明治政府は不平等条約を継承しなかった 対英30年戦争
長めですが、なろうだと一括アップロードすると短編と言うことになってしまいます。
もう一本の短編 米軍が沖縄戦をせずに台湾戦をしたとき日本はどうなるか 飛び石作戦で台湾を飛ばさずに沖縄を飛ばした場合。
と同様 読了には少し時間がかかりますがお読みいただきありがとうございます。
『明治政府は不平等条約を継承しなかった』
慶応3年10月。
徳川慶喜が大政奉還を申し出たあと、京都では、国内の政権を誰が握るかという話より先に、外国との条約を誰が引き受けるのかという話が始まった。
岩倉具視は机に積まれた条約文書を、指先で一枚ずつずらした。
「政を返すというなら、これも同じように扱わねばならぬ」
木戸孝允が顔を上げた。
「安政の条約ですか」
「そうだ。幕府が結び、幕府が履行してきた。しかし今度は朝廷が日本の政を直接扱う。ならば、新しい政府が何を継ぐかを確認せぬ方がおかしい」
大久保利通は領事裁判権と関税の条項を黙って読んでいた。
「孝明天皇の勅許があります」
「そこが痛い」
岩倉はすぐに答えた。
「外国は必ず言う。天皇も認めたではないか、と」
「実際、認めています」
「通商そのものを今さら消すつもりはない。港も開ける。外国人も商売をすればよい。ただし、日本の裁判を日本ができず、関税も自分で決められぬ状態まで永く認め続けるかは別だ」
木戸が条約文の余白を指で叩いた。
「向こうから見れば、勝手な解釈でしょうね」
「こちらから見れば、今までが勝手だ」
大久保が小さく息を吐いた。
「話は簡単です。対等な新条約を同時に差し出す。貿易を止める気はないと最初から見せる。領事裁判と関税だけは改める」
「それでも拒めば」
木戸の問いに、岩倉は返事を急がなかった。
部屋には、まだ将来の明治天皇と呼ばれる若い天皇へ持っていく説明書が置いてあった。
「拒むなら、どこまで本気かを確かめることになる」
◇ ◇ ◇
若い天皇は、条約の細部より、戦争になった後のことを先に聞いた。
「外国の船は強いのか」
「海では、こちらがまともに戦えば勝てませぬ」
西郷隆盛が答えた。
「では、なぜ戦えると言う」
「海で戦わなければよかです」
天皇は少し首を傾げた。
西郷は床に広げた日本地図を示した。
「向こうは港を取れます。横浜でも神戸でも、軍艦で港湾交通と沿岸輸送を止められれば、こちらの補給は苦しくなります。ただ、港を取った後に京都まで来るなら、人も大砲も食い物も街道を通らせねばなりません」
「京都を取られたら終わるのか」
木戸と大久保が顔を見合わせた。
天皇は地図を見たまま続けた。
「朕が京都にいるから、京都を取れば終わるのだろう。ならば、ここにおらねばよい」
岩倉が目を細くした。
「陛下、それは都を移すという意味になります」
「戦の間だけでもよい。日本には山がある。どこへ行けばよい」
西郷が地図の中部を見た。
「松本も考えられます。海から遠く、東西から来ても山を越えます」
木戸が地図の北側を指した。
「ですが、松本には北側からの進攻路が残ります。糸魚川から姫川沿いに入り、白馬、大町を抜ければ安曇野です。その先が松本になります」
「海から遠いだけでは足りぬか」
「はい。飯田なら東に赤石、西に木曽の山があります。北から来れば伊那谷を長く下らせることになる。南から天竜川沿いに入る場合も、砲車と補給車列を通せる経路が限られます」
西郷が飯田のあたりを指で押さえた。
「戦の間だけでも、こちらの方が守りやすかです」
「では飯田か」
「飯田に移れば飯田京か」
天皇が初めて笑った。
木戸も笑った。
「陛下がおられれば、そう呼ぶ者は出ます」
「看板を書き換えるのが忙しいな」
笑いが消えると、天皇はまた条約文へ目を戻した。
「外国を追い払って、商いまで止めるつもりはない。だが、日本の法を日本で決めることまで外国へ渡す気もない。その話でよいな」
「はい」
「戦になるなら、先に国内で争うのを止めよ」
その言葉が、徳川側にも伝えられた。
数日後、朝廷内ではもっと厄介な問題が出た。
「孝明天皇が条約を勅許された事実を、どう扱います」
三条実美が尋ねた。
岩倉は、そこだけは勢いで押さなかった。
「消せぬ」
「なら、列国の言い分にも理があります」
「ある」
木戸が意外そうに岩倉を見た。
「認めるんですか」
「認めぬ理屈だけ並べても、外国人は帰らぬ。勅許があった。それでも今の条件を未来永劫そのまま続ける義務まで生じたか、そこを争う」
大久保が紙へ書き込んだ。
「日本側の主張の中心は、不平等条項の改訂と、新しい通商条約の同時締結です」
「そうだ」
「外国側が、改訂期限まで待てと言えば」
「待てぬと答える」
「武力を出せば」
「それで初めて、相手が条約を守りたいのか、特権を守りたいのか分かる」
三条はしばらく黙っていた。
「ずいぶん危ない橋ですな」
「橋を渡らぬと向こう岸へ行けぬ」
「英国軍が橋を落とすかもしれません」
木戸が言うと、岩倉は少し笑った。
「そのときは別の橋を探す」
後になって、その言葉は比喩では済まなくなった。日本中の橋が、何度も落ち、何度も架け直された。
◇ ◇ ◇
ハリー・パークスは文書を二度読んだ。
「日本政府は旧条約を継承しない、と」
岩倉は頷いた。
「不平等な条項をそのまま継続しません。通商条約は改めて結びます」
「言葉を変えても、条約の一方的破棄です」
「日本側は、政権交代に伴う再締結と考えています」
「孝明天皇の勅許がある」
「承知しています」
「ならば、天皇の権威を理由に将軍の条約を否定する議論は成り立ちません」
「そこを争うつもりで来ました」
パークスは岩倉を見た。
「本気ですか」
「こちらも同じ質問をしたい」
その日の午後、米国公使ロバート・ヴァン・ヴァルケンバーグも同じ説明を受けた。
彼は英国人ほど語気を強めなかった。
「米国は、この国の内戦では中立を宣言しています」
「知っています」
「朝廷と徳川の争いに米国人が兵器や軍艦を持ち込むことも禁じた。それと、国家間の条約問題は別です」
「だから新条約を結びたい」
「ワシントンへ報告します」
「米国は英国と一緒に撃ってきますか」
ヴァン・ヴァルケンバーグは少し困った顔をした。
「そこまで簡単な質問ではない」
「こちらには簡単です。撃ってきた国とは戦う」
「それは分かります」
米国公使は文書を畳んだ。
「ひとつだけ申し上げる。米国では南北戦争が終わったばかりです。戦争を増やしたがる人ばかりではない」
「商売をしたい人は?」
「それは大勢います」
「なら、その人たちと話したい」
ヴァン・ヴァルケンバーグは少し笑った。
「日本人は切り替えが早いですね」
「船を撃ってくる人と、物を売ってくれる人を同じに扱う理由はないでしょう」
◇ ◇ ◇
徳川慶喜は、パークスから直接問われた。
「あなたの政権が結んだ条約です。新政府が継がないと言っている」
慶喜は茶碗を置いた。
「私は政を返しました」
「国家間の条約まで返したことにはならない」
「ならば今の政府と話すべきでしょう」
「あなたは抗議しないのですか」
「私が英国に助けを求め、朝廷へ政を返さぬと言えばよろしいか」
パークスは表情を変えなかった。
「そういう意味ではない」
「では、私が日本国の代表を名乗り続ける理由もない」
「戦争になりますよ」
「そのとき私は日本人です」
この会話が広まると、国内では薩長と徳川の対立より、対英防衛へ兵力と装備を回すことが優先され始めた。
鳥羽伏見で向かい合うはずだった兵が、外国軍の動向を調べ始めた。薩摩と長州は徳川を討つために集めた火器を沿岸へ回し、幕府側の海軍技術者は新政府の役人と同じ机に座った。
理想的な和解が日本をまとめたのではなく、港の外に並ぶ英国艦隊が、国内戦へ兵力・弾薬・輸送力を割く余地をなくしていった。
◇ ◇ ◇
明治元年の終わり、最初の大きな衝突が起きた。
外国側の狙いは、日本全土を征服することではなかった。
港を押さえる。外国人居留地を守る。日本船を止める。政府へ旧条約履行を迫る。
横浜では英仏蘭米の部隊が以前から居留地警備の分担を決め、橋や税関へ歩哨を置く経験を持っていた。日本の内戦に備えた警備配置は、そのまま対日軍事圧力の初動配置へ転用できた。
西では長崎も英国軍の占領下に置かれた。港湾、倉庫、外国人居留地周辺を押さえれば、西日本の海上交通へ圧力をかけやすい。だが、占領が長期化すれば、軍事上の問題とは別に、兵士による暴力、不当な徴発、家屋接収など、市民生活への被害も増える危険があった。
英国軍士官の1人は、沖に並ぶ艦を見ながら言った。
「京都まで行く前に終わる」
隣の士官が尋ねた。
「終わらなければ?」
「京都へ行く」
「山ばかりだぞ」
「道はある」
その判断は半分だけ正しかった。
飯田を直接狙うなら、横浜から東海道を陸路で延々と進む意味は薄い。英国海軍は兵と砲を艦艇で三河湾へ運び、豊橋港を上陸・補給の拠点にして北へ押し上げる方が合理的だった。
横浜は総司令部と関東方面の占領拠点、飯田正面は豊橋港を補給口とする別の戦線になった。
豊橋から先には道がある。しかし、大部隊、砲車、弾薬車、糧食車を同時に通せる道は限られた。英国軍はそこを使ってかなり奥まで入ることができたが、港から離れるほど補給路の細さが問題になった。
◇ ◇ ◇
朝廷は京都を離れた。
御璽、重要文書、官吏、近衛の一部、必要な道具が分散して運ばれた。
