<三>憑
逃走犯は住宅街を突き進み、大通りとは反対側の道を走る。
人目を気にしている朔夜と飛鳥にとっては好都合だが、今の彼は何をしでかすのか予想すらつかない。
翔が私有地の駐車場に飛び込む。三面ブロック塀で囲まれているそこは行き止まりだ。仕切り代わりの鎖を飛び越えて幼馴染の名を呼ぶ。ようやく逃げることをやめた彼が体ごと振り返ってくる。
「お前は誰だ」友人の体で何をしている。憑いている相手に詰問すると、犯人は一笑を零した。
「憑いているなど無粋な表現を使うな。余は少しばかり、こやつの体を拝借したに過ぎぬ」
心配せずともこの身はすぐに朽ちる。
彼らしからぬ口調と、彼ではない声音が厭味ったらしく笑う。
犯人は己の右手を胸部に当てると、「人間の器は脆いのう」少しの衝撃で崩れてしまう。哀れみを抱くと犯人は白々しく同情心を向ける。ならばいっそのこと此処で朽ちさせ、輪廻転生を得て新たな命を頂戴するのも慈悲ではないだろうか? 尤も人間に転生すれば同じ過ちにしかならないだろうが。
「ふざけるな」殺気立つ朔夜が唸り声を上げ、「ショウくんを返してよ」飛鳥が呪符を構える。
「そんなにこの小僧の体が大切か? もう手遅れだとは思うが、まあ良い。小手調べといこうか」
薄ら笑いを浮かべていた犯人の表情が消え、幼馴染の両膝が折れる。
同時に駐車場を覆うように結界が張られ、地の影から自動車の物陰からブロックの壁影から無数の邪鬼が飛び出す。闇に身を潜めていた妖達はあれよあれよという内に獲物である自分達に群がった。邪鬼そのものは弱小でも無数になると力は無限となる。
幾多も現れる邪鬼に朔夜と飛鳥は悪戦を強いられるだろうと冷静に判断。それだけなら良いが、此処には一般人もいる。
「ショウくんは私に任せておいて!」
逸早く状況を改善するため、倒れている翔に向かって四枚の呪符を放つ相棒。
「一ノ黒点」両指を結び、「二ノ筋」霊力を両手に集約、「三ノ門を」幼馴染の周囲に放った呪符に向かって、「四面魔封!」術を発動する。
するとどうだろう。眩く光った呪符が各々呪符と線を結び合い、翔を囲うように四面を生み出す。人差し指と中指を立てた右の手を立て、「破ッ!」飛鳥の掛け声と共に彼の体に集っていた邪鬼が一掃。跡形もなく消滅させる。
これで幼馴染が邪鬼に襲われることはないだろう。邪の一切を遮断しているあの結界にいる限り、彼の身の保証は約束される。
あとはこの雑魚を片付けるだけだ。
どこのどいつか分からないが、人の神経を逆なでるような真似をした落とし前はいつか必ずつける。
心に誓いを立て、朔夜は持っていた数珠を両手で広げるとじゃら、じゃら、じゃら、と音を鳴らす。這い上がって来る邪鬼、食んでくる邪鬼、爪を向ける邪鬼など眼中にも入らない。
「天地陽明、四海常闇、満天下陽炎の如く成りけれ」
詞を唱えるまでに時間がかかるため、飛鳥が呪符で援護に回る。
彼女が自分の周りの邪鬼を祓っている間、朔夜は己の霊力を数珠に注ぎ込む。雑魚を一掃するために、それ相応の術を発動するのだ。
「さすれど翳と化す妖在り。即ち祓除の無限の翳に一光とつかさん。妖滅閃光!」
暗紫に発光していた数珠から己の蓄積された霊力が四方八方に放たれる。
珠一つ一つから霊力の刃が邪鬼の体躯を貫き、悪しき化け物を浄化。塵すらこの世に残さず、無に還していく。
満目一杯に広がっていた邪鬼は瞬く間に消え、自分達を故意的に閉じ込めていた結界を打ち崩した。数珠の光が弱まる頃には無数にいた邪鬼が一匹残らずいなくなっており、それらは皆、無と化したことを教えてくれる。
あまりにも歯応えのない刺客に朔夜は違和感を覚えた。人の精神を蝕むだけの力があるのだからもう少し、腕の立つ妖が現れると思ったのだが。
今は幸運だと思っておこう。まずは幼馴染の安否確認だ。
周囲に主犯がいないかどうか常に警戒心を募らせながら朔夜は翔の下に向かう。
一足先に飛鳥が彼の下に駆け寄り、彼の容態を診ていた。首に指を添え脈を測る彼女は呼吸は正常だと一報。体温も大丈夫そうだと口にし、残りは変色した両足だと視線を配った。
