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<九>そして運命の歯車が廻り出す(伍)



 ※ ※





「――なんだ、今の妖気は」



 その時、妖祓の和泉朔夜は、妖鳥の群れを散らすために相棒の楢崎飛鳥と町はずれまで来ていた。自分達の前に現れた妖鳥三匹はまるで自分達を先導するように町のはずれ、家々すら目につかない鬱蒼とした雑木林の手前まで飛行。後を追い駆けていた二人の前に、雑木林に身を隠していた複数の妖鳥が現れ、朔夜達は悪戦を強いられた。


 ただでさえ翼を持たない人間は、地上で馬車馬のように走り回るしか移動手段がない。妖鳥が群れで奇襲をかけてきたというのならば必然的に不利だと理解せざるを得ない。

 ずる賢い妖鳥は数で勝負に臨んだのだ。


 しかし、化け物達の実力のほどは中の中ほど。二人の敵ではなかった。


 時間はかかったがあらかた片付けることに成功し一息ついていた、そんな頃に感じ取った巨大な妖気。並の妖ではない。

 固唾を呑んで暮夜の空を仰いでいた朔夜に、声音を硬くした飛鳥がそっと話し掛けてくる。彼女も粟立つ妖気を感じたようだ。


「朔夜くん。町に戻ろう。もしかして妖鳥の仲間かも」


 寒気のする妖気だったと彼女が身震いした。


「だとしたら、覚悟してお行かないと。今の妖気は冗談抜きに強いよ」


 右の手に持っていた数珠をポケットに突っ込み、俊敏に踵返す。駆け足になるのは邪悪な妖が現れたのではないかという焦りから。顔が強張るのは並々ならぬ妖気の強さから。

 自分達に相手ができるだろうか? 朔夜は久しく物怖じしてしまう。それだけ感じたことのない妖気の強さだったのだ。それこそ凍てつく妖気が肌を容赦なく刺すような、そんな空気だった。


 とにかく、妖気を辿ってみよう。あの妖気の強さなら、法具なしでも追跡が可能だろう。朔夜と飛鳥は来た道を戻り、大通りに向かった。

 道中、商店街や大通りで竜巻発生による事故があったことを耳にする。店の看板や窓ガラスが割れ、それらによって怪我人が多発。救急車が商店街の入り口前に停まっていた。それを見に群がっていた野次馬の話を小耳に挟んだため事件を知る。


 微かに残っていた妖気により、竜巻は妖鳥の仕業だと判断した。自分達を誘導し、群れで襲った妖鳥にまだ仲間がいたのだろう。

 ということは、やはり、巨大な妖気は妖鳥の仲間だろうか?


(嫌な胸騒ぎがする)


 こういう時の六感は大抵、近未来の凶報を知らせているのだ。

 何事もないことを願いながら妖気を辿ること数十分。朔夜と飛鳥は団地の公園に辿り着く。夜が深まっていく団地の公園はひどく寂然としている。

 しかも冬季だからか、その物寂しさが鳥肌を立たせた。コートにマフラーと防寒具を身に付けても、厳しい寒さが骨身に沁みた。

はあっと白い息を吐き、朔夜はコートに手を突っ込んで狭い公園の中を歩いた。 巨大な妖気を感じて相方とここまで来たが、公園には妖の気配はなく、さびれた遊具達が佇んでいるばかりだ。妖気も此処で途切れており、追跡は不可能となった。


 しかし、確かに此処に“何か”がいたようだ。大きな妖力が公園の中に残っている。朔夜は眼鏡越しに目を細めた。


「ここで物凄い妖力が解き放たれたようだね。妖力からして、上級……だったら多少なりとも理性があるだろうから、人を無闇には襲わないだろうけれど」


 邪悪な妖でなければ、の話だが。

 足を止める。屈んで地面に落ちている物を拾った。


「これは服の切れ端かな」


 ざらついた黒い布を触る。生地からしてコートのようだ。 指で感触を確かめていると、飛鳥が声を掛けて来た。切れ端をポケットに仕舞い、相棒の下に向かう。ブランコの側らで膝をついていた飛鳥がすくりと立ち上がった。

 彼女が右の手の平を見せてくる。そこには獣の毛のようなものがのっていた。

 そっと指で抓み、目を凝らす。 銀糸のような毛である。 微力だが妖力を感じた。ただの獣ではなさそうだ。 此処に妖力を残した獣だろうか?