宿場では、行列を見た老人が若い役人へ聞いた。
「ほんに都が動くのか」
「しばらくです」
「しばらくとは何年じゃ」
「分かれば私も知りたいです」
「飯田へ行くなら飯田京か」
「もうそう呼んでいる人がいます」
「英国さんが飯田まで来たら?」
「陛下に聞いてください」
「また山の中へ移るのか」
役人は笑った。
「そのときは役所を1か所に固めないそうです」
飯田に朝廷と政府機能が入り始めると、町は急に狭くなった。
公家の宿、役所、兵站倉庫、電信より前の飛脚と伝令、軍の詰所が入り混じった。
天皇は仮御所の小ささを見て言った。
「京都より歩く距離が短くてよい」
岩倉は苦笑した。
「戦が終われば、お戻りいただきます」
「いつ終わる」
「それを今から決めます」
誰も30年とは答えなかった。
◇ ◇ ◇
最初の冬、英国軍は日本の緯度を甘く見た。
横浜の総司令部では、大雪が続く土地ではないという印象が強かった。英国本土より南にある国だから、積雪や凍結が作戦日程を左右するほどの制約にはならないと考えた者がいた。
だが、飯田正面の部隊は横浜から歩いていたのではない。兵と砲は艦艇で豊橋港まで送られ、そこから三河の山地を抜けて飯田方面へ北上した。
豊橋の海岸部が温暖でも、内陸の谷と峠は別だった。
内陸へ入って、その考えは消えた。
「道はどこだ」
若い英国中尉が尋ねた。
通訳が雪の中を指した。
「ここです」
「これが?」
「昨日まで荷車が通っていました」
前日までの雨が夜の冷え込みで凍り、朝の陽で表面だけ緩んだ。砲車の車輪が沈み、馬が倒れた。
兵士が車輪へ肩を入れた。
「押せ!」
「動きません!」
谷の上で1発だけ銃声がして先頭近くの兵が倒れた。英国兵が林へ向けて撃ち返したが姿は見えず、数分後にはまた静けさが戻った。
「追うか」
中尉は谷の斜面を見た。
「追わない」
「また撃たれます」
「上へ登ったら、今度は俺たちが戻れない」
その判断は正しかった。夕方には橋が落ち、夜には雪が増え、翌朝になっても後方の荷車が2台来なかった。中尉は報告書に「敵兵力不明、死傷7名、進出距離は予定の3分の1、道路状況劣悪」とまとめ、最後に一行だけ付け加えた。
「海岸から50マイル離れれば、補給条件がまるで変わる」
その報告は豊橋の前進司令部で読まれ、写しが横浜の総司令部へ送られた。
「50マイルで音を上げたのか」
上級将校が鼻で笑った。
「日本の50マイルです。平地の行軍とは道路勾配も橋梁も補給条件も違います」
「地図には街道がある」
「街道が1本しか使えない区間があります。砲車を通せる道を選ぶと、前進路と退路が同じになります」
「別の谷へ回れ」
「木曽を外せば伊那へ入ります。その間を大部隊で横切るには峠を越えます」
机の上には欧州の軍用地図も置いてあった。平野であれば道路を2本、3本と並行して使い、敵に妨害されたら横へずらせる。日本中部の地図は、その感覚を受け付けなかった。
「日本軍はどう移っている」
「小部隊は峠道を使います。荷車を捨てればこちらより速い」
「なら兵站部隊を増やせ」
「増やすほど列が長くなります」
上級将校は黙った。
やがて机の端に置かれた損害表を見た。会戦なら勝っている。沿岸砲台も潰した。町を占領すれば日の丸は下がる。それでも、小部隊単位の戦死・負傷・疾病・行方不明が街道ごとに累積していた。
「京都を取れば終わるはずだった」
「京都には、もう天皇がいません」
「飯田を取れば」
「御座所と政府機能をさらに分散させる準備をしているという情報があります」
「どこだ」
「1か所ではありません」
上級将校は椅子へ深く座った。
「首都を追いかける戦争ではなくなったな」
「最初から、相手はそうするつもりだったのかもしれません」
その冬、英国軍は一度、かなり奥まで入った部隊を引き戻した。前進に10日かけた距離を、負傷者と故障した車両を抱えて戻るのに16日かかった。
雪が解けた日、最後の荷車が海岸側へ着いた。
兵士の1人が地面へ座り込み、港に浮かぶ軍艦を見て言った。
「船が見えるだけで、こんなに安心するとは思わなかった」
隣の兵士は返事をせず、靴の泥を落とした。
◇ ◇ ◇
日本側は、英国の橋頭堡を激しく攻め続ける案を早い段階で捨てた。
「横浜へ夜襲をかければ、もっと損害を与えられます」
若い藩士が地図を前に言った。
西郷は首を振った。
「回数を減らせ」
「なぜです」
「追い出したら、別の場所へ移る」
「追い出すために戦っているのでは」
「英国兵を海へ返すために、こっちの兵を海岸で死なせる必要はなか。向こうが使い慣れた港へ入り、使い慣れた街道から出てきてくれた方が、こちらの損害を抑えられる」
木戸が地図を見た。
「上陸港と進攻路を限定させるのか」
「そうじゃ。奥へ来たら、道は谷に入る。木曽を嫌って隣へ行っても伊那じゃ。向こうは大砲も荷車も連れてくる。こっちは人だけ峠を越せる」
大久保が指で谷をたどった。
「橋頭堡を安全だと思わせる」
「完全に安全だと思われても困る。橋頭堡を捨てない程度には損害を与える」
木戸が笑った。
「難しい注文だな」
「戦争はたいてい難しか」
その日の午後、鹵獲品の報告が届いた。
「小銃46挺、弾薬箱12、医療箱3、望遠鏡2、工具箱5。食料箱が21です」
西郷の顔が少し明るくなった。
「食料が一番ありがたい」
「銃ではなく?」
「鉄砲は作れるようになる。腹は毎日減る」
◇ ◇ ◇
鉄砲については、日本側が思ったより早く追いつき始めた。
理由の一つは、日本人が器用だったから、という便利な説明では足りなかった。
そもそも史実の幕末日本は、すでに大量の洋式小火器を買っていた。
横浜、長崎、神戸の輸入記録を合計すると、1863年から1869年までの小火器は569,844挺。とくに1867年だけで167,700挺に達していた。
この世界でも、洋式小火器の輸入経路は戦争で完全には途切れなかった。
英国が売らなくても、オランダ人、ドイツ人、米国人など別の商人がいた。
港へ入る船の国籍が変わり、送り状の名義が変わり、途中の倉庫が変わった。
ある工房で、職人が鹵獲したミニエー系小銃を机に置いた。
「銃身は作れます」
「ライフリングは」
「道具を作れば」
「雷管は」
「数を揃える方が面倒です」
役人が聞いた。
「半年で何挺出せる」
「この工房だけなら、大した数ではないです」
「全国なら」
職人は笑った。
「全国の鍛冶屋に聞いてください」
輸入銃、改造銃、鹵獲銃、模造銃が混在し、規格はひどく乱れた。補給担当者は弾薬箱の表示を見るたびに怒った。
「同じ口径にしてくれ!」
前線から返事が来た。
「今ある銃を捨てろと言うなら、代わりを持ってこい!」
結局、統一より数が先になった。
谷の上から撃つ側には、それでも十分だった。
◇ ◇ ◇
1870年、フランスから届く電報の内容が変わった。
プロイセンとの戦争が始まり、フランス政府は極東配備の兵と艦を欧州戦へ振り向ける必要が生じた。
日本側の外交官が言った。
「今なら抜ける口実があります」
フランス側の代表は苦い顔をした。
「口実と言われると腹が立つ」
「では、利益と言いましょう。日本と講和すれば、英国より先に商売を再開できます」
「条件は」
「相互の通商。日本の裁判権と関税自主権を認める。互いの捕虜を返す。戦費の賠償は求めない」
「英国が怒る」
「プロイセンの方が近いでしょう」
フランス人は黙り、3日後には交渉が始まった。オランダも長くは残らなかった。
日本海沿岸や瀬戸内まで含む広い海域を封鎖し、数千隻の沿岸船を臨検・拿捕するには、多数の艦艇、人員、石炭、修理費が必要だった。オランダ政府には、その負担を自国の利益だけで継続する理由がなかった。
連合側から、参戦国が1か国ずつ離脱した。
英国だけが日本との交戦を継続した。
◇ ◇ ◇
1873年10月、ジョン・アーマー・ビンガムが米国公使として日本へ着いた。
彼は法律家だった。
日本側の役人は、その経歴を聞いて少し期待した。
「英国と一緒に旧条約の履行を求めますか」
ビンガムはすぐ答えなかった。
「米国は条約を軽く扱いません。しかし、条約を理由に日本の一般的な立法権まで消えると考えるつもりもない」
「日本人を日本の法で裁き、外国人にも一般法を守らせたい」
「領事裁判権の問題は別に詰める。だが、日本国内で誰も日本の一般法を無視できるという読みは広すぎる」
日本側の役人が身を乗り出した。
「では講和を」
「その前に、賠償金の話をしましょう」
「英国は高い数字を出します」
「下関のときもそうでした」
ビンガムは古い書類を出した。
1864年の下関賠償は、4か国へ合計300万ドル。50万ドルずつ、3か月ごとに6回支払う約定だった。
「米国分の未払い残額について、英国公使から共同請求へ加わるよう求められても、私はすぐ加わる気はない」
「なぜです」
「米国議会では、すでに受け取った分で十分な補償を得ているなら、残額を免除してよいという考えが出ている。未払いの米国分はおよそ37万5,000ドルです」
日本側の役人は目を丸くした。
「外国が、取り立てない話を自分からするんですか」
「米国人を何だと思っている」
「英国人より計算が違う人」
ビンガムは笑った。
「それなら、商売の話をしよう」
彼は日本との貿易表にも目を通していた。英国系銀行と商社の金融力・取引量が大きく、米国商品の販売額が期待ほど伸びていないことを気にしていた。
