Ⅴ 「人助けは誰のために」
身との思い出を探ったあの夜以降、寝付けなくなってしまった。数日たった今でも、それは変わっていない。
夜が更けていくのをベンチに座りながら神田は汲み取っていた。身を置いて単身、思い出の場へと来てしまっている。本当はそんなことをしたくはなかった。けれど、体の疼きもあって、それが外へ出ることで治まると知ればこうするしかない。
今日も今日とて、安い配給を待ち受けるホームレスの一群が、ドラム缶に焚かれた火に群がっていた。前方で直に温まる者、後方で己の番を待つもの。欲にかまけて暴力づてに前へ行くことも出来ただろう。けれど彼らは、戒律を守るように順をなしていた。暗黙の了解というもので、最前面にいる人間がそこに立ち続けることはなかった。少なくとも五分が経過した頃に、後ろへ回って前列を譲り、またも番を待つのだ。
神田はそれを静かに見守っていた。彼らの中には少なくとも、年寄りや小さな子供が混じっていたからだ。弱者が虐げられるのは、決まってバツが悪い。それだけは見ていて爽快な気分になれる事ではない。
そして、やはり問題が起きた。
ふてぶてしく闇からやってきたのは、二人組の警察官だった。
「皆さん、困りますよー。こんなところでたき火なんて」
悠々と入ってきた彼らに、言葉を掛けられる人間など、その一群の中には誰一人としていはしなかった。
神田が舌打ちをする。苛立ちの隠せない表情で、首を後ろへやった。逆になった後方が見える。気分が悪くなって目を瞑る。それでも、彼らが気になって時々一瞥してしまう。
「迷惑行為ですから、本官がいるまえできちんと消火してください」
偉そうな口ぶりで、彼らは話をすすめる。日本警察官特有のごてごてとした制服を着こなしてはいるが、神田は見抜いていた。
「さあ、早く!」
マチェットを持って来ていて良かった、と神田は思った。素直さで、血が見られると頭で感じる。そして、瞬時に焼き付いたあれが映し出された。けれど、何故かその時に鮮明な映像は流れなかった。どこからかノイズとアナログの砂嵐が吹き荒れて、上映を邪魔する。
「民事上で訴えられますよ!」
言った警察官の顔が引きつって、笑っていた。笑うまいとするからそうなったのだろうが、隠せてはいない。その頃になって、ホームレスたちが顔を見合わせてどうすべきかと互いが互いに訊き合っていた。けれど、誰も解決法を見つけることはできない。やがて、痺れを切らした警察官が、神田の座っているベンチの隣の水飲み場と、敷地内に設置されている物置とを見た。水があるのならば、後はそれを汲めるものが必要だろうと、彼らは考えたのだ。
「待ってください!」と一人の少女が群れから離れて彼らの前に佇んでは、言う。「今は、見逃してくださいませんか。皆、家が無くてこの火だけが暖を取る頼りなんです。明日には、明日には別の場所にしますから! 今日だけはお願いです。どうか、どうか!」
煤けた布をマントのように体に巻いて、異教徒のようなローブを着ている。フードを被ってはいたが、内側からその長い毛先がはみ出ている。けれど人相はまったく分からない。大層厚い生地で出来ていそうなそれを着ていてもなお、人と言うには気味悪がられるほど細すぎていた。どこかに失調があるのではと、鬼胎を抱かせる。
そして、まるで身のようだと、神田は他人事のように思っていた。
けれど言う声空しく、彼らは二手に分かれて、よくしゃべる方が神田の方向へ、全く喋っていない方が物置へと向かって行った。
地に膝を付いて、がくりと項垂れる少女。微かに震えていた。春の陽気とは言えど、夜は寒い。加えて、彼らのぼろきれを服にしたような身なりをしてみれば、冬にも匹敵するだろう。
ずかずかと、歩き方でその男の傲慢さが神田には伝わってきた。
「ねえ、あんた」と神田が言った。
身なりからして、あの一群とは違う立場の人間だと、男はすぐさま判断した。
「あなたもあれ目当てで来たんですか? 困るんですよ。近所迷惑ですし」
「違う」
「はい?」
「一つ質問」
男は黙ったまま、蛇口を捻ろうとする手を止めていた。
「拳銃番号」
男が不思議そうに神田を見つめる。
「拳銃番号言えっつってんだろ。その腰に吊ってるやつの」
男は何も答えなかった。答えられなかったのだ。
「警察じゃないってことはさあ」
神田が立ち上がる。その腰には、マチェットが包まれた革製の鞘がある。
