あたってくだけろ高校生
やばい。
やばいやばい。今起きた、相当にやばい。
枕元のデジタル時計が示す時刻は午後四時十五分。
僕の身分を考えれば、高校生の義務である青春の汗を分泌させられる拷問を受ける為の部活動に精を出すか、少ない脳みそをフル回転させて社会に多大な迷惑をかける為のアルバイト活動に勤しむか、それとも社会のクズ予備軍として放課後を古本屋やゲームショップで安穏に且つ怠惰に、欲望のまま過ごすかのどれかに携わってなければならないだろう。
しかし、たった今言及した中の一つを僕は全力でぶっちぎっている。
本来ならば高校の格技場でふんだんに発酵しきったかぐわしい防具を身に着け、怪鳥音もかくやと言わんばかりの奇声を張り上げ竹刀でしばき合うスポーツに参加していなければならないわけだ。部長という栄えある立場を拝命しておきながら、このざまである。
とはいえ、実力の伴わない名ばかり部長だ。僕の存在意義など顧問に叱咤されるほか考えられない。剣道そのものは嫌いじゃないが、強豪ひしめく我が地区で勝ち抜いていくなど、よほどの根性とセンスが無ければやっていけない。生憎と根性なしの僕は、付き合いもそこそこに、のんべんだらりと高校生活を謳歌している。
僕の貴重な青春は、そんな汗臭い部活動なんぞに費やすわけにはいかないのだ。僕の全ては、愛しの彼女に捧げると誓っているのだから。
ああ、だがしかし。何たる不覚、何たる恥辱。何度時計の表示を見ても時刻は変わらない。四時十七分。無情にも二分が虚数領域へ霧消していった。
風光明媚で流麗なる彼女は、一分一秒の狂いもなく待ち合わせ場所に時間を割いてでもやってきてくれている事であろう。
なに、風光明媚は人に用いる熟語ではないだと? 構うものか、それほどまでに彼女は美しい。雄大なる大自然から降臨した芸術にも等しい女性なのだ。
彼女とは数年やそこらの付き合いではない、幼馴染としての勘が僕にそう告げている。彼女は僕の為に待っているのだ、今日、学校の校舎裏で!
五時ジャストに僕が現れる事を前提にして!
僕の家から最寄駅の東急東横線T駅まで自転車で三十分弱。T駅から乗り換え含め、高校最寄のY駅まで二十分、高校まで徒歩二十分弱。トータル約七十分。
だが、それも平時の話。自慢じゃあないが、スタミナには自信がある。自転車と徒歩のトータルは、合わせて二十分強ほどには縮められるはずだ。いいや、縮めねばならない。
何としてでも僕は彼女に会わねばならないのだ。
会って、この胸を震わせる愛の脈動を、言霊として彼女にぶつけねばならないのだ。
伊能由岐。
一九九五年十二月二十四日出生、私立N大学附属高校二年B組在籍。同校バレーボール部、文学部、茶道部、シェイクスピア研究会、近代哲学朗読会、合唱部、吹奏楽部、軽音楽部『コマンドー』所属。二〇一三年現在、身長二〇八センチ(目測)、体重八八キロ(小学部時代から計算。憶測)、スリーサイズは上から凄くて・締まってて・凄い。
四歳の時分から家族ぐるみで付き合いのある幼馴染であり、中学入学を境に徐々に疎遠になってしまった。典型的なパターンだ、できる事ならR指定のスプラッタなゲームやインディーズの映画、バンドに手を染めて背伸びしようとした中学生の自分を叩きのめしてやりたい。