「英国と同じ条件を守るために英国と一緒に戦い、戦争中だから米国商人も日本で儲けられない。それではワシントンで説明しにくい」
「では、米国だけ新条約を」
「日本が米国商品を買うなら、その理屈は強くなる」
「銃、工作機械、農機具、鉄、綿製品。買う物はいくらでもあります」
「日本からは」
「生糸、茶、米。それから、これから作る物」
ビンガムは頷いた。
史実の彼は後に、日本は東方貿易の入口になり得ること、米国には日本が必要とする製品と余剰生産物があることを本国へ報告する。さらに既存条約の改正が日本の産業と通商にとって必要だと強く主張した。
この世界では、その考えが数年前倒しされ、日米講和、工場誘致、長期租借という具体的な政策に使われた。
「条件が1つあります」
ビンガムが言った。
「何です」
「米国政府が日本の戦争を肩代わりする話にはしない。民間が売る物は商売として扱う。基地の条約も、米国の権利と義務を明確に書く」
「結構です」
「即答ですね」
「英国と30年戦う計画ではなく、英国以外と商売する計画ですから」
ビンガムは笑った。
「その言い方は記録に残さない方がいい」
◇ ◇ ◇
米国側には、日本との和平を急ぎたい理由がもう一つあった。
南北戦争が終わった後、銃器市場には物が余っていた。
スプリングフィールド造兵廠は南北戦争中だけで約80万挺の互換性を持つライフル・マスケットを生産した。戦争が終わった時点で、米国政府の手元には使用可能な0.58インチ前装銃が100万挺以上残っていた。
復員兵は一般命令101号により、6ドルを払って自分の銃と装具を持ち帰ることもできた。
安い中古銃が大量に民間へ出ると、新品の商業販売は急落した。
銃器メーカーにとって、戦時中の大口注文が突然消えたのである。
レミントンも例外ではなかった。
日本側の使節が米国で工場を見たとき、会社側の人間は遠回しな言い方をしなかった。
「何挺買う」
「完成銃だけなら、必要な分を買います」
「必要な分とは」
「多いです。ただ、もっと欲しいものがある」
「何だ」
「工場」
レミントン側の担当者が椅子に座り直した。
「工場を買うのか」
「日本に建ててもらう。米国企業の所有で50年。日本政府が毎年、一定割合の製品を買い取る」
「50年後は」
「日本側へ移す」
「それでは最後に損をする」
「50年間、売り先を保証します」
部屋が静かになった。
別の役員が聞いた。
「土地は」
「豊川周辺を考えています。東海道に近く、三河湾にも出られる」
「英国と戦争中だろう」
「だから横浜だけに工場を置きたくない」
「英国軍に壊されたら」
「英国軍が飯田へ圧力をかけるなら、豊橋港を使います。その後背地に豊川があります」
使節は地図を広げた。
「英国軍の進攻路に近いではないか」
「近いからこそ、意味があります。ただし、米国工場を盾にするつもりはありません」
「では何の意味だ」
「米国人技師、米国企業の設備、米国の財産がある地域を、英国軍は日本だけの敵地と同じようには扱えません。砲撃、徴発、家屋接収のたびに、米国人や米国資産を巻き込まないか確認する必要が出る」
「事故で米国人が死ねば、ワシントンの問題になる」
「はい。豊橋港を使うこと自体は止められません。しかし、豊橋から豊川一帯を好きなように軍事区域へ広げることは難しくなります」
米国人は地図の豊橋と豊川を見比べた。
「銃を作る工場が、英国軍の行動まで狭くするのか」
「工場が戦うのではありません。日米の商売が続いている事実が、英国軍の選択肢を減らします」
「日本人は商売の話になると急に怖いな」
「戦争は高いので、商売で減らせる損害は減らします」
会社側にとっても渡りに船だった。
1870年から71年の普仏戦争では、米国からフランスへ中古銃や新造銃が大量に流れた。レミントンの旧式拳銃だけでも、15,000~20,000挺ほどが米国の政府在庫からフランスへ渡ったとされる。ウィンチェスターも1866年型を6,000挺、弾薬450万発とともにフランスへ売った。
戦争があれば市場は生まれる。
日本の提案は、単発の注文より長かった。
「50年か」
レミントンの担当者がもう一度言った。
「長すぎますか」
「短いよりいい」
彼らが慎重になった理由も数字で説明できた。
戦時中、米国陸軍はレミントン製リボルバーを128,575挺買った。それほどの需要が、終戦と一緒に消えた。政府倉庫には前装銃が余り、復員兵の手にも安い銃が流れた。新品を作って店へ並べても、中古軍用銃と値段で競わされる。
「日本政府は、本当に毎年買うのか」
「最低購入量を契約に書きます」
「戦争が終わっても?」
「戦争が終わったら農機具と工作機械を買う」
米国人たちは顔を見合わせた。
「銃器会社に農機具を作れと?」
「銃身を削る機械しか持っていない会社なら困るでしょうが、御社はそうではないでしょう」
使節は工場で見た旋盤とフライス盤を思い出していた。銃は完成品の一つにすぎない。寸法を揃えて金属を削り、部品を大量に作る能力そのものが欲しかった。
「日本の農地は米国の農場より小さい。大きな機械をそのまま持ってきても入らない。日本向けに小さくしてほしい」
「設計費がかかる」
「買います」
「随分簡単に言う」
「兵を1個大隊失うより安いです」
その言葉で、部屋の空気が少し変わった。
銃を売る契約だったはずが、工作機械、農具、技師の派遣、職工教育まで話が広がった。米国側は工場経営を50年確保し、日本側は50年間で技術者を育てる。
「50年後に設備が古びていたら?」
日本側が聞いた。
「利益が出る工場なら、50年前の旋盤を主力で使い続けたりしない」
「なら、その時点で稼働中の設備ごと移管する」
「契約書へ書くのか」
「書きます」
レミントン側の法律顧問が笑った。
「日本人は戦争をしながら、50年後の中古機械まで心配するのか」
「戦争が30年続くとは思っていませんから」
このときは、全員が本気でそう思っていた。
◇ ◇ ◇
工場の話と一緒に、日本側は横須賀と佐世保の100年間長期租借という、さらに大きな条件を差し出した。
主権は日本に残し、港湾・基地区域の管理権限と施設運用の相当部分を米国側へ委ねる。日本商船も条件を定めて利用する。米国は極東の補給・修理拠点を得る。
日本側には、基地の価値とは別の計算もあった。
横浜には英国兵がいる。西では長崎も英国軍の占領下にある。長期占領になれば、不当な徴発、家屋の接収、兵士による暴行など、戦闘そのものとは別の問題も増える。日本側が抗議しても、英国軍の内部処分だけで終われば外からは見えにくい。
そこで東では横須賀、西では佐世保へ米国を入れる。
横須賀は横浜に近い。佐世保は長崎に近い。どちらも、英国軍の占領地のすぐ近くに、交戦国ではない米国の艦船、人員、施設、財産が常時存在する状態を作るためだった。
ビンガムは契約案を見て眉を上げた。
「100年?」
「50年だと、子供の代でまた揉めます」
「100年なら孫の代でも揉める」
「そのころには別の揉め事があるでしょう」
「横須賀だけでも大きな話です。佐世保まで?」
「横須賀は横浜のためです。佐世保は長崎のためです」
「長崎?」
「英国軍が占領しています。横浜と同じです。兵士による暴力や不当な徴発が起きても、日本側だけの抗議では英国軍内部の処分で終わることがある」
「だから近くへ米国を置く?」
「はい。米国に英国兵を取り締まってほしいわけではありません。横須賀と佐世保へ米国人、米国船、米国資産が常時出入りすれば、横浜と長崎で英国軍が何をしているかを外から見えやすくできます」
「米国旗を警察の代わりに使う気か」
「違います。英国だけで閉じた占領地にしないためです。横浜で不当な徴発や暴行が起きれば横須賀へ伝わる。長崎で同じことが起きれば佐世保へ伝わる。英国側にとって、何をしても日英間だけの問題では済まなくなる」
「英国軍が横須賀や佐世保へ入ろうとしたら」
「そのときは米国が決めてください」
ビンガムは契約書を置いた。
「日本は米国を戦争へ引き込みたいのか」
「米国と戦争をしたくないだけです」
「似ているようで違うな」
「100年違えば、もっと違います」
米国政府は慎重だった。
それでも海軍にとって横須賀と佐世保の価値は分かりやすかった。商人にとって日本市場も魅力があった。
講和条約と租借条約は同時に進み、米国は戦争から抜けた。連合側の中で、最後まで戦争を続ける国は英国だけになった。
10年後の1883年、ビンガムは日本側の外務担当者を呼んだ。
「今日は請求書ではない」
「米国公使から呼ばれると、最近は工場か基地か金の話なので身構えます」
「金の話ではある」
ビンガムは一枚の為替を机へ置いた。
「785,000ドル87セント」
日本側の役人が数字を読み直した。
「何の金です」
「下関賠償で米国が受け取った資金の返還です。議会が法律を通した」
「返す?」
「返す」
「87セントまで?」
「会計はそういうものだ」
役人は思わず笑った。
「英国と戦争中に、米国から昔の賠償金が戻ってくるとは思いませんでした」
「米国政府は、十分な補償を得た後まで日本から金を取り続ける根拠は乏しいと判断した。私は以前から、その方向を勧めていた」
「この金で銃を買ったら怒りますか」
ビンガムは額に手を当てた。
「せめて農機具と言ってくれ」
「では半分は農機具で」
「残り半分を聞かないことにする」