「害を与えても公務執行妨害にはならないよねえ? 偽物さん?」
月明かりに照らされた神田の顔を見て、男が腰を抜かした。圧倒的な悪が目の前に立ち塞がっているのだ。そのまま地面に座り込んで、矛先が自分自身であることを知ると、更なる絶望がやってきた。
両手を柄に当てる神田を見て、それが大層大きく、威圧的な雰囲気を素人ながらに感じた。人間離れした、獣の様な眼力で見つめられるのに、男が歯をがちがちと鳴らす。
ゆっくりとマチェットを引き抜いて、滾る勝利の血が体中に回っていく。足先から頭の天辺まで、心臓の鼓動に連れて熱くなる感覚が彼女には分かる。
殺す、殺す。と、高ぶる感情を抑える筈もなく、ただ怯えるだけする男の顔に絶頂感すら感じて、またもゆっくりと引き抜いていく。
「大丈夫ですか! 兄さん!」
腰を抜かした男に、バケツ片手のもう一人がすり寄ってきた。神田を見る暇もなく、彼が倒れた男を抱いて、その場を抜け出した。何も言わず、何も残さず。とても呆気なく事が終わって、自分の望んだ結末でないことに神田は叫びたくなった。地団駄を踏んで、子供の様に駄々を捏ねたかったが、少しばかり見えた刀身を鞘に戻して、冷静になる。身ならば、それを良しとする。あいつならば多分、誰も傷ついていないことを喜ぶだろう。そういう奴だ、身という人間は。
けれど、内心では、そうなったことを身と同じく良しとしている自分もいる。
ふと一群の視線が神田本人に向かっていることに気付いて、もう一つ冷静にならざるを得なくなってしまった。
そっぽを向いて関係の無さをアピールするも、誰かが彼女の前に立ち、もう視線はそこにしか注がれなくなっていた。
「ありがとうございます!」
先ほどのローブを来た少女が、そこに佇んでいた。神田が一瞥すると、異様に輝く髪が目に入る。白い、いや、それも上品で、もっと光沢がある。銀だ。
「あいつらの言いなりになっていたら、今頃どうなっていたやら…」と少女が言う。「それに! お姉さん、とても格好良かった! まるであの人が言っていた、ヒーローみたいでした! 私たちの!」
「ヒーロー」と神田が口走った。その言葉が自分にどれだけ不似合か、彼女自身が一番に分かっていた。けれど、言われて気分が悪くなるわけではなかった。
いつか父さんが話してくれた、ヒーロー。自分の流儀と正義。ならば、殺人を犯すことこそ、自分の正義なのか? 違う、それは、ヒーローから一番かけ離れた存在、そして行為だ。
「ええ! 私たちのヒーロー!」
少女が高揚した気概でそう言った。一群から、拍手が湧く。
けれど神田は、それには気を良くしなかった。それよりもと、一人でいる身が気にかかり、その彼らを、彼女を無視して場を立ち去る。
「ごめん、あたしはヒーローなんていう器の人間じゃあないんだ。他所の人間に、頼んで」
遠くなる神田の背を見て、
「なら、せめて名前だけ!」と少女が言った。
あの時と同じだ、と神田は思う。「神田」と一言、短く名乗った。
笑顔でいる少女の頬に、小粒の涙が伝った。銀髪の髪が、夜風に揺られながら。神田の背を、見続けながら。
帰路に就いている途中、身を心配することも勿論あった。けれど、もうしばらくは外にいたかった。神田が大蘭を闊歩できるのは、夜に限られている。それも血を見る夜だけ。今日はたまたま偶発的に気分が乗って、足が動いただけだ。本来の頭が、寝ぼけずにきちんと仕事をしていれば、こうなることもなかっただろう。
悠々と背伸びをしながら歩いていると、自分が全ての中心でいられるような気が彼女にはしていた。出来る事なら永遠にそうしていたい。何物にも縛られず、自由を得るに対価を支払うこともせず。
目を瞑って深呼吸をする。ああ、気持ちがいい。夜風が火照った体を貫いていく。どうせ目の前が見えなくとも、危険はない。大蘭町の人間ならば、夜に出歩こうとするそれこそが自殺行為だと知っている。良識ある人間はもはや息を潜めて、死んだ状態にも近い体を成している。そして、私には良識が無い。馬鹿だ。こんな状況で危険がないと言っていられる私は、特に異常なのだろう。
ふと何かに蹴躓いて、体勢を崩した。よろけた体を地に手を付けて支える。もう一度、きちんと立ち上がって、その何かを見た。
若い男が、倒れている。
神田が見てため息を吐き、無視してその場を離れようとした。けれど