「銀か。動物にしては珍しい毛の色だね。飛鳥、採取しておいてくれるかい?」


 うん。彼女が力強く頷き、ポケットティッシュを取り出すとそこに優しく包む。 朔夜は顎に指を絡めた。


「あれだけの妖力を感じたのに、本体が見当たらないなんておかしいな」


 糸が切れてしまったかのように、妖力が此処で途絶えている。どのような妖でも、巨大な妖力を隠すことは簡単なことではない。道中で鉢合わせになるように此処まで来たのだが、妖らしき妖に出くわさなかった。今までにない経験だ。それだけ凄腕の妖が現れたのか、それとも手におえない智を持った妖が現れたのか。


「朔夜くんは何か見つけた?」


 飛鳥の問いに、 「コートであろう切れ端を見つけたよ」と返事する。

 見せて欲しいと頼まれたため彼女に先ほどの生地を手渡すと、飛鳥は指で感触を確かめながら、ん? と首を傾げた。


「どうしたんだい。飛鳥」


 気になる反応に、思わず口を出す。間髪容れずに彼女は答えた。


「この切れ端、二つの妖力がこびりついているみたい。一つはこの公園に残されている妖力で、もう一つは今拾った獣の毛に残っている妖力。……じゃあ銀の毛を持つ妖獣とは、べつに妖がいたということになるよね」


 さすが相棒である。妖力を敏感に察知するだけでなく、その妖力を分析する力が備わっているのだから頼もしい。


「妖力は二つか」


 害を及ぼす敵でなければ良いのだけれど。朔夜は眉根を寄せる。夕暮れの事件といい、大通りで起きた事件といい、この一件といい、頭を悩ませる。


「夕方に事件を起こした妖は調伏することができたけど、大通りで起きた事件は未解決だ。特に夕方の一件は参ったね。まさかショウが狙われるなんて」


 荒々しく頭部を掻く。妖が幼馴染のひとりを狙った。その命を狙い、電線を切るなどの強硬手段を取ったのだから。近くに妖祓がいると知っておきながら。

 一般人の彼には妖祓のことを伏せている。ゆえにどう妖と立ち向かおうか悩んでいた。

 頃合を見計らったかのように、用事があるからと彼は帰ってしまったのだから良かったものの、あそこで留まられたら集団船とは別に苦戦を強いられたに違いない。


 しかし謎が残る。

 何故、翔が狙われたのだろうか? 基本的に妖は夜に行動する生き物だ。あの時間に人を襲うなど稀である。ましてや妖祓が傍にいると分かっていながら、人を襲うなんて自殺行為も良いところだ。


(それに、ここ数日のショウの様子が何かおかしい。あいつは馬鹿正直だから、態度に出やすいんだよな)


 物思いに耽る仕草、スマホを眺めては頬を崩すあの表情。かと、思えば急に具合を悪くしたり、耳が痛いと頭を抱えたり……考え過ぎなのだろうか?


「ショウくん。ちゃんと家に帰ったのかな? ちょっと電話してみよう」


  険しい面持ちを作る朔夜に煽られ、不安に駆られたのだろう。飛鳥がガラケーを取り出す。

  飛鳥のことが大好きな翔だ。彼女が電話をすれば、すぐに出るだろう。 彼女の通話を待つ間、朔夜は今日の出来事を整理することにした。


(一般人を巻き込むことだけは、特にショウを巻き込むような事件はもう起きて欲しくない。“羅刹丸”の一件でそれは嫌と思い知らされている。何事ないといいけれど)


  悶々とひとりで思考をめぐらせていると、会話を終えた飛鳥がぎこちなく視線を合わせてくる。どうしたのだと瞬く朔夜に、彼女が恐々と口を開いた。


「携帯に出ないから、家に電話したらお母さんが出たんだけど……ショウくん。いないって」


「なん、だって?」


 息を呑んでしまう。そんな馬鹿な、彼は用事があると一目散に帰路を駆けていたではないか。


「帰って来たらしいんだけど、すぐに家を出ちゃったんだって」


 ふと朔夜の脳裏に数日前の出来事が蘇る。

 先程のコートの切れ端と、彼と交わしたコートのやり取りを思い出す。翔はお気に入りのコートをダメにしたらしく、父親のお古を着ていた。その彼にコートのことを尋ねると青褪めたように口を閉ざしてしまった。見て分かるほど動揺していた。結局、翔が倒れたことにより何も聞けずに終わってしまったが胸に疑問の棘が刺さっていた。


 ……まさか、彼は妖の事件に巻き込まれているのでは?