「にく、い」眠り人の口から寝言が漏れる。飛鳥と共に彼の寝顔を見つめると、「憎い」今度ははっきりと憎悪を口にした。
「憎い、憎い、憎い、お前等が憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い」
翔の瞼が持ち上げられ、カッと眼が開かれる。
「憎い」顔を歪ませた彼は己に触れていた飛鳥に手を伸ばす。紙一重のところで朔夜が彼女の体を引き寄せたため、その手が彼女の首を掴むことはなかった。
まだ幼馴染は何者かが憑いているのか、朔夜は飛鳥を抱いたまま彼と距離を取るために後ろへ飛ぶ。「あ、ありがとう」はにかむ飛鳥の礼を受け取ることはせず、「ショウをどうにかしないと」朔夜はゆらっと立ち上がって虚ろな眼を向けてくる幼馴染を見据える。
憎悪にまみれた彼の表情には殺意が宿っていた。そろそろ彼を妖から解放してやらなければ、体がすこぶる心配だ。
と。
「憎い、憎い、にく……ち……が……憎くな……」
表情を崩した翔が困惑している。
これは術が解けかかっているのだろうか? 憎いと違うを交互に口にし、どうすれば良いか変わらずに佇んでいる。並行して彼の肌の色が変色していく。紫がかったあの色、まさか。
「憎い……わけねぇ」
自力でたどり着いた答えに満足げに笑い、彼の体が再び傾く。
悪寒が背筋を走る。翔の体を乗っ取っていた輩の言の葉が脳裏に過ぎる。“もう手遅れだと思うが”というあの言葉が。
地面に体が叩きつけられる前に受け止めてやらなければ! 朔夜が、飛鳥が、地を蹴るがリーチの差で彼の体を受け止めることはできなかった。けれども幼馴染の体は地に叩きつけられることなく、第三者の介入によりその腕に受け止められる。
「まだまだ修行不足じゃのう」自分達の腕を辛く評価する第三者、和泉 月彦は小さな吐息と共に胸を撫で下ろし、被害者を一瞥する。
この着物姿の翁こそ和泉家の妖祓長。そして和泉朔夜の祖父だ。
「じいさま。何故此処に?」
朔夜の問いに、話は後だと月彦。まずは彼を助けることが先決だと告げる。
日は既に傾き始めていた。
※
和泉家二階、三男の自室。
敷布団に妖の被害者を寝かせた妖祓長は、朔夜と飛鳥に人肌に温めた湯を洗面器に張るよう指示。
その際、清められた塩と酒を持って来るよう命令した。また洗面器は複数用意するよう告げてくる。言われた通りの代物を用意すると月彦は洗面器の一つに微量の酒と清めの塩を入れ、被害者の右足を裸にさせた。膝を立たせると近くにいた飛鳥に支えさせ、足首まで湯に浸からせる。
曰く、今から邪鬼の毒素を抜くという。容態を尋ねれば、「かなり危険じゃな」下手をすれば死に追いやられていたであろうと月彦。
「わし等には霊力が宿っているゆえ、妖の毒を受けてもそれに耐えられる抗体を持っておる。しかし一般の人間にはそれがない。もう少し早く対処しておれば此処まで酷くはならなかったのじゃが」
月彦は全身の皮膚が紫に変色している被害者を冷静に診断した。
ならば幼馴染は手遅れなのか。
血相を変えた朔夜が捲し立てるように尋ねると、落ち着くよう促される。危険な状態ではあるが手立ては残されていると月彦。己の懐から数珠を取り出すと、邪鬼に噛まれた患部を覆うように足首にそれを巻き付ける。
次に右の手で印を結び、慎重な手つきで己の霊力を数珠に注ぐ。法具を媒体に己の霊力を被害者に貸すと言う。
これにより毒に対する抗体を被害者が自力で作り、毒を中和していくのだとか。直接霊力を注ぎ込んでも、その“力”を持っていない一般人には受け止めるだけの器がないため霊力が霧散するという。
だから法具を媒体にして霊力を受け止めるための器を作るのだ、と月彦は淡々と説明した。
程なくして幼馴染の口からうめき声が上がった。額に脂汗を滲ませて荒々しく呼吸を乱している。
「中和が始まったか。これから先は彼と毒の闘いじゃ。暫くは辛い思いをするじゃろうが我慢してもらわなければ」
