Ⅵ 「公望と駄菓子」
公望が神田の肩をゆすって、彼女を無理やり起こした。
自分の内側での出来事など覚えていないように、神田が起きて大あくびをする。
「ああ、おはよう。公望のおっさん」
力の抜けた挨拶に、公望は苦笑いする。
「ああ、おはよう、神田」と公望が言った。「いつもの連れさんは? 飴玉あげようと思ったのに」
「悪かったな、あたししかいなくて」
神田が勝手に解釈して、悪態付いた。
公望は、神田の傍を離れると、炬燵に入ってくつろぎ始める。神田も対面に座り、深長そうな顔をして彼を見つめた。
「そんなに見つめられると、僕も困るよ」と公望が言った。「それにしても神田が人助けだなんて、珍しいことをするね」
「あんたにあたしの何が分かる?」
「少なくとも、そのマチェットの事は知ってるよ?」
公望が思いついたように台所へ行って、羊羹とお茶を持ってきた。神田に差し出して、促す。けれど、神田は手を付けなかった。
「後、君が無類の殺人好きだっていうことも」と公望が悪戯っぽく言う。「それに、連れの女の子の借金の肩代わりで、農業を営むコミューンに身を置いていることも、ね」
「何もかもお見通しってわけか」と神田が言った。「どっから、んな情報仕入れてくるんだか…」
神田がお茶を啜る。酷く熱く、舌が火傷する感覚があったが、辛抱して喉に通した。公望を目の前にすると、彼女は自然に弱音を吐いたり弱点を見せたりすることに自制心が湧いた。なぜなのか、未だに彼女自身にも分かってはいない。ただ、人は匂いで感覚的に友好関係の有無を見いだせると言うが、それに近いものだと、勝手に思っていた。
「それにしても」と公望が言った。「最近、悪い噂ばかりが大蘭町を奔り回っているよ」
言葉通りか、公望が部屋中を見渡して見せた。奇怪な動きだった。目の焦点は一つにあるのに、首だけが回っている。
「君が、巷で弱きを助けるヒーローだと明言している奴がいるらしい」
神田が目を見張らせた。先ほどの少女にも言われたばかりだ。
「どんな奴?」
「舌切られていて、つるっぱげ」
神田がため息を吐いた。覚えがある。出来もしない威嚇をして、自滅していったあのハゲだ。しかしなぜ舌を切った張本人のあたしをヒーロー呼ばわりするんだ?
「君の好戦的な姿勢と、人間離れした行動の持ち主。でも、最後には最良の手段で助けてくれたから、って。何度も喚いてた。そういうのが好きなんだろうね。君の行動しないヴァージョンの人間ってところかな、あの人」と公望がまるで神田の考えを見抜いたかのような発言をする。
「ねえ、待って。あんたの口ぶりだとさあ、ここに治療してもらいに来たっていうことになるけど?」
「ええ? うん、そうさ」と公望が至極当然のように言った。
一体全体、何を考えて駄菓子屋と病院とを間違えるのだろうか。神田は思ったが、口には出さなかった。
「じゃあ少なくとも、あんたを知っていた人間か」
「そりゃそうさ。というか、大蘭の闇医者ごと、この公望を知らない人間はいないよ」
胸を張って彼がそう言った。神田が再度ため息を吐く。
「でも、君が案じるべきはそこじゃない」と公望が声色を低くして言う。「石橋のコミューンが、君を煙たがっている。最近、君の依頼を受ける姿勢と、態度とが芳しくないって。加えて、大蘭のヒーローだ。噂は駆け巡るのが早いからね。もう滅茶苦茶に広まっているよ。そこでだ」
公望が人差指を突き立て、神田に見せる。
「コミューンは君が集団決起を起こそうとしているのではないかと心配しているんだよ」
神田が、話の意図を汲み取れず、唖然としていた。ヒーローとの言われは自分にないし、姿勢と態度? 集団決起? 彼女の頭の中に言葉の渦が出来た。
「あちらに行っている優秀なスパイが、ちょっとした情報を伝達してくれてね。今はまだ、鮮明な事は分からないけど、どうやらコミューンは世間一般に到底理解されないような行動で、大蘭をきれいにしようとしているらしい」
「きれい?」
「そこがミソさ」と公望が言って、時計をじっと見つめた。何か呟いて続ける。「そして、そこが分からない部分でもある」
神田の瞳が、じっと公望の目の奥を見つめる。そうして彼女には確信が持てた。彼が嘘をついているのだと。表現のしようがないから彼はそれを伏せて、神田に伝えたのだ。少なくともその言葉には危険が伴うことを知っているから。
「あたしには関係ないんでしょう?」
「いや、君が事の中心にいるんだよ。君の周りで、それらが起きようとしているんだから」
神田が到底理解できないという顔で、頬杖を付く。
「周り?」
「ああ。少なくとも君は隷属として今後も扱われて、周りの誰かが犠牲になる。君のやっていることが彼らの意図であり、目的だとしたらね」
「馬鹿らしい」
神田が重たそうな腰を上げて、立ち上がる。
「さっきあたしがヒーローって噂されているって言ってたよね」と神田が言った。「私はヒーローに形容されるだけの器を持ち合わせている人間じゃない」
公望が笑う。
「神田さあ、僕の前では言葉も、言い方も、表情も、気を付けた方が良いよ」と彼が言う。神田が一つも手を付けなかった湯呑みを手に取り、自分で注いだお茶を啜る。「少なくとも今言った言葉は、君の本心じゃないし、どこかではそれを口にしたくない気持ちもある。言い方も慣れていた。僕以外にも言った言葉でしょ? 神田を見てヒーローって言った人間に対して、ね」