史実でも米国は1883年、日本へ785,000ドル余を返還した。英国との長期戦という条件が加わったこの世界では、その返還金は復旧・輸入代金に使える実際の財源になった。
◇ ◇ ◇
戦争7年目。
ロンドンの商船主が海軍省で机を叩いた。
「オランダ船は神戸へ入る。フランス船も入る。米国船は横須賀へ入る。英国船だけ入れない。これは何のための戦争だ」
役人は疲れた顔で答えた。
「英国は日本と交戦中です」
「知っている。日本との通商権を守るために始めた戦争のせいで、英国商人だけ日本と商売できないと言っている」
「軍事的圧力が講和条件を」
「何年かかる」
「それは」
「米国は工場まで建て始めたぞ。レミントンの工作機械が三河へ入る。農機具の話までしている。こちらは若者を送って、向こうは旋盤を送る。どちらが商売人か分からんな」
役人は返事をしなかった。
「戦争を続けるかは政府が決める。だが、続ける利益があるなら帳簿で見せろ」
帳簿には、輸送船の傭船料、石炭、弾薬、給与、疾病、捕虜、艦の修理費が並んでいた。
日本から戻る商品の欄だけが空いていた。
豊橋の前進司令部でも、別の種類の不満が出ていた。
参謀机の地図では、豊川周辺の米国所有工場と米国人居住区が線で囲われていた。
「この道路を砲撃すれば、日本軍の補給を止められる」
「弾着が西へずれればレミントン工場だ」
「米国旗が立っているだけだろう」
「米国人技師もいる。工作機械も米国資産だ。1人殺せば、ワシントンへ説明するのは我々になる」
「では工場の東を通る」
「日本軍もそれを知っている」
英国軍は豊橋港を捨てる必要まではなかった。しかし、飯田へ向かう最も使いやすい補給口のすぐ後背地に、交戦国ではない米国の人員と資産が入り込んだことで、砲撃区域、徴発区域、宿営地、道路封鎖の設定に制約が増えた。
◇ ◇ ◇
日本の内航船も変わった。
一定以上の大きさの日本船には、12.7 mm級の固定銃器を載せる例が増えた。
目的は、臨検の短艇が数人で近づけば簡単に拿捕できるという仕事を終わらせることだった。
船主たちは嫌がった。
「銃架と弾薬の分だけ積載量が減る」
「英国兵に船ごと取られるよりましだ」
「撃ったら軍艦が来る」
「撃たなくても止められるときは止められる」
3隻目の抵抗で英国兵に死傷者が出ると、英国側は臨検人数を増やした。
護衛艇まで付くようになり、臨検1件あたりの所要時間と投入人員が増えた。英国側の臨検能力を低下させるだけでも、日本側には効果があった。
日本側は、英国の軍艦を海戦で沈めることに国家予算を賭けなかった。
大型艦を揃えれば、英国海軍が最も得意とする外洋艦隊戦で競争することになる。
その代わり、国家予算は小型船、沿岸輸送、銃器工場、道路、橋梁、農業、生産設備へ振り向けられた。
◇ ◇ ◇
湾内では、英国艦隊の停泊と荷役を妨害する兵器も増えた。
圧搾空気で短い距離だけを低速で直進する単純な自走水雷も現れた。波のある外洋で追跡戦をする性能は求めず、夜の静かな湾で停泊船団の近くまで小舟が入り、短距離から放つ用途へ割り切られていた。
英国艦隊は最初の被害で運用を変えた。
「停泊間隔を広げろ」
「荷役が遅れます」
「沈むよりいい」
「夜間哨戒を倍に」
「水兵が休めません」
「休ませる船が沈んだら同じだ」
さらに係維機雷が現れた。
数日後に浅い位置へ移って回収しやすくなる時限機構を備えたものもあり、英国側から見ると、昨日調べた水面が今日も安全とは限らなくなった。
現地で防御網や哨戒艇を増やせても、派遣艦そのものの水中防御をすぐ更新することはできない。
日本側の目的は艦隊決戦ではなかった。
英国艦隊に、停泊中も哨戒、掃海、防御網、見張りへ人員と経費を割かせることだった。
◇ ◇ ◇
戦争10年目、飯田の仮御所では雨の音を聞きながら農業の話をしていた。天皇はもう少年ではなかった。
「今年も収穫が落ちるのか」
「戦地周辺で人手が減っています。焼かれた村も多い。避難先から戻らぬ者もいます」
大久保が報告書を読みながら聞いた。
「米国の農業技師は」
「三河と信濃で試験を始めました。米国の大型機械は、そのままでは日本の小さな田畑に合いません。豊川で小型化した試作品を作らせています」
西郷が笑った。
「銃よりそっちの方が大事になってきたな」
「銃を持つ人を増やすほど、畑から人が減ります」
天皇が窓の外を見た。
「村を焼いた英国兵を恨む者は多いだろう」
「多いです」
「農民が銃を持てば、向こうには兵との区別がつかぬ」
「こちらも、軍服を脱いだ外国兵なら分かりませぬ」
しばらく雨の音だけになった。
「10年か」
天皇が言った。
「最初に、英国がどこまで本気か分かると言ったな」
木戸が苦笑した。
「申しました」
「分かったか」
「思ったより金持ちでした」
西郷が続けた。
「こっちも、思ったよりしぶとかったです」
天皇は小さく笑った。
「では、まだ終わらぬな」
誰も否定しなかった。
その年の梅雨、英国軍は別の意味で日本の季節を覚えた。
5月までは通れた道が、6月に入ると泥へ変わった。谷の川は一晩で水位を上げ、仮橋を流した。山肌が崩れ、先頭部隊より後方の補給隊が先に止まる日もあった。
英国軍の工兵将校が地図を濡らしながら怒鳴った。
「昨日直した橋だぞ!」
部下が川を見た。
「水の量が昨日と違います」
「同じ川だ!」
「水の量が違います」
将校は返事をやめた。
対岸には日本兵の姿が見えなかった。砲撃する相手もいない。川だけが大きな音を立てていた。
「渡河点を上流へ探せ」
「偵察を出しています。ただ、上流も増水しています」
「下流は」
「谷が狭く、道が落ちています」
その日の進軍は止まった。
翌日、日本側の小部隊が後方の荷車列へ射撃し、すぐ山へ消えた。英国軍が追わなかったのは、臆病になったからではなく、追えば戻る前にまた雨が来ると知ったからだった。
9月には別の雨が来て、10月にようやく道が乾き始めると、11月には山に雪が見えた。英国軍の兵士が焚火の前で言った。
「雨が終わったら冬か」
「そうらしい」
「春は」
「泥だそうだ」
「夏は」
「暑い」
「この国に行軍向きの季節はあるのか」
古参兵が靴を乾かしながら答えた。
「港にいる間だ」
誰も笑わなかった。
日本側にとっても雨は味方だけではなかった。道が流れれば米も弾薬も届かない。避難民の小屋が崩れ、病人が増える。飯田へ届く報告には、英国軍の損害と同じ紙束で日本側の水害被害が載っていた。
大久保は2つを並べて言った。
「向こうだけ困る天気なら楽なんだがな」
西郷が頷いた。
「日本に降る雨じゃ。日本人にも降る」
「それでも、向こうは海の向こうから来ている」
「そこだけは違う」
英国軍が4 km前進するたび、補給線も4 km延び、道路補修、橋梁確保、護衛に必要な人員が増えた。日本側も損耗したが、後退する方向と補給拠点の方向は一致していた。英国軍は内陸へ進むほど、海岸の補給基地までの距離が延びた。
◇ ◇ ◇
村の側も、だんだん変わった。
英国軍に家を焼かれた老人が、役所へ来て言った。
「鉄砲をくれ」
「年はいくつです」
「68です」
「畑を作ってください」
「息子は撃たれて死んだ」
「知っています」
「孫は兵に取られた」
「それも知っています」
「なら、わしが撃つ」
役人は机の上の紙を押さえた。
「人が減りすぎています。あなたまで山へ行ったら、来年の米が減る」
「米を作って息子が戻るか」
「戻りません」
老人の顔が固まり、役人もすぐには言葉を続けなかった。少しして、棚から別の紙を出した。
「この村を、新型農機具の試験地にします。2人でやっていた脱穀を1人でできる機械です」
「鉄砲は」
「渡しません」
「頑固じゃな」
「あなたに言われたくないです」
老人は少しだけ笑い、その笑いが消えるまで2人とも黙っていた。
英国軍側でも、農民と兵の見分けが次第につかなくなっていた。
ある谷では、昼に畑へ出ていた男が夜になると銃を持った。別の村では、兵が退いたあと住民が弾薬を隠した。英国軍の哨戒隊が撃たれ、翌日には撃った者が誰か分からない。
現地指揮官が村長を呼んだ。
「昨夜、この村から発砲があった」
通訳を介して問いただすと、村長は首を振った。
「山の向こうかもしれません」
「こちらは2人死んだ」
「こちらは昨日、3人死にました」
「質問に答えろ」
「誰が撃ったか、私も知りません」
指揮官は机を叩いた。
「次に撃たれたら、この村の倉を焼く」
村長は通訳の顔を見た。
「そう伝えますか」
「伝えろ」
通訳は一瞬ためらってから訳した。
村長は深く頭を下げた。
「分かりました」
その夜、村の若い者の半分が山へ入り、翌週には別の哨戒隊が撃たれた。英国軍は警告どおり倉を焼いた。
そこから先は、英国軍が1つの村を処罰するたびに、周辺の村で武装する住民が増えた。英国側から見れば住民の協力が日本側戦闘員を隠し、日本側から見れば英国軍の処罰が住民を武装抵抗へ向かわせた。
西郷は報告を読んで顔をしかめた。
「村ごと戦場になっとる」
大久保が答えた。
「こちらで止められるか」
「命令は出せる。恨みまでは止められん」
「英国側も同じだろう」
「だから長引く」
2人とも、勝った顔はしなかった。
◇ ◇ ◇
戦争15年目には、捕虜の扱いが外交そのものになっていた。政府軍に捕まった英国兵は名簿へ載り、藩兵に捕まった者も多くは交渉の対象になった。
村が焼かれた翌日に、その村人へ捕まった兵の運命は安定しなかった。