毒そのものを取り除くことは不可能なのか、飛鳥が率直に意見する。
それは無理だと月彦はかぶりを振る。何故? 飛鳥は見るからに辛そうな幼馴染を見て、霊力を最大限まで注げば毒そのものを消すことができるのではないか、と疑問をぶつける。
彼女は一刻も早く彼を助けたいようだ。無論それは朔夜も同じである。
「気持ちは分かる。じゃが、それは無理じゃ。例えるならば、今の彼は毒蛇に噛まれた患者。どんな万能な血清を打とうと、すぐに毒素は抜けん。それと同じようにわし等の霊力を持ったところで簡単に彼の体内にある毒は消えんのじゃよ」
今の自分達にできることは中和の手助けだと月彦は嘆息を零す。
しかし毒素は確実に抜け始めている。妖祓長は被害者の右足が浸かった洗面器を指さすと、紫に濁った水が毒であることを教える。そろそろ新しい清水に変えた方が良いだろう。そう言われたため、朔夜はあらかじめ用意していた洗面器に清めの塩と酒を入れ、穢れている洗面器と取り替えた。
二度、三度、同じことを繰り返すと右足の血色が好くなる。心なしか上半身の色も紫の色素が薄まったような気がした。
浄化の対象を右から左に代える。傷口からじわり、じわり、と染み出ている毒はすぐに洗面器の清水を変色させた。
「随分毒を溜めていたようじゃのう。これはもう暫くかかりそうじゃ。よくこの毒で動けておったのう」
月彦は驚きを隠せないようだった。
そこで朔夜がこれまでの経緯を、飛鳥が抱いていた疑問を和泉家長に報告する。
被害者から目を放さず、けれども二人の話を静聴していた月彦は「悪しき妖に謀られたか」と推測を述べ、顎に指を絡める。
毒に当てられた一般人がその日に症状が出ないのはおかしい。個人差はあれど一日置いて症状が出るなど例にないこと。霊力を持たない人間に毒を抗える力はないのだ。幼馴染の様子といい、体に憑いた輩といい、その邪鬼は意図的に動かされていたのだろうと月彦は結論を述べる。
そう、幼馴染を乗っ取っていた輩の仕業だと答えを導き出すことができるのだ。
「しかし、彼が此処まで悪化したのはお主等にも原因がある。何故、邪鬼が憑いていると分かった時点で祓わなかった?」
駆け出しであろうと二人にはそれだけの知識と力を授けている筈だと問われ、朔夜と飛鳥は何も言えなくなる。
簡単に言えば、人目を気にしていた。幼馴染に身分を隠すためだった、である。祓いたくない気持ちなどなかったのだが、一般人に正体を隠しながらの仕事は高校生である二人にとって至難の業だったのだ。
此方の感情を見抜いたのか、「魔除けの塩はどうした?」一般人がいる前ではそれを使って対処するよう躾けていたではないか。あれは妖を祓うほどの力はないが、一時的に魔物を除ける道具として大いに役立つ。常備しておくよう言いつけていた筈だと詰問され、ますます口が硬くなる。
本気で妖祓の道を極める気などない二人は、取り敢えず法具のみを持っていたのである。
中学はそれで許されていたため、これからもそれで良いだろうと甘んじていた。それが月彦にばれると、長は呆れかえって言葉を失ってしまう。怒りすら失念してしまったようだ。
自分達の甘さについて真摯に謝罪するが、長は二人の詫びを受け流してしまう。
「双方にとって望まぬ道なのは理解しておるつもりじゃが、これはこの家に生まれた運命なんじゃよ。朔夜、飛鳥、もしわしが来なかったら彼はどうなっていたと思う? 確実に手遅れだったじゃろう」
偶然、縁側で茶を嗜んでいると異様な妖気を肌で感じた。
並行して胸騒ぎがしたために外へ出て近所を歩いてみると、郵便局の通りにある道路が混乱に満ちているではないか。話を聞けば、男子高生二人が車道にいたとか。月彦は長年の勘を頼りに、朔夜と飛鳥の霊力を辿って例の私有駐車場まで来たと言う。
月彦の住居は此処ではない。妖祓長としてこの家に用事があったため、此処を訪れたのだ。
もし自分が不在だったら、どうしていたのだと月彦は息をつく。和泉家、楢崎家は両親を含む皆が妖祓だが、一人前である以上、基本的には事を自分で対処しなければならない。
