Ⅲ 「終着点は何処へ」
焼肉、カラオケ、銭湯。欲が叫ぶままに、彼女らはそこらをほっつき歩いていた。神田は身の手を引き、身は神田に手を引かれ。やけに強く握りしめられた手の温もりが、きちんと身には伝わっていた。それに、そうする理由も。決して、今度は離れないように、と。
大蘭町の大部分は劣等な人間たちに住まわれているが、それらを除けば、造形物、景色共に並々ならぬ観光名所を抱いていた。大蘭町を縦断して流れる一級河川の支流、桜川。遮るようにして作られているのは桜街道。昭和期にかけて町人が川、諸共街道までに親しみを込めて名前を付けた。春の桜の見栄えが良いから、と。そう単調に言いつつも、街道の桜は実に壮観だった。石畳の敷かれた道に沿って並ぶそれらが見頃になれば、誰であっても心は打たれる。感銘を受けて涙を流す人間もいる。桜を見上げるのも良いが、東にある丘陵から町を眺望するのも、また絶景だった。勾配のある遊歩道を歩き続け、野原に辿り着いて少し歩いたところに崖がある。飛び降り防止のための柵の手前には、不格好な螺旋状階段が巡る展望台があった。元は昭和期にかけて、大蘭の軍事工場を空襲する重爆撃機をいち早く見つけるために作られたものらしいが、今現在残っているそれが、その頃の展望台と類似しているかと言われればそうではなかった。何度も改修を重ね、時には宮大工の孫が手掛け、今に至る。
大蘭の町は神田が思うに、とても不格好だった。繁栄のあるのは駅周辺のみで、あとは時代に取り残されたかのように、そのままの形を保っている。駅を見て人は思う。随分発展している町だなと。それは一見のみの間違いで、中心部のそれを覆う楕円形の状態は、何一つ進化していない。それどころか、どこからか浮浪者ややくざ紛いの組織、宗教団体が湧いて出てきては、そこを拠点として裏での事業を進めている。彼らには丁度良かった。邪魔者がいない、という点では。園児が遊ぶために作られた公園には浮浪者の吹き溜まりが集会をし、住む者のいなくなった廃屋は家を持たない人間の住処となる。それらの人々を表向きで助けるために、そこらの界隈の物価は恐ろしく安かった。的屋が道端でシートを敷き、商売をしていると、ついつい神田も目が行ってしまう。大体は粗悪品の集まりだが、まれに裏路地での商売に当たりを見つける。高電圧のスタンガン。純正のベレッタや、その銃弾。紛いものの中にぽつりと残されている明治期の軍刀。それらを見る度に、彼女はやはり思った。この町は、とても不格好だと。
桜街道を抜けて、駅周辺の眩いばかりの光を背にし、神田と身は未だ歩いていた。いつのまにか夜が来ている。神田の歩調はいつも等間隔だったが、時々身が付いてこられなくなると、わざとそれを遅らせた。とても不自然に足が縺れる。良くは思わなかったが、如何せん、そうするしか事の解決法がない。
「神田さん…眠く、なってきちゃいました」と身が言った。神田が歩みを止める。「ごめん、なさい」
「あやまることはないよ。別に」と神田は言った。ガムを噛んでいるせいで、滑舌があまり良くない。「ほら、乗って」
膝を曲げて身に背を見せ、負んぶすることを促した。身の華奢を通り越した、か細く脆い体がふわりと神田の背に被さる。重量をあまり感じないことに、神田は危惧した。
また、歩き出す。最初、身は高い位置からの町並みに動揺していたが、次第に慣れると、感嘆の声を漏らした。負んぶなんて、初めての体験なのだろう。彼女は、そういうものが常だ。
「あーあ、また馬鹿がなんかやってるわ」
駅前に一番近い公園に視線を送って、神田が言った。
シートの上に、手足を縛られ口にガムテープを貼られた女が倒れている。周りには、三人の男が。身の丈に合わない服装をして、街灯に照らされにやにやと笑っている。そこから少しばかり離れた砂場で、もう一人、男が倒れていた。顔に痣が出来ている。唇から血が多量に出ている。頬に伝って、砂場が濡れている。多分カップルなのだろうと、神田は直感的に思った。春の浮ついた陽気に誘われて、ここに足を踏み入れた。地獄であると知らずに、日常的にそういった類のものが行われているとは知らずに。
女の頬に涙が伝う姿を見て、それとも痣だらけの男を見てかは知らないが、身がふと顔を神田の背に埋めた。気づいて神田が、「悪い」と言う。
けれど、と思った。掌が熱く感じるのはなぜだろう。神経が麻痺しているように、思考とは別の事をしようとしている。仕込んだスカウトナイフを、とても欲している。