ねちねちしたコトダマの炎で心を黒く焼き尽くし、己が愚行を三日三晩寝ずに見せつけた後、母にねだって買ってもらったはいいものの、二週間で置物と化したエレキギターで延髄をしこたまぶん殴ってやりたい。
そして現在の僕はこう誓わせる。
「一日一回彼女の家の方角に向かって『由岐さん好きだ! 大好きだ!』と叫べ!」
そしてこう続ける。
「たった今、アホで愚かなお前に『今の誓いを破ったら睾丸が激しい痛みと熱を伴って腐り落ちる呪い』をかけた。更に、『今後時間を便器に流し入れるようなクソつまらん趣味に時間を費やすようなら、その戒めに夜な夜な妖怪フクラハギ様が足の裏や腿を強制的に引き攣らせにやって来られる呪い』もかける予定だ。せいぜい楽しい中学生活を過ごせ」
妖怪フクラハギ様にはお会いした事はないが、きっと中学生特有の痛々しい行為に励んでいるバカガキを更生させる為に日夜活動しておられる妖怪なのであろう。
架空の妖怪を頼ってまで後悔するほど、今の僕は彼女にぞっこんなのだ。幼馴染の彼女以外、僕の眼中には入らない。
彼女の美貌に魅せられたが最後、周囲の光景はがらりと変わる。他の女……いいや、女と呼ぶにもおこがましい。雌どもなど、勝負の土俵にも上がれまい。糞だ。糞である。
実際僕はそんな糞どもに幾度も辛酸を舐めさせられた。
親しい男友達いわく、僕は相当な童顔で、且つ女顔らしい。鏡で自分を眺める事など普段はしないし、特別自分が美男子とも思わない。体毛が薄いから処理が楽、というのはあるが。
僕はナルシストではない。自分の顔なんか眺めている暇があれば、バレーボール部、剣道部、文学部、茶道部、シェイクスピア研究会、近代哲学朗読会、合唱部、吹奏楽部、軽音楽部『コマンドー』その他諸々の活動風景を見学しに行くに決まっている。
長身痩躯を体現する彼女の姿を探すのが、普段の僕の放課後の過ごし方だ。剣道部での活動などオマケに過ぎない。あらゆる分野で好成績を残す彼女の活躍を間近で見る事の方が重要なのだ。
告白を決意したのは高校一年の正月。新年のあいさつに、数年ぶりに彼女から僕の自宅へ顔を出しに来てくれた。母からその旨を階下から聞かされた途端に、腿が痙攣して数分間まともに立てなくなった。
彼女が! 僕と! 初詣に! 僕のようなクソ童貞と一緒に!
振り袖をまとった彼女の晴れ姿。バストのボリュームがありすぎるが為、しきりに着付けを気にしていた事は、昨日の事のように鮮明に思い出せる。
ゴミムシのようにちっぽけな身長の僕が彼女と並ぶと、まるで親子のようである。無論、彼女の優秀な遺伝情報から僕のような異物が発生する事などありえないのだが。
そんな彼女と他愛無い話をしながら最寄りの寂れた神社に向かったのだが、残念ながらその会話の内容はほとんど覚えていない。仕様外の状況に対応しきれず、僕の脳はエラーを起こしていたらしい。舞い上がって忘れちまったのだ。
今こそその後悔を打ち砕く時が来たのだ。彼女の傍に居る事を許されるような人間になるのだ。願わくば、彼女の最愛の人間になれるように……!
急いで指定の制服に着替え、鞄を携えて自転車に跨った。ギアを最大にした重いペダルをぐっと踏込み、一気に加速する。急ぐのだ、とにかく急ぐのだ! 五時などあっという間だ、なぜ僕は怠惰にも十六時間睡眠などという愚行をやらかしてしまったのか!
