その1
「待たせてごめんね」と彼女は言うと、校門の前で別れた仲間達の方を振り返っては何度か手を振った。
つい先日までこの校舎沿いの歩道を覆い尽くしていた落ち葉たちは、もうほとんど何の痕跡も残すことなく消えていた。今ではすっかり露出した薄黒いアスファルトがそこにはあって、その上を踏みつける無数の黒い靴達による無機質な音が聞こえてくるだけだった。
一つの季節の終わりだった。
「なんだかどんどん寒くなってきたね」と彼女は言った。僕はその通りだという風に頷いた。
「今日はそのまま帰ろうか?」
僕は少しだけ曖昧な顔をしてみせた。彼女はそんな僕をみて一瞬だけ困ったような顔をした。
「そういえばさ。授業、大丈夫だった?」彼女は話題を変えてそう尋ねた。僕は大丈夫だったと伝えた。
「休んじゃってもわかるんだね。わたしなんて授業全然わからないのになあ。たぶん寝てるからかなあ」彼女はそう言ってあたかも自分はまぬけだという風な調子で笑った。
信号にさしかかると、彼女は赤になっちゃった、と今日はあまりついていないというような調子で呟いた。
僕は彼女を見る。この時期になって彼女が身に付けるようになった白いカーディガンは、彼女の魅力を自然に引き出していた。その彼女の小柄な体型は、与えられた純白の衣装を必要以上に派手に飾りつけることなしに、それでいて可愛らしく身に付けることを許していた。それは新たな季節に備えて生え変わる小動物の体毛のようであった。
彼女自身も間違いなくここ数年で着実に変わっていった。土にまみれながら仲間達と戯れていた頃の面影はほとんど見てとれない。
彼女は空を見上げているようだった。僕も彼女に合わせるように目を細めながら空に視線を送る。
空は一面、白い雲で覆われていて、その手前をカラスが鳴きながら飛んでいた。その鳴き声の大きさからして、彼は僕らからそう遠くない所までやってきているのだと思った。
しかしそれから一瞬の隙に、彼は突如何かを思い出したかのように勢いよく飛翔し、やがてはゆるやかに旋回して、僕が到底予想できないような彼だけの軌道を描いて、どこか遠くの空へと飛んでいった。
するとそれに呼応するかのように、強い風が吹いてきた。風に吹かれた彼女のしなやかな一本の後ろ髪は、高原のすすきのようにサラサラと靡いていた。それでも彼女はずっと空を見ていた。僕は彼女の肩をほんの軽く叩いてみた。
「びっくりした」と彼女は少しだけ身体を引きながら言って、僕の方を向いた。
驚かせるつもりはなかった。
僕は彼女に笑ってみせた。
彼女も笑っていた。
「どうしたの?最近、変だよ?」と彼女は僕に言った。確かに僕は変なのかもしれない。
「行こ?」彼女にそう言われて、すでに信号が青に変わっていたことに気がついた。
閑散とした住宅の隙間に特別設けられたかのような狭い小道を歩く。それが僕たちの帰り道だった。
「おーい」
彼女は距離を離して、後ろにいる僕に手を振りながらそう大きな声で言うと、小走りで近づいてきて僕の肩をバシッと叩いた。そして、えへへと笑った。僕は肩を叩かれてほんの少しだけびっくりした。
「ここでクイズです。今、私がなにを考えているか当ててみて?」と唐突に彼女は言った。僕はしばらく考える素振りをしてから、彼女の考えていると僕が思うことを伝えることにした。
「次からは授業中寝ないように頑張りたいって?」
僕は首を振った。
「じゃあ。早く冬休みがきて欲しい?」
僕はほんの軽く頷く。
「え?お腹すいちゃったから早くおやつを食べたいって?」
僕は頷いた。
「ひどい。私そんな食いしん坊じゃないのに」
彼女は少しだけ怒ったような声を上げたけれど、顔は怒る気などさらさらないように笑っていて、僕はなんとなく嬉しい気持ちになった。
「でも正解。お腹すいちゃった」と彼女は言って小さなため息をついた。
僕は僕たちの帰り道とは違う左に反れる下り坂を指差した。
「どうしたの?」と彼女は不思議そうな顔で僕を見て言った。「そっちに行くの?」彼女が確認をとると僕は小さく頷いた。
「本当は寄り道したいんだ。そうでしょ?」
僕は頷いた。こうして僕たちは坂を下りた。
