Ⅱ 「朝の牛乳突撃喇叭」
町の喧騒は、やがて消えていった。夜が終わりつと朝が来る。朝が終わり、昼が来る。昼が終わり、朱が来る。朱が終わって夜が来る。そして、繰り返す。
朝が始まり、彼女らが起きる。大蘭一番街、廃屋にも似た住屋、ゴミの散らばった部屋に布団が二つ。
「あんたさ、布団が二つある意味分かってんの?」
起きた神田の瞳が眼前にある頭を見た。顔は布団に埋もれている。けれど、言われてその物体がもぞもぞと動く。すっと顔を出しては、にこっと笑った。
「温かいんですよ。だから、ついつい」
「黙って早く出て。…それに身さあ、いつも言ってるけど、あんたの布団はそっち、ね?」
「そんな殺生なこと言わないで」と身と言われた女の子がふて腐れて言った。
黙って行け、と神田は口にしようとする。けれどしないのが身であると知っていたので、ため息を吐きながらそこを出た。「かむばっく! かんだー!」と身が言っている言葉を無視して。
台所へ行って、錆びついて所々が飴色に変色したシンクを見ながら顔を洗う。端に寄せられた三角コーナーからの異臭に耐えつつ。右には焦げ付き、真黒のコンロ。左には出しっぱなしのまな板に、散乱した幾つものビール缶。片付けるのは後でいいや、彼女はいつもそう思っていた。そして、いつもそれをしない。
顔を洗って水滴を床に落ちていたタオルを引っ張り取っては、力強くそれを拭き取る。
徐に奥にある冷蔵庫に手を伸ばした。あるのは、僅かばかりの惣菜と、タッパーに入った漬物。ペットボトルの麦茶に、開けられている牛乳パック。そして、数え切れないほどのビール缶。
手を伸ばしたのは、牛乳パックだった。口を開き、そのまま飲もうとすると、あることに気が付く。
「ねえ、身、あんたさあ」と神田が冷蔵庫の前に突っ立って言う。そこからでも、彼女がいる部屋には余裕で声が届いた。
「なんですかー?」と身がこもった声で返事をする。また布団の中に潜ったのだろう。
「またあたしの牛乳、口つけて飲んだでしょ」と神田が言った。
それを開けっ放しの冷蔵庫に戻す。立ち尽くしたまま、しばらく待ったが、今度は返事が返ってこなかった。ちっ、と舌打ちをして部屋へ戻る。
「身、買い物行ってこい。牛乳と弁当な。あの、唐揚げのやつ。あと適当なホットスナックも。十分以内に買ってこい」
入り際に言って彼女を見た。時には既にパジャマから着替えていて、ジーンズとセーター姿の彼女が布団の上で正座している。神田の命令を受けて、まるで戒律を守る軍人のように目を吊り上げ敬礼し、飛んでそこから出ていった。
「まったく、あの馬鹿は」
ふっと笑って、窪みのできた布団に寝転がった。ああ、こんな日は、気分が良い。酔ってなくとも気分がいいんだ。誰もいなくて、それでも不自由しなくて、束縛されるものがない日は。
携帯が、鳴った。夢が、楽し気な夢が、リアルに壊される。
「もしもし」
神田が電話に出て、無骨に言った。
「神田、依頼だ」
電話口の主が言った。
「石橋さんさ、早すぎるんだよねー、あんたの依頼は」
あぐらをかいて神田が言う。石橋と呼ばれた男が電話口で抑揚の無い声で話す。
「お前を保護しているんだ。それに、一件一件の間はきちんと三ヶ月間隔になっている」
「でもさー。こうも定期的に人ばっかりやってるとさ、こっちも頭がおかしくなるわけ。ええ? 聞いてるの? それにさ、頼んでたものまだ来ないの? そっちの要求ばかり通してこちらのは受け付けないと? さすがにあたしでもキツイよ、そういうの」
「それなら好きにしろ。また後でかけ直す。それとだ。最近のお前には自覚が足りないようだから、言っておく。お前はまだ我々の組織の中にいるんだ。あいつの借金の肩代わりでな。大蘭での自由と、お前自身の心に協力してやってる。きちんと仕事はしてもらう。きちんと自覚しろ。じゃあな。ジャック・ザ・リッパー」
言って、男が切った。何もかもが消えていって、当然の如く全てが無に戻っていった。やがて、いつもの日常が訪れる。
言い表せない怒りが、彼女の頭を何度も叩いた。叩いては、叫び、暴れてそこらを縦横無尽に駆け巡る。