「待ってえー! 綾瀬くん、待ってえー!」
背後から聞こえたるは、クラスメイトの芹沢千佳の声。陸上部の彼女は、加速し始めの自転車に軽々追いついてきた。なんてタフなんだ。
「申し訳ないが、僕は行かねばならないのだ。要件なら手紙に書いて便器に流しておいてくれ。君に構っている時間はないのだ」
「えっ、ええー!」
制服姿の芹沢は、呆気にとられた様子で僕の自転車から引き離されていく。すまない芹沢、僕には時間がないのだ。
ふむ、そうだな。芹沢という邪魔者のおかげで、街に転がる赤信号や路上の工事などの障害物の存在をふと思い立った。ここは一つ、土手から駅へ向かうのが得策であろう。
夕陽の朱色に染まる河川敷に、障害物その一が待ち構えていた。
「綾瀬慧一! 来て頂きましてよ!」
自転車に対し並走するは固定銃座付のモーターボート。黒服のSP集団を囲いに、クラスメイトの鷹久カエデがボートの甲板から拡声器で僕に呼びかけた。
「綾瀬慧一! 貴方は私の婿になるのです、我が鷹久家の跡取りに……」
金の縦ロールをぼよぼよ揺らし、フリルの施された改造制服を翻しながら障害物その一は叫ぶ。
「僕は行かねばならないのだ、君と婚姻を結んでいる時間的余裕も合理的理由もない」
「いいえ、貴方は私と契りを交わす運命にあるのですわ」
拡声器をやめろ、近隣住民の皆さんが迷惑する。それに一般河川に物騒なボートを乗り入れるな。言いたい事は他にも山のようにある。
「今は昔、十三世紀の東欧はヴァラキア! 我が鷹久の始祖である鷹久左衛門之丈……」
聞き飽きた口上だ。要約すれば、大昔の僕の先祖が彼女の先祖と珍妙な契りを交わし、何の因果か僕と彼女は婚約者同士。許嫁という関係になるよう工作が行われていたらしい。
あずかり知らぬうちにこんな事態になっているとは、さすがに寝耳に水であった。
学校では出会った当初からこんな妄言を教室でも撒き散らしてくるからたまらない、しまいには自宅に押しかけてきて添い寝までしてくる始末。軽くホラーである、さして興味もない女がベッドの中にいるなどトラウマものじゃないか。都市伝説女め
いいとこのお嬢様だか何だか知らないが、窓をピッキングして侵入した事実があれば住居侵入の現行犯だ。電波を吐き散らす彼女は、朝も早くからお巡りさんの御用となった。
しかしそれだけでは終わらない。去年の秋ごろ、文化祭の準備中に襲撃してきた黒フードの、ルーン魔術師を名乗る電波人間の妙な魔術(笑)で全治一週間の怪我を負ったのも、元を正せばこいつのせいだ。こいつが悪い。
「さあ、観念なさい! 鷹久の本家には、貴方が必要なのですわ!」
前科一犯のアホ令嬢がわめく。僕なんかに構わずいい男を探してくれ、頼むから。
「退けっ、狼藉者め!」
勇敢な、しかし狂気を孕んだ声が聞こえたかと思うと、白とブルーのカラーリングの施された装甲に包まれた――――なんだか形のはっきりしない、ごちゃごちゃしたガラクタが、宙を浮遊して鷹久のボートに追いついてきた。
「エルフリーデさん! 今日も邪魔をする気ですの!」
「笑止! 邪魔をしているのは貴様ではないか」
エルフリーデ=アヴェナリウス。またの名を障害物その二。西欧の小国ヘルヴェチア王国が第三王女だとか、その辺りの身の上は覚えている。何分、由岐さん以外の情報には興味がないのだ、致し方あるまい。
素のまま喋らず直立していれば、人形のように愛らしい金髪の白人美少女なのだが、その身に纏う例のごちゃごちゃしたガラクタ『イマジナリ・スカルプチュア』が視界にちらちら入って非常に鬱陶しい。宇宙船外活動の為のパワードスーツの発展形というのがその正体らしいのだが、何がどうなってあんなハリネズミのような突起のカタマリになってしまうのか理解に苦しむ。
至る所からレールガンの砲身や多目的誘導弾のコンテナが突き出ており、人体のフォルムは何処へ隠れてしまったのか。宇宙船外活動できるのかよあれで。
「ええと、君は何の用か」
気は乗らないが、とりあえず声をかけてみる。本当に気が乗らない。
「用は特にないのだが……偶然、そう! 偶然なのだ! 機体の演習の最中にたまたま。しかし、キミこそ何なのだ。相変わらずキミは厄介ごとに……」