眼下に広がる<古い街>をぼんやりと眺めながら長い坂道を下り終えると、大小さまざまな石から成る直線的な道を歩いた。でこぼことした石の感触が靴から足へと伝わってくる。少し歩きづらいけれど悪い気はしない。すでにそこは古い街の中であり、道の両脇には木造の家屋がずっと続いていた。彼女はここらを訪れるのは久しぶりだと言った。この古い街だけはその道が碁盤の目のように規則正しく張り巡らされていて、迷うことなくここら一帯の中心部ともいえる場所にたどり着いた。
僕は立ち止まると、彼女もそこで歩みを止めた。僕たちの頭上にはちょうど物見やぐらがあった。
「うわあ。すごく高いね」と彼女はやぐらを見上げながら感嘆の声を漏らした。
その通り、これはとても高いんだよと僕は伝えた。街全体を見渡せる高いやぐらだ。
「あれ?えっとここってもしかして?」と彼女はやぐらの隣にある小さな家屋を見て何かに気づいたような声で言うと、僕は頷いた。そんな彼女の言葉を待ち望んでいたかのように。
「あっ。でもちょっと待ってね。お財布、持ってるかな」と彼女は言って焦ってカバンから財布を探そうとした。僕は財布を持っていなくても大丈夫だよと伝えた。
しかし彼女はカバンの中を探し続けた。
「あった。よかった」と彼女は安心したような調子で言った。
「どうしたの?」と彼女は僕の顔をのぞきこんで少し不安そうな顔で言った。僕はどんな顔をしていたのだろうか。
「ほら、入ろう?」と彼女はすぐに明るい調子に戻ってそう言った。
僕も笑顔で頷いた。
「ごめんください」
彼女はそう言って、引き戸をそっと開けた。僕は彼女につづいて中へ入ると戸をゆっくりと閉めた。
「いらっしゃい」と中から声が聞こえてきたが声の主はここからは見えなかった。
「懐かしいなあ。何年ぶりだろう。かなり久しぶりかも」彼女は少しばかり興奮して、辺りを見渡していた。僕も久しぶりにここへ来たと伝えた。ひょっとしたら夏休み以来かもしれない。
「いつも何を買っているの?」僕は彼女にそう尋ねられると煙草の形をしたお菓子の箱を指差して手にとった。
「へえ。なんだかすごい好きそう」と彼女は僕を見てからかうように言った。しかし僕は最近ではこれをほとんど買わなくなっていた。この前ここに来たときはラムネを買ったときだろうけれど、それはもうここには置いていないのだろう。
「私はね。これが好きなんだ」と彼女は五円玉の形をしたチョコを手にとって笑いながら言った。
「これ本当に五円で買えるんだよ?面白いよね」
僕は確かに面白いと伝えた。
「他にも色々買いたいなあ」と彼女は呟いて、財布の中の硬貨を数えた後、「でもお金があんまりないかな」と残念そうに言った。
僕はポケットの中を探って、乾きかけている雑巾から水を捻り出すような勢いで硬貨を出して、彼女の手のひらに置いた。
しかし彼女は決してそれを受け取ろうとしなかった。
「違うの。そういうことじゃないの」と彼女は言った。少しだけ怒っているようにもみえた。
「ごめんね。買うくらいのお金はあるんだ。変なこと言ってごめん」と彼女は申し訳なさそうに言った。
外に出るとやはりあの物見やぐらは空を突く勢いで高く聳え立っていた。その遥か上には白い鳥が飛んでいた。それは毎年この時期になると現れ始める鳥だった。新たな季節の始まりを告げる鳥だ。
僕たちはさっき下ってきた坂道をそのまま上っていた。
「つい色々買っちゃったよね」と彼女は言ってまたえへへと笑った。僕は彼女の気持ちがとてもわかるというような顔で何度も頷いた。
「なんだか空が暗くなってきたね」
と彼女はいつになく神妙そうな声で言った。空に広がる雲は所々鼠色になっていた。
「降ってきそうだね」と彼女は小さくつぶやき、僕は彼女の声に合わせるように手のひらを上に向けてみた。
もしかしたら、降るかもしれない。
僕もそう思った。
この高さからなら、やぐらの天辺まで見ることができるかもしれない。僕はなんとなくそう思って、上ってきた坂道を振り返った。
「どうしたの?」と彼女は言って不思議そうな顔で僕の方を振り返ったが、すぐに前を歩いていった。僕も彼女に続いた。
やぐらの天辺には人がいた。それは僕たちより一回りも歳上の女の人だった。それは昔、古い街のやぐらの近くで会ったことのある女の人かもしれないと思った。
