は?攻略対象?そんなことより僕はあの子が欲しい
「 あ゛?悪役令嬢?そんなことより俺は東大に入りたい 」の続編です。視点は隆一になります。
*紅子の口調がヤンキーです。一分低レベルな下ネタが含まれます。苦手な方はご注意ください。
赤尾隆一は、蒸し暑い放課後の廊下を、ゆったりとした足取りで歩いていた。
週明けから始まるテスト前の今日は、授業も早めに切り上げられ、廊下には帰宅する生徒が入り乱れて賑やかだ。
弱めにかけられた空調は、若さ溢れる学生達の熱気を冷やすことも出来ずに温い空気をかき回す。その空調の流れに乗って聞こえてくるのは、専らこの夏の過ごし方についての話題だ。学生たちはこれから迎えるテストそっちのけで、既に夏休みへのカウントダウンを始めている。
そんな賑かな廊下の中で、一際背の高い隆一の周りだけは、ぽっかりと静かな空間ができ上がっていた。
姦しい学生たちも隆一が通りすぎる時だけは口をつぐみ、その秀麗な横顔をじっと静かに見送っている。衆目に浮かぶのは何処までも優雅な少年に対する憧れと、自分達よりも高位の人間に対する畏怖の感情だ。彼らにとって件の生徒は、同学年であってもおいそれと声を掛けられる存在ではない。
隆一は日本を代表する企業、赤尾グループの後継者であり、何よりそんなバックグラウンドが無くても、背筋のぴんと伸びた姿と一つ一つの仕草がとても優雅で、彼の歩く道だけが、まるでレッドカーペットの敷かれた花道であるかのような錯覚を見る者におこす。選ばれた人間だけが持ちうる隠しきれない高貴さが、同い年の子供の群れから彼を孤立させていた。
静まる周囲にちらりと目線を向けた隆一は、現実から目を反らすように窓から空を見上げ、零れそうになるため息を堪えた。空は隆一の心を表した様に鉛色に重たく沈んで、校舎の周りを囲む木々は夜のように濃い影を映している。
雨が降るのかもしれない。
体に纏わりつく、じっとりとした湿度は、これから降る雨を予感させる。
季節は既に7月へと移り、つい先日に気象庁から、何時もより早めの梅雨明けが宣言されたばかりだ。
とはいえ梅雨前線が去って行ったとしても、雨の染み込んだ大地を乾かせるほど太陽の熱は強くはなく、人々が溺れそうな湿度から解放されるのは、まだ先になりそうだった。
額に張り付いた癖のある黒髪を鬱陶しげにかき上げると、窓に映った少年も腕を上げて白く秀でた額を晒した。不穏な空を背景にした眉目秀麗な少年の姿は、まるで一幅の絵のようだ。
夏服から伸びる長い腕を、靭やかな筋肉と日本人らしくない白い肌が覆う。顎から頬の輪郭にはまだ幼さが残るが、首筋のラインは既に男らしい力強さが垣間見える。
絶妙に揺れ動く不安定さ。
子供と大人の狭間。
そこにはこの瞬間だけに持ち得る、瑞々しい艶があった。
長い睫毛の縁取る目元は少し下がりぎみで、瞬けばとろりと甘さが香る。浮かんだ汗に不快そうに目を細めても、そんな表情すらどこか色っぽい。
隆一の暑さに上気した頬を盗み見てしまった廊下の生徒達は、男女関係なく顔を赤くして目を反らす。
紅子曰く、隆一は存在自体が十八禁である。多感な年頃の生徒達は、本格的な夏を前に日々それを実感させられていた。
そんな十八禁の隆一に、一人の女子生徒が勇気を振り絞って声をかけた。単なる帰宅の挨拶だったが、他の生徒は彼女の行動に驚きを隠せない。
突然の勇者の出現に、周囲からどよめきがおこり、声を掛けられた隆一は、緊張を浮かべた勇者の挨拶を受けて軽く手を上げる。
少し驚いたものの声を掛けられた事が嬉しくて、相手の緊張を溶かそうと優しく目を細めて見返す。黒い瞳がとろりと潤み、長い睫毛が煙る影を落とした。暑さのせいか、目の縁が少し赤く染まっている。
その背後では丁度、厚い雲の切れ間から太陽が覗き、窓を背にして立つ隆一の輪郭を光が縁取って、まるで天上人が降臨したかのような神々しさだった。
隆一は、身長の低い相手に合わせて体を少し屈め、挨拶を返そうと薄い唇をそっと開いた。
しかし溢れ出るはずの言葉は、感極まった学生達の悲鳴にかき消され、目の前で十八禁の微笑みをくらった勇者は、「目がぁぁ!目がぁぁぁ!!」と顔を押さえて身悶える。勇者は十八禁のクリティカルヒットを受けて重症の模様だ。
足元をふらつかせながら十八禁から遠ざかろうとする勇者を、周囲は彼女の蛮勇を称えるように道を開けて送り出す。
ハレルヤ!君のお陰で我々は神がこの場に降り立つ瞬間を目にすることができた。ありがとう勇者!君の勇姿は永遠に忘れない!さあ、帰ろう。今日はきっといい夢が見られるぜ!
