<五>そして運命の歯車が動き出す(壱)
どれほど車庫に座り込んでいたか、翔はようやく立ち上がる動作を思い出す。
十℃を切った外気温が翔に立ち上がることを思い出させてくれたのだ。ぶるっと身震いをしながら民家の車庫から出ると、重い足取りで現実逃避をするように足先を帰路とは別の方角に向ける。もう幼馴染達の後を追う必要はない。秘密を知ってしまったのだから。
すべてを理解できたわけではないし、今のが一体なんだったのか翔には呑み込めずにいる。
けれども一つ言える。手慣れた化け物を相手にする二人は、もう随分と前からそういうことをしていたのだろう。きっとドタキャンを繰り返すようになった頃にはやっていた筈。否、ドタキャンはすべて“化け物”を相手にすることだったのかもしれない。本人達に聞いていないため、憶測を立てることしかできないが。
秘密にされた疎外感が胸を襲う。置いて行かれた気分だ。
嗚呼、こういう思いだけは噛みしめたくなかったのに。自分が打ちひしがれてしまうことが分かっていたから。
「腹減った。今日の飯、あんぱんとカフェオレだけだったもんな」
貼るカイロも取ってしまったことだし、何かコンビニで温かい飲み物と食べ物を買おう。気を落ち着けるためにも。
近場のコンビニに立ち寄ると、翔は少ない小遣いから豚まんを二つ、それからカフェオレを買う。温かい内に食べたかったため、人気のない舗道のガードレールに寄りかかって食べることにした。本日二本目のカフェオレの蓋を開け、それで喉を潤す。体の芯がじんわりとあたたまる気がした。
ホッと息をつき、気を落ち着けていると視界の端に白い点がちらついた。
車のライトだと思い翔は無視をしようとしたが、それは不規則な動きをしている。白い猫、だろうか? 白い点が視界の端を何度もちらつかせている。
傾けていたペットボトルを立て、首を捻る。舗道を何かが横切り、古い民家のブロック塀の穴に入った。いや、入ろうと頑張っていた。
頭を突っ込もうとしている動物に翔は目を丸くする。
あれは猫じゃない。己の目が確かなら、それは狐。猫には見られない尖った鼻先に、ふさふさとした尾。丸い耳は折りたたまれ、何度も塀の欠けた穴に頭を突っ込もうとしている。
「なんで狐が道路に?」
テレビでしか見たことのない狐に興味をそそられ、翔はそっと獣に近寄った。
一定の距離を保って立ち止まって屈むと、狐をまじまじ観察。目を削いでしまう。狐の毛並みの色が銀色をしていたのだ。ついつい頓狂な声を上げてしまう。
すると狐が翔の存在に気付き、穴から頭を出して顧みてくる。低い姿勢で唸る獣に翔は噛み付くのではないかと怖じてしまうものの、狐が翔の持っていたビニール袋に鼻をひくつかせたため、「これが欲しいのか?」豚まんを取り出して放る。
瞬く間に豚まんにかぶりつき、ぺろっとそれを平らげたため翔は笑ってしまった。先ほどのような警戒心は瞳に宿していない。もっとおくれと言わんばかりに見つめてくる。
「お前、さっきまで俺に威嚇していたじゃんかよ。なんだ、腹でも減っているのか? ……あ、お前、怪我してるじゃん」
左前足に赤黒い切り傷がある。肉を抉るような傷に翔はしかめっ面を作ってしまった。見るからに痛そうだ。
「動物病院って近くにあったかな。俺じゃ怪我は治せそうにないし」
うんっと首を捻る翔はスマホで検索してみるか、と独り言を漏らした。
狐は翔の言葉を理解したかのように、ふさふさとした尾を右に左に靡かせる。もう警戒心は感じられない。愛嬌ある狐に心を奪われていると、狐が急に身を小さくする。
まるで何かに怯えているように、ぎゅっと縮こまってしまった。
自分に怯えているのではないと把握していた翔は、原因を探すべく周囲を見渡す。此処には自分以外に誰もいない。車も通っていないし、自転車や人の気配もない。
「お前。何に怖がっているんだ?」
視線を戻して狐に話しかける。耳を垂らしている狐は石化したように動かない。