晒し首になった例がある一方、上級士官が驚くほど丁寧に扱われることもあった。ある日、捕虜交換を仲介する米国商人が飯田へ来た。
「今回の3人です」
日本側の係官が名簿を読み上げた。
「伯爵家の次男、1名。地方地主の息子、1名。商家出身、1名。凍傷1名、腸の病1名、現在は3名とも歩けます」
英国士官が顔をしかめた。
「私は商品か」
米国商人が肩をすくめた。
「私は商売人だが、人間に値札を付ける趣味はない。輸送費、収容費、仲介手数料なら数字にできる」
日本側の係官が言った。
「こちらの捕虜と交換でもいい」
英国士官は黙った。
机の上には、日本人捕虜の名簿もあった。
病死した者、行方不明になった者、英国側の収容地にいることが確認できた者。
米国商人が書類を閉じた。
「家族側は金を用意している。横須賀まで送り、米国船で運ぶ」
「英国軍艦に止められないか」
「星条旗を撃つなら、別の戦争になる」
英国士官が窓の外を見た。
「変な国だ。英国と戦いながら、米国人が工場を持ち、米国船で捕虜を返す」
日本側の係官が答えた。
「15年も戦えば、通常の国家間戦争の区分はだいぶ崩れます」
「日本人は英国人が嫌いか」
「家を焼かれた人は嫌いでしょう。私は、この戦争が嫌いです」
「同じだ」
士官は小さく言った。
◇ ◇ ◇
英国側では、日本戦争への増派によって、他地域の軍の配備密度が低下した。
1857年のインド大反乱のとき、英国は中国へ向けていた兵と艦をインドへ振り向け、対清作戦を止めた経験があった。
今度は逆だった。日本へ兵を送ればインド駐屯の欧州人部隊が減り、現地兵部隊に対する英国人部隊の比率が下がる。反乱や騒乱が起これば日本向け増援をインドへ戻す必要が生じ、その分だけ日本遠征軍の兵力が減る。ロンドンでは、各戦域への配備数を何度も組み替えた。
「インドから2個大隊を抜く」
「先月の騒乱は」
「鎮圧中だ」
「鎮圧中の土地から抜くのか」
「日本軍が飯田方面で動いている」
「では本国から送れ」
「募集が追いつかない」
会議室に沈黙が落ちた。
英国には大きな財政力と海上輸送力があった。
それで戦争を長く続けられたが、長く続けられること自体が次第に問題になった。
初期にはインド兵や植民地の部隊を使えた。ところが、駐屯兵力を減らした地域ほど治安維持と反乱抑止が難しくなった。現地軍の英国人士官を日本へ送り出せば、残った部隊の英国人士官充足率が下がる。反乱が起きれば、その鎮圧に再び英国人部隊が必要になった。
やがて日本遠征軍に占める英国本土出身兵の割合が増えた。
リヴァプールの駅で、母親が息子の袖をつかんだ。
「インドじゃないのね」
「日本だ」
「どこなの」
息子は説明しようとして、うまく言えなかった。
「中国の、その先」
「いつ帰るの」
「分からない」
「お父さんが若いころから戦っている国でしょう」
「だから、もうすぐ終わるって」
母親は息子の顔を見た。
「お父さんも同じことを言っていたわ」
列車が動き始めるまで、息子は返事をしなかった。
英国本土から日本戦域への補給は長距離海上輸送だった。補充兵を1人送るにも船腹が要る。馬も砲も弾薬も衣服も医薬品も同じ航路を通る。英国本土で1個大隊を編成する費用に加え、日本の山中で1年間維持する輸送費と補給費が必要だった。
そこへ、英国だけが講和していないという事実が効いた。
フランス商人は日本へ戻った。オランダ商人も戻った。米国企業は工場を持った。英国は市場を守るために戦いながら、その市場から最も長く締め出された。
◇ ◇ ◇
戦争18年目。
若い英国少尉は、自分がなぜ日本の山中にいるのか、父から聞いた説明を思い出していた。
父からは、条約と英国臣民の権利、自由な通商を守る戦争だと聞かされていた。ところが英国商人は日本で商売できず、米国人とフランス人とオランダ人が日本市場で利益を上げていた。
「少尉、先頭が止まりました」
「橋か」
「崖崩れです」
少尉は馬から降りた。
谷の向こうに細い煙が上がっている。
「近くの村から食料を」
「昨日行った12人が戻っていません」
少尉の顔が動いた。
「捜索隊は」
「出しました」
遠くで銃声が2発したが、誰も姿を見せなかった。父からの手紙に書いてあった言葉が頭へ戻った。
日本兵は逃げる。追うな。追えば山へ入る。山へ入れば戻る距離が伸びる。
「今日はここで止まる」
「司令部は前進を命じています」
「崖を片づけてからだ」
「夜までには」
「夜になったら、また撃たれる」
兵士は黙り、少尉は谷の上を見た。木々の間には何も動かなかった。
◇ ◇ ◇
英国軍が山へ入るほど鹵獲品も増えた。最初のころ、日本兵はミニエー銃を拾うと喜んだが、十数年後には反応が変わっていた。
「銃は?」
「120挺」
「型は」
「3種類。弾薬が合わないのが2種類」
「地方隊へ回せ。工具は?」
「工作用の測定具が1箱あります」
「それを豊川へ」
「医薬品は」
「全部、病院へ」
鹵獲銃そのものより、工具、医療品、双眼鏡、靴、雨具、通信器材、地図の価値が上がっていた。
英国側が日本まで運んだ物を、日本側が拾って使う。
遠征軍の会計係にとって、笑える話ではなかった。
◇ ◇ ◇
戦争20年目、英国の植民地地図は開戦時と同じではなかった。
インドの広い地域で英国支配が崩れ、現地王侯と新しい政府がそれぞれ軍を持ち始めた。全部が1つの国として独立したのでも、他国に丸ごと奪われたのでもない。
英国駐屯兵力の減った地域では、反乱の再発や地方政権の自立が進み、英国の実効支配地域が縮小した。
清国側もそれを見ていた。
「英国軍は日本へ何人送った」
「今年も増援です」
「上海と香港の守備は」
「開戦前より駐屯兵力が少ない」
数字は隠せても、人の数は港を見れば分かった。
清国政府は、以前なら強く言えなかった要求を少しずつ出し始めた。
英国が日本で1個連隊を補充するたび、別の地域では要求を軍事力で強制するための予備兵力が減った。
インドからの報告を読む英国閣僚は、以前なら使わなかった言葉を使うようになった。
「奪還」
「どこをです」
「鉄道沿線の3地区」
「守備兵は」
「現地軍が中心です」
「英国人部隊は」
「日本へ出ています」
閣僚は報告書を閉じた。
「戻せ」
「日本側の増援要求が来ています」
「なら新兵を送れ」
「新兵募集数が減っています」
「金を増やせ」
「予算委員会が」
そこで会話が止まった。
帝国の守備対象は世界各地に分散していた。予備兵力が不足すると、すべての駐屯地で必要兵力を同時に満たすことができなくなった。
清国では、英国の軍事的優位を前提に受け入れていた要求を1つずつ再検討する動きが出た。条約港の警備、内河航行、租界の扱い。英国がそれらを軍事力で維持するには、日本戦域からも艦艇と兵員を戻さなければならなかった。
「日本へ出した艦を戻しますか」
「戻せば横浜の駐留兵力が不足する」
「戻さなければ上海の駐留兵力が不足したままだ」
どちらを選んでも、必要兵力を満たせない拠点が残った。
フランスとオランダは、少し離れた場所からそれを見ていた。講和後の日本市場で利益を上げながら、英国が極東で使う金額を新聞で読んだ。
日本戦争を続けないという判断そのものが、彼らの競争力になっていた。
◇ ◇ ◇
飯田の会議で、軍の若い参謀が大陸の地図を広げたことがある。
「朝鮮半島の情勢が不安定です。清国も動いています」
伊藤博文が地図を見た。
「それで」
「日本も影響力を」
「どの兵で」
参謀が言葉に詰まった。
「英国軍は横浜を占拠し、豊橋港から飯田正面にも圧力をかけている。木曽も伊那も守る。北海道も九州も沿岸警戒が要る。農村の働き手は減っている。その日本が、さらに朝鮮へ兵を出すのか」
「将来の安全を考えれば」
「将来の安全の前に、今年の収穫を考えろ」
伊藤は地図を畳んだ。
「大陸へ追加派兵できる予備兵力も予算もない。商人を送れ。学校へ人を送れ。外交官を送れ。兵は送るな」
史実なら1894年に日清戦争が始まる時期になっても、この世界の日本軍は英国軍と戦っていた。
朝鮮半島で緊張が高まっても、日本政府は軍を大規模派遣しなかった。
追加戦争へ回せる予算も兵員もなかった。
◇ ◇ ◇
戦争24年目。
ロンドンの議会では、日本戦争費の増額がまた問題になった。
「日本側の人口は減っている。農村は疲弊している。継戦能力は限界へ近づいている」
政府側の説明へ、野党席から声が飛んだ。
「その説明を10年前にも聞いたぞ」
「今年は事情が違う」
「毎年違う。良くなった年だけ教えてくれ」
笑いが起きた。
「日本は人口、農業生産、財政に重大な損失を受けています」
「だから何だ。降伏したのか」
「まだだ」
「京都を取った」
「朝廷は飯田へ移った」
「飯田まで行った」
「その先へ政府機能が分散した」
「では、次はどこへ行く。都を荷車に載せて追いかけるのか」
議場のあちこちから笑い声が出た。
政府側の顔は笑っていなかった。
「英国の威信がかかっている」
「威信で石炭代を払えるなら、海軍省へそう伝えろ」
傍聴席には、日本で捕虜になった将校の家族がいた。生きて帰った者も、帰らなかった者もいる。戦争を始めた世代の多くが政治の前面から消えた後にも、日本戦争だけは残っていた。
◇ ◇ ◇
戦争28年目、日本側の統計官は人口表を前に長く黙っていた。1872年の史実人口は34,806,000人で、この世界でも開戦直後の人口規模は大きく違わない。そこから28年、直接の戦死に加えて村落攻撃、飢餓、疫病、避難、出生数の減少が積み上がった。