隆一は中に浮いてしまった言葉と共に呆然と立ち竦み、解散していく生徒達と、逃げて行く勇者の後ろ姿を虚しく見送った。
目を合わせただけで、ここまで過剰な反応をされるのは隆一に対してとても失礼な話だし、まるで自分が妖怪か何かになったようで何とも情けない。勇者の逃亡に、十八禁もそれなりの傷を負った。
しかし、これが彼にとっての日常だった。隆一に対して、この学校で気軽に声を掛けてくるのは、今のところ紅子を含めて数人しかいない。正直、こんな自分が父の後を次いで大企業のトップに立てるのかと、将来を危ぶまずには居られない隆一だった。
隆一が目的の教室を覗くと、もうすぐ迎える夏休みに浮かれることもなく妙にピリピリとした緊張感が漂っていた。
その発信源である隆一の婚約者は、鬼気迫る勢いで机にかじり付きガリガリとペンを走らせている。テスト前の何時もの光景だ。クラスメイトも心得た様に紅子に近寄らず軽く声だけかけ、入り口に立つ隆一に気付くと頬を染めて俯き、そそくさと教室を出ていく。
紅子を気遣ってというよりも、隆一から逃げる様子だったのは気のせいだろうか。きっと気のせいだ。傷心の十八禁は辛い現実をから目をそらした。
紅子はそんな隆一の傷心もお構いなしに、物凄い集中力で問題集に取り組んでいる。
体を少し猫背気味にして、長い黒髪が簾のように顔を覆う。その姿はまるで幽鬼のようだ。今にも解いた問題を『一問、二問………六問…まだ足りない……』などと、井戸端に現れる幽霊のように数えだしそうだった。
「 紅子、そろそろ帰ろう。ほら、そんなに顔を近付けたら目が悪くなるよ 」
垂れ下がった黒髪をかき分けるように上げると、思わず口づけたくなるような、柔らかな頬が現れる。
薔薇色の頬はチーク要らずで、形のよい眉には皺が寄り、猫のような大きな瞳は爛々と光って白目を血走らせている。小鼻は膨らみ、桜色のふっくらとした唇が、一文字に引き締められ……淡いトキメキをぶち壊すくらい、紅子の表情は壮絶だった。可愛い顔が台無しだ。
暫くの間、何とも言えない気持ちで目の前の珍妙な顔をした婚約者を見つめた後、隆一は堪えきれずに吹き出した。先程まで何処か憂鬱そうであったのが、クスクスと笑う今の顔はあどけなく、瞳は何時にも増して溶けだしそうな甘さを含んでいた。愛しくて堪らないといった眼差しで、かき分けた髪を紅子の小さな耳にかけると、そのまま指先で耳の輪郭を撫でるように辿る。顔を近付けて、そっと甘く、囁くように言った。
「 今すぐ顔を上げて。じゃないと、このまま耳にキスするよ? 」
「 ふおぉぉぉぉ!!?? 」
耳元で、ふっ、と息を漏らすと、紅子は奇声を上げながら、椅子を吹き飛ばす勢いで立ち上がる。ようやく隆一の存在に気付いた紅子は、耳を押さえながら真っ赤な顔で口許を戦慄かせている。耳は紅子の弱点だ。
「 てめぇ、何しやがる! 」
「 紅子が返事をしないからだろう?…ああ、そんなに擦ったら耳が傷つくよ 」
「 お前のせいだろうが!普通に声かけろよ! 」
「 声はかけたけど、気付かなかったじゃないか。自業自得だよ 」
「 んな訳あるか!お前は一々エロいんだよ、この卑猥物が!! 」
「 ……卑猥物って、それは酷いな 」
さすがに婚約者に卑猥物扱いを受けるとは思わなかった。
十八禁から卑猥物に進化した隆一が軽く衝撃を受けていると、紅子は怒った顔のまま、立ち上がった時に飛んでいったペンを探して屈み込む。その度にスカートから瑞々しい太股と黒色の下着がチラチラと覗いている。下着の黒が肌の白さを際だだせて、何とも扇情的な光景だ。紅子に隆一を責める資格は無い。
「 紅子、下着が見えてるよ。ねえ、もう少しスカートを長くしない? 」
「 はあ?暑いのに嫌だよ。見えパン穿いてんだし良いじゃんか 」
「 良くないよ。そんなことして周りを惑わせてどうするの?君が安く見られるのは僕が耐えられないよ 」
「 あほか。惑うも何も、お前みたいな物好きは早々いねーよ 」
紅子の言葉に、隆一は大きく息をつく。
紅子は何も分かっていない。彼女は黙ってさえいれば文句なしの美少女だ。
長い艶やかな黒髪に、勝ち気そうな大きな目。女性にしては長身な体は、健康的に引き締まっている。何よりその生命力に溢れた輝きは、見るものを引き付ける力がある。
紅子はどんなことにも常に本気だ。何だって受け入れて、貪欲に吸収する。全身で生きる喜びを表す紅子は、その粗野な言動すら彼女らしいと思わせてしまうほど魅力的だ。
しかしそんな周りの目など気にした様子もなく、紅子はいきなりスカートをひょいと捲り上げる。
「 見ろよこれ!この前母さんと買い物行った時に見つけたんだよ。スゲーだろ 」
そのまま得意気にくるりと回る。黒地の短パンは前に『虎』、形の良い小さなお尻には『狼』と達筆な白字のプリントがされていた。…前門の虎、後門の狼という事だろうか。
