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君のいる風景

手のひらの風景

作者: 蒲公英

大きな花束を持ち、拍手で送り出されようとしている彼は、少し寂しげに笑った。

「定年までここにいられて、とても嬉しかった。これから関連会社に移るけれど、皆さんお元気で。」

ぐるりとメンバーの顔を見回したあとに軽く頭を下げて、彼は後姿の人になった。

他のメンバーは次々に席に戻ってゆく。

私は、彼を追ってロビーに急いだ。まだ、何か忘れている気がして。


「シミズさん。」

後ろから声をかけると、彼は振り返って微笑んだ。

「おう、タチバナか。今までありがとうな。元気で、早く結婚しろよ。」

「はい、シミズさんもどうかお元気で。たまにはお顔も見せてくださいね。」

彼が差し出した右手を軽く握ると、思いがけなくもう少し強い力で握り返された。

「十年ぶりかな、おまえの手を握るの。覚えてるか。」

忘れない、忘れるわけがない。

帰り道につないだ手だけが、恋の高まりであり、おしまいだったのだから。


技術系の専門学校を卒業して就職した先は、大きくはない設備設計の会社だった。

学校で教えられた知識は、実践では役にたたなかった。

なぜなら、学校では原価計算や指定メーカーの概念はなかったから。

小さなミスを繰り返し、怒鳴られ、それでもやっと一年たった頃

その時の課長であった彼が、私に小さなビルの図面を渡しながら、

空調の設計をまかせる、と言ったのだ。

その課で、一番下は私だけだったし、戦力に見てもらえるのが嬉しかった。


「納期は明後日だ。最終チェックは俺がやる。間違ってもいいが自力で考えろ。」

資料を揃え、負荷計算をし、ダクトの通し方を考えているうちに一日目が終わった。

二日目、前日の計算のミスに気がつき、慌てて設計のやり直しをはじめると

あっという間に時間が過ぎて行き、気がつくと定時なんかとっくに過ぎていた。

夜の十時。フロアには、私の仕上がりを待つ課長と私のみになった。

「チェックお願いします。」と提出すると、課長は満足げにうなずいて言った。

「大体がOKだ。明日、もう一度見直して訂正を出す。」

「ありがとうございます。よろしくお願いします。」

頭を下げた瞬間、課長は立ち上がって、くしゃりと私の頭を撫でた。

「がんばったな。こんな時間まで残して悪かった。タチバナなら最後までやると思ってたんだ。」

優しい声でねぎらわれ、私の頭の上に置かれた大きな手。


私は、その瞬間にその手に恋をした。


彼に認められたくて、仕事熱心になった。

彼の大きな手にまた、頭を撫でてほしいだけで。


彼の手に、もう一度触れられたい。願いは、そんな小さなことだった。

その日は、唐突にやってきた。

課内の飲み会。

あまりお酒に強い体質ではないので、ずいぶん酔っていたのだと思う。

駅までの帰り道がいっしょだという理由で、彼と私は肩を並べて歩いていた。

「タチバナは本当によくがんばってるな。お前が部下で、嬉しいよ。」

彼の言葉は、通り一遍の褒め言葉だったと思う。


「私、シミズさんに褒められたくて、がんばってるんです。シミズさんがいるから。」

冗談めかして言った私の言葉に、彼はちょっと笑いながら私の頭をつついた。

「かわいいこと言ったって、俺にお世辞は通じないぞ。」

酔った頭が、自分の口にした言葉で煽られた。

「お世辞じゃないもの。シミズさんが好きなんだもの。」

更に煽られた言葉が口から勝手にこぼれてくる。

「シミズさんさえ、評価してくれるんなら会社の評価なんていらないもの。」

次は、言葉の代わりに涙がこぼれた。


頭の片隅の理性が、警告を鳴らしてくる。

こんなことを本人に告げたら、明日から出社できないよ。

けれど、こぼれてくる涙は止まらず、私は子どもみたいに拳で目を拭った。


彼は、困ったように私の手をとった。

「ありがとうな。娘より若いタチバナにそんなこと言われるなんてな。」

彼に手を引かれて歩きながら、私はまだ鼻をすすっていた。

あの手に、私の手が包まれている。

それは、この上なく甘い感覚だけれど、彼の困った顔はそのままだ。


今日で、この手を夢見ることはおしまいにしよう。

彼の手は、もう、自分の手が覚えている。

五十歳の彼と二十一歳の私は手をつないで、ゆっくりゆっくりと坂道を歩いた。


「タチバナ、お前は努力家のいい部下だった。心残りはお前の仲人ができなかったことだけだ。

 あんな若い女の子と手をつないで歩いたのは、俺にも嬉しい思い出だ。もう二度とないだろう。」

彼はもう一度、握手の手を握りしめた後、ふと抱えている花束から一本の花を折り取った。

「この花は、俺からお前にだ。」

それだけ言うと踵を返し、後ろ手に手を振りながら彼はロビーを横切って行った。


ああ、行っちゃった。

事務所に戻りかけ、私は携帯電話を開いた。来年結婚する人に連絡をとるために。

忘れたくない恋愛を書いてみたくて。

今風ではないかも知れませんが、こんなこともあるものだと思っていただけたら、とても嬉しいです。

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