困惑している翔の目には映らないのだ。すぐそこまで先程見た化け物鳥の仲間が迫っていることに。狐は気付いているが、恐怖のあまりに身が竦んでいる。
狐の恐怖に困惑するばかりの翔だったが、向こうの外灯が明滅。やがてそれは光を失い、周囲を暗くする。また近くの外灯が明滅し、光を失う。それだけではない。目前の一軒家の零れる明かりすら明滅した現状により、嫌な違和感を覚えた。
一方、怪我を負った銀狐は“ただの狐”ではなく知恵を持った賢い生き物だった。
既に妖鳥から逃げ回ることに疲れ果て、もう走ることが困難だと心身くたびれてしまっている。嗚呼、時期に自分の行方を血眼になって探している妖鳥に見つかり、骨まで食われてしまうのだ。思っている間もなく狐を探していた妖鳥が獲物を見つけ、低空飛行で迫って来る。銀狐はやられると思った。自分の最期を感じ取り、硬く目を瞑ってしまう。
そのため、偶然居合わせた少年に庇われたことに気付くことが遅れてしまう。妖鳥の姿は見えないようだが、妖の繰り出したかまいたちには察したようで銀狐を抱きしめて、己を守るようにそれを一身に浴びている。
驚愕する銀狐が少年を見上げると、「にげ、ないと」ここから逃げないと。そう呟き、銀狐の身を抱えて走り出した。思わず身を捩って腕から抜け出そうとすると、ジッとしてくれるよう少年が懇願してくる。暴れられるとつらいのだと彼は苦言、激痛に耐えるように吐息をつく。
彼の身に纏っている衣は所々切り裂かれており、そこから血が滲み出ている。怪我を負っているのだ。それにも関わらず、彼は決して銀狐を手放さそうとせず共に逃げようとしてくれた。妖鳥に命を狙われ、くたくたになるまで逃げ回っていた銀狐は常に心細かった。ゆえに彼の優しさが本当に嬉しくなり、つい胸部に顔を埋める。
すると少年の片手が頭に乗った。視線を持ち上げると、額から血を流す彼が目じりを下げた。
「ごめん、抱き方が分からないんだ。苦しくても我慢してくれよ」
少年は築何十年の一軒家ばかりが並ぶ道の中に、人を拒絶するような白い囲いを見つけ立ち止まる。工事現場だ。
彼は迷うことなく仕切られている鎖を飛び越え工事現場に侵入する。
夜の工事現場は不気味なほど静かだ。昼間は活発に活動しているであろう重機も、今は稼動しておらず静かに眠っている。骨組みだらけの建物自体に身を隠す場所は少ないが、多くの資材が周囲に放置されているため、何処かしら身を隠せそうだ。少年はそんな独り言を漏らしている。
彼は囲いの隅に放置されているドラム缶に目を付け、銀狐の自分を隠してくれる。一緒にビニール袋を入れ、先程くれた豚まんが入っていると微笑。腹ごしらえとして食っておけと優しさを向けた。
恐怖が過ぎるまでそこにいて欲しい。自分も身を隠すから。
そう言って人差し指を立てる少年がドラム缶から遠ざかる。取り残された銀狐は豚まんの入ったビニール袋に目を向け、クンと鳴く。人間の中にも優しい男がいるものだ。見ず知らずの狐にここまでしてくれるなんて。
強張った体から力を抜き、彼の好意を受け取ってもう一個豚まんを食べようか、銀狐がそう思った直後のこと。
銀狐の耳に突風と砂利を踏みつぶすような物音、そして羽音が聞こえた。
突風と羽音は己を追って来た妖鳥のものだと分かる。
では残りの音の正体は? 恐怖心に駆られながら銀狐は前足をドラム缶の側面に乗せ、そっと状況を窺う。縦長の瞳が膨張した。自分を庇い、身を隠してくれた少年がうつ伏せになって倒れているではないか。妖鳥の起こしたかまいたちを全身に浴びたのだろう。
体の真下には血が溜まり、赤い水たまりを作っていた。こめかみから流れる血を拭う余力がないのか、少年は四肢を投げて瞼を下ろしている。それこそ全長三メートルほどある妖鳥に全体重を載せられ、微かに苦痛の声を上げる程度。瀕死の重傷を負っているのだと銀狐の目にも見て理解できる。
疲弊している体に鞭を打つと、銀狐はなりふり構わず少年の下に走った。
このままでは相手の体重によって臓器が破裂する可能性があると賢い狐は分かっていたのだ。