望まない道であろうと授けた知識は活かして欲しい。一般人は妖に抗う術すらないのだから。
今は分からなくても良い。
ただ胸に刻んでおいて欲しい。力を授かった以上は誰かのために生かして欲しい、と。それが長の願いだと長は吐露し、翔に視線を戻す。未だに呼吸が落ち着かない妖の被害者はうわ言を呟いていた。
「に、くい」
硬く目を瞑っている幼馴染は憎いを何度もなんども繰り返し、ついには洗面器に浸かっている左足を抜こうと動かす。
慌てて二人掛かりで足を押さえる。
その間にも彼は体を捻り、「にくい」どうにか清水から足を退けようと四肢を動かす。
「これは」月彦は目を細めると朔夜に数珠を貸すよう指示。言われた通りに己の法具を祖父に手渡すと、長は被害者を左腕で抱き起し、数珠を巻き付かせた右手で鳩尾を勢いよく押す。見るからに痛そうな光景である。
痛烈な一突きにより幼馴染が咳き込む。
幾度も咳を繰り返した後、彼が何かを吐き出そうと肩を忙しなく動かした。
月彦が優しく背中をさすると、こほんという音と共に翔の口から何かが出る。敷布団の上に転がったそれを朔夜と飛鳥はまじまじと観察する。臙脂の楕円形、一見飴玉のようにも見えるが禍々しい妖気が纏っているため菓子には程遠い。
「じいさま。それは?」
「どうやら邪鬼の毒の塊のようじゃのう。邪鬼の妖力や毒は人の心を制御する力を持つ。これを彼の体内に入れることで、自由に制御することが可能じゃ。また邪鬼は人間の普段抱く感情とは反対のものを抱かせる。憎いと口にしていたのは、お前等に対する感情が反転させらていたからじゃろう」
なるほど、朔夜は憎いと口ずさんでいた当時の状況を思い出す。
憎いと口走っていた彼は誰よりも先に飛鳥を狙った。それは異性愛が反転したものか。
彼に随分と愛されているじゃないか。是非とも飛鳥に揶揄を飛ばしたかったが、それを言えば彼女が拗ねるため口にすることはよそう。
四肢を動かしていた翔の動きが止まる。
あれほど苦痛帯びていた表情は穏やかになり、ようやく呼吸も落ち着く。洗面器の水を代えてやると染み出る毒素の色が薄まった。
暫くすると色が出なくなる。それを見た長がもう大丈夫だろうと言い、足首に巻き付いている数珠を取る。倣って朔夜と飛鳥は幼馴染の足を清水から取り出し、タオルで拭いて布団に入れてやった。
知らず知らず肩の力が抜ける。彼の命が助かった、それだけですべての力が抜けそうだ。思いのほか、切羽詰っていたようだ。
「しかし随分、策士で冷酷な妖とみた。これを入れられた人間は三日も持たん。なにせこれは毒の塊じゃからのう」
臙脂の楕円形を手の平に転がし、月彦は眉を寄せる。
「じゃ……じゃあショウくんは何もされなくとも」
おずおずと飛鳥が長に尋ねた。
質問は抽象的だったが、和泉家の妖祓長はしっかりと答える。
「彼を捨て駒にするつもりだったのじゃろう。無慈悲な妖じゃ」
途端に朔夜の頭に血が上る。
何を目論んで幼馴染に仕込みをしたのかは分からないが、人の命をなんだと思っているのだ。
よりにもよって自分の幼馴染を狙うなんて。利用するだけでなく、捨て駒にするその腐った根性に唾を吐きかけたくなった。この怒りはどこにぶつければ良いのだろうか?
一方で恐ろしくなった。
もし本当に幼馴染が妖によって殺められてしまっていたら。
自分の命は幾度か狙われたことはあるが、こうして身近な一般人を狙われることはなかった。長の言う通り、形だけでも一端の妖祓として準備をしていたら……嗚呼あり得たであろう未来を想像するだけで怖い。
穢れてしまった清水や酒、塩を片付け、翔の目覚めを待つ。事を推測するのは彼から情報を聞き出してからだと月彦が判断したからだ。
すぐに目を覚ますかと思っていたのだが、彼の眠りは深かった。長曰く、毒の中和で体力を使い果たしたのだろうとのこと。また毒が完全に消えているわけではないため、軽く発熱するだろうと説明してくれた。