そう思っていた筈だった。しかし、本当にそうか? と神田は自分自身に問いかける。虚ろな心が、返事を寄越す筈はないのに。
「ねえ、悪いけどさ、少しここで目を瞑って待ってて。なんかあったら、すぐに大声を出して呼んで。あたしが駆け付けるからさ。ね?」
突然の願いを、身が聞き入れないわけがなかった。それを分かっていて、全て端的に説明した神田が、にやりと笑う。
「じゃあね」と神田は身を下ろすと、そう言って公園の中に入っていった。
「頑張って、ください…」と身が言った。神田に聞こえない程度の声で。静かに、静かに。
「お兄さん方! たいそう面白そうなことをしていますね!」
太った男が一番先にその声に反応して振り返った。
神田が舌を出して目を笑わせながら、彼らを見つめている。あからさま挑発的なその態度に、男らが数歩前へ出た。けれど、それ以上近づこうとはしない。神田のその異様な雰囲気と風体に、あからさま怯えているといった様だった。
けれど、前開けした革ジャンパーの裏に仕込んだスカウトナイフが疼いて仕方がない神田は、どうにか彼らに襲わせる方法を考えた。何の名目もなしに人を殺すこと、無抵抗の人間とて同じ。そこに正義もなければ悪もない。加えて、正当防衛が主張できないではないか。
けれど、どこかにある本当の正義を主張する心。神田はそれをひた隠し、この時でさえもそれを貫き通そうとしていた。
「でもさあ、あれはまずいんじゃない? あれは」と砂場に転がる男を指差して神田が言った。「それに、女をいたぶるってのもいただけないねえ…。あたしはそういうの好きじゃアない」
スキンヘッドが太った男を一瞥して、神田の前に出た。パーカーのポケットに突っ込んでいた右手を出したかと思えば、ツールナイフを持っていた。それを手前に掲げて、脅しのように刀身を舐めて見せる。大層の眼力で、彼女を睨みつけて。
「たまんないなあ、そういうの」
神田が心底嬉しそうに言って、一歩を踏み出し、瞬時に眼前に顔を寄せてはスキンヘッドの右手を思いっきり掴む。間抜けな顔をして驚く男を他所に、力任せにその刃の方向を彼へと向け、握る手を引いた。圧していただけの刃がそうされた衝動で当然の如く舌を滑らかに切っていく。浅い傷と思えたが、血が霧雨のように迸る。返り血が彼女にかかった。瞬きもせずにそれを頬に受けて、彼女の長い舌が綺麗に舐めとる。声を上げて地面に伏していく男を見て、奇怪に大声で笑うと、片膝を折り、耳元で呟く。
「そういうのはさ、対等な力を持つ人間とやりあう時には便利だけど、格上の人に対してはやっちゃあだめ。ただの隙になっちゃうからね」
神田が立ち上がって、けらけらと笑った。口元が歪に曲がり、不快にそれが辺りへと響き渡る。
「次はどっち? ねえ、どっちなの!?」
神田が威圧的に言うのを聞いて、二人が恐れ慄いた。じりじりと詰め寄る神田に比べて、男二人はただ後ろに下がっていくだけ。舌を切られて倒れた男は、嗚咽を漏らして泣いている。
二人を見て神田はもはや、襲ってくる気力さえもないのだと感じ取り、歩を止めた。丁度その足元に、身動きのできなくなった女がいた。
「ちっ。戦意喪失ってところかよ。やる気でねー。こいつみたいに形だけでもいいからやって見せろよ。…十秒数えてやるからその内に消えな。さもないとまじでぶっ殺す」と神田は言った。「お前たちに言ってんだよ、デブと地味」
ガムの風船を膨らませ、両手はジャンパーのポケットに。確かに感じるスカウトナイフの刃先の硬さを身に浸みこませながら、いつまでもそこに立ち尽くす男たちを神田はじろりと睨んだ。淡い光に照らされてさえも、その双眸の眼力は酷く強烈に印象付ける。それに決定づけられて、男たちは公園から一目散に走って出ていった。スキンヘッドの男は、いつまでも地に顔を付けながら切られた舌を手で押さえて泣いているばかり。砂地にゆっくりと広がる血溜まりを見て、神田も静かながら危殆の存在を感じていた。
それよりも、と、足元の女に目をやり、口に張られたガムテープと手足に巻かれた紐を解いてやる。
「大丈夫? あんた」と神田が無気力そうに言った。先ほどまでの強気が跡形もなく消えている。そういう人間であることに変わりはないが、誰もが程なくして彼女の変化の差には驚く。「あー、綺麗な手足にこんなに痕が付いて」
露出した足に手をかけようとする神田よりも先に、
「あ、ありがとうございます。それと、もう大丈夫ですから!」