「 ……すぐにスカートを下ろして。早く! 」
「 なんだよ。隆一に見せようと思って穿いてきたんじゃねーか 」
「 だからって、こんなところで見せるものじゃ無いだろう! 」
「 そんな怒るなよ 」
珍しく声を荒げた隆一に、紅子も拗ねたように唇を尖らせて渋々スカートを下ろす。確かにそんな短パンに色気は無いが、逆に下品だ。なぜ母親は止めなかったのか。
教室に隆一と紅子しか残っていないのは幸いだった。もし他に誰か居たなら、その人物は紅子のお尻の記憶が消えて無くなるまで、隆一によってありとあらゆる苦難を与えられただろう。そんな面倒なことは、できるだけしたく無い。
「 常に慎みを持てとは言わないけれど、場所くらい選んで行動して 」
「 お前しかいねーじゃん。さすがに誰かいたら俺だって躊躇うわ 」
「 躊躇うだけじゃなくて、絶対にやめて。もしやったら、本気で怒るよ 」
「 …分かったよ、やらねーよ 」
たまに本気で怒らせる度に泣きの入る紅子は、さすがにこんな事で喧嘩をしたくはないと思ったのか素直に聞き入れる。
「 だいたい何でそんな物を買ったんだ。僕は君のセンスを疑うよ 」
「 下らなすぎて逆に笑えねぇ?俺、店でこれ見つけたとき爆笑したわ。これを商品化した、その度胸にやられたね 」
「 ……そんな事で喜ぶのは、君と小学生くらいだよ 」
その時の事を思い出したのか、可笑しそうに笑う紅子に、隆一は呆れたようにため息をつく。隆一の婚約者殿は、本当にしょうも無い事で無邪気に喜ぶ。そのセンスは小学生並みだ。
「 遅くなるから帰ろう。急がないと間に合わないよ? 」
「 えっ?うわっ、いつの間にこんな時間になってんだよ! 」
時計を見た紅子は、慌てて机に散らばった荷物をまとめだした。
隆一は隣の机に置かれたプリントを、紅子の鞄を開けてしまっていく。またホームルームそっちのけで勉強していたのだろう。教師すら今の紅子には注意をしない。すでにガリ勉紅子はテスト前の暗黙の了解だ。
「 おっ、さんきゅー 」
紅子は軽い言葉で感謝しながら、受け取った鞄に荷物を詰めていく。隆一はその横顔をぼんやりと見つめながら、紅子は変わらないな、と思う。
一つの事に夢中になると、他のことが目に入らなくなる癖は昔からだ。負けず嫌いなところも、乱暴な口調も、明るい性格も昔から変わらない。
それは隆一が望んだことだ。紅子には変わらないままで、隆一の側にずっと居て欲しかった。
でも、変わらない人間など本当に居るだろうか?
一つ年を取る度に、周りの景色は色を変える。人はその度に、服を変えるように心を変えていく。子供の頃に夢中になった玩具を抱えたまま、大人になることなど出来ない。世間はそんな人間を受け入れたりしない。
隆一だって少しずつ変わっているのだろう。それは当たり前の事で、成長しない人間などいない。
高等科へと上がり、周りの目は既に子供を見るものでは無くなりつつある。その目に答えるように、隆一も大人になっていく。
選ぶのではなく、それは誰にでも訪れる、必然の変化。
それなら紅子も、これから変わっていくのだろうか。
乱暴な口調をやめて、女らいし振る舞いを身につけて、周りに求められるまま、大人になっていくのだろうか。
隆一の目の前にいる、無邪気に下らない事で喜ぶ、子供の紅子は消えてしまうのだろうか。
隆一の隣から、消えてしまうのだろうか。
「 お待たせ、帰ろーぜ。…おーい、何ぼーっとしてんだよ?風邪でもひいたか? 」
思考の海に沈んだ隆一を、紅子が呼び戻す。
紅子の温かい掌が隆一の前髪をかき上げて、額をやんわりと覆う。少し眉を寄せて、隆一を覗きこむ顔はどこか心配そうだ。
紅子の猫のような大きな目には、隆一の虚ろな顔が映っていた。
正面玄関を出ると、まだ日没には時間があるにも関わらず、光は弱々しく辺りは薄暗い。空には雲が重く広がって、今にも雨が降りだしそうだ。
「 降られる前に帰れっかな 」
「 どうかな。車はもう来てるはずだよ 」
空を見て顔をしかめた紅子に答えながら、ふと横を見ると、見覚えのある小柄な姿を見つけた。その彼女も隆一達と同じように、玄関の庇の下で不安そうに空を見上げている。
「 あれ、ももさんじゃない? 」
「 ほんとだ。おーい、ももちゃん!どーしたの? 」
紅子が大声で呼ぶと、こちらに気付いたももが小走りに近づいて来る。ふわふわの栗色の髪を揺らし小柄な彼女が走る姿は、何やらチマチマとして可愛らしい。隆一を見上げて頬を染める様子は、正しく恋する乙女だ。
「 赤尾君!…あと、紅子も。今帰りなの? 」
「 おいこら、俺はついでかよ。声を掛けたのは俺だっつーの 」
「 そうだよ。ももさんは帰らないの? 」