(同じくらい、いい人だっています)
身のその言葉が頭の中で反芻して、再度ため息を吐いた。やらざるを、得なくなってしまったのだ。
倒れた男の手を引こうとすると、その異様さに気が付く。右手首がすっぱり、無くなってしまっているのだ。そこらを見渡して、血だまりが出来ていることを確認すると、意識の無い男に肩を貸して、半ば引きずるように、駆け出していった。行くべきところは、もはや、神田には分かっている。
夜の道をただひたすら走っていると、昔の自分を彼女は思い出す。あの時の自分は、一体全体何を思ってここへやってきたのか。不格好で不釣り合い、悪が蔓延る大蘭へ、あたしは何を期待していたのだろうか。けれど、本当は何も期待していなかったのかもしれない。新しい場所へ行くことよりも、あの退屈な施設を抜け出すことこそ、あたしの本望ではなかったのか。
神田の心にはいつしか穴が開いていた。ぽっかりと大きな穴が。彼女はそれがいつから空いているのか訊かれても、明確な答えを得ることは出来なかった。けれど、それはきちんと存在しているだけの虚無感を彼女にいつも与える。決まって、一人で考え事をしている時だ。
出し抜けに心が寂寥感を覚えると、穴の中から空気が送られてくる。冷たく凍えた空気だった。それは何も与えず、何も感じさせない。だから脳が無を意識する。だから彼女は独りだった。
体が温まっていく感覚がする。露出した部分が過剰に熱を持ち、額には汗が流れる。呼吸は途切れることなく明確な動作を持って、彼女に盲目的な苦しみを感じさせる。
彼女の思考、感性は常時右往左往していた。子供の頃が穏健であったのは、彼女自身がそれらに対応できていなかったからだ。爆発的に広がるそれらの処理を行えなくなり、回路のショートが頻発していた。ゆえに無口無表情。周りからは、彼女の風貌を兼ねて穏健などと言われていた。それも、今となっては見る影すらない。頭が一連の動作を覚えて、全て処理できるようになってしまっている。慣れではない。生命の学習力だ。
駄菓子屋公望と、錆びられた看板が掲げられた一軒の店の前で、神田は止まった。そこで初めて、自分が大分疲労していることに気付いた。他人の為に走ったのは、いつぶりだろうか。けれど彼女は、これが初めてだろうと、嘯くように笑って、ぼろぼろの引き戸を目の前にして、
「公望!!」
と一喝し、様子を見た。肩の上がり下がりが激しい。伴って、心音も大分大きくなってしまっている。
来た道に滴る血の量が少ないことが、彼女が誰よりも速く走ったことの証拠になるだろう。
「ういーっす」と店の引き戸が窮屈そうに開き、どてらを来た男が顔を見せた。
「公望! こいつの治療! 頼めるか!」
突然の来訪と言葉に、公望と呼ばれた男が顔をしかめる。右手首の無い男を見ては顎を擦った。
「神田さんの言われとなればお安い御用。別に断りはしませんよ」
「なら早く!」
神田が公望を他所にずかずかと店に上がり込んで、駄菓子の置かれた店先を超え、けれどその先の炬燵のある居室で、果ててしまった。辛うじて息だけ出来ている状態だった。失神したといった方が、自然かもしれない。
公望がそれに近づき、神田には目も暮れず、それでも一応男と離した際に畳に寝かしつけるような格好を取らせて、台所の奥へと、忽然と姿を消してしまった。
異質な、夢を見ていた。あるいは、過去の記憶を奔走していた。
巡り巡り、彼女はどこにでも行くことが出来た。自分が見て、感じ、聞き、体験したことの一切を。
空の下に自分がいる。そして、それをあたしは見ている。万象の一部として。見ているだけだ。関与は出来ない。だからやはり、具現化したリアルな記憶なのだろう。
見ていて、彼女は気付いた。殆どの場所に、身がいることを。
かしこまった様子で、彼女はいつも神田の後を親鳥についていく雛のようにちょこちょことついてきては、笑顔を振りまいていた。友達だから、そういった感情もあるのだろうが、本心ではないように見えた。本当に信頼出来て、頼れる人間、多分身なら一言で「ひーろー」と幼稚に表現するのだろう。
「危ないからそっち歩いて。ここら辺は車の通りが多いから」
「分かりました!」
「神田さんは寒くないんですか?」
「寒くはないよ。でも、温かくもない。こっち来る? それともあたしが行こうか?」
「馬鹿! 無茶するな!」
「ごめんなさい…」