負傷している怪我を庇うこともなく、地を蹴って飛躍すると鋭い牙を妖鳥の右翼に突き立てる。気を少年に向けていた妖鳥は不気味な悲鳴を上げ、銀狐を振り落とすために翼をはためかせた。風圧の強い翼の動きに耐えられず、狐は地に叩き落とされる。急いで体勢を整えると、少年の弱弱しい声が聞こえた。
弾かれたように顔を上げ、銀狐は彼の下に向かう。
震えている右の手が伸びてきたため、その手の平に頭をこすりつけると少年が力なく笑う。
「あほう。はや、く、にげろ、よ」
背後に妖鳥が立つ。
両翼をはためかせる相手の殺気に気付くものの、銀狐にそれを防ぐ手立てはない。少年だけでも助けなければ。思いはあれど力のない狐が言い知れぬ焦燥感を抱いていると、彼が手を伸ばしてきた。
「だい、じょう、ぶ」
銀狐を腕の中に引き込み、少年は己の身を盾にすると目じりを下げてゆっくりと瞼を下ろす。最後の力を振り絞ったのだろう。銀狐が鳴いても反応はなく、顎まで伝った赤い雫が無情にも砂利の絨毯に落ちて染み込んでいく。
銀狐の目に映る光景。
夜空に舞い飛びかまいたちを起こす妖鳥、自分の身を盾にして守ろうとしてくれる虫の息となった人間の少年、優しく見守り続ける明るい月。それらを瞳に映した時、銀狐の全身が発光。人間の少年を死なせない、死なせて堪るものか! その一心で己の“力”を人間の少年に注ぎ込む。虫の息となった少年にすべての力を注ぎ込む。身に宿った“力”と“宝”も、すべて。
――それは月がよく見える如月のある夜のこと。妖祓の幼馴染である南条翔はひっそりと死んだ。誰にも気付かれず、それこそ彼の幼馴染達にも気付かれず、出逢った銀狐を腕に抱いて息を引き取った。もう、今までの彼には誰も会うことがないだろう。
「あ、れ?」
帰路を歩いていた朔夜は学ランのポケットに突っこんでいた手を引き抜く。
隣に並んでいた飛鳥が視線を送ってきたが、視線を返す前にポケットから珠が零れしまい、それ追うためにつま先の方向を変える。
夜道は視界が悪いものの、外灯が近くにあったためアスファルトに転がった珠を追うことには成功。愛用している数珠の珠の一粒を指で抓み、拾い上げる。
「数珠の紐が切れたみたいだ。不吉だな。法具が壊れるなんて」
「言い伝えでは愛用の法具が壊れた時は凶兆、だったよね。迷信だから当たるかどう……あ」
飛鳥が何気なく呪符の束をポケットから出した刹那、風も吹いていないのに手元から勢いよく紙が舞い上がってしまう。
後を追う間もなく、呪符達は四方八方に散らばり、主の下から消えてしまった。
「なんで?」
気味が悪いと身震いする飛鳥に同調し、朔夜も切れた数珠を見つめて嘆息する。
「凶悪な妖が現れる前兆じゃないといいけど」
※
「翔! あんたっ、何その格好! コートもトレーナーもボロボロじゃない! 何をしたら服をそんな風にできるの!」
「ご、ごめんって。ちょっと、こ、転んで」
「転んでコートやトレーナーがこんなになる?! あんたって子はっ、今年で受験生になるのにろくに勉強もしない。服は駄目にする。中間テストも散々な点数を採ってくる。いい加減にしなさいよ!」
「服と成績は関係な……まじでごめんって! 反省しているから、せめて着替えさせてくれよ!」
マンション七階フロア南条家の一室にて。
既にゴールデンタイムを過ぎている刻にも関わらず、自宅に帰った翔は母親から怒声を張られ、こっぴどく叱られている最中だった。理由は母が述べたとおりである。説明する必要もない。
翔の不在中、自分の成績表を見て絶望していた母親へ追撃するように高値のコートとトレーナーを駄目にしたため、それはそれは母は鬼と化していた。般若と呼んでもいいかもしれない。
今にも角を出しそうな母親に身を小さくして何度も謝罪、どうにかこの場を乗り切ろうとするものの相手は怒り心頭のようだ。日ごろの不満をぶちまけるように翔に怒りを投げつける。
休日を迎え、のんびりと家で寛いでいる父親は見て見ぬ振り。誰も翔を助けてくれる者はいないようだ。
結局、小一時間説教を食らった翔は夕飯を自室で取ることを決める。