「くそっ!」
力任せに携帯を壁に投げた。腐食し、柔らかな木の壁が衝撃を吸収してあっけなくそれが畳に落ちてしまう。怒りで頭が正常な判断を下せなくなっていた。もはや携帯も拾わずにそのままにしておく。いつか朽ち果てる、その日まで。電話主が、死ぬ時まで。
「なんなんだよっ! あのくそオヤジがっ!」
息を荒げ、そう叫んだ。糾弾する対象はもはや姿がない。幻に文句を言っているのなら、今度こそ本当に彼女は気がふれてしまったのだろう。
握られた二対の拳が熱くなる。やりどころのない怒りを自分にはけるため、右こめかみを思いきり殴打した。少しは気が晴れたが、残ったのは怒りよりも辛い虚無感だった。
布団に身を投げ出して、天井を見た。煤けて、角に蜘蛛の巣が張っている。獲物がかかる筈がないのに。黒と黄色の警告色模様をした彼らは何を待っているのだろう。無人の場所に罠をはる事の愚かさが、神田には馬鹿らしくて仕方がなかった。
ぐうっと背伸びをして骨の軋む音を聞く。足先に何かが当たる感触があった。マチェットだ。抜身のマチェット。彼女は一瞬慄いて、足を案じた。切れていないことを確認すると、何の考えも持たない顔で鈍くさくそれに手をかけた。
ハンドルを握って先を天井に向ける。二十五センチ程の長方形の刀身。パウダーコートが施され、光の反射はない。ハンドルは彼女手製だった。とは言っても、安物のゴムテープを巻き付けただけの代物ではあるが。
昨日殺害した男の顔がまざまざと蘇る。けれど、と彼女は思った。
「あいつ命乞いしてなかった」
マチェットをそこらに投げ捨てる。畳に刺さる音も、何かに当たる音もせず、まるで何かに引き込まれたかのように、それは彼女の視界外へと消えていった。
「なんか、つまんないな」
そしてまた、布団に身を委ねる。
時計の秒針が動く音が、彼女には不快に聞こえる。常時動き続けるものは、彼女は嫌いだ。止まらない奴も、止められない奴も、逃げる奴も、追いかける奴も。
時間と言う概念を消せば、彼女は幸せになれるのだろう。実際、時間を生々しく感じている時こそ、彼女が正体不明の恐怖にさらされている瞬間だった。身を潜めることもなく、音も出さず、姿も現さずに彼らがやってくる。そしていつの間にか彼女に取り付いては心を苛ませている。
「帰りましたよー! 神田さーん!」
役目を終えた犬が、帰ってくる。忠犬身。神田は想像して笑った。台所の横にある玄関に乱暴に靴を脱ぐ音が聞こえて、声よりも確実な情報が神田の頭にインプットされ、ふと考え付く。投げ出されたマチェットを手に取り、不気味に笑う。
身が部屋に入ると、供物を捧げるように弁当を持ち、不自然なことに気が付いた。神田が、いない。
「神田さん? 帰りましたよ?」
人型のくぼみのある布団を一瞥し、首を傾げる。
「むくろ~」
後ろから呼ばれて振り返ろうとすると、間もなく輝きの失った刀身が身の首元に現れた。やがて声の主が神田であることを知ると、彼女の体は硬直する。唾を飲む音さえも鮮明に聞こえて、弁当の入った袋を落とす。
「あたしさ、可愛い子見てると結構疼いちゃうんだよねー。アソコが、さ。でも、はっきり言って、死体じゃないとダメ。そういう性癖。人間色々いるからさあ」
身の首に腕を回し、頬を舐める。生暖かい感触を感じて、身が慄然とする。頬の冷たさを舌で感じて、神田も不快に思った。
「だからさあ、今から、ね? あんたのからだを使ってこの疼きを止めたいと思うの。分かった?」
耳元で囁く声も、身には届いていなかった。歯をがちがちと鳴らし、体の震えが止まらなくなったところで、神田が静かにマチェットを下ろす。
「ていう冗談だよー! むくろー!」
さぞ楽しそうに笑う神田。身の背中を何度かぽんぽんと叩いて、今度は腹を抱えてげらげらと笑う。背後でその声がしても、身は振り返らなかった。ネタをばらされても変わりはなかった。恐怖に身を凍り付かせ、本当に石になってしまったかのように微動だにしない。笑っている神田もその異常さには気付いて、前方に回っては顔を見た。顔面蒼白の顔がまだ真新しい。顔中に血液が回っていないのか、その白さには目を見張るばかり。
