り向かずに言った。僕は彼女を追いぬいて振り返って、頷いた。彼女は僕に目を合わせないようにしながら、話し続けた。
「わかってしまったものはしょうがないさ。でも、きっと後悔することになるよ。ここにいた方がはるかにましだったと思うことになるよ?いま君が行こうとしているところはね、こことは何から何まで違うんだ。自分から何かを求めずとも、そこにある何かをいつも得ることが出来るこことは全く違うのさ。事実、ここでは私は君になんでもしてやれるし、少なくともここにいる限りにおいて君がなにかを失うということはありえない。でも、あそこは違う。本当の意味で正反対だ。君はそこにいけば、あるはずのない何かを永遠に求め続けなければならない。それはつまり裏を返せば喪失を絶え間なく感じ続けるという事だよ。君のこころは無限に損なわれ続けるんだよ?」
僕はじっと彼女の目を見た。相変わらず透き通った綺麗な目をしてると思った。けれど僕には彼女のこころがわからなかった。そして僕のこころは変わらなかった。
「決めたんだね」僕は頷いた。
「決めたなら、私はもう止めないよ。でも私との約束は忘れないでほしい」と彼女は言った。
「私は君に君が望むことをしてやれるということを。それだけはどうか忘れないでくれ」
僕は彼女に微笑んで、軽く手を振って別れた。僕はもう二度と彼女と会うことがないのだろうと思うと、大分寂しくなった。僕のこころは幾ばくか彼女を求めていたのだとわかった。
坂を上ると、あのレインコートを着た女性はもうそこにはいなかった。今でも彼女は、ストーヴのない場所で一人苦しみ続けているに違いない。あの電話越しの相手への叱咤も嗚咽も全ては愛する娘を失った一人の母親の旋律のようなものだった。彼女にはもうどうすることもできないのだろう。だから彼女は声を出すしかなかったのだ。でも、そのおかげで僕は失っていたこころや記憶を取り戻すことが出来た。これで僕は本当に大切なものを探すことが出来るのだ。キャプテンが行方不明になって三十時間あまりが経過していた。そして、あの子が彼のあとを追う様にして姿を消したのはそれからまもなくのことだった。僕には彼らの居場所にまつわる一切の手がかりは持ち合わせてはいなかった。それでも僕は彼らを探すことが出来るのだ。そこにない何かを求めることが今の僕にはできるのだ。たとえその先に、苦しみや絶望が待っていたとしても僕にはそれができるのだと思った。
あの灰色の大きな雲は、依然として僕の遥か上に漂っていたけれど、わずかな雲の切れ目からはほのかな光が射していた。それは僕に最後の暖かさを与えてくれた。僕はその先の景色をみた。切れ目から漏れ出た光は遠方に連なる透き通った薄水色の山々の姿をもそっと浮かび上がらせていた。