 この切れ端が彼の物である確証はない。が、彼が狙われた事件と、コートのやり取りと、この場に落ちていたコートの切れ端がパズルのピースのように一致する。気のせいならそれでいい。しかし、もしもそうだったら。


「飛鳥。ショウを……ショウを探そう。何か起きる前に」


 焦燥感に染まる朔夜に感化され、飛鳥は硬い表情で首肯した。



 幼馴染の行方を追うとはいえ、家を飛び出した彼を探す手立てはない。

 思いつくといえば彼の往きそうな場所を手当たり次第探すことだろうか。ゲームが大好きな彼がよく行くBックオフや、個人経営している中古ゲーム店に赴いてみるが、影も形も見当たらない。そこで思考を変え、家を飛び出したということは、何かしら事件に巻き込まれているのではないかと検討。夕方の事件を考慮し、妖と接触している可能性が高いと行きついた。


 だったら妖の気配があるところに足を向け、シラミ潰しに行方を探していくしかないだろう。

 飛鳥と結論を出しあうと、闇が深くなる暮夜の下、大通りや団地、住宅街に商店街。バスターミナル。果ては通っている学校に、彼の住むマンションの近くまで足を延ばした。


 けれども見つからない。何度彼のスマホに連絡しても電話は繋がらず、刻ばかりが過ぎていく。

 気付けば亥時正刻となっていた。


 人が事件を起こしているのであれば警察に一報を寄越して行方を探してもらうところだが、妖が事件を起こしている可能性もあるため、それは最後の手段として考える。まずは事を玄人の両親や祖父母に話し、指示を煽った方が得策だろう。


「何処にいるんだろう?」


 既に三時間も街中を奔走している。

 疲労の色を見せ始めた飛鳥が足を止めたため、朔夜も倣って足を止める。道端のガードレールに移動し、そこに寄りかかると、彼女はガラケーを取り出して再度着信を入れる。


 無言で携帯を折りたたんだ仕草により、結果が見えた。苛立ちを隠せずにいる彼女は頬を掻き、額に滲んだ汗を四葉柄のタオルハンカチで拭うと重い嘆息をつく。

 翔が拾わずそのまま放置していた灰色のマフラーを通学鞄から取り出し、二度目の嘆息をついた。


「コールはかかるのに、全然相手が電話に出ないや。お手上げだよ」


 飛鳥が大好きな翔にとってありえないことだ。朔夜はアスファルトに視線を落とす。くたびれたスニーカーが自分を見上げていた。


「ショウ。ここ一週間、様子がおかしかったよね。急に具合を悪くしたと思ったら、ハイテンションになって。起伏が激しかったというか、なんというか」


「うん、ショウくんらしくなかったよね」


 やはり妖の仕業なのだろうか。

 だとしたら、幼馴染は既に妖の手に落ちてしまって……仄暗い思考を振り払うようにかぶりを振る。疲れているようだ。ネガティブなことばかり考えてしまう。


 弾まない会話と休息を挟み、二人は雲隠れしてしまった幼馴染の行方を探す。何事もないことを願いながら。


 三十分ほど過ぎた頃だろうか。

 マンションやアパートがひしめきあう住宅街を抜け、点々と一軒家が散らばっている物寂しい道路に出た二人の肌に新たな妖の気配を感じる。

 それまで妖の気配を感じるところ、なりふり構わず足を向けてそこまで駆けた。出会うのは弱い妖達ばかりで、付喪神と化したテディベアと辞書が談笑していたところを邪魔してしまった(妖達は妖祓を見るだけで怯え、逃げてしまうのだ。霊力で分かるのだろう)。


 他にも宙を彷徨する鬼火、自販機の中に入り込み飲み物を調達しようとする守宮(読み方はいもり。戦時で死んだ人の霊が守宮という小人の妖怪となったと言われている)。提灯ならぬ、電灯お化け。妖は多々目にしてきたのだが、肝心の幼馴染の姿はなく皆、妖祓である自分達を見て逃げてしまう。脅してでも妖に幼馴染の行方を尋ねたかったのだが、さすがに人道に反していると行動を控えた。