「 今から帰るんだけど、傘忘れちゃって。雨が降ったら嫌だなーって考えてたところ 」
文句を言う紅子をあからさまに無視して、隆一に答えるももは困った様に笑う。隆一を見上げる円らな目は期待を含んでいて、思わず苦笑が漏れる。
「 傘なら貸すよ。僕たちは車だから必要ないし 」
「 ありがとう!赤尾君と相い傘ができないのは残念だけど、貸してくれるのは本当に助かるわ 」
「 ももちゃん、ひでぇ。無視すんなよ、傷付くぞ 」
「 紅子は黙ってて!ちょっと、くっつかないでよ暑苦しい! 」
小柄な体にのし掛かる様にして文句を言う紅子を、ももは嫌そうに押し退ける。この二人は最近仲が良い。きつい事を言いながらも面倒見の良いももと、邪険にされても向かって行く紅子のじゃれ合いは、見ていて何処か微笑ましい。
「 ももちゃん、車乗ってけよ。一緒に帰ろーぜ 」
「 いいの?私の家、紅子の家とは方向が違うわよ? 」
「 今なら道も混んでねーし、さして変わんねーよ。ほら、行こーぜ 」
ももの腕を引いて歩き出した紅子に、その後を付いて行きながら、隆一はそっとため息を漏らす。
紅子はかなりのフェミニストだ。この後の予定を忘れた訳でも無いだろうに、友人が雨に濡れる方が一大事らしい。
「 あれ?赤尾君も一緒なの? 」
迎えの車の助手席に乗り込むと、紅子と並んで後部座席に座ったももが不思議そうに聞いてくる。
「 今日は来客があるから、挨拶のついでに紅子の家に泊まる予定なんだ 」
「 え!?それじゃあ、急いで帰らなきゃいけないんじゃないの?ちょっと紅子、そういう事はちゃんと言ってよ!私、歩いて帰るわ 」
慌てて車を降りようとするももを、紅子は制服のシャツを掴んで引き戻す。
「 あほか。女が雨に降られて体を冷やすんじゃねーよ。それにお前、特待生だろ?テスト前に風邪でも引いたらどーすんだ 」
「 そのくらいで風邪なんかひいたりしないわよ 」
「 良いから乗ってけってば。来客はうちのばーさまだから、多少遅れても気にしねーよ。むしろ友達置いて帰ってきた方が怒られるわ 」
「 ……何であなたは、そう男らしいのよ。ねえ赤尾君、本当に大丈夫なの? 」
迷惑になるんじゃないかと不安そうに尋ねるももに、隆一は振り向いて軽く笑って見せる。
「 大丈夫だよ。そんなに時間も変わらないし、安心して乗っていって 」
本当はあまり大丈夫ではない。紅子の祖母はとても厳格な人で、常々紅子の言動に対して厳しい叱責をする。遅れて帰ったなら、紅子はまた叱られるだろう。紅子も言い訳をする性格ではないから、隆一はフォローを入れる必要がある。
その過程でされるであろう話題を思うと、より心が沈んでいく。
隆一は憂鬱な気持ちで、走り出した車の窓の景色を見つめた。
「 紅子のお祖母様は、普段一緒に暮らしていらっしゃらないの? 」
「 ばーさまはスイスの学校で先生してんだよ。俺も去年の暮れに会ったっきりだな 」
「 スイスの学校で?お祖母様は日本人じゃないの? 」
「 いや、日本人だよ。ただ若い頃はずっと留学してたみたいでさ。父さんに家督を譲ってから、向こうに戻って先生になったんだよ 」
「 ……なんだか凄いお祖母様ね。他国で先生になれるなんて優秀な方なのね 」
一般家庭に生まれたももは、話に呑まれたように頷いている。
ももの言う通り、紅子の祖母の鷺沼菖蒲は当時では珍しいほどの女傑だ。早くに夫を亡くし、女手一つで紅子の父を育て上げ、鷺沼本家の当主として鷺沼グループを導いた。
それがどれ程大変な事であるかは、将来赤尾家を継ぐ隆一にも痛いほど分かっている。紅子に厳しく当たるのも、自身がした苦労を孫にさせない為である事も。紅子も隆一も、それはよく分かっている。
「 うちのばーさまは、ちょーツンデレらしいぞ。俺にはデレてくんねーけど。ももちゃんはツンデレ同士気が合うかもな 」
「 誰がツンデレよ!それにデレないツンデレって、ただのツンじゃないの。……でも若い頃から留学されてるなんて、素敵なお祖母様ね。一度お会いして、お話を聞いてみたいわ 」
「 ももちゃん、留学してーの? 」
「 ちょっと興味があるだけよ。うちにそんなお金はないし 」
そう言うももの顔は気まずそうだ。
留学に憧れはあっても、一般家庭では敷居が高いのだろう。
隆一達が通う学校で特待生となることは、ももが相当に優秀な証だ。ただ同じ学年に隆一と紅子という規格外がいるせいで、あまり目立たないだけである。
ももが望むなら、隆一が学校側に留学の援助を打診することも可能だ。優秀な生徒を輩出できるなら、学校にとっても否は無い。それだけの資金的な余裕もある。
「 興味があるなら、お祖母様にお話しておこうか?今回は短期滞在だから、無理かも知れないけれど、次の機会もあるだろうし 」