リビングで取っていたら、いつまでも母親にお小言を投げつけられそうだからである。
しかし理由はそれだけではない。
そろそろっと自室に入る振りをした翔は、十二分にリビングの様子を観察。大丈夫だと判断すると急いで玄関の扉を開け、脇に置いていた段ボールを取って部屋へ逃げ込む。
聞き耳を立て親の気配がないことを確認していると、閉じていた段ボールが勝手に半開きとなり、ひょこっと獣の鼻先が顔を出す。
「あ。こら」
翔が声を上げるものの、既に獣は頭を出して千切れんばかりに尾を振っていた。そう、翔は先程出逢ったあの銀狐を自宅に連れて帰っていたのである。
工事現場で血を流し、瀕死の重傷を負っていた翔だが、何事もなかったかのように今は平然と過ごしている。それもその筈、翔の傷は完治していたのだ。
翔自身、工事現場で強烈な痛みと大量の出血をしていたことは憶えている。
しかし記憶はそこまでで、何故自分の怪我が完治しているのか。何故元気になっているのか見当もつかない。夢だったのかもしれないと思い込みたいものの、目前の銀狐と駄目にしてしまったコートやトレーナーが現実だと教えてくれるため、翔は混乱も混乱。説明のしようもない不思議現象に首を傾げるばかりだった。
ただでさえ幼馴染達の秘密を知り、頭が混乱しているのだ。正直、今は何も考えたくないというのが翔の心情である。
目が覚めた翔はやはりあの工事現場にいた。
目覚めるまでずっと傍にいてくれた銀狐がクンクンと鳴いて懐いてきたため、どうしても放っておけずコートに身を包ませて街中を歩き、途中のスーパーで段ボールを仕入れて家まで持ち帰った次第。
だが翔は少々後悔している。狐を持ち帰ってどうするのか、と。
親にばれたら半殺しにされるに決まっている。狐の生態も分からないし、変な病気を持っているかもしれない。犬猫を連れて帰るのとはまた次元が違うのだ。
やはり元の場所に戻してきた方が……頭の片隅で悩んでいると、銀狐が段ボールから飛び出し、フローリングに着地。クンと鳴いて翔を見上げて来た。それはもうきらきらとした眼で。
それだけでも感動的だというのに、足にすり寄って頭をこすりつけてくるその仕草に翔は心を撃ち抜かれる。今まで動物を飼うことが許されなかった翔にとって、狐のその愛嬌ある仕草は反則だった。
(き、狐ってこんなに可愛いのか! なにこいつ、めっちゃ可愛いんだけど!)
段ボールを置き、片膝をついて怖々と頭に手を伸ばせば、撫でて撫でてと言わんばかりに手の平に頭をこすりつけられる。それだけでなく前足を体にのせると千切れんばかりに尾を振って胸部に頭を押し付けたのだから翔、骨抜きにされた瞬間である。
恐る恐る両手で胴を撫でてやると、つぶらな瞳が己を見上げ、クオンと一声。萌えの稲妻が全身に走った翔は思った。やっぱり連れて帰って良かった! 病気? 生態? どうにかなる! と。
「可愛いなぁお前! すっげー可愛い! 猫みたいに狐が家庭で飼えたら、俺もお前を飼ってやりたいんだけどな!」
へにゃっと頬を崩して狐を抱きしめる。
フンフンと鼻を鳴らす銀狐が頬を舐めてきたため、つい笑声を漏らしてしまう。翔と銀狐はすっかり心打ち解ける仲となっていた。
翔は狐の前足の怪我の手当てをするために救急箱を取りに行き、消毒と包帯を巻いて応急処置を取ってやる。明日にでも獣医の下に連れて行こう思ったのだが、独り言を漏らした際、狐が嫌だ嫌だとかぶりを振って尾で翔の腕を叩いたため行くことが困難となった。
摩訶不思議で信じがたい話なのだが、どうやら銀色の毛並みを持ったこの狐は人語が理解できるようだ。
非常に賢い動物で、翔が己の夕飯を自席まで運び、「狐が食べられるものなんてあるのかな」と呟くと銀狐が机の上に飛び乗った。そして尾で全部食べられるとお盆にのっていた食器たちを指すものだから翔は絶句してしまう。
その時の夕飯は豚カツと味噌汁とご飯、そしてわかめの酢の物だったのだが銀狐はクンと鳴いて早く食べたそうに尾を振っていた。