してやったり顔をする公望に、神田は目を合わせられなかった。
外でがさりと、枯れ草を踏む音がする。けれど、二人は気にも掛けなかった。
「言っていたら、どうするのさ」
「別にどうもしないさ。ただ、今後、君は確実に危ない目にぶち当たることになる」
公望が天を仰ぐ。
「その時に、君の精神が、心が、ヒーローを名乗れるかどうかっていう話さ」
神田は何も言わなかった。それは意図的な黙秘であったし、公望にも大方、彼女が導き出そうとしている答えが分かっているような気がしていた。だからあえて、付言しようとする言葉を、喉の奥底に無理やりしまいこむ。
「後さ、一つだけ訊きたいんだよ」と公望が言った。「君、さっき連れてきた子の手をポケットに突っ込んだりした?」
クエスチョンマークを頭上に浮かばせたような表情を公望がする。神田は呆れたような顔をした。
「入って、たの?」
公望が苦笑して頷いた。
「運んでたら、ころんって」
彼は言って神田の足元の畳の縁を指差した。差された足元を恐る恐る覗いてみると、そこに掠れた血痕が綺麗に残っている。そして、神田の靴下にも、しっかりとそれが刻印されている。
「先に言え、馬鹿野郎」
公望は笑うだけしていた。
駄菓子屋を去っていく神田を外に出て見送り、公望が居間へ戻ろうとすると、右手を縫合され包帯を巻いた男が出てくる。
「公望さん! 会わせてください! 僕を助けてくれた人に!」と男が言った。力んだ拍子に、じわりと包帯が滲む。
「それは困るよ、朝霧君」
朝霧と呼ばれて男がどきりとする。狼狽えるばかりで、言葉が続いて出てこない。
「これ、貰っとくよ。どうせお金ないんでしょ?」と公望が名刺を片手に、言って見せた。「珍しいね、不良が名刺を作っておくなんて」
「ドッグタグです。それ以下でも、それ以上でもない」
ドッグタグと言われて公望が感心した。それは軍人が使う認識票だ。けれど、近年では事故や災害時の身元確認にも使われる。彼らも、自分たちの存在を認識してもらいたいのだろう。大蘭と言うこの町で。けれど、彼らに襲い来るのは紛うことなき人災なのだろうが。
「君の会いたがっている人はさっき帰ってしまったよ」と公望が言った。
「今からでも追いつけますか!?」
「追いつくのは容易いよ。でも、僕がそれを許さない」
朝霧が目を丸めて彼を見つめた。心の中でなぜだ、とでも言っているのだろう。
「君はまだ病人さ。僕がきちんと手当てしてやったのに、すぐに外へ出て、はいまた手が取れましたじゃ、普通じゃないだろう? 僕の努力も水の泡だし、何より君を気遣って言ってるんだからね。分かってくれ」
「なら、せめて救ってくれた人の名前と、容姿だけでも」
公望が考える。無精ひげを蓄えた顎に手を当て、深くそうする。
「神田。神田瑞樹。大蘭の、ヒーローさ」
神田が公望を思うとき、苛立ちを隠せずにはいられなかった。
夜道にじっと身を伏せている石ころを、一つずつ蹴りながら歩く。
気取っている男の様で、そうではない。駄菓子屋の主人の様で、そうではない。きちんとした医者の様で、そうではない。頭がおかしいかと考えた時だけ、きっぱりとイエスと言える男だ。特に、何を考えているのか分からない人間でもある。けれど大蘭では闇医者として存在を誇示しているし、慕っている人間も多い。関係者には、国会議員や医局の人間、麻酔分野の製薬会社の最高経営責任者。彼との人脈が無い者など、それこそ皆無なのではないかと思わせるほどだ。
それに、人の嘘と真実を見抜く目が彼にはある。ひどく脈絡の通らない話でも真実であれば、真実であると見抜くし、逆も相応。加えて、昔吉原の遊郭に住まう花魁がそうしていたように、手練手管に長けた人物でもあった。それら全て含めて、人の叡智を超えたと思わせる程、彼は鮮やかに行っていた。加えて公望曰くは、目を見れば大体の人間の過去は分かってしまうもの、らしい。
それに大蘭での貴重な情報源でもある。どこからか湧いて出てくるようなそれらを、公望は一瞬で整理して、人に話せる状態にして頭の片隅に置いておく。彼の頭に、その処理の限度はない。時間が経って劣化しても風化してもいつまでも残っている。そして、取り出せるような場所に置いてある。
舌打ちをして、夜風に吹かれた体を震わせる。
次の街灯の場所までは、何も見えなかった。遠くの方では、駅前の繁栄を象徴するかのように光が無数に散りばめられているのに、如何せん、こちらにそれはない。
何もかもが、彼女の苛立ちを助長させる。それの捌け口も、通過させる道も、手段も術も、彼女にはありはしない。幼く、人生経験が未熟ゆえに、そういった苦悶を抱くのも適当なことだった。
街灯の光に群がる蛾の集団。小さな虫の群れ。神田はそれを避けて通る。肌や服にそれが纏わりつけば払いのけ、殺傷する。
虚ろに映る大蘭の町を歩いて、もう少しすれば身が待つ家へと着こうとしていた。今が何時であるか分かってはいないが、夜ももうじき開ける頃だろうと、神田は漠然と思っていた。そして、それは事実であった。
「神田」と名前を呼ばれて彼女が振り返る。
異様な佇まいをしている女が、眼前に在る。
疑問に思う言葉を発する前に、神田は気を失った。
崩れる神田を女が支え、その無表情さゆえに所行が酷く無惨に見える。
風に揺れるハンカチは、その手に握られていた。