「 いいの?ご迷惑にならないかしら? 」
「 いいじゃん、ばーさまに言っとくよ。留学するかどうかはともかく、話聞くだけでも違うだろ 」
「 ありがとう 」
嬉しそうに頷いたももに、紅子は閃いた顔で誘いを口にする。
「 そうだ、なんなら明後日のパーティーにももちゃんも来るか? 」
「 パーティー?明後日に何かパーティーがあるの? 」
「 聞いて驚け、なんと隆一のお誕生日ぱーてーだ! 」
「 は!? 」
元々丸い目を益々丸くして驚くももに、紅子は「やっぱ金持ちは違うよな。たかが子供の誕生会が、ホテルを使ったパーティーだもんよ」と言いながら、楽しそうに笑っている。
「 どういうこと!?パーティーがあるのは三年生になってからじゃないの!? 」
「 何で三年生限定なんだよ。別に今年やっても良いだろ 」
「 だってゲームでは……! 」
そこでももはハッとした様に口許を押さえて、助手席に座る隆一の方をちらりと見た。バックミラー越しに目が合った気がしたが、隆一は知らない振りを決め込む。【ゲーム】とは、以前隆一から逃げたした紅子とももが学校の裏庭で話していた話だろう。
あのときの二人の会話を思い出す。
ももは、この世界が乙女ゲームの世界で、ももが主人公、紅子が悪役令嬢で、隆一はももとの愛を深めるのだと言っていた。
隆一の高性能な脳細胞は、二人の会話を一語一句違わすに思い出すことができる。
それまでなんの接点もなかった生徒が、隆一の婚約者に人目を避けて近づいて来たのだ。警戒しない方がおかしい。話の内容も眉を顰めざるえない突拍子もないものであったから、あの後、家の者を使ってもものことを詳細に調べさせた。今ではももの家族の詳細な情報から、彼女自身ですら忘れているような情報まで全て頭に入っている。
幸い、ももは警戒していたほど悪い人間ではなかったが、それでもこれこらどう変わっていくのかは分からない。もし、ももが紅子に向かって良からぬことを画策するようであれば、いつでもももを排除する用意が隆一にはあった。
「 ……ねぇ、変なこと聞くけど、あなたお祖母様に良く思われてなかったりする? 」
「 ……おぉ、言いにくいことズバッときくな 」
「 大事な事なのよ!ちゃんと答えて! 」
「 あ~…、嫌われてるとは思ってねーけど、良く思われてはいねーかな。ほら、俺こんなんだろ?親戚連中に五月蝿い奴らが居てさ、そいつらがばーさまに、俺は隆一に相応しくねーとかわざわざ報告してくれてんだよな 」
困った顔で答える紅子に、ももはどんどん顔を固くさせていく。その様子は尋常ではない。紅子は心配になったのか、ももの様子を伺う様に小声で話しかける。
「 俺とばーさまがどうかしたのか?ゲームって、前に言ってたやつのことだろ?それが何か関係あるのか? 」
「 ……私の知ってるゲームでは、三年の今頃に赤尾君の誕生日パーティーがあるの。そこであなたは赤尾家に嫁ぐには相応しくないと判断されて、お祖母様の働くスイスの寄宿舎学校に連れていかれてしまうのよ 」
ももは暫く躊躇うように視線をさ迷わせたあと、紅子の耳元に顔を寄せ小声でゲームの知識を伝えた。
反応を見るように紅子を見つめると、紅子は驚いた様子で、しかし、ももが心配した不安さなど欠片もなく、あっけらかんとして頷いている。
「 おー、スゲー現実そっくりだな。確かにばーさまは俺を向こうに連れていきたがってるよ 」
「 え!?そんな感心してる場合じゃないでしょ!どうするのよ、このままじゃあなたスイスに連れてかれちゃうわよ!? 」
「 どうするも、こうするも…… 」
「 そんな事にはならないよ 」
二人の会話を遮るように、隆一の言葉が車中に響いた。
きっぱりと否定する隆一に、こそこそと話し込んでいた二人の視線がぱっと前を向く。
隆一は振り返らずバックミラー越しに、驚いた顔の二人をちらりと一瞥して、再び真っ直ぐ前を向く。最初の会話こそ聞こえなかったものの、後半は二人とも声が高くなっていたので隆一にも聞き取る事ができた。そうして耳に届いたのは、隆一が今一番聞きたくない話題だった。
「 僕が日本に居るのに、紅子だけ海外に行かせるなんて有り得ない 」
「 ……だとよ。俺は行っても良いんだけど、隆一が大反対してんだよ 」
「 当たり前だよ。どうしても留学するなら、僕も一緒に通える学校を探すよ。だけど、お祖母様の働いている学校は女子校じゃないか。紅子を僕の目の届かない所に行かせるなんて、絶対に有り得ない 」
苛立ちを隠しもせずに言い放った隆一に、紅子はやれやれといった様子で肩を竦める。この話題にななると普段温厚な態度を崩さない隆一が、珍しく不機嫌さを露にする。紅子が留学に対して乗り気なのも、隆一の苛立ちを助長させていた。