ああこの女、張ってやがったのか。単独飛行が可能な内部機関まるごとブラックボックス超兵器を市街地で使ってまでやる事か。しかも恩まで着せようとしてくるとは。
こちらも出会った当初からなかなかに香ばしい事を言ってきたな。幼馴染だとか言って近寄ってきたが、外人の幼馴染なんてそうそういるものか。僕の幼馴染は由岐さんだけだ。
このエルフリーデによれば、幼少時のある夏に一ヶ月だけ僕の家ので傍で過ごしていた事があったらしく、その時に何やらハナタレの僕と約束を交わしていたらしい。覚えてるわけないだろそんな事、重すぎるぞこの女。事実だとしても近寄りたくない。
そもそも厄介ごとを持ってくるのはそっちの方だろ、平凡な高校生の僕がどうすれば国家間の存亡を揺るがす企業の陰謀に足を踏み入れられるのだ。
去年テロリストの駆る新型イマジナリ・スカルプチュアの砲撃に巻き込まれ、全治二週間の怪我を負ったのも、元はと言えばこいつのせいだ。こいつが悪い。
「まさか、貴様がマリアンヌロッジの手引きをしているのか! 答えろ!」
「そちらこそ! 四国八十狸に属する魔術師の術式解構築を……」
トンチキ脳同士による聞いた事のない固有名詞の応酬が始まった。これはいい、双方潰しあってくれれば楽なのだが。
河川に建つ橋梁の橋脚に激突したバカタレ双方の安否確認もほどほどに、僕は東横線の列車へと駆けこんだ。鷹久なんか変な方向に足が曲がってたけど、多分大丈夫だろう。
ともあれ、今の時刻は四時二十七分。バカ二匹に妨害されかけたが、まずまずのタイムだ。この調子で行けば、五時ジャストとまでは行かなくとも十分だ。非常に不服だが。
幸いにも帰宅ラッシュ直前で、車内は帰宅途中の小中学生がぽつぽつ見受けられるだけで、比較的閑散としていた。
備え付けの椅子に腰かけ、向かいの窓の景色を眺めながら乳酸の蓄積した両足を労わっていると、背筋にぞくりとしたものを感じた。
「あら、綾瀬くん」
不自然なツーサイドアップを揺らして、先頭車両の側から一人の女学生が歩み寄ってきた。肩には刀剣を納めるための鞘。これまた不自然なくらいに包帯が巻かれている。間違いない、この他人の神経をゴム手袋で逆撫でするような声。障害物その三だ。
「申し訳ないが……」
断りを入れる前に、舞園カズミは素早く僕の隣に座り込み、僕の口を掌でふさいだ。妙なところいじくった手で触るな、ほんとマジでやめて。
「ごめん、『コトダマ』を出さないで。いつもの奴が来てる」
知るかバカ野郎。さすがは障害物の中でもなかなかの難易度を誇る一人だ。毎度毎度説明もなく、他人を自分の都合に巻き込んでくる。
たちが悪いのは、こっちはさらさら向こうに興味がないのに、向こうはこっちが満更でもないとでも踏んでいるのか、時には露骨に胸元や大腿を露出したような恰好で現れるから困る。そんな貧相な体つきで女を名乗るな。
「第七真祖のファクターが傍に居る。警戒して」
手を離せ、いつもの事ながら鉄臭いんだよこいつは。
「……? 怖いの、アヤセ」
不愉快で怖いくらいだ。
「大丈夫。大丈夫よ。アヤセだけは、私が守るから」
何を言うか。去年など欧州からやってきた曰くつきの聖槍を抱く連続殺人鬼の事件に巻き込まれ、全治三週間の怪我を負ったのは、元はと言えばお前のせいだぞ。お前が悪い。
小中学生が時おりわめく車内で一人殺気立つ舞園は、鞘に収められていた日本刀をいつの間にか片手で抜刀していた。やめろ恥ずかしい、ほんっと恥ずかしいから。
「綾瀬え! 探したぞお!」
爛漫で恥知らずな大声が耳をつんざく。舌足らずの幼女のような声だ、正直言って今の僕には耳障りな事この上ない。非常に腹立たしい。
後方車両から小走りでやってきた声の主に対し、舞園は一層警戒心を強める。
「む? 誰じゃ綾瀬、この女は」
アリッサ=イマヌエーラ=フォン=ヴァルトブルク=ヴィトゲンシュタイン。障害物その四。
障害物の中で一番出会いたくない女である。今までの中で一番恥ずかしい。ヤギのような黒い巻角を頭部に携え、大仰な黒のローブに金細工のあしらわれたアクセサリをじゃらじゃらさせて現れるこの女、何を思ったか自分を魔王の娘だとのたまう。