「見て見て。あの上に人がいるよ」彼女もそれに気がつくと、興奮した調子で僕に伝えた。僕はそうだねと彼女に伝えて、あえてあまり興味なさげな顔をしてみせた。
「綺麗な人」
しかし彼女はそんな僕とは正反対の顔でじっと女の人を見つめてからそう呟いた。彼女にとっては、その女の人は綺麗に見えたらしい。
確かに彼女の言うように、その女の人は綺麗だった。
顔付きまではよく見えないけれど、黒く伸びた髪は、(体育座りをしている)彼女の膝のあたりまで達していた。彼女は厚い黒地のセーターを着て、下はジーンズをはいていた。そして辺り一面を展望できるはずの場所にいながら、周りの世界には一切目もくれず自分の足元をずっと見ているようだった。それは何かが来るのを退屈そうに待っているようにも見えた。
「ねえ。少し戻ってみない?」彼女はそう僕に提案した。あまり気が進まなかったが、彼女はとても楽しそうにやぐらの女の人を見ていたものだから僕もついていくことにした。
僕たちは坂を下りて物見やぐらの下に来ていた。僕はそのやぐらをもう一度見てみて奇妙なことがわかった。そのやぐらには梯子のようなものは何もついていなかった。すなわち上に上れる術が一切なかった。
一方彼女はそんなことは気にもせず、真上を見上げてそこにいるであろう相手に向かって大きな声で話しかけた。
「あのー!やぐらの上にいる方ー!そこにいますよね!」しかし上からの返事はなかった。
「確かにここにいたよね」彼女は僕に確認をとるようにひそひそと言った。僕はいたと伝えた。
「私、もう一回さっきの上まで見えるところまで戻って、女の人がいるかみてくる」彼女は覚悟を決めたような調子でそう言った。僕もついていこうとしたが、彼女はついてこないでと言った。
「あんまり歩くと疲れちゃってよくないよ。ここで待ってて?すぐ戻ってくるから」彼女はそう言って坂の方へと走っていった。
「本当にいなかったの。いなかったんだよ」彼女は戻ってくるなり信じて欲しいというような調子でそう言った。そして僕は彼女に引っ張られるように坂道を上った。
坂の上にきてみてやぐらの上をみると、確かに女の人の姿はなかった。
「ほらいないでしょ?」彼女は胸を張ってそう言った。そしてどこに行っちゃったのだろうと言った。
「あれ?もうこんな時間。大変大変。怒られちゃうよ」彼女はあわててそう言うと、やぐらの女の人について考えるのをやめて少しばかり足を早めた。
「部活のない日は早く帰ってこいだって。嫌になるよね」彼女はそう言って、あくびをするように、可愛らしい声でゆっくりと息を吐いた。彼女の家のあたりまで着くと僕らはお互いに軽く手を振って別れた。
鐘が鳴ると、みなそれぞれが行きたいところへと向かっていた。ある者は親しい友人の元まで椅子を持ってきて弁当を一緒に食べようとしていたし、ある者は友人達を引き連れて学食へと向かった。まだ黒板の文字をノートに写しているものもいれば、隅の方でこそこそとゲームをしているものもいた。ボールを持ってグラウンドに出ようとしている男子生徒たちや僕には到底わからないような言葉を並べて噂話をしている女子生徒達もいた。
「おいキャプテン。この問題教えてくれ」と、ある男子生徒は言った。
「自分で考えろ」とキャプテンと呼ばれている男はからかうように言った。
「頼むよ。次当たるんだよ」と男は頼み込んだ。
「大丈夫。答えられないくらいどうってことないさ」とキャプテンは笑って男の肩を何度か叩いた。
「でもよ。やっぱりみんなに馬鹿って思われたくないじゃんか」と男は言うと「それはもう周知の事実ってやつさ」とキャプテンは爽やかな口ぶりで言ってはまた何度か男の肩を叩いた。
結局キャプテンは男に問題を教えているようだった。彼の教えている間、何度か彼の仲間達がきては彼にグラウンドで遊ばないかと誘った。すぐ終わるからここで待っててくれとキャプテンは言うと仲間達は仕方なくわかったと言った。
「ええとだね。君はまず基礎がなっとらん、おほん。だから基礎からやり直したほうがいいな、おほん」とキャプテンは言うと周りはどっと笑った。
「おめえ。こんなのもわからないのかよ」と仲間達の内の一人は言って、男がいかに深刻な状態であるかということをクラス中に言いふらすように騒いだ。