「 出たよヤンデレ。問題は俺の礼儀作法と語学力だろ?何でお前まで一緒に行かなきゃなんねーんだよ 」
「 君は普段の言動はともかく、公の場所ではきちんとしているじゃないか。それに語学力だって、周りの期待するレベルが高すぎるだけで、問題があるほど低い訳じゃない。大学から二人で海外に出て、専門的な勉強と一緒に身に付ければ十分だろう 」
「 いや俺は東大に入るけどな。海外の大学には入らねーからな? 」
「 はっ、そういう台詞はテストで僕に勝ってから言ってくれる? 」
「 うっわ、ムカつく!次のテストではゼってー勝ってやる! 」
「 はいはい。精々頑張って 」
「 チクショー!今に見てろよ! 」
紅子の常套句を鼻で笑ってあしらった隆一に、紅子は目をつり上げて腹立ち紛れに助手席の頭部をボカボカと殴り出す。迷惑そうに振り向いて「埃がたつから止めてくれる?」と冷たく返した隆一に、益々熱り立った紅子が腕を伸ばし隆一の髪をグシャグシャと掻き回しはじめ、それに抵抗する隆一との揉み合いになる。シートベルトに引っ張られるのも構わず、狭い車内で暴れる二人は最早子供の喧嘩だ。
「 ちょっと二人とも、止めなさいよ!事故になったらどうするの! 」
「 だってももちゃん、あいつマジでムカつく! 」
「 腹が立つのはこっちだよ。紅子は僕と引き離されても平気なの?それとも僕との婚約を解消して、海外で新しい相手でも見つけるつもり? 」
隆一はぐしゃぐしゃになった髪を整えながら、後ろを振り返って睨み付ける。何時もは甘い瞳が冷たい色をのせて、整った顔立ちを無表情にすると、かなり迫力がある。隆一のそんな顔を初めて見るももは思わず、はっと息を飲んだ。
「確かに紅子の気質なら、海外の方が受け入れられやすいだろうし、何かと周りが五月蝿い赤尾家に拘らなくても、伸び伸びと暮らせる結婚相手が見つかるかもしれないしね。……だけど僕はそんな事、絶対に許さないよ 」
「 フザケたこと事言ってんじゃねーよ! 」
運転の邪魔になると怒ったももによって引き離された紅子は、隆一の言葉に再び熱り立って、シートベルトを外し助手席に身を乗り出すと、腕を伸ばして隆一の胸ぐらを掴みあげる。それまで沈黙を守っていた運転手は、慌てて車を道の端に寄せて車を止めた。
鼻が当たりそうな位置まで顔を寄せた紅子は、猫のような目に爛々と怒りを燃やして、隆一を真っ直ぐに睨み返す。
「 お前との婚約を認めさせる為に、留学しようとしてんだろうが。そんな事で周りが黙るなら二、三年離れるくらいなんてことねーだろう。そんな事お前だって分かってんだろ! 」
「 ……分かってる。紅子が留学することに賛成な理由は分かってるんだ。…だけど僕は紅子と離れたくない。嫌なんだよ。紅子が僕の居ない所に行ってしまうのも、紅子が変わってしまうのも 」
胸元を掴みあげられているからではなく、喉を塞ぐように迫り上がる感情に息をつまらせながら、食い縛った歯の間から小さな声か漏れる。その声は弱々しく、長い睫毛が細かく震えて、潤んだ瞳は不安で揺れていた。
「 あの人たちは、紅子だから気に入らない訳じゃない。他の誰が僕と婚約したって、自分の利に適わなければ納得しないんだ。何時でも僕を蹴落として、自分達が赤尾グループを支配しようと狙っている。君がそんな環境に嫌気がささないなんて、どうして言いきれる?僕と離れて海外に出て、広い世界を知ったら、君は自由に生きる事を望む様になるかもしれない 」
日本を背負って世界を廻る優秀な両親の背中。用意された最高の教師たち。品定めするような親族の目線。それは隆一へ常に緊張を強いて、鎖となって絡み付く。
完全であれ、と周りが促す。
将来大企業のトップに立つ人間として、誰もが認める人間であれと。期待が、野心が、取り巻く様々な思惑が隆一を雁字搦めに縛り付ける。
他人に弱味を見せず、自分の至高さを見せつけるように。外敵からのストレスに折れない強靭さを。
隆一のぴんと伸びた背中は冷たい鉄のように弛むことを知らず、指先で、目線で周りを動かす。周囲が優雅と称賛する姿も、隆一にしてみれば、まるで決められた線以外を辿るのを許されない、プログラムされたロボットのようだと思える。ロボットなら感情なんて面倒なものを持たずにいれば良いのにと思ってしまう。
だけど、そんな隆一の硬い心を紅子は何時でもぶち壊す。
造られた隆一という完璧な形を、紅子の突拍子もない言動がぶち壊していく。呆れ、笑い、怒り、泣く。紅子と居るときだけ、隆一は赤尾家の後継者というロボットから、感情を持って動く赤尾隆一という人間に戻れる。それが周囲の期待とは正反対の事であっても、隆一はこの時の自分が好きだった。隆一を揺り動かす紅子の天真爛漫さが愛しかった。
しかし、周囲はそんな紅子を認めない。
完璧な隆一の隣には、完璧な婚約者を。