魔王……悪魔の王か、それとも日本のRPGの常連か。常連とは言っても、最近魔王が出てくるようなゲームは見ないのだが。
縦ロール魔術師令嬢やインチキメカ操手、ポン刀バカ女も相当だが、このエセ魔王様に関わった日には自分の運の無さを心底呪う。彼女の治める土地に拉致された際には勇者だなんだと祀り上げられたが、正直言って恥ずかしさの方が勝る。
去年、その土地で発生した大規模な農民一揆に巻き込まれ、ゲームに登場するような獣人に嬲られた挙句に人質にされ全治一ヶ月の怪我を負ったのは、元はと言えばこいつのせいだ。こいつが悪い。
奇妙な民族衣装を着せられたまま地元の商店街のど真ん中に帰され、ひとり羞恥コスプレを強制させられた事は、もはや黒き歴史の一ページである。それ以降、事あるごとに所帯じみた自分をアピールしたいのかどうかわからないが、僕の生活に執拗に絡んでくる。
「のうアヤセ、今日はデンシャでどこに向かうのじゃ」
「……ファクターの癖に、直接アヤセを狙ってくるなんて。時期尚早でなくて?」
こっちはこっちで意味不明だ。こいつの脳では幾重にもわたる頭脳戦が展開されているに違いない。なんとおめでたいのだ、いい加減にしろ。
「アヤセ、なんとか言うのじゃ。早うせんと」
「消えなさい、あなた達の好きにはさせない」
再び固有名詞のドッヂボールだ。双方バカだとこんな悲惨な状況が産まれてしまうのか。
「邪魔なおなごじゃな、わらわはアヤセに用があるのじゃ。さっさと去ね!」
「口頭で私が伝えてあげるわ。あなたの神臓が滅忘されたら……」
きがくるっとる。
無意味で内容の薄い問答を聞き流している内に、Y駅まであと二駅ほどだ。そろそろ消えてくれないだろうか、こいつら。
「ああ、門が開いてしまうぞアヤセ! ぼやぼやしてるとクラーケンのやつが我慢できずに出てきてしまうぞ。あやつをわだつみに放つのは二億年ぶりでな」
「偽典証書の魔をちらつかせても、譜代省は動かないわ。どういうつもり?」
おお、会話が成立している。なんと面妖な光景なのだ。さっさと帰ってくれ頼むから。
門が開いてしまうだとかいうアリッサの台詞から程なくして、クラーケンと呼ばれる赤褐色の巨大なタコのバケモノが市街地のど真ん中に召喚された。ビルから何まで一切合財をなぎ倒して海へ進撃するタコを尻目に、無事Y駅に到着した僕は高校へと走り出す。
魔王様とポン刀は、タコが現れてから歪な形をした刀剣を互いに引っ張り出してチャンバラを始めた。ともあれ、無事に高校へ辿り着けそうだ。
校門を抜けた際に確認した時刻は五時二分。ギリギリアウトだ。
謝罪の文言を頭の中でかき回している内に、待ち合わせの場所に着いてしまった。
運動部の掛け声と、楽器演奏の不協和音が混在する薄い喧騒の中、由岐さんは校舎裏のベンチで佇んでいた。
腰まで伸ばした艶やかな黒髪、きりりとした二重の双眼、かたく結ばれた、うっすらと紅の引かれた口唇。息を切らせて走り込んできた僕に気づくと、彼女はすっくと立ち上がった。こうして全身を改めて正面から見つめると、彼女の長身ゆえの美しさが際立って観見えた。黒のストッキングに包まれた美脚に、つい目が行ってしまう。
「本当にごめんなさい、呼び出した方が遅れるなんて」
ともすれば、機嫌が悪いようにも感じとられてしまうような彼女の顔つき。切れ長で伏し目がちな彼女は、常々それを気にしていたっけな。
「構いません。そう……仕方ない事、だから」
女子高生らしからぬ、太く落ち着いた低音の美声。この声で奏でられる讃美歌は、無宗教家の僕でさえ天にも昇る心地になってしまう。
「それで、お話とは……何でしょうか」
僕と四十センチほどの身長差のある彼女は、いつも屈んで目線を合わせてくれる。申し訳ないやら情けないやらで居た堪れないのだが、今日ばかりはそうは言っていられない。
「いや、あの……実はですね」
どもる僕を前にしても、彼女は茶化す様子もなく、表情を崩さない。元来無口でポーカーフェイスの彼女だが、頭の回転が速いが為に、聞き上手としても名が通っている。もしかすると、僕の稚拙な恋慕など、当の昔に見抜かれてしまっているのではなかろうか。
ああ、それにしたって!