平時なら増えていたはずの人口まで含めて比較すると、戦争による人口損失は700万人規模へ達していた。
「2割か」
天皇が数字を見た。
「はい。推計条件で数値は変わりますが、その程度です」
「英国兵は」
「日本戦域だけで、戦死、負傷、疾病、捕虜による戦列離脱を累計すると70万人規模と見ています」
「10人に1人か」
「人口損失との単純比較なら」
「英国全体の損はもっと多いだろう」
「植民地での損耗、輸送中の疾病、失った支配地域の兵員と税収まで入れれば、別の数字になります」
天皇は表を閉じた。
「勝っている数字には見えぬな」
「こちらもです」
「なら、そろそろ終わるか」
「英国が同じ計算をすれば」
「英国人は計算が得意だと聞いている」
天皇は少し笑った。
「30年近くかかったがな」
◇ ◇ ◇
英国現地軍の将軍は、横浜の総司令部で参謀へ言った。
「今年の豊橋正面からの内陸進出は中止する」
「本国命令ですか」
「私の判断だ」
「本国は、飯田への圧力を維持せよと」
「豊橋港と前進拠点は維持する。進軍はしない」
「理由を書けと言われます」
「書けばいい。輸送損耗、疾病、冬季道路、補充不足、敵火器の増加、現地徴発不能」
「長い報告になります」
「28年分だ。短くなるか」
参謀は黙った。将軍は窓の外の艦隊を見た。英国艦隊は依然として日本側より火力と航洋能力で優位にあり、日本の大型艦隊と決戦する必要もなかった。日本がその大型艦隊を作らず、英国海軍の得意な海上決戦へ付き合わなかったことが、かえって腹立たしかった。
「本国から、講和条件について意見を出せと来ています」
将軍が振り返った。
「やっとか」
「旧条約の復活は」
「書くな」
「しかし、戦争目的が」
「28年戦って復活できなかった条約を、29年目に紙一枚で戻せると思うか」
「では」
「互いに撤兵。通商再開。捕虜返還。新条約。賠償なし」
「英国の損害は」
「日本側からもっと大きな請求書が来る」
将軍は椅子へ座った。
「相互に戦費と人的損失を請求しない。直接、相手国の主権領域へ入った軍隊が壊した民間財産だけ、原状回復の実費を払う」
「日本軍は英国本土へ来ていません」
「だから英国側の支払いが多い。それでも30年目より安い」
◇ ◇ ◇
1898年、講和会議は戦争の長さに比べて静かだった。日本側代表が第一条を読み上げた。
「英国は、旧幕府が締結した条約の復活を求めない」
英国代表が頷いた。
「日本は英国との通商を新条約に基づいて再開する」
「はい」
「双方の国民は、滞在国の一般法に従う。裁判制度について必要な経過措置は別紙で定める」
「はい」
「関税は相互協議とし、一方のみが固定する制度を置かない」
「はい」
金の話へ入った。
英国側の委員が言った。
「英国は30年間に莫大な戦費を負担しました」
日本側の委員が分厚い紙束を持ち上げた。
「こちらは焼失した村、倉庫、農地、道路、橋、避難民の損害です。人的損害まで積みますか」
「それを始めれば終わりません」
「同意します」
「戦費、軍人の死傷、通商逸失利益について、双方とも賠償を請求しない」
「それで」
「軍隊が相手国の主権領域へ入り、直接破壊した民間建物、農地、道路、橋梁その他の財産は、原状回復に必要な実費だけを負担する」
「懲罰的な上乗せなし」
「実費だけ」
英国代表は少し苦い顔をした。
「日本軍は英国本土を壊していない」
「日本側の支払いが少なくなりますね」
「公平な条文ほど腹が立つことがある」
「30年戦うより安いです」
英国代表は笑わなかった。
捕虜については、相互に全員返還。
行方不明者の照会と遺骨返還のため、共同委員会を10年間残す。
占領地の撤収日程を決める。
英国が横浜と豊橋港から最後の部隊を出す日も決まった。
調印の前日、捕虜名簿を照合する部屋では、個々の捕虜、行方不明者、遺骨の確認が続いていた。
「この人は?」
「1889年に病死」
「墓は」
「飯田の共同墓地」
「遺族が返還を希望しています」
「掘り起こして確認します」
「こちらの日本人捕虜2名は記録がない」
「部隊日誌をもう一度探します」
英国人書記官と日本人書記官は、互いの言葉を十分には話せなかった。数字と名前だけは何度も確認した。
夜遅く、英国人が鉛筆を置いた。
「30年分の人間を紙にするのは無理だな」
通訳が訳した。
日本人書記官はしばらく考えた。
「だから10年、委員会を残すんでしょう」
英国人は頷いた。
「10年で終わるかな」
「終わらせます」
「強いな」
「もう30年は嫌です」
翌朝、代表団が同じ机に座った。
調印の直前、英国代表が日本側へ言った。
「最初からこの条約を結べたと思いますか」
日本側代表は少し考えた。
「たぶん、無理だったでしょう」
「私もそう思う」
「では30年は必要でしたか」
「それは認めたくない」
「私もです」
2人は署名した。
机の横には、30年分の死者と行方不明者の名簿が何冊も積まれていた。
◇ ◇ ◇
戦争が終わると、飯田に置かれた朝廷と政府をどうするかで揉めた。
「京都へ戻すべきです」
「東京の整備も進んでいます」
「飯田で30年動いた役所を全部移すのか」
「そもそも飯田を正式な都と定めた文書はあるのか」
官僚たちは、戦争中より長く会議をした。
天皇は書類を読んで笑った。
「戦が終わった途端、都の場所で争うのか」
伊藤が頭を下げた。
「平和になった証拠かと」
「好きに考えよ。朕はしばらくここにいる」
しばらくは、思ったより長く続いた。
◇ ◇ ◇
1894年に起きるはずだった日清戦争は、この世界では起きなかった。
朝鮮をめぐる清国との緊張はあり、日本の政治家の中にも強硬論はあった。それでも日本軍の主力は国内の対英戦線に拘束されていた。
沿岸防衛、橋梁復旧、農村再建、工場建設、傷痍軍人と遺族への支払い。
大陸での追加戦争へ回せる予算も兵員もなかった。
史実の日清戦争は、戦費だけで約2億円。当時の一般会計歳計規模の約2.5倍を、1年余りで使った戦争だった。
この世界の日本政府に、その2億円を朝鮮と清国へ投じる発想は通らなかった。
伊藤は会議で言った。
「英国戦争の借金を数えながら、清国と新しい戦争を始める者がいたら、先に算盤を渡せ」
陸軍側から反論が出た。
「朝鮮半島を放置すれば、将来の安全が」
「将来の安全のために、現在の国を壊すのか」
「ロシアも動きます」
「外交官を送れ。商人を送れ。鉄道技師を送れ。兵は送るな」
大陸へ出ない方針を決めたのは、戦費と復旧費で逼迫した国庫と、国内防衛に必要な兵員の不足だった。
結果として、日本は大陸で領土を増やさなかった。
この判断を支えたのは、平和主義の標語より、村落の被害、復旧費、国庫の逼迫、兵員不足だった。
英国軍がまだ国内にいる。焼けた村の再建費が要る。鉄道輸送力の大半は軍用輸送と復旧資材で占められている。戦死者の家へ扶助金を出し、傷痍軍人を養い、農地へ戻す労働力を確保する必要もある。
大蔵官僚が予算書を伊藤へ持ってきた。
「陸軍から朝鮮情勢への予備費要求です」
「いくらだ」
金額を聞いた伊藤は、紙を机へ戻した。
「この金で橋を何本直せる」
「県によります」
「学校は」
「かなり建ちます」
「農業機械の貸付所は」
「数十か所」
「なら、そちらへ回せ」
「軍は怒ります」
「英国軍が国内にいるうちは、軍も国内防衛が本業だ」
その会話が何度も繰り返された。
史実では戦争の勝利と賠償金が次の軍拡を支えた。こちらの日本には清国から入る3億円を超える賠償金もなく、遼東半島も台湾も得なかった。戦争で資産を増やす循環そのものが始まらなかった。
◇ ◇ ◇
講和から3年たっても、戦争の後片づけは終わっていなかった。
横浜では英国軍が使っていた施設を日本側へ戻す作業が続いた。豊橋港でも倉庫、野営地、荷揚げ設備の返還が進み、そこから飯田方面へ延びた軍用道路では、民間道路へ戻す工事が始まった。橋を石と鉄へ架け替える地域もあった。
陸軍からは新しい常備師団の要求が出た。海軍からは新造艦の要求が出た。農林側からは灌漑と農具貸付、鉄道側からは幹線延長、文部側からは学校建設が出た。
大蔵大臣は全部を机へ積んで言った。
「英国軍が帰ると、皆が金を使いたがる」
伊藤が笑った。
「30年我慢したからな」
「海軍は戦艦を欲しがっています」
「何隻」
「数えると頭が痛くなります」
「商船は」
「船会社が高速船への補助を求めています」
「そちらを先に見ろ」
「海軍が怒ります」
「英国海軍と30年戦って、海軍が国を救ったというより、海軍と戦わずに済む方法を覚えただろう」
大蔵大臣は苦笑した。
「それを海軍大臣の前で言ってください」
「嫌だ」
戦争が終わっても、国家予算の戦争は続いた。
◇ ◇ ◇
1901年、伊藤博文はロシアへ行った。
史実でも彼はこの年、満洲と朝鮮をめぐってロシア側と協議している。
この世界では、対露戦争を避けて交渉を継続する必要性が史実より高かった。
「英国との戦争が終わって3年です」
日本側の若い随員が言った。
「ロシアが譲らなければ、戦争も考えるべきだという声があります」
伊藤は窓の外を見た。
「どの金で」
「国防上の必要が」
「英国と30年戦った国に、国防の大切さを説明するな。来年度の復旧費を見たか」
随員は黙った。
「戦争はしない。条件を探す。気に入らぬ条件でも、国をもう一度焼くより安いものはある」