「早く行こうぜ」別の一人はすっかり暇を持て余して、キャプテンの服を引っ張ってそう言った。
「まずはこの問題をやっておくといいさ」とキャプテンは言うと「サンキュー」と男は言った。そしてキャプテンはその仲間達と共にグラウンドの方へと消えていった。
放課後に時々キャプテンは僕に話しかけることがあった。「おっす」と彼は言った。僕は手を振った。
「最近大丈夫か?風邪でも引いたか?」と彼は訊ねた。風邪を引いたわけではないが、僕は頷いた。
「最近寒いからな。嫌になるぜ、だから嫌なんだよ冬は。お前も嫌いだろ、冬」と彼は盛り上げるように言った。僕も冬が嫌いだと伝えた。
「なんかこれじゃあ言わせてるみたいだな。ははは」とキャプテンは頭を軽く押さえながら参ったというような調子で言った。
「キャプテン。あんまりいじめるなよ」気がつけば彼の仲間達はそこにいて、そう言って彼をからかった。
「いじめてないわ」キャプテンも笑いながら仲間達にそう言い返した。
「早く帰ろうぜ」と仲間達は僕の事を鬱陶しそうに見つめながら彼にそう言った。
「また明日な」彼は僕にそう言って、仲間達と一緒に校門の方へと向かっていった。彼は仲間達と和気あいあいと話すなか、一回だけ後ろを向いて僕に軽く手を振った。僕も手を振り返した。
「これから体育館でバスケの試合をやるんだ。お前も観にこいよ」翌日の放課後、キャプテンはそう僕に言った。僕は観るつもりはないと伝えた。
「絶対退屈はさせないから。今日はすこぶる調子いいんだ」とキャプテンは続けた。キャプテンの今日の調子が一体なんだというのだと僕は思った。
結局、その試合は彼のチームが勝利した。それも苦闘の末での勝利という彼の言ったように退屈させない試合だった。そしてその勝利に大きく貢献したのは、キャプテンの幾度もの起死回生ファインプレーであることは僕の目からみてもほぼ明らかで、試合そのものが彼のために用意された一つの舞台であるといっても言い過ぎではなかった。実際試合観戦には彼目当てで来ているもの(そのなかにはもちろん彼の友達も多かった)も数多くいた。試合は彼の満足する結果に終わったのだった。
一方僕はといえば、熱狂的な観戦者達の歓声の渦に呑まれていた。彼らは我が校のチームへと絶え間ない声援を送っていた。彼らの熱意は本物だった。そうなると声援一つ送ってやれない僕がここにいるということ自体がひどく場違いであったし、ここにいるありとあらゆる人達に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。僕は試合が終わると、勝利を讃えるみんなを横目に、試合後の余韻を残している体育館をそっと後にした。
翌日の昼休み「ちゃんと観てくれてたな」とキャプテンは僕に言って、僕の頭を軽く叩いた。どうして僕がいるのだとわかったのだと伝えようとするより前に、彼は「でもよ。もう少しで全部終わったんだから最後まで待っててくれたら良かったのに」と言った。
「あいつもお前のこと探してたんだぞ」と彼は続けた。あいつとはあの子のことだ。彼女も彼と同じ部活でバスケットボールをやっていた。
彼女はいつの日か(それは夏休みが終わり、新学期が始まってから間もない、とある日のことだ)僕にキャプテンの話をした。キャプテンは我が校のバスケットボール部のメンバーなら誰しもが目標としうるプレイヤーであった。それは彼女とて例外ではなかった。「私もああなりたい」と彼女はほぼ無意識に言っていたのを僕は聞いた。
僕は放課後に(部活動への移動準備のためか)彼女とキャプテンが並んで歩いているのを見かけたこともあった。彼は前をみて楽しげに彼女と話しては笑っていた。一方彼女は、会話そのものに夢中というよりは、彼の目をじっと見つめていた。その彼女の目線はとても凛々しく綺麗なものであった。まるで特別な何かをみるような目だった。しかし彼はそんな彼女の視線には気づいてはいなかった。もしくは気づいていないというような毅然な態度をとっていたのだろうか。だからといって彼の態度は決して、傲慢であったり相手を突き放すようなものではなかった。むしろ真逆だ。彼は分け隔てなく、誰とでもすすんで親しくなることができた。彼は僕に対しても例外なく接した。だからこそ僕は彼の事が嫌いになれないのかもしれない。