唐突に、まばらな声が神田の耳に入ってきた。いくつかのシーンが瞼の裏に映る。けれど、全てが完璧に思い浮かべられたかと言われれば、そうではなかった。いくらか、風化して消滅してしまったものもある。
それでも、思い出そうと懸命に頭が働いた。そうしなければならなかった。
「神田さん」と身が神田に語り掛けくる。酷く弱弱しい声だ。
神田は体をびくつかせて、辺りを見回した。その身の声が、空の下の自分にではなく、空の一部となった神田に語り掛けてくるような気がしたからだ。
「神田さん、なんで助けに来てくれなかったんですか…?」と身が言った。吐息に心音が、神田の耳に直に聞こえてくる。だからこそ、辛かった。
「行ったさ! 大蘭を駆けまわって、人に聞き込みして! でも、でも…」と空の下の神田が言っていた。「見つけられなかった…」
目を瞑って、暗闇の中に倒れた身を介抱する自分の画が浮かんだ。新調したスカートがぼろぼろになり、開いた瞳孔で身が彼女を見つめている。
「男の人が、言ってたんです…。私が、神田さんの名前を呼んでいたら、お前の中のヒーローの名前を呼んでもここに来はしないよ、って」と身が言った。溢れ出る涙を止められなくなったのか、しばらく間が空く。「ヒーローなんて、存在しない、って。でも」
「もう、黙っていて」
歯痒い思いで、神田はその一言を放った。あの時の自分にとって、身のヒーローの存在になれなかった自分が、どれだけ小さく、惨めで間抜けであると思ったことか。事後に駆け付けた自分が、安全に身の体を介抱できることが、愚図であるなによりもの証拠だ。
身を守れなかった。昔を辿れば、父と母も守れなかった。あの時神田は、二階の自室にあるクローゼットの奥で、秘密基地ごっこをしている最中だった。一階で起きている惨状もまったく知らずに。
ある時に尿意を催して、一階にあるトイレに向かう途中で、初めてそれを目の当たりにした。四肢の切断された父親の姿と、首のない母の体。父の体はリビングのソファーの上にあった。手足はまとめられてゴミ箱に捨てられている。母はキッチンで、椅子に座りながら。生まれつき足の悪い母は、家事をするときにはいつもそうしている。そして、その時にやられたのだろう。断頭された体が、真っ赤に染まったシンクに突っ伏している。床に、首がある。まるで死んだことにすら気づいていないように、目は見開いていて、けれど瞳孔に光は無い。生気が失われていた。
液晶テレビに付けられた半端に乾いた血の跡。真っ白な壁に、霧状に吹きかけられた似つかわしくないそれ。床に出来た血だまり。カーペットすらも、吸いきれてはいない。現場の惨状を一目で分からせるように、そこらに夥しい血が零れている。
自分で自分に言い聞かせるように、その画を断ち切らせる。そうして、また耳を澄ませる。
「お弁当買ってきましたよー!」
「ああ」
「もう、悪い人たちは居ませんよね?」
「あたしに断言は出来ないよ。それに、それはあたしかもしれないんだし」
「神田さん、なんで、なんで私の為にこんなことをしてしまうんですか…?」
「友達だからだよ。そして、あたし自身が、そういうことが好きだからさ」
またもそういった問答が聞こえてきて、神田はじっと堪えていた。明らかに、先ほどの自分とは声色が違っている。声変わりのように、自然にそうなってしまったのか、それとも精神的に侵されてそうなってしまったのか。空の上の神田は後者だと、そう判断せざるを得なかった。
やがて研ぎ澄まされた感性が、それをした為に力を失っていった。一空間に幽閉されてしまうような感覚が、神田を襲う。別段、怖くはなかった。五感を包むのはどす黒い闇だったが、どこか懐かしい温かささえ感じてしまう。母に抱かれて眠っているときか? ふかふかのベッドの中にいるときか? 羊水の中で浮かんでいる時か? 神田は思ったが、みな一様に違う。類似しているものはあるが、完璧とまでは言えない。
すっぽりと体がそれに包み込まれて、ようやく帰れるのだと安堵した。記憶の内から脱出して現実へ戻れるのだと。
今頃、身は何をしているのだろう。寝ているだろうか。記憶にある身の声を聞いていたら、またあんたとお話がしてきたくなったよ。早く帰るからね。待っていて。
子に対する母が如く、思いを馳せて、意識が途切れた。ぷつりと、それこそ、電池が切れてしまったかのように。