恨むものかと彼は思った
ああ、雪が降ってるなあ。
目の前にちらつく雪片を眺めて門上御影はそう思った。
――御影の現状を思えばもっと他に思うことがあると言う人もいるかもしれない。
それでも、それを思わないのが御影の最後の矜持だった。
だから。
例え、この冷たいアスファルトの上でこのまま死ぬんだとしても。
恨んでなんか――やらない。
* * *
御影石の門の上に捨てられていたから。
それが門上御影という名前の由来だった。
すがすがしいほど単純な理由。
いかにも捨て子らしい事務的な名付け。
それでも、御影はこの名が嫌いではなかった。
御影は色弱である。
正確には赤緑色弱。
赤と緑の区別のつきづらいというただそれだけの――障害。
運転免許が取れないタイプの人間。
御影の暮らす地方都市では割と致命的な欠点。
だから――高校に入った御影は東京に出ようと思ったのだ。
途中までは上手く行っていた――のだと思う。
御影は成績が良かったし、バイトも沢山していた。
高卒とは言え上手いこと東京の中堅企業(寮付き)に潜り込めたのはまあ、よくやったのではないだろうか。
転機があったとするなら――入社前の健康診断。
広範性発達障害。
それが御影に下されたもう一つの障害だった。
内定は消えた。
職と住まいを失った。
今まで住んでいた施設には高卒までしかいられない。
春からは――屋根の下で暮らせない。
ああ――と思った。
ようやく――ようやく、あるべき所に戻ってきたか、と。
こんなに上手く行くわけないと思っていた。
いつかどこかで全て失うと「知っていた」。
願いはどこにも届かず――望みは一つも叶わず。
誰にも省みられることなく野垂れ死ぬ。
それが自分にふさわしい末路。
障害故の生きづらさだと医師は言ってくれたけど――だけど。
御影にとってはそれがたった一つの真実だった。
こつこつ貯めたバイト代。
洗濯のしやすい丈夫な服を数着。
お気に入りの本を一冊。
保存のきく食べ物をありったけ。
目一杯充電したスマホと充電器。
全てをリュックサックに詰め込んで。
その他換金できる物は全て換金して。
御影は東京の地に降り立った。
働くことは諦めた。
屋根の下で暮らすことは諦めた。
「人間らしい」暮らしは諦めた。
蔑みの視線も。
嘲りの言葉も。
鴉と食べ物を取り合って――雨水をすすって。
全て諦めて――そして、誓った。
何も――何一つとして恨むまい。
自分を捨てた親も。
内定を取り消した企業も。
自分を追い出した施設も。
世界も障害も政治も自分も――何もかも。
決して――決して恨むまい。
きっと何も悪くなかった。
きっと誰も悪くなかった。
ボタンが掛け違った――訳ですらなく。
こうなるのが本当だった――のですらなく。
どうにもならない何かが世の中にあるんじゃなく。
寒さに震えながら見た夜明けは美しかった。
公園で配られた豚汁は芯から暖まった。
図書館で読んだ本は様々な事を教えてくれた。
その代償がこれだというなら――御影はきっと全てを許せる。
夜明けの綺麗さを諦めて。
豚汁の美味しさを諦めて。
学ぶ自由を――諦めて。
その代償が――「人間らしい」暮らしだというなら。
そんな物は18年間の人生で十分だ。
この二年間。
苦労がなかった訳ではない。
苦痛がなかった訳ではない。
苦悩がなかった訳ではない。
だけど確かに――御影はその時「生きて」いた。
何よりも確かに。誰よりも高らかに。
だったら何も後悔はない。
例えこのまま――ここで死ぬんだとしても。
「――本当に?」
声がした。
くすくす。くすくすと。
鈴を転がすような――童女の声。
「もし――復讐を望むというなら、全てを用意して差し上げましょう。全ての道具、全ての力、全ての技術――全て全て全て用意して差し上げましょう。もちろん体は健康に」
一言、復讐を望むというのなら――望む全てを与えてあげる。
そんな囁きを耳にして――きっと初めて御影は自分の望みを口にする。
「それはいいから飯をくれ」
そして御影の意識はそこで途絶えた。
結局最後は飯。