僕は夜になると、家の鍵を閉めて外へ出た。僕の足は今自分のいるところよりもうんと高い所へと向かうべく歩き出していた。曲がりくねった夜の坂道をずっと上っていくのだ。
夜は僕が思っていた以上にずっと寒くなっていた。そしてその寒さのせいか誰も外を出歩いてはいない。人の存在を感じることのできるものといえば数分おきに下ってくる自動車くらいだった。
上に進んでいくにつれて、辺りを覆い尽くしていた長い樹木はまばらになり、少しずつ視界がひらけた。すると僕は闇の中に点在するいくつかの明かりを見ることができた。点在する明かりはそれぞれ違う色を持っていた。赤い色もあったし、白い色もあった。黄色のものもあれば、緑色のものもある。それぞれを足し合わせたような色を持っているものもあった。共通しているのはそれらはどれも僕のいる所からはかなり遠いところにあるということだった。遠方の集落が放つ灯りなのだろう。長い坂が終わって道がなだらかになると再び樹木達は僕を囲った。樹木達が与える冷んやりとした心地いい空気は、僕をこの闇と無音の世界へと誘っていた。僕はその中をただやみくもに歩き続けた。
橋に差し掛かると樹木達は完全になくなり、そのかわりに冷たく強い風がしきりに吹いてきた。吹き付ける強い風は、僕の上着を物理的に激しく震わせた。高い音を上げながら幾度と吹き付けるその風は、僕自身には厳しい寒さを与え、僕の身体は自然に震えた。それでも僕は風に逆らうかのように、ゆっくりと着実に歩き続けて、橋の真ん中へとたどり着いた。そこはとりわけ眺めのよい場所だった。明るい時間ならこの街を囲む山と、街全体、この街を流れる川を見ることができるはずだ。僕は下方に密集する家屋を眺めた。そこは<古い街>だった。つい先日彼女と訪れた所だ。そこにはやぐらがあるはずだ。僕はやぐらがどこにあるのかを探そうとした。しかし暗くてそれを見ることはできなかった。僕はあのときやぐらの天辺にいたあの不可思議な女の人のことを思い出していた。
「節穴くん」
女の人はそう言って僕を見上げながらふふふと笑う。それはあのときのことだ。あの子がやぐらの上を見るべく一人で坂の上へと戻っていったとき。その時、すでに女の人はやぐらの下に降りており、やぐらのそばの路地裏の地べたに座り込んでいた。僕は目を細めた。そして彼女がやはり以前会ったことのある女の人であったと確信した。
「わたし、いまお腹へってるんだけれど。なにかある?」と彼女は僕を見るなり驚きもせず、むしろ僕がここにいるのは当然だというような顔をして、手を出しながら言った。僕は袋からココア味の煙草の形をしたお菓子を取り出した。
「それだけ?」と彼女は目を丸くして言った。僕は再び袋の中に手をやってお菓子を探そうとした。
「冗談だよ。それを一緒に食べよう」と彼女は僕を止めて言った。なぜ僕が買ったものを一緒に食べなければならないのかわからなかったけれど、断る気にもならなかった。
「お連れの節穴ちゃんはまだ戻らないのかい?」あの子のことだろう。僕は彼女はもうすぐ戻ってくるだろうと伝えた。
「まあどっちでもいい。いざとなればすぐに消えてやるさ」と彼女は言うと、煙草形のお菓子の箱を開けて、中からまず一本取ってそれを僕に渡した。そしてもう一本を取り出してそれを自分でくわえた。僕は彼女の横に座ってその受け取った棒をくわえた。
「君たちはなんでここにきたんだ」と彼女は尋ねた。僕たちはあなたに会いにここにやって来たのだと伝えた。もっとも僕は本意ではなかったけれど。
「もしかしてやぐらに上りにきたのかな。でもそれはできないよ」彼女はそう笑って言った。「上るにはちょっとしたこつがいるんだよ」
僕には彼女の言っている意味が理解できなかった。
「納得いっていないような顔だね。ごめんごめん」
まったくだと思う。
「君にはまだ早いってことよ」と彼女は言って、僕の肩を叩いた。やはり彼女の言いたいことは全然わからなかった。