毎晩あんなに彼女への愛を枕に向かって叫び続けていたのに、いざ本人を前にすると、言葉がすんなり出てこない! ごまかして逃げちまおうだとか、次の機会にしようだとか、そんな事は思っちゃいない。しかし、やかましいほどの大音量の鼓動を打ち鳴らすみずからの心臓が猛烈なプレッシャーを与えてくるのだ。
彼女と視線が合うたびに歯の根はがちがち震え、掌が汗でびしょ濡れになる。蛇と相対した蛙とは真逆の状況だろうが、極限状況には変わりあるまい。見よ、何と美しい白蛇なのだ。結婚してくれ! 丸呑みにしてくれ! 僕を愛してくれ!
やがて首筋に鳥肌がのぼり、ぞくぞくとした悪寒が背筋を……
「綾瀬くん、待ってよォ。綾瀬くん、綾瀬くん、綾瀬くん、綾瀬くん、綾瀬くん」
眼球を右肩へやると、皮膚が剥がれた手指がガッチリと自分の肩に食い込んでいるのが見えた。鮮やかだったはずの爪も無残に砕け、どす黒い血が滲み出している。
「せり……ざわッ……!」
「ひどいよォ綾瀬くん、なんで待ってくれないのォ」
自分の意思で動かせるのは、もはや眼球だけ。背後に立ち上る生臭い不快感は、さらに密度を増して僕にのしかかる。
五年前、ハードル走の中学選手権出場直前にマンションの屋上から飛び降り、『全身を強く打って』死亡した芹沢千佳。鷹久の本家が主催するパーティに行った時にも、エルフリーデが参加する総火力演習に行った時にも、舞園が刀の薀蓄を昏々と語っている時にも、アリッサが初めてソフトクリームを堪能している時にも、この女だけは僕の傍にいた。
「さっき、言った、はずだぞ。僕は、君に構っている時間はないのだ、と……!」
「お願ァい、お願いよォ、行かないでェ。辛いの、わたし辛いのォ」
「うるさい、知るか……僕に、かまうな……!」
左肩にも生暖かい何かが被さった。ぐずぐずした感触の、湿っぽい何か。
「見て、わたしを見てェ。わたしを愛してェ」
固まりかけの血がこびりつき、赤黒く縮れた頭髪が視界の隅にちらちら見え隠れする。僕が最後に見た芹沢は、頭の皮が頭蓋骨ごと破れ、灰色の豆腐のようなものを撒き散らしていた。頭髪の付着した頭皮が、芹沢本人から数メートル離れたアスファルトの上に飛び散っていたのをこの目で見た記憶がある。
芹沢の死は、中学生の僕に小さくない影響を与えた。このおぞましい心的外傷は、僕から愛しの由岐さんを、一時的にも黒く塗り込めるほどの汚染を招いたのだろう。
「僕の傍にいたなら、毎晩毎晩聞いてる筈だろう……僕が愛しているのは由岐さんだ、お前なんかじゃあない……! お前なんかじゃない!」
「ずっと、傍に居たのにィ。学校の校庭で、あれだけ一緒に遊んだのにィ。いっぱい虫さん採ったじゃなァい、中学に行っても一緒に居ようねって、綾瀬くんはァ」
「お前に言ったんじゃない……! ふざけるな……!」
血腥い、ぬるい吐息が耳元にかかった。ひゅうひゅうと耳障りな呼吸の音が、ねちっこく耳につく。芹沢の首は、どの程度ねじ曲がっていたっけか。
「僕ははっきりと言ったはずだ、君とはそういう関係にはなれないって……! それで終わりだ、それ以上僕に何も求めるな。答えをぼかしたり、後回しになんかしちゃいないぞ。僕はこの口で、確かに言ったぞ」
小学校の校庭でよく遊んだ覚えもあれば、友人数人と虫取りにも行った経験も自覚している。僕にとっての芹沢は、その中のその他大勢だ。交流が無かったわけではないとしても、深い仲になどなっていない。