 そんな時に感じた新たな妖の気配。


 誘われるがまま足を動かすと、緩やかな坂道を上がり、小さな田畑を横切り、カーブを曲がり。

 優しい月光の下、朔夜と飛鳥はただひたすらに妖の気を追う。心なしか歩調が速まるのは幼馴染の安否を確かめたかったから。


 今度こそ彼がそこにいるかもしれない。淡い期待を胸に抱え、二人は先を急ぐ。

 「あ!」飛鳥が声を上げた。道路を挟んで向かい側の歩道につくねんと佇む学生を見つけた。探し求めていた幼馴染だ。彼は腕に獣を抱え、その頭や胴を撫でている。後姿であるために面持ちは分からないが、背丈、くたびれたコート、その立ち振る舞いはまぎれもなく翔だった。


 ドッと襲ってくる安堵、並行して心配させた憤り、温度差の烈しい感情が交差する。自然と駆け足になった。

 声を張って彼の名前を呼ぶと肩を弾ませ、ゆっくりとした動作で顧みてくる。瞠目してくる翔に悪態をつくために、ガードレールを乗り越え、片側二車線の道路を飛び出す。車道を走っていた軽自動車がクラクションを鳴らしたため、ごめんなさいと飛鳥が両手を合わせ、朔夜が走りながら深々と頭を下げた。


 そしてようやく、幼馴染へとたどり着く。


 揃って何をしているのだと絶句する翔を無視し、「よ。良かった」相棒が己の胸に手を当て、「しんどい」朔夜は両膝に手を置いて呼吸を整えた。


「お前等、こんなところで何してんだよ」


「しょ、ショウくんに言われたくないんだけど。電話しても繋がらないし、家にはいないし」


「君こそ、何をしていたんだい?」


 翔は何も答えない。

 腕に抱えている獣に視線を落とし、癒しを求めるように頭を撫でる。つられて彼の腕の中にいる獣に目を落とす。


 そこにはキジ三毛猫が居心地良さそうに腕の中で抱かれていた。

 一見、ただの猫に見える獣だが尾の末端が四つに割れ、尾を増やしている。この猫は猫又と呼ばれる妖だ。ごろごろと喉を鳴らし、翔に撫でられている猫又についつい二人は表情を硬くした。やはり幼馴染は妖の傍にいた。


 なら、翔が妖に狙われた事件はこの猫又が?

 だが猫又は自分達の正体に気付いているにも関わらず、翔の腕から抜け出そうとはしない。翔もまた大切に猫を抱え(当然猫又だとは気付いていないだろう)、「可愛いだろう?」そっと同意を求めてくる。


「最近仲良くなった猫なんだ。おばあちゃん猫なんだけど、俺に優しくしてくれる。子ども扱いしているのかもしれねぇな」


 力なく笑う翔の横顔は、長年の付き合いである二人でも初めて見るもの。今の幼馴染はシャボン玉のような儚さを持っている。

 触れば弾けて消えそうな、そんな、うたかたが垣間見えた。


 翔が体を撫でていると猫又が一声鳴いた。

 獣の意図を察したのだろう。彼はしゃがんでキジ三毛猫をおろしてやる。


 ぶるっと外気温に身震いする猫又は翔に再び鳴くと、颯爽と夜道を歩き出す。傍にいて満足したのか、それともこれ以上いると妖祓に何かされると危機感を抱いたのか、それは猫又にしか分からない。


 ふいに立ち止って猫又が鳴く。幼馴染に向けられたもので、にゃあと優しく鳴いてくると翔はバイバイと手を振って綻ぶ。


「またな。風邪ひくなよ」


 猫又はまた一声鳴き、軽やかな足取りで走り去る。それを見送ると、幼馴染は学ランのポケットに手を突っ込んだ。猫を手放して寒くなったのだろう。小さく身震いをしている。

 そこで飛鳥が預かっていた翔のマフラーを首にかけ、綺麗に巻いてやる。


「どうして猫と戯れていたの? しかもこんな時間に」


 ショウくんらしくないとおどける彼女に、「なんでだろう」あいつが優しかったからかもな、と翔は苦笑いを返していた。嘘だと朔夜には一目で分かった。なのに、強く踏み入れることができない。翔が気持ちを隠しているからだからだろうか?