つーっと、頬に伝わる涙を目にして、今度こそ神田は罪悪感を抱いた。
「身、あたしが悪かったよ。だからさあ、ほら、泣かないで」
偶々ポケットに入っていたハンカチで、その涙を拭きとる。そこで初めて唇が小刻みに動き出した。段々と血の気が良くなっていくと、今度はぼろぼろと涙が零れてくる。
拭いても拭いても限りないそれを見て、いつしか神田は、その涙が脅かしから来たものではないと感じ取っていた。
「神田さん…わたし…こわいんです…」
咽び泣きながらそう言った言葉に、神田は思わず顔を上げて彼女の目を見つめた。潤んだ目から絶え間なく落ちる涙の間にも、それは至って真剣に、純粋に何かに怯える見方をしていた。
「何が怖いのか言ってみなよ。あたしが聞いてあげるから」と神田は言った。
「それがわからないからこわいんですよ!」
声を荒げながら、それでも涙声で、身が言い放った。恐怖の諸悪が分からずに、毎日それに怯えていて、今回の脅かしでそれが触発されたのだろう。
神田にはその畏怖、身と対してきた過去に覚えがあった。彼女にしか出ない、彼女独特のそれ。けれどその現象の詳細が分かっていない為に言葉に出来ない。
神田は黙っていた。段々と落ち着く様子にある身を見て、頭をぽんと撫でるだけする。
「あたしがそんなの、叩き潰してやるからさ。ほら、泣かないで。せっかくの可愛さが台無しになるから。あたしも、あんたのそんな姿見たくはないからね」と神田がどうせならと、しおらしく言う。「それに、さ。今回のは、私が悪かった。だから、一応は言っとくよ。ごめん」
いつも強く、負けず嫌いで意地っ張りで、馬鹿なお調子者だと思っていた身は、神田の意外な一面を見て、涙を袖で拭ってにこりと笑った。
「大丈夫。もう、大丈夫ですから」と身は言った。「そうだ! 神田さんが好きな人気のお弁当、あったから買ってきたんですよ!」
身が目の前に転がっているコンビニ袋の中を漁る。その背中に、再び見覚えがあることに気付く。考えていると酷く痛む頭を手で摩りながら、彼女が持ってきた弁当を見る。多少は寄りつつも、店頭に並んでいる状態と相違ない弁当がそこにあった。けれど一つだけ。それ以外には、小さな牛乳パックが一つぽつんと袋の中に忘れ去られているのみ。自分で買出しに行って、買ってきたものは他人の物だけ。言った本人の神田も、ため息をついた。
曲がった口と垂れた目が、目一杯の不機嫌さを醸し出していることに、身は不安を拭いきれなかった。神田にそうしているとの自覚はない。頭痛に即してそうなっていることもあったが、大分の気持ちは不機嫌であることに違わない。神田が少しばかり強引にそれを引き取ると、再度、ため息を吐く。
「あんたは本当に馬鹿だよ」と神田が言った。まるで、先ほどのことなどなかったように。「二人で一緒に食事を目の前にして、いただきますしてから食うのが当たり前だって教えただろう? 一人分じゃあ足りない。それはあたしの流儀に反するし、道徳的にも芳しくない」
身が静かに佇んで、身長差のある神田の顔を見上げていた。
「もう一回行ってくるよ、ほら。今度はあたしもついて行くから」
聞いて身が体を震わせる。嬉しそうにしているところを見ると、それからくる身震いなど見たことがないと神田は思った。
「久しぶりの神田さんとの外出ですか!?」
目を輝かせて身が言った。子供の純粋な視線を感じて、神田はそれを煩わしく感じる。なるべく見ないように、接しないようにと行動に言動に、細心の注意を払う。
「ああ、少しだけね。あたしもあんまり外は出歩きたくないし」
「やったー! 久しぶりの神田さんとの外出!」
はしゃぐ身の後ろ姿を見て、いっそのこと、さっきにでも首を飛ばしておけばよかったと、冗談交じりに神田は思った。けれど、殊の外それを真剣に考えてみると、絶対に出来のしないことだと認めざるを得なかった。
あたしは身のことを殺せない。彼女は、守らねばならない。