がぼッ、ぐずぐず、ぼとッ
裂けた喉の奥から呻く声が聞こえた。やがて、言葉にならない言葉を芹沢は発し始める。恐らくは僕の名を呼んでいるのだろうが、下顎の砕けた彼女にとっては困難なのだろう。
弾けた肉をぎゅちぎゅち擦り合わせる不快な水音しか、僕の耳に届かない。
他の人間が芹沢の事を知ったらどう思うだろうか。悲恋に見舞われ、自ら人生を絶った儚き女学生か。うら若き蕾のまま散った少女の決意は、どう捉われるのか。
僕にとっては……
「クソッ喰らえだ。さっさと地獄に堕ちろ、生き意地が汚いんだよ!」
一方的な未練なんぞでしがみつかれちゃたまったもんじゃない。知った事か、勝手に恋慕されて勝手に死なれて勝手に連日ストーキングされて、いい迷惑だ。怪談噺のオチにもなるものか。確かに、相手を恋い慕う気持ちが徒労に終われば、誰だって消沈するものだ。僕ならば、きっと数か月単位で寝込むだろう。食べては吐き戻しを繰り返すに違いない。
だが、これだけは誓う。自害するなら、迷惑の掛からない方法で、絶対に由岐さんが知りえない手段で命を絶つと。
「お前みたいに、わざわざマンションに呼び出して飛び降りたりしないよ、普通は」
じゅぶり
血まみれの指が、不意に口に突きこまれた。人差し指、中指の二本が、僕の口内を蹂躙する。鉄臭い、なまぐさい、吐きそうだ。嘔吐反応もできず、ただただ泣きそうになる。
芹沢、お前……お前は結局、僕をどうしたいんだよ……!
「邪魔です」
ぼそりと、唐突に由岐さんが呟いた。
「彼が話をしようとしている所にぼそぼそぼそぼそ。目障りです。鬱陶しいです」
目を丸くしている僕など意に介さず、由岐さんは僕の右肩に垂れ下がるものを鷲掴み、尚もドスの利いた声で続けた。
「あら、あなたは。そう、あなただったのですか。そうですか」
やがて、それにずいと額を近づけて吐き捨てた。
「何様ですか、そうやって人様にへばりついて。もう一度死ぬ痛みを味わいたいのですか。いいでしょう、お望み通りにしてさしあげます。魂魄何兆何京何亥懺悔しようとも輪廻の輪に戻れないほど、入念に砕いてあげますから」
「先日は早退されたそうですね。その後のお加減はいかがですか」
僕のすぐ横に腰かける由岐さんは、穏やかで柔和な笑みを浮かべて言った。
「気分が優れなくて。その前の夜も、何だかんだで一晩寝られなかったんです」
「まあ。まさか、今の今まで寝ていたなんて事は」
お見通しだ。さすがに今までのボンクラ女とは違って鋭いぞ。
「早寝早起きは、なるべくした方がいいですよ。三文ぽっちの儲けでも、得には変わりありません」
まるで、生徒を諭す教師のよう。しなやかな肌に包まれた人差し指を立てて、やんわりと微笑む由岐さん。ああ、女神とはここにいたのか。
校内には彼女の事を鉄面皮などと呼ぶ輩も少なからず存在すると聞くが、とんでもない。
これほど慈愛と暖かみに溢れた表情をこなせる女性が同じ年齢の人類に存在していたとは、まさに奇跡と呼ぶに相違あるまい。彼女と同じ時代に生を受けた事を誇りに思えるほどだ。父母には感謝してもし足りない、よくぞ僕を生み落してくれたと。
由岐さんの御両親にも賛美の意を伝えたい。よくぞ娘さんをこんなに立派な女性に育て上げてくれましたと!