「まったく。君が急にドタキャンするから、びっくりしちゃったじゃないか。しかも、家には帰っていないっていうし。おかげで探し回ったよ」


 皮肉って脇腹を小突く。脇を押さえ、「うるせぇよ」お前らはいつもじゃんかと悪態をつかれた。ご尤もである。

 しかし、すぐに幼馴染は朔夜の言った意味を聞き直す。


「“探し回った”? なんで。明日も会えるじゃん。連絡が取れなくても、明日には必ず学校で会えるんだし」


 こっちの気も知らないっで。

 妖に狙われたことすら知らない幼馴染に微苦笑し、彼の問いにこう答える。


「君が家に帰っていないと聞いて迎えに行かないといけない衝動に駆られたんだよ」


 飛鳥がカッコイイと笑声を零した。きっと翔はキモイと一蹴し、つられて笑うのだろう。自分でも気障めいたことを言ったと思うが、いつもの調子を取り戻してくれるのなら悪態のひとつでも買ってやろう。


 だが朔夜の目論見は外れる。

 予想していた人間は笑わず、むしろ泣きそうな顔を作ったのだ。本当に泣きそうな、消えそうな、辛そうな表情に此方が驚いてしまう。


「……ショウ?」


 握り拳を作って己の感情を噛み殺そうとする翔が、勢いのまま朔夜と飛鳥に縋る。反射的に体を受け止めるものの、朔夜も飛鳥も驚きを隠せない。崩れるように縋る翔を今まで見たことなどあっただろうか?

 微かに聞こえてくる鼻を啜る音と、何度も息を飲む音。付き合いの長い二人にとって彼が泣きたい感情を抑えているのは一目瞭然だった。声を掛けようとすると、先に翔が感謝の言葉を述べた。ありがとう、探しに来てくれてありがとう。迎えに来てくれてありがとう。堰切ったように感謝を述べて、体を震わせている。


「ショウ、くん。どうしたの? 本当にらしく、ないよ」


 飛鳥の問いに、彼は首を振った。


「いや嘘だろ? ……いつもの明るさがないよ」


 そんなことないと翔は二度首を横に振った。ただただ嬉しいのだと、言葉を振り絞る。


「おれっ、お前らの、幼馴染でよかった」


 本当に良かったと下唇を噛み締め、幾度も鼻を啜る。

 そっと翔に視線を投げても、彼は俯いて顔を隠してしまっている。どのような表情をしているのか、自分達には知る術がない。それどころか、らしくない、とおどけて彼の態度を一蹴することなど、今の朔夜にも飛鳥にもできっこなかった。今にも折れてしまいそうな膝を、持ち前の気丈で奮い立たせ、どうにか体勢を維持している。手を放せば、きっと崩れてしまうだろう。


 腕を持ち上げ、脆くなっている幼馴染の体を支えてやる。

 今できる優しさは支えてやることなのだろう。崩れそうな彼に気付かない振りなのだろう。何が遭ったのだと聞かないことなのだろう。




「どうして、月はあんなにやさしい色をしているんだろうな」


 帰路の途中、横一列に並んで歩いていた翔がおもむろに先頭に飛び出し、灰色のマフラーを靡かせて数十メートル先で立ち止まると諸手を挙げた。それまで一言も喋らず、洟を啜っては作り笑顔でその場を凌いでいた翔が急に振ってきた話題は風流的なもの。

 戸惑う朔夜と飛鳥を無視し、「綺麗だな」太陽よりもずっと綺麗だと翔。


「本当の夜はこんなにもやさしいんだな。今日ほどやさしい夜を感じたことはねぇや」


 振り返ってくる翔が努めて作り笑いを浮かべてくる。

 あれほど感情に正直な彼が、表情を作って自分達に気持ちを隠している。


 なんと返事をすれば良いのか分からなかった。

 分かれ道にさしかかるが、朔夜と飛鳥は翔の住むマンションの方角へ爪先を向けた。なんとなく今は傍にいてやらなければいけない気がしたのだ。

 しかし、「こっちじゃねえだろ?」翔が二人の帰路はあっちだと背を押し、方角を修正した。


「ショウ」


 憂慮を声音に宿すと、「も。大丈夫だよ」彼は変わらぬ顔で平然とうそぶいた。


「探しに来てくれてあんがとな。俺なら大丈夫、もう、大丈夫だよ――朔夜、飛鳥、傍にいてくれてありがとうな」


 まるで別れの言葉を手向けるように翔は物寂しい笑みを零し、そっと自分の向かうべき道を辿り始める。一度たりとも振り返ることはない。辛いことが遭ったのならば辛いと、苦しいことが遭ったのならば苦しいと、聞いて欲しいことがあれば聞いて欲しいと主張すれば良いのに、翔は一切それを口にすることはなかった。

 気持ちを隠され、此方が寂しい気持ちを抱いてしまう。


「……ショウくん」


 眉を下げる飛鳥は気の利いた言葉の一つも遅れなかったと肩を落とし、朔夜は言い知れぬ感情に胸を支配された。

 このままでは黙っておけず、我が家に帰宅した朔夜は食事と入浴を済ませ、敷布団を敷いて寝支度を整えると携帯を手にして布団にもぐる。電話をかけて声を聞こうと思ったのだ。飛鳥の前だから見栄を張ってしまうこともあるだろう。


 でも、男同士であれば、何かしら弱い心を見せてくれるのでは?


