Ⅰ 「アルファな殺し」
裏路地で、誰もいる筈のない裏路地で、男が震えていた。寒いのではない、代わって病でもない。恐怖からくる、精神的な震えだった。
「おにいさ~ん? 逃げることはないでしょうよ? 逃げることは、ええ?」と街灯の淡い光を背にして神田が言った。
黒の膝上パンツに、ウッドランド迷彩色のタンクトップ。外はねする黒髪を覆うグリーンベレーに、シンプルなハンドウォーマー。そして、腰に吊った黒革の容れ物に刀身を隠すマチェット。
春風に晒した白い肌が、とても緻密だった。
「知らない間に女ほっといて、こんなところでがくぶるかーい? もしもーし?」
けらけらと笑いつつ、神田は男との差をじりじりと詰めていく。股がじんわりと滲むことにさえ気付かず、男は慄然としていた。体は自然と交代する。けれど立ち上がることが出来ない。脳が立ち上がるという行為を忘れてしまったかのように。彼は神田に背を向け、ただ静かに地を這いながら逃げるだけだった。
「はい捕まえた!」
男が甲に激痛を覚えてそちらを見た。ブーツに踏まれている。事実確認を済ませて再び痛みに悶える。
首を捻らせ振り返った。
やる気のないように垂れた目が、それに似て曲線を描いて笑う唇が、けれど不格好に表情を形成していた。心底楽しそうに見える。
「小さいころさ、あたし、虫の四肢を切断して遊ぶのが楽しかったからさ、お兄さんもそうしようと思ったんだけどね、やっぱり、うん、止めとくわ。なんか、可哀そうだし」
なおも逃げようとする男の手を神田はもう一度思い切り踏み付ける。そうして愉快そうに舌を出すも、今度はとても不機嫌そうな顔をして、マチェットを引き抜く。奇怪に刀身と革が擦れあう音が、夜の辺りに不快に響く。
「それにさ、なんかよくわかんねえけど」
長方形の刀身、刃を振り掲げる。男が再度首をこちらに向けるのを見計らい、その脳天に振り切った。
骨が割れる音は高くも、肉に刃が食い込む音は無だった。
脳漿と血液が入り混じるその液体を、頬に受ける。
「滅茶汚そうだしな」
つとマチェットを引き抜いて、刀身に付くそれを見た。いい気分はしなかった。口を曲げて目を細め、月に照らす。
「あーあ、汚れちゃったよー。まったくもう。どうすんだよー、これ?」
死んでいることを分かっていながら、神田は男に話していた。そして、またもけらけらと歪に笑いながら、その男のスーツで体液をふき取る。
割られた頭から流れ、噴き出るそれ。垣間見ては脳が見える。
背を向けて、振り返っては何度もそれを見ていた。度に口を押えて笑う。
「楽しかったよー。あんがとさんー」
背を向け悠然と歩きながら、手を振っては聞こえている筈もない彼にそう言った。