「ところでさ。君はあれから、やっているのかい?」と彼女は言った。彼女はやはりあの日僕に投げかけた言葉を覚えていたのだと思った。それはずっと昔のことだった。この女の人と初めて会ったときのこと。空が青く澄みわたり、ジリジリとセミの音が鳴き、陽光が僕の身体を照らし続けていたあの頃。あの日僕は手にラムネを持っていたし、彼女は今とまったく同じ場所で今とまったく同じように地べたに座っていた。僕はあの日の彼女の言葉を忘れなかった。はじめは馬鹿馬鹿しいと思っていた。なにも意味がないものだと思っていた。けれど一つの季節が終わってしばらく経ったころ。僕が学校を休み始めるようになったころ。自分には本当に何もできなくなりそうだと思い始めたころ、僕はそれを少しずつ始めた。それはやってみるまではひどく退屈で簡単なことのように思っていた。くだらないことだと思っていた。なのに一度やり始めると止まらなくなった。いつしかそれは僕には欠かせないものとなった。
「やっているようだね。いまはあるかい?」と彼女は途端に僕に強く興味を示すように、くいついて、そう誉めるように言った。僕はないと伝えた。あれは部屋の机の引き出しの中にずっと入っている。そしてそれはずっとあの引き出しの中にあるべきものだ。
「書くだけじゃないんだ、これからはさ。それを決まったときに私に見せにきて欲しいんだ。悪いようにはしないよ。もし君が言うことを聞いてくれたなら、そうだな。君の望むことはなんでもすると約束しよう」
僕は彼女の言葉を聞いていない風を装った。
「考えておいてほしい。私は君が望むときにはいつもそこにいるからさ。もちろん節穴ちゃんの前には現れないけれど」と彼女は言うと、すかさず立ち上がり、ジーンズについた埃のようなものを手で払って、僕にお菓子を返して、どこかに消えていってしまった。
それがあの奇妙な女の人との二度目の出会いだった。あれ以来、僕は彼女の姿を見ていない。彼女が今度僕の前に姿を現すのが一体いつなのかは僕にはわかりようもなかった。僕は女の人について考えるのをやめて、橋を引き返して帰路へとついた。
坂を下って家からすぐのところで偶然にも彼女に出会った。彼女はまるで僕を待っていたかのように「いったいどこに行っていたの?」と心配そうな顔で言った。少し怒っているようにもみえた。
「手が凄く冷たいじゃない」と彼女は僕の手を何度か触れてはそう言った。彼女の手はとても温かく感じられた。
「今日はとても寒いんだから、ちゃんと家にいないとだめだよ」と彼女は続けて、黒い毛皮のコートを脱いで僕の身体にかぶせた。コートを脱ぐと彼女の着ている白く可愛らしいセーターがあらわになった。僕はそれでは君が寒くなるだろうと伝えたが、彼女は止めなかった。仕方がないのでそれを無理やり脱ごうとすると「あのね。風邪引いたら大変なんだよ。あなたのお母さんからね、頼まれてるんだから。ちゃんとあなたが無事に過ごせるか見届けてほしいって」と彼女は説教をするような調子で言った。
僕は家の鍵を開けて彼女を家に入れた。「お邪魔します」と彼女はひっそりと言った。僕はコートを脱いで持ち主の身体にかぶせた。
「大丈夫よ。ここは家のなかじゃない。私は寒くないよ」と彼女はからかうように言った。確かにここは家のなかだ。ここは寒くないのかもしれない。結局彼女は再びそれを僕の身体に被せて「温まるまでは脱いじゃだめ」とおもしろおかしくいった。
「そういえばさ。もう夜ご飯って食べたのかな」彼女は何かを思い出したかのようにそう言った。僕は食べたと伝えた。
「そっか。そうだよね」と彼女は残念そうな調子で言った。僕は本当は食べていなかったのだと打ち明けると彼女の顔がまた明るくなって「ほんとう? 良かった。ちょうど余っちゃったんだ」と言った。
僕は彼女と一緒に家を出ると、彼女の家の前まで向かって、そこで彼女から弁当を受け取った。
「少しさめてるんだけど」と彼女は言うと僕はそんなの問題にならないと伝えた。彼女はごめんと言った。僕はありがとうと伝えた。
弁当箱を受け取るとき、僕の手は偶然彼女の手に触れた。
彼女の手はすっかり冷たくなっていた。
いや、そうではない。
本当ははじめから温かくなんかなかったのかもしれないと僕は思った。この日、実は彼女が他校との大事な試合を控えていたのだと知ったのはまもなくのことだった。