女はそう言って、自分の身を案じるより先に砂場に倒れる男の元へ駆け寄った。神田はそれを苦い顔をして見ていた。何度も男の名前を呼んで、段々とそれが涙交じりになっていく様子を見物していて、嫌悪感すら覚える。厄介者扱いされたあたしの気持ちが、あんたに分かるものか。警察や救急車を呼べないあたしたちの気持ちが、あんたらに分かるものか。国に、政府に見捨てられた町の住人の気持ちが、あんたに分かるものか。
「おい、大丈夫か。おい、ハゲ!」
砂場で男を介抱する女を見て苛立つ神田は、その捌け口を、舌を切られた男に差し向けた。けれど、泣いてばかりいる男が喋る筈はなく、その嗚咽を聞くだけでも、ストレスはたまる一方。拳を強く握った。長い爪が皮膚を割く。
何もかもが嫌になり、空を見上げた。雲一つない夜空。砂粒がばら撒かれたように星々が煌々としている。欠けた月が彼女らの顔を覗き込んでいる。全ての事象が、彼女の心にのしかかってくる。普段の空は、彼女に安らぎと落ち着きを与えてくれたが、今回はそうもいかないらしい。裏切っては敵に回り、彼女を攻め立てている。
泣く声があまりにも馬鹿らしくなり、男を見つめると、神田はそのパーカーのフードを鷲掴みにし、無理やり引き起こした。彼の舌を掴む手が、真っ赤に染まっている。鮮血を今もなお浴び続ける指先はとても艶やかだったが、垂れて乾いてしまった手首当たりの痕跡は、とても褪せて、到底見栄えるものではない。絶望の淵に立たされ、赤子のような顔をして男は神田の顔を見つめている。暴挙を振るった相手にその目はなぜか助けを求めているようだ。分かってか分かっていないかで、気怠そうに神田がその舌を掴む手を払いのけると、血に染まった咥内に、どこからともなく持ち出してきた長方形の束になった純白のガーゼを強引に突っ込む。
「そんなにひどい出血じゃないから、そうして口の中で押し当てて、早く病院行ってきな。くれぐれもあたしの名前は出すなよ。出したら、今度こそ舌を切り落とす」
横目で彼を見て、フードを離し、大丈夫だろうと判断してその場を立ち去った。去り際に、スキンヘッドの男が呂律の回らない様子で神田の名前を訊ねた。
背中で見送って手を振りながら「神田」と一言名乗った。それ以外は何も言わずに。久方ぶりに他人に名前を明かした、と彼女は思った。
ありがとう、ございます! と言う声が、とてもさり気に、けれど震えていることに、神田は気づいていなかった。それどころか、そのお礼言葉すら、彼女の耳には届いてはいないのだろう。
「ごめん、ごめん、遅れちゃったよ」
ぽつりと道路に佇む身に神田が言った。先ほどまでの態度とは真逆に、社会で年上と接しているように。彼女の礼儀は大概が慇懃ではあるが。
身はまったく気にしていないという感じで、笑って頷いていた。そうして、彼女特有の籠った声で何気なく愚図り、負んぶをせがむ。神田が仕方ないという顔をして、またその体を背負った。そしてまた、本当に紙のように軽い体だ、と切に感じていた。
廃墟な家に帰ってきて、何もすることが無いので、取り敢えず無難に神田は革ジャンパーを脱いだお決まりの私服のまま布団に潜り込んだ。身は一旦トイレに行ってから部屋に戻って来て、パジャマに着替えてから、神田の真似をして布団に入った。今度は自分のそれに。
「身はさあ、こういう生活でいいと思う?」
「私は、神田さんと一緒にいられればいいです。どんなところだろうと、どんな状況だろうと」
身の言葉を聞き入れて、神田が顔に似合わず頬を赤く染めた。身とは逆方向へと、寝返りを打つ。けれど何かを思い、
「今日はこっちに来て寝なよ。あんた結局いつも朝方にはあたしの布団にいるしさ」といっそしおらしく言った。姉御肌の片鱗を見た身が、神田に見えずともはにかみ、枕を持ってそちらに移動する。背中に衝撃を受けて、神田が振り返った。既に布団に潜り込んで顔をそちらへ出し、見られた身はにこりと笑うと、そのまま静かに、目を瞑って眠りに入っていった。さらさらの長い髪を撫でようとする。けれど、ハンドウォーマーが邪魔で、一旦それを取ってそこらに放り投げてから、再度身の頭に手を置く。
「寝ちゃった?」
身がもぞもぞと動く。
「まだ…、寝てません…」
細い、身の体の温もりを直に感じて、神田も目を瞑った。
「早く寝ないと背が伸びないよ」
身が少しの間を空かす。
「また負んぶされたいから…このままでいいです…」
「そうかいそうかい」
それから少しして、身の寝息が聞こえ始めた。寝ているのだと確認すると、安心してその寝顔を見つめることが出来た。緻密な美と、幼稚的な可愛さを兼備して、それで初めて会った時の事を思い出す。こんな風貌をしている身との出会いは、冬に訪れた。