交渉は長引いた。
日本は朝鮮での軍事的優越を求めず、通商と居留民保護を中心に条件を絞った。
ロシアも、日本が英国と組んで攻めてくる国ではないと分かっていた。
日英同盟も生まれなかった。英国はつい数年前まで敵国だったから、史実のように英国を後ろ盾としてロシアへ向かう構図が成立しない。
ロシアとの交渉で日本が得られない物も多かった。朝鮮と満洲で日本の望みが全部通ったわけでもない。それでも政府は、満足できない条約と20億円級の戦争を比べた。
「どちらが安い」
伊藤の問いに、大蔵官僚は答えた。
「条約です」
「なら続けろ」
日露戦争も起きなかった。
◇ ◇ ◇
史実の日露戦争は、最終的な戦費支出が約18億6,729万円。
総戦費予算は19億8,613万円に達し、当時の推定国民所得約26億円と比べても巨大だった。日本銀行の記録では、日清戦争の約7.9倍の規模である。
この世界の1904年、日本政府の予算会議では、そのような規模の戦争は議題にすらならなかった。
「英国戦争で失った村をまだ直している」
「鉄道も足りない」
「農業機械の国産化も途中だ」
「それで満洲へ何個師団送る」
答えは出なかった。
海軍も同じだった。
大国の主力艦隊と決戦するための巨大艦隊へ国家予算と工業力を集中する方針は、30年戦争の途中で支持を失っていた。
巡洋艦や駆逐艦、沿岸防衛艦は必要数を保有し、掃海艇、護衛艦、修理船、輸送船の保有数と予備船腹を増やす。商船航路を維持できる海軍を優先する考えが残った。
◇ ◇ ◇
横須賀と佐世保の米国租借は続いた。
1870年代に100年で契約したため、期限は1970年代まで残っている。
豊川の米国資本工場は、50年の所有期間を終えるころには、建設時の機械をほとんど残していなかった。
旋盤も測定器も動力設備も何世代も入れ替わった。
日本へ移管されたのは、稼働中の工場と職工、技術者、取引先、学校、周囲の下請け企業だった。建設時の設備は、すでに何世代も前のものになっていた。
ある米国人経営者が引渡し式で言った。
「50年前、うちの祖父は銃を売るために来たそうです」
日本人社長が答えた。
「今、一番売れているのは農業機械です」
「戦争は終わったからな」
「終わって20年以上です」
「その方が儲かる」
「最初から分かっていればよかったですね」
「人間は、儲ける方法を覚えるまで金を使う」
2人は笑った。
◇ ◇ ◇
1941年。
横浜港の岸壁には、赤と白の大きな識別模様を船体へ描いた日本の大型商船が並んでいた。
新田丸。八幡丸。春日丸。あるぜんちな丸。
さらに、史実なら建造途中で軍艦へ姿を変えるはずだった出雲丸と橿原丸も、この世界では客船の姿で岸壁にいた。
船腹には旅客の荷物、郵便物、工作機械、綿花、食料、精密機器が積まれていた。飛行甲板も高角砲もない。甲板には旅行者と船員がいて、岸壁では荷役人夫が貨物を積み込んでいた。
英国人旅行者が埠頭で何隻もの船を見上げた。
「ずいぶん派手ですね」
日本人係員が切符を確認した。
「遠くから日本船だと分かるようにしています」
「全部ですか」
「戦時海域へ出る船は、だいたい同じです」
「大きな船ばかりだ」
「速い船は使い道がありますから」
「欧州は戦争ですよ」
「だから走らせます」
「危なくないのですか」
「危ない海域は航路を変えます。無理な運航はしません」
旅行者は新田丸の向こうに並ぶ八幡丸と春日丸を見た。
「海軍が欲しがりそうな船ですね」
「欲しがっても、荷物を運ぶ船がなくなります」
「日本は参戦しない?」
「政府から、その話は出ていません」
汽笛が重なった。
赤白の大型船が何隻も並ぶ港は、軍港には見えなかった。それでも、その船腹が運べる物資の量は、一つの国の戦争を支えられるほど大きかった。
ただし、この国はそれを戦争ではなく商売に使っていた。
船内では米国商人がコーヒーを飲んでいた。横須賀にも佐世保にも米国の施設が残り、日本と米国は70年近く戦争より商売を長く続けてきた。日本は中国大陸へ大規模侵攻せず、満洲をめぐる日米衝突も仏印進駐も起こしていないため、対日石油禁輸から真珠湾攻撃へ至る経路も育っていなかった。
◇ ◇ ◇
日本海軍の会議でも、戦争への参加より船団航路の話が中心だった。
「北大西洋航路は危険が増えています」
「日本船の護衛は」
「中立を崩さぬ範囲で、危険海域手前まで。あとは航路情報を細かく出します」
「船会社からは」
「もっと速い船を欲しいと」
「またか」
「速く、快適で、安全。広告どおりにしろ、と」
海軍の将官が笑った。
「戦艦を欲しがるより安い」
「商船は稼ぎますから」
「そこが大事だ」
史実の日本なら、海軍力を国家の威信として膨らませた時期だった。
この日本では、海軍の価値は商船が予定どおり帰ってくることで測られることが多かった。
◇ ◇ ◇
1940年、英国はドイツ軍の侵攻を止めきれなかった。
30年の対日戦争が終わってから40年以上が過ぎ、英国は工業生産、人口、軍の兵力を戦後に回復させていた。それでも、史実の大英帝国が1940年に持っていた国際的な軍事・経済的位置までは戻れなかった。
インドの大部分を失い、植民地から得ていた兵力と税収も減った。欧州での相対的な経済力も低下していた。海軍は依然として大規模だったが、海外基地と植民地兵力の減少により、複数戦域へ同時に艦隊と陸軍を展開する能力は史実より低下していた。
ドイツ軍が英仏海峡を越えたという電報が東京へ届いた日、日本の外務省では米国の反応を確認した。
「ワシントンは?」
「参戦せず」
「英国支援は」
「物資は出す。ただ、宣戦はしない」
「ドイツは米国へ宣戦する気配は」
「今のところなし」
史実では、1941年12月の日本による真珠湾攻撃が米国を対日戦争へ入れ、その後ドイツが米国へ宣戦した。
この世界には、その最初の一撃がなく、米国も日本も欧州戦争の外側に残った。
◇ ◇ ◇
赤白模様の商船は、戦争中も走った。
船体の大きな日の丸と赤白の識別塗装は、遠くから中立船だと識別させるためだった。夜間には照明で国籍表示を見せる航路もあった。戦場へ突っ込んで安全を宣伝するほど船会社も愚かではなく、潜水艦・機雷・空襲の危険が高まれば寄港地を変え、貨物を鉄道や別船へ積み替えた。
神戸の船会社で、外国人荷主が運賃表を見て眉をひそめた。
「去年より高い」
「戦争保険が上がりました」
「中立国でしょう」
「魚雷は国籍証明書を読んでから避けてくれません」
「それでも英国船より早い」
「英国船は軍が使っています」
「米国船より高い」
「横浜までの定時率をご覧ください」
荷主は表を見た。
「93パーセント?」
「遅延1日以内です」
「戦時中に?」
「戦時中だから、迂回港と予備船を増やしています」
荷主はしばらく考え、契約書へ署名した。
「日本は戦争をしないで戦争から儲けるのが上手くなったな」
係員は少し困った顔をした。
「30年、授業料を払いましたから」
横浜―サンフランシスコ、神戸―東南アジアの航路を走り、安全な区間を選びながら欧州向けの貨物も中継した。港の広告には、「速く、快適に、安全に。戦時の海も、日本商船をご利用ください」と大きく書かれた。
英国人の旅行者が広告を見て笑った。
「ずいぶん強気だ」
係員が荷札を貼った。
「30年戦争した国ですから、危ない航路には慣れています」
「もう戦争は嫌でしょう」
「嫌ですよ」
「では、なぜそんな広告を」
「嫌だから、運ぶ方で儲けるんです」
汽笛が鳴った。
赤と白の船体が岸壁を離れた。
その船には兵士より多くの商人が乗り、大砲より多くの商品が積まれていた。
次の便も、予定どおり出ることになっていた。
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史実との接点・数値注記
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本作は架空史だが、分岐前後の数字と人物の行動には史実を多く混ぜている。
1.大政奉還と条約
徳川慶喜の大政奉還後、史実の明治政府は幕末に結ばれた諸条約を継承した。本作ではここを最初の大きな分岐とし、通商自体は続けながら、不平等な条項の継続を拒否する。
2.米国公使
ロバート・B・ヴァン・ヴァルケンバーグは1866年任命、1867年5月に信任状を提出し、1869年まで駐日米国公使を務めた。1868年の戊辰戦争では、米国民に厳正中立を求める通告を実際に出している。
ジョン・A・ビンガムは1873年10月に信任状を提出し、1885年まで駐日公使を務めた。
3.下関賠償金と米国側の態度
1864年の下関賠償協定では、英・仏・米・蘭の4か国へ総額300万ドル、50万ドルずつ6回の支払いが定められた。
史実の1873年、ビンガムは英国公使パークスから未払い分の共同請求へ加わるよう求められたが、すぐには参加せず、米国がすでに十分な補償を受けたなら残額約37万5,000ドルを免除する案を本国へ提案した。
さらに1883年、米国議会の法律により、日本へ785,000.87ドルが返還された。米国務長官は、政府が長く望んでいた返還を実行できることへの満足を駐日公使へ伝えている。
ビンガムは1873年、1858年条約が日本国内の一般的な立法権まで奪ったものではないとの法解釈を本国へ報告し、1879年には日本側の条約改正要求には「非常に強い理由」があると述べた。本作の米国側の法的・商業的な姿勢は、この史実を土台にしている。