全てに於いて完璧な人間なんて居る筈もないのに、表層の隆一しか知らない周囲は、紅子に隆一と同じ完璧さを求める。隆一と同じロボットになれという。それが無理なら引き離そうとする。許せなかった。許せる訳がない。
「 紅子が僕のために変わろうとしてくれるのは嬉しいよ。だけど僕は君に変わって欲しくない。そのままの君が好きなんだ。……お願いだから、僕から離れようとしないで。君が居ないと僕は気が狂ってしまう 」
最後はすがり付くように紅子の肩に顔を埋めた隆一に、紅子は大きく息をつくと、掴みあげていた手を放して隆一の頭を慰める様にくしゃりと撫でた。
「 泣き落としは卑怯だぞ 」
「 泣いてない。これは心の汗だ 」
目元を擦り付けながらおかしな事を言い出した隆一を、紅子は胡乱な目で見下ろした。
「 ……お前、そんな知識を何処で仕入れたんだよ 」
「 紅子の部屋にあったマンガに書いてあった 」
「 余計なことを覚えんじゃねーよ。また俺が叱られるじゃねーか 」
「 ふふっ、そしたらまた二人で叱られれば良いよ。僕は紅子と一緒なら何でも良い 」
すがり付いた手を紅子の背に回し、離れたくないと力を込めると、頭を撫でていた手が再び髪をぐしゃぐしゃに掻き乱す。隆一の癖毛は、湿度の多いこの時期、うねりが強く出て纏めるのに苦労する。そんな隆一の悩みを知っていて、紅子はわざと遣っているのだ。
「 ………何なのよ、このバカップル。気が抜けるわね、心配した私が馬鹿みたいじゃない 」
すっかりその存在を忘れられたももは、窓に凭れるようにして腕をくみ、目を眇めて二人を見ていた。
振り向いた紅子が、離れようとしない隆一を抱きとめたまま苦笑して、申し訳なさそうに言った。
「 ごめんな、ももちゃん。こんな事になって。時間大丈夫か? 」
「 私は良いけど、あなた達は時間が無いんじゃないの? 」
「 そうなんだよな。ほら、隆一離れろよ。そろそろ車出すぞ 」
席に戻ろうとする紅子に、隆一は益々腕に力を込めてしがみ付く。帰りたくなかった。紅子の家に帰れば、待っている菖蒲にまた留学の話題を蒸し返されるだろう。紅子をスイスに連れて行きたい菖蒲と、紅子と離れたくない隆一では何時まで経っても話は平行線だった。
彼女が日本にやって来る度に隆一の心は不安定に揺れる。ならばせめて家に帰るまでは、こうして紅子にくっついていたい。子供のように甘えた姿は、端から見れば情けないだろうが、そんな事もどうでも良い。
今ここに居るのは赤尾家の後継者である完璧な隆一ではなく、婚約者にうつつを抜かす情けない一人の人間だ。そんな情けない隆一の事も紅子は笑って受け止めてくれる。
外は雨が降りだしたのか、雨粒が打ち付ける音がポツポツと車内に響いていた。紅子の肩に顔を埋めたまま、雨音に包まれた狭い車内で、少しでも長く紅子の体温に溺れていたいと思う。
「 傘だけ貸して頂戴。ここから家までそんなに時間はかからないわ。今なら雨が強くなる前に帰れるでしょ 」
「 そんな訳いかねーよ。ほら隆一、離れろよ! 」
「 やだ 」
「 やだじゃねーよ!アホなこと言ってねーで離れろってば! 」
「 紅子、良いから。すみません運転手さん、この車に傘って置いてますか? 」
「 ももちゃん! 」
焦って隆一を引き離そうとする紅子に、ももは淡く笑って言った。その目は切なそうに、紅子にしがみ付く隆一を見つめている。
「 あなたは子守りに専念なさい。私も赤尾君のそんな姿を見てるのはさすがに辛いわ 」
「 ……ほんとごめんな。せめてタクシー拾うから、それで帰ってくれよ 」
「 要らないわ。……今は一人になりたいの 」
ももが車の扉を開けると、車内に響く雨音が高くなる。雨の臭いが、顔を埋めたままの隆一の鼻にも届いた。少しだけ顔を上げて、運転手から傘を受け取ったももに声を掛ける。
「 ごめんね、ももさん 」
「 ……謝らないで、余計に辛くなるわ。今度ランチを奢って頂戴。今日の事はそれで無しにしてあげる 」
「 一番高いのを奢るよ 」
「 デザートもつけてね? 」
軽口とは裏腹に、ももの顔は泣き出しそうに歪んでいた。
そのまま扉は閉ざされて、ももが去った車内は紅子と隆一の二人だけになった。気を効かせたのか運転手も戻ってこない。
無言の二人を車を叩く雨音が包んでいた。
「 ……俺らサイテーだな 」
「 そうだね。最低だ 」
雨音の狭間に紅子の呟きがぽつりと落とされた。
紅子は暗い顔で、ももに酷い事をしてしまったと落ち込んでいる。隆一は紅子の言葉を肯定しながらも、一番酷いのは自分だと理解していた。
隆一はももが好きではない。
優しい子だと思う。隆一を慕って頬を染める姿は可愛らしいと思う。でもそれだけだ。彼女は紅子じゃない。それだけで、隆一の興味は失せた。そればかりか、紅子が何かと構うももが鬱陶しい。