そして、由岐さんには……
「あ、あの……!」
「はい」
ベンチから立ち上がり、背筋を伸ばして直立する。丁度、彼女と目線が合う程度。
真っすぐ射抜くような視線で、僕は再び緊張してしまう。
しかし、やがて一呼吸おいてから、僕は真っ白な頭で言った。枕に向かって連日叫んでいた本心を。
May 27.2013
動悸がいつまで経っても収まらない。
ドキドキする、こんなの初めて。胸の奥がきゅーっとあついよ。
シャワーを浴びても、大好きな漫画を読んでも、明日の予習をしてても、ずうっと彼の事が頭から離れない。ちょこまか焦っちゃう彼の仕草が、目に焼き付いてる。
初恋が実っちゃうなんて、映画とかでしか見た事なかったけど、こういう気分になるものなんだ。きっと、書き手は私ほど幸せにはなってないはず。私が、たぶん一番。
彼を苛んでいた、薄汚い雌豚もこの手で祓えた。それだけでも嬉しいのに、彼が私を選んでくれたことが、たまらなく心地よい。ああいう手の女は、実際に手を出してわからせてやらないといけないのに。
でも、きっと彼はすごく優しいから、そんな事しなかったんだろうな。
彼の息遣いを思い出すだけで、体がぶるぶる震えちゃう。今度会った時、好きって気持ちをちゃんと伝えられるかな。
きゅっと抱きしめても足りない、たぶんキスしてももの足りない。そういう時って、どうするのかな。頬ずり? それくらいしか考えられない。すごく楽しみ。
彼に纏わりついてる妙な女も、そうなのかな。今までは黙認して来たけど、正式に恋人さんになった今なら、やらなきゃいけないよね。彼の優しさに付け込んでわがまま放題するなんて、許さないんだから。
特に、あの外人。
たかだか一ヶ月が何だっていうの。
幼馴染を名乗って、昼間から何様のつもり?
去年、彼に怪我させた時、
ほんと、×したくなっちゃったけど
今度やったら、ただじゃおかない。
鷹久とかいう女も。
家に入ったとか言ってたけど
何様のつもり?
彼がひとり暮らしを始めてから
私がずうっとおうちの事やってたんだよ?
わたしが、愛をこめてお手入れしたお布団に、
あの女の、きたないオリモノが付いたと思うと、
いてもたってもいられない。お部屋ごと消毒しなきゃ
あと、学校に刀持ってきてるあの女。
銃刀法違反? 本当に頭おかしい?
そんなの持って彼に近づくとか、何様のつもり?
あと、角生えた変な女。
べたべたべたべた彼にまとわりついて
挙句の果てには拉致監禁?
何様のつもり?
タコ出したのもあの女でしょ
彼に何かあったらどうするの? 理解できない
いらいらしてきた
×しちゃうかも。あのタコとおなじめにあわせてやる
揃いも揃って、彼を傷つけて
いままでは、彼と触れ合うのもこわかったけど
もう、何にも怖くない。
彼にこれ以上負担がかかるようなら、何でもしてやる
ダイスキ、慧一。
慧一、ねえ慧一。
私、何か慧一の気に障るような事したかしら。
もし、何かあったのなら遠慮しないで言って頂戴。あなたのいう事なら、何でも聞くから。
あなたがこの日誌を読んでるの、知ってます。あなたの心に何か不安があるのなら、陰りがあるのなら、疑念が浮かんでいるのなら、何でも打ち明けてください。
いつもの場所にいます。
待っていますから。ずっと。