果たして人間が食しているものを狐に与えても良いものなのか。
スマホのネットで検索をしようとすると、早く食べようよと銀狐が優しくジャージを食んでくる。可愛さに負けて食事を与えてしまい、後で体調を崩されでもしたら大変なので此処は心を鬼にするべきだと意気込む翔だったが、銀狐が尾でそっとわかめの酢の物の入った器を避けていたのを目にして、ついつい狐相手に尋ねてしまう。
「酢の物は食べられないのか?」
問いに狐はかぶりを横に振る。食べられるらしい。
「じゃあなんで避けたんだ?」
銀狐はつんとそっぽを向く。態度でその料理は嫌いだと示している。
「あー、酢の物が嫌い?」
うんうん、銀狐がかぶりを横に振る。
「……わかめが嫌い?」
うんうん、銀狐が何度もかぶりを縦に振る。
狐はわかめが駄目なのだろうか。まったく狐の生態に無知な翔はスマホで検索を掛けてみても大した情報が出ないため、仕方がなしに酢の物は避け、他の料理を半分こした。
どうやら狐は雑食に近い獣らしく、人なれした狐は人間の住む町もたびたび現れるそうだ。ということはこの町のどこかに銀狐のねぐらがあるのだろうか? 狐といえば田舎のイメージがあるのだが。
うんぬん悩みながらも翔は拾った狐を甲斐甲斐しく世話する。
食事、手当、狭いながらもクローゼット内の臨時寝床。一度、拾ったのだから最後まで世話をしようと翔は銀狐のために精一杯のことをした。今日一日の不思議な体験を忘れたいがため、熱心に世話をしていたのかもしれない。
元々腹を空かせていた銀狐も、散々町を彷徨していたのだろう。段ボールとバスタオルで作ったお手製の寝床が完成すると、すぐさまそこに身を置き、すやすやと眠りについてしまう。安心したように寝息を立てている。
「おやすみ」
微笑を零し、クローゼットを閉めると翔も急激な眠気に襲われた。自分もまた一日中町を彷徨っていた身。疲労困ぱいしているのだ。
今日は幼馴染達のことも、身に起きた不思議な体験も考えずに風呂に入って寝てしまおう。翔は即決し、風呂場に向かうと一日の汚れを綺麗に洗い流した。
未だに母親の厳しい眼が飛んで来るが、数日は我慢しなければならないだろうと覚悟を決めておく。
そうして入浴を済ませ、早々に寝床に就いた翔は何事もなかったかのように夢路を歩いた。LINEの返信も何もかも、忘れるように深い眠りに入ったのだった。
が。
午前二時半過ぎ。
翔は魘されていた。意識は夢心地のままだったが、発汗する体と異様な熱に悩まされ、人知れず唸り声を漏らしていた。布団を蹴り飛ばし、何度も寝返りを打つ翔の体に異変が起きたのはそれから間もなくのことだった。
「うぅ」熱いと魘される翔の尾てい骨から白い尾が生え、輪郭に沿うようについていた持ち前の耳が消滅。代わりに頭から尾と同じ毛並みをした耳が生え、翔は人ではなくなった。
不意に彼の瞼が持ち上がる。
ゆっくりとした動作で上体を起こした翔はクンと鳴き、虚ろな目のままベッドから下りると四つん這いで駆け、自室を後にした。
誰もいないリビングの扉を体で押し開け、向かう先はキッチン。
視界の悪い一帯も難なく掻い潜り、冷蔵庫に直行。機械の扉を開けて迷わず袋詰めされた油揚げを食むと、尾で扉を閉めて颯爽と部屋へ戻った。
何処で食べようか。部屋をあちらこちらと獣のように四つん這いでうろついていた翔は、あそこがいいと机上に飛び乗って腰を落ち着ける。
そして、その場に座り込むと歯で懸命に油揚げを開けようと奮闘。どうしても開けられず、翔はグルルッと唸り声を上げて不機嫌な顔を作ったが、手で開ける動作を思い出し、開け口に従って器用にビニールを破く。
ようやく大好物の油揚げを取り出すことができ、翔は満足げに両手で油揚げを一枚掴んでかぶりついた。
尾を揺らし、一口食べることにクンと鳴く。夢遊病のように意識なく、本能だけで動いている本人はまだ何も知らない。己が狐になっていることを。己が化け物になっていることを。己が人間ではなくなっていることを。
まだ、なにも。