 今まさに電話をかけようとした矢先のこと、朔夜の携帯が忙しなく振動する。バイブモードにしている携帯を開くと着信画面が現れた。着信表記は“南条翔”。


「もしもし」


 二コール目で電話に出ると、『飛鳥の前で情けねぇ姿見せちまった。死にたいんだけど』あいさつがわりの冗談が朔夜の鼓膜を振動させる。冗談を口にすることはできるようだが、声にはまったく覇気がない。心身、疲労困ぱいしているように思えた。


「今の君はもっと情けないんだろうなぁ」


 いつもの調子で返してやる。それが翔のためだろうから。自分の前では情けない姿を見せても良いのか。おどけを返してやると、相手はへらへらと振り絞るように笑声を零してお前はどうでもいいと返事した。彼らしい答えだ。


「ショウ。あのさ、今日は」


 回りくどいやり方が思い浮かばす、手短に核心に触れようと話題を振る。拒絶するように翔が感傷的な言葉で遮った。


『月、綺麗だな。いつまでも見ていたくなるよ』


 相手の語気が小さくなる。


『このまま朝なんて来なければ良いのに。そう思って仕方がねぇや。朝が来たら、嫌でも受け入れないといけないだろう? ……飛鳥に情けない姿を見せた夜のことを。今なら夢だったと思えるのに』


 嘘だ。翔の心は飛鳥に向けられていない。


『夢だったらいいのに。今までのことも、これからもことも、何もかも、夢だったら』


 会話というより、幼馴染の独白が淡々と続く。機器越しに声音が震えはじめ、次第に声が聞き取りづらくなる。


『なあ朔夜』


 ようやく言葉のキャッチボールを思い出したのだろう。翔が名を呼んでくる。素直に返事すると、『俺、疲れちまった』うそぶいていた幼馴染が本心を少しだけ見せてくれた。


 「そう」相槌を打つと、抑揚のない声音で疲労してしまったことを繰り返す。

 どうしようもないくらい疲れたと微苦笑を吐息と共に零し、できることならすべてを忘れてしまいたい。投げ出してしまいたいと大きな弱音を吐露。携帯越しから聞こえてくる摩擦音は、ベッドシーツの擦れる音なのだろう。翔がベッドに寝転がったのだと推測できる。

 本当は今日の出来事を徹底して聞いてみたい。ただ幼馴染はそれを拒んでいる。なら、今はいつもの調子で話してやろう。それがきっと疲れている翔のためだ。


「仕方がないね。四十五の僕が人生相談に乗ってあげるよ。人生に疲れたんだって?」


『やっべぇ。俺の幼馴染がいつぞかのように老けやがった。正直に言えよ。本当はもっと歳を食っているんだろう?』


「さすがはショウ。本当は七十のおじいちゃんだよ」


 携帯機から翔の大きな笑い声が聞こえた。素で笑っているのだろう。

 「お前のじいさんとほぼ同年代じゃんかよ」明るい声音で返す翔は、自分の父親よりも老けてどうするのだと喉を鳴らすように声を上げて笑った。

 「そういうショウはいくつだい?」人生に疲れているようだけど? 相手に問いかけると、「実は五十なんだ」折り返し点に立たされている中年オヤジだと返事し、これからどうやって生きようか悩んでいるのだとおどけ、おどけ、おどけて急に声が萎む。


『朔夜。飛鳥には言うなよ。今日ここで俺がお前に電話したこと』


「言わないよ。君は彼女の前ではプライドが高いからね」


 朔夜の表情から笑みが消え、真顔になる。


『絶対に言うなよ。俺が此処で馬鹿みたいに、テンションを上げていることを』


「分かっているよ」


 部屋を消灯し、布団から抜け出してカーテンを開く。そっと窓辺に立って硝子の向こうを見つめた。


『……疲れた。疲れちまった。朔夜、本当に俺、疲れちまった』


 具体的に何が遭ったか分からない。うやむやに疲労を口にしては泣きそうな声で弱音ばかり吐く。

 朔夜は相槌を打っていつまでも彼の弱音を聞いていた。それが今の朔夜にできることだったから。それしかできないことだったから。



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