だからさっきも、見せつける様に紅子から離れなかった。
叶わない恋など、さっさと諦めてしまえば良い。
隆一を見る時、ももは隆一の中に別の人間を探すような目をする。それが【ゲーム】と関係があるのか分からないが、隆一はももの知る幻想の人物ではないし、紅子を嫌いになることなど絶対に無い。
隆一はももの話を聞くまで【乙女ゲーム】というものを知らなかったが、少なくとも恋愛シミュレーションゲームの攻略対象が、今日のように情けない姿で婚約者にすがり付く姿など有り得ないだろう。これで隆一に幻滅してくれたら良い。
紅子の首筋に額をすり付けると、こぼれ落ちた黒髪からローズマリーの控えめな香りがした。紅子らしいすっきりとした香りは、隆一の不安定な心を落ち着かせる。香りに引かれて身を寄せると、紅子が迷惑そうに押し返してきた。
「 重い!この体勢きついんだから、あんま体重かけんなよ 」
「 そうだね。それなら僕がそっちに行くよ 」
「 えっ?ちょ、やめろよ!痛っ、足!足が引っ掛かってる! 」
助手席に片膝をついただけの体勢は、確かに辛そうだった。
隆一は納得して片手だけでシートベルトを外すと、もう片方の腕で紅子を抱えて、狭い車内を無理やり後部座席に移動する。何度も体をぶつけたが、少しの間だけでも紅子の体温から離れたくない。
どうにか移動すると、再び両腕で紅子を抱えて首筋に顔を埋める。そうやって落ち着いた隆一の頭を、怒った紅子が平手で叩き、車内にぺちん、と間抜けな音が響いた。
「 酷い。叩くことないだろう? 」
「 バカ野郎、何が酷いだ!なんでわざわざ俺を抱えて動く必要があんだよ!一端車から降りれば良いじゃねーか! 」
「 だって外は雨が降ってるじゃないか。紅子を濡らす訳にはいかないだろう? 」
「 だから、なんで俺まで降りんだよ!一人で降りろ! 」
連れない事を言う婚約者を見上げると、紅子は窓の外を気掛かりそうに見つめていた。強くなった雨音に、ももの事を心配しているのかもしれない。
「 そんなにももさんの事が気になる? 」
「 ももちゃんもそうだけど、柿谷さんが外に出たままだろ?このままじゃずぶ濡れんなっちまう 」
「 ……紅子は皆に優しいね 」
紅子は乱暴な言動をしていても、基本的に優しい。その優しさが隆一を苛立たせる。隆一がこんなに紅子を求めていても、紅子はももや運転手の心配していて、重ならない心が憎らしかった。
柿谷は運転手であることが不思議なくらい体格がいい男で、実際、紅子のボディーガードも兼ねている。今もこの車を見張れる位置に立ち、周囲を警戒しているはずだ。
傘も持っているだろうし、雨に濡れたくらいで体を壊すようにはとても見えないが、そろそろ時間を引き延ばすのも限界だ。家では菖蒲がイライラしながら紅子たちの到着を待っているだろう。
大きく息をついて体を離すと、紅子と接していた部分がスッと冷えて、失った体温にもう一度すがり付きたくなる。それを堪える代わりに、ようやくこちらを向いた紅子の顎を掬い上げて口づける。
桜色の柔らかな唇を食むと、いきなりの口づけに驚いた紅子が肩を押して抵抗するが、それを無視して、艶やかな黒髪に手を差し込み引き寄せて、何度も、何度も口づけた。お互いの息が熱くなっていき、紅子の髪からローズマリーの香りがたちのぼる。肩にある紅子の力の抜けた手のひらを指を組む様に合わせ、全てで紅子を引き寄せる。
この瞬間、紅子の全ては隆一のもの。
熱く漏れる息も、手のひらの体温も、あかく染まった頬も、快感に溶けた瞳も、全て隆一のもたらしたものだ。
きっとこのキスが終わったら、紅子は隆一の強引な行動に腹を立てるだろう。そして車のドアを開けて、柿谷を呼びに雨のなか出ていこうとする。そうやってまた、隆一から離れていく。
赤尾家に縛られた隆一と違い、紅子は隆一から離れれば何時でも自由に飛び立てる。明るい彼女には広い世界で自由に羽ばたく姿が似合っている。
けれど、隆一は紅子を手放すことなどできない。
隆一にとっての紅子は、マグリットの空の鳥のような存在だ。
暗い夜空を切り取るように、明るい青空模様の鳥が羽ばたく、シュルレアリスムを代表する画家が描いた、幻想の鳥。
隆一を取り巻く暗い世界で、紅子だけが窓のように明るい世界を見せてくれる。どんなに鳥が篭から出たがっても、もう出してなどやれない。だって、隆一は明るい世界を知ってしまった。明るい鳥を愛してしまった。例え空色が暗く濁ってしまっても、もう手放すことなど考えられない。
曇天の暗闇と、激しく打ち付ける雨音と、狭い車内で守られた小さな世界で、隆一は紅子の全てを飲み込むように、だけど壊してしまわないように、ローズマリーの香りに包まれて、隆一だけの空の鳥に何度も何度も愛を強請った。