4.南北戦争後の米国銃器市場
スプリングフィールド造兵廠は南北戦争中に約80万挺の互換式ライフル・マスケットを生産した。戦争終結時、米国政府は使用可能な.58口径前装ライフル・マスケットを100万挺以上保有していた。
復員時のGeneral Orders No.101では、兵士が6ドルを支払って銃と装具を保持できた例があり、安い軍用余剰銃が大量に民間へ流れた。米国国立公園局は、この余剰銃によって新品の商業販売が急落し、多くのメーカーが廃業へ追い込まれたと説明している。
レミントンも南北戦争後に強い市場を失い、多角化を模索した。米陸軍は戦時中にレミントン製リボルバー128,575挺を購入しており、普仏戦争時にはそのうち約15,000~20,000挺の中古New Model Armyがフランスへ送られたとされる。
ウィンチェスターも普仏戦争時、Model 1866を計6,000挺、.44 Henry弾450万発とともにフランスへ販売した。
本作の「日本政府による大量購入+50年間の工場所有契約」は、この戦後需要減少期へ巨大な長期需要が突然現れる反実仮想である。
5.幕末日本の小火器輸入
研究で集計された港湾記録では、1863~1869年の日本の小火器輸入は合計569,844挺。1867年だけで167,700挺に達した。したがって、本作の日本は「洋式銃を見たこともない国」から出発していない。
6.人口
史実の1872年人口は34,806,000人。本作では30年戦争による戦死・虐殺・飢餓・疫病・避難・出生減を合算した人口損失を約700万人規模と置いた。これは約2割に相当する架空設定である。
7.日清戦争が起こらない理由
史実の日清戦争戦費は約2億円で、当時の一般会計歳計規模の約2.5倍を1年余りで支出した。英国との国内防衛戦が続く本作の日本には、この規模の追加戦争へ回せる予算と兵員がない。
8.日露戦争が起こらない理由
史実の日露戦争の総戦費予算は19億8,613万円、実際の戦費支出は18億6,729万円。日本銀行の資料では日清戦争の7.9倍、当時の推定国民所得約26億円に対しても極めて大きい。
史実でも伊藤博文は1901年にロシアを訪れ、満洲・朝鮮の利害を協議した。本作では30年対英戦争の直後という条件が加わるため、対露戦争より協議継続が圧倒的に優先される。
9.横須賀・佐世保・豊川
史実の横須賀では1865年から近代的な製鉄所・造船所建設が始まり、後の大軍港へつながった。佐世保も1889年に鎮守府が置かれ、西日本の重要軍港となった。本作では、その適地を日本の巨大外洋艦隊建設ではなく、米国との100年租借・工業拠点へ振り替えている。
横須賀と佐世保の配置には、英国占領地に対する抑制という架空の戦略的意図も持たせている。東では英国軍が占領する横浜の近傍に横須賀、西では英国軍が占領する長崎の近傍に佐世保を置く。英国兵による市民への暴力、不当な徴発、家屋接収などを米国人・米国船・米国資産の近くで起こり得る問題にし、日英間だけの閉じた処理にしにくくするためである。米国に日本の治安維持を委ねる設定ではなく、第三国の恒常的な存在によって英国側の外交上の行動コストを上げる考えである。
また、本作では飯田攻略の英国側補給口を横浜ではなく豊橋港とする。米国との講和後に豊川周辺へ米国資本のレミントン工場が置かれるため、英国は豊橋港を使い続けられても、その後背地で砲撃、徴発、占領区域拡大を行う際に米国人と米国資産を巻き込む危険を考慮しなければならない。
10.史実では空母になった船
新田丸は史実では空母「冲鷹」、八幡丸は「雲鷹」、春日丸は「大鷹」、あるぜんちな丸は「海鷹」へ改造された。出雲丸と橿原丸も本来は大型客船として計画されたが、史実では建造途中で空母へ転用され、それぞれ「飛鷹」「隼鷹」となった。
本作では、日本が巨大な空母機動部隊を必要とする戦争へ進まないため、これらの船は商船・客船として完成し、赤白の識別塗装を施した高速商船隊として航路に残る。
11.史実との最大の違い
この日本は日清戦争と日露戦争を経験せず、大陸へ大規模に進出せず、巨大外洋艦隊へ国力を集中する道も取らない。
その結果、1930年代の日米対立へつながった条件の多くが成立せず、真珠湾攻撃も起きない。米国が史実1941年と同じ経路で世界大戦へ入らないため、日本も米国側で参戦する契機を持たず、中立商船国として戦時輸送で利益を得る世界線としている。
【主な史実参照先】
・U.S. Department of State, Office of the Historian, FRUS 1874, No.413(ビンガムと下関賠償未払い分)
https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1874/d415
・U.S. Department of State, FRUS 1883, No.374(785,000.87ドル返還)
https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1883/d375
・U.S. Department of State, FRUS 1874, No.412(日本の一般立法権に関するビンガムの解釈)
https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1874/d414
・U.S. Department of State, FRUS 1880, No.422(条約改正を支持するビンガム報告)
https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1880/d422
・Springfield Armory National Historic Site, “A Springfield Rifle-Musket: From War to Peace”
https://www.nps.gov/spar/learn/historyculture/a-springfield-rifle-musket.htm
・Springfield Armory National Historic Site, “The Trap Door Rifle”
https://home.nps.gov/spar/learn/historyculture/trapdoor-rifle.htm
・国際言語文化学会『日本学研究』第8号(1863~1869年の小火器輸入569,844挺)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/islcj/8/0/8_17/_pdf/-char/ja
・財務省 財務総合政策研究所「議会開設後の財政問題と日清戦時財政」(日清戦費約2億円、一般会計規模の約2.5倍)
https://www.mof.go.jp/pri/publication/mof_history/2ki_c3.pdf
・財務省 財務総合政策研究所「経済の発展と大蔵省」(日露戦費支出18億6,729万円)
https://www.mof.go.jp/pri/publication/mof_100history/3ki_c2.pdf
・日本銀行『日本銀行100年史』(日露戦費予算19億8,613万円、日清戦争の7.9倍、推定国民所得約26億円)
https://www.boj.or.jp/about/outline/history/hyakunen/data/hyaku2_3_5.pdf
・国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集」(1872年人口34,806,000人)
https://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Data/Popular2025/T01-02.files/sheet001.htm
誤解されそうなこと
「不平等条約を継承しないと言ってイギリスと戦争までしているのに、なんで明治の日本が横須賀や佐世保をアメリカに100年も租借させてるんだよ」
ぱっと見だと、「結局アメリカには譲歩してるじゃないか」に見えます。でも飯田京世界では意味が逆で、アメリカに押しつけられた租借地ではなく、対英戦争の途中で日本側が戦略的に認めたものなんですね。アメリカは早期講和しており、横須賀・佐世保の米国租借は、英国を含む他国がそこへ手を出しにくくするための第三国による抑止装置と安全な沿岸部貿易拠点です。
だから100年後の1970年代初頭に期限がきて・再交渉で返還され、もしも基地の存在を認めたままでも日米地位協定は、史実より日本側にかなり有利に寄るので、史実のように「敗戦国が占領軍基地を返してもらう」話ではありません。
ここに気づかず、**「明治日本が米国に軍港を差し出した=また不平等条約」**とだけ読まれてしまうと、たしかに「なんでやねん、むかっ」になりそうです。逆に仕組みを拾った方はには、かなり大きな伏線が見えるのですね。沖縄の基地問題もありませんし、米軍厚木基地も同盟国